8 憧れのカリンバル
「集中するのはいいが、目が疲れただろう?そろそろ一度休憩しよう」
「はい。あの……あれはただの恋愛小説ですからね!」
私がいかがわしい本を読んでいると思われたら癪なので、私は念押しした。たまたまそういうシーンだっただけだ。
「はは、冗談だ。ちゃんとわかっているよ。その本は私が留学していた時に向こうで流行っていた作品だ。カリンバルの恋愛小説は大抵あんな感じだ。むしろまだ控えめなくらいだ」
――あれで控えめなんだ。
その事実に衝撃を受け、あれ以上刺激的な本は私には読めないかも……と思った。
「それよりも、原文で読めるようになったんだね。リディ、勉強頑張ったんだな」
彼は優しく目を細めて、私の頭をポンポンと撫でてくれた。
そういえば、悪魔にカリンバルの勉強をしているところを見られたことがあった。
♢♢♢
「なんでカリンバル語?」
ある日図書館で密かに勉強しているところを、悪魔に見つかった。私は慌てて机の本やノートを身体で隠した。
「べ、べつにいいじゃないですか。好きなんです」
「なんで?」
「カリンバルの紅茶が好きなんです。いつか現地へ買いに行ってみたいし……本当は領民達も気軽に飲めるように安く輸入したい……です」
正直にそう告げたが、きっと悪魔には馬鹿にされるだろう。紅茶なんて何処で買っても一緒だとか、お前の家は他国の紅茶すら取り寄せられないくらい貧乏なのか?とか言われるに決まっている。
「ふーん……」
あれ?意外にも彼は馬鹿にしたりせず、私の使っている教科書をペラペラとめくっている。
「サヴィーニ伯爵は許可してくれんのか?友好条約もねぇ国にお前が行くこと」
そう……シャルゼと隣国のカリンバルは国交はあるが、現在友好条約は結ばれていない。保守的なお父様は私がカリンバルに旅行に行くことすら反対していた。そもそも貴族令嬢が他国に行くのは、危険だと嫌厭されているからだ。
「いいえ。絶対に駄目だと言われました」
私はしゅんと項垂れた。夢はあるが、叶いそうもない。だけど、いつか友好条約が結ばれて簡単に行き来ができる可能性もなくはない。その時のために頑張っておくのも無駄ではないと思うのだ。
「行けないのに勉強してんの?無駄じゃねぇか」
「いつか……行けるチャンスが来た時に、あの時勉強しとけば良かったと後悔したくないんです」
私がそう告げると、彼は少し考え込んでから流暢なカリンバル語を喋り出した。発音も完璧だ。
「すごいです!話せるんですか!!」
「……べつに。カリンバル人の友人がいるだけだ。それに幼少期から色んな勉強をさせられてるんだから、これくらい大したことない。俺の兄上の方がなんでもできる」
悪魔はそう呟いて、遠くを見ていた。その横顔は何故か寂しそうだった。授業に出なくても賢いのは、やはり裏では努力しているからなのね。
「そうなんですか?お兄様もカリンバル語を?」
「いや、兄上はカリンバル語は話せないな。今のところ友好国でもねぇし必要ないだろ」
そう言われて私はくすくすと笑ってしまった。彼は眉を顰めて、不機嫌な顔になった。
「おい、なに笑ってんだよ?」
「お兄様はなんでもできるって仰ったのに、話せないって言われたから。私にとってはカリンバル語がわかるイザーク様の方が凄いですよ。尊敬します」
「……っ!」
私は素直にそう思っていた。悪魔は私からぷいっと顔を背けて「……お前なんかに褒められても嬉しくない」と怒っていた。そりゃそうでしょうけれど。
「語学が堪能なら外交官を目指されたらいかがですか?」
授業もまともに出てないのに悔しいけれど、彼の学力なら余裕で試験を突破しそうな気がする。
「お前、外交官試験の難しさ知ってて言ってるのか?」
「イザーク様なら余裕で受かりそうですけどね」
「……」
彼はそのまま何も言わずに去って行った。もともと自分勝手な男だが、今日は一段と謎だった。次の日また勉強していたら、カリンバル語の辞書をポイと投げられ『捨てとけ』と言われた。
それは明らかに使い古した辞書で、彼の勉強の跡がたくさん残っていた。しかもこれはかなりわかりやすく書かれてある。
「貰っていいですか!?」
「……勝手にしろ」
それからも何度もカリンバル語の絵本や児童書を彼から『捨てておけ』と無理矢理押し付けられた。彼曰く『部屋の掃除をした』らしい。たぶん……口は悪いけれど、わざわざ読みやすい本を探して用意してくれたのだと思う。だってどれも新品だったから。
語学の勉強をしている間だけは、イザークは悪魔ではなく優しかった。勉強の邪魔をしてくることもなかったし、彼も隣で難しそうな本を静かに読んでいた。それがとても不思議だった。
♢♢♢
思い出した。確かに私は彼に『外交官』になればいいと言ったことがあった。なんの考えもなしに、思いつきで言った一言だったけれど。
以前、イザークが私の夢を叶えるために外交官になったと言っていたのはまさか……まさか本当だったのだろうか。
「あの時、辞書をくださってありがとうございました。今も使っています」
「かなりの使い古しだけどね。新しいのをプレゼントしたら良かった」
「いいえ、それがいいんです。あなたも同じように学ばれたんだな、と頑張れました」
私がそう伝えると、イザークは照れたようにぽりぽりと人差し指で頬をかいた。
「そう……か。それなら、良かった」
「はい。おかげで今すぐカリンバルに行っても、きっと困りません。まあ……お父様が許してくれないので、結局行けないんですけれど。当時のイザーク様が仰られていたように勉強無駄になっちゃいましたね」
私は暗い雰囲気にならないように、あえて冗談っぽく明るくははは……と笑った。
「必ず連れて行く」
イザークは全く笑わず、真剣なトーンで私の手をぎゅっと握った。
「え?」
「リディをカリンバルに連れて行く。それも私の夢なんだ」
そう言ってもらえたことが嬉しくて、私は泣きそうになった。
「新婚旅行で行こう?何があっても私が守る。サヴィーニ伯爵も私が説得するから心配しなくていい」
新婚旅行なんて。本当に彼は私と結婚するつもりなのだろうか?私が戸惑ったのを、イザークは見逃さなかった。
「あの……」
「まだ約束の一ヶ月は経っていないけれど、結婚を決めていいよ?そうだな……私と結婚する理由は『カリンバルに行きたいから』という事にしたらいい」
彼は戯けたように、豪快にケラケラ笑いながらそう言ってくれた。
「ふふっ、なんですかそれ。そんな理由で結婚する女って最低じゃないですか。あなたを利用するだけみたい」
私はついくすくす、と笑ってしまった。彼は眉を下げて、私を優しく見つめた。
「いいんだ。君に利用されるなら幸せだよ」
「何言ってるんですか」
「本気だよ?やっと私はリディにとって価値のある男になれたのだから。学生時代は……君に何もしてあげられなかったからね」
彼は私の手をそっと握った。その声は少し震えていて、なんだかすごく辛そうだった。私はずっと聞いてみたかったことを質問することにした。
「あの……私達はいつから付き合っているんですか?どっちから告白して、どう恋が始まったのですか?全く思い出せないので教えてください」
彼は嘘をついている。私の質問にどう答えるのだろうか?それとも、本当に私の方が記憶喪失だとでもいうのだろうか。私にはもう何が本当なのかわからなくなってきていた。
「私達が付き合ったきっかけは、もちろん私から告白したんだ。留学が決まった時に、私がリディに想いを告げて君は受け入れてくれた」
イザークは最初嬉しそうに話し出した。しかしだんだんと表情が暗くなっていった。
「二年で帰ってくるから待っていて欲しいと伝えて……でもリディが泣き出して……とても辛かった。でも……あれ?そういえば……それから……どうしたんだったかな……」
やはり彼の言っていることは辻褄が合っていない。私達は付き合っていて、相思相愛だったと言っていた。イザークの話が本当ならば、親には内緒だったが秘密でキスもデートも何回もしていたとの話だった。
だけど、留学が決まったのは彼の卒業式直前だったし……そこで付き合ったというのであれば付き合っていた期間は二週間ほどだけだと思う。その短期間で何度も両親の目を盗んでデートなどできない。
「私はあなたのどこを好きになったと言っていましたか?」
「リディは……私の……」
彼の瞳から徐々に光が消えていくのがわかった。そして深く俯いてしまった。
「リディは……私のどこを好きになってくれたんだろうね?そういえば……君の口から聞いたことはないな」
それは搾り出すような苦しげな声だった。彼は今にも泣きそうな顔をしていた。
「……ゔうっ!」
すると、いきなり彼は呻き声をあげて頭を押さえ出した。
「頭が……割れそうなくらい……痛い……」
「え?だ、大丈夫ですか!?」
「うゔっ……も……もう大丈夫だ。すまない、昨日寝不足でちょっと疲れが出たようだ」
私が驚いてオロオロしていると、彼は私の頭をポンポンと優しく撫でた。
「心配かけてすまない。残念だけど、今日はお暇するよ。リディに迷惑をかけてはいけないからね」
「さっき痛くなったばかりですよ?客間で休んでからの方がよろしいのでは?」
「いや、平気だよ。ありがとう」
心配だったが、無理矢理引き止めるわけにも行かずイザークはそのまま帰ってしまった。
だけど、私は今回のことでわかってしまった。やはりイザークと私は付き合ってなんていない。何かを誤魔化している。
そのことがハッキリわかってよかったはずなのに、何故か胸の中がもやもやした。