6 初恋
「そんなあからさまに嫌がる必要ないじゃないか。流石に少し傷つくよ」
新しいフォークでケーキを食べている私を見て、イザークは唇を尖らせながら拗ねている。
「……当たり前です!」
私は彼に冷たい視線を送りながら、美味しい紅茶を啜っている。
「学生時代はお互いよく『あーん』し合ってたのに」
「してませんっ!」
絶対に絶対にそんなことしていない。またイザークに変な嘘をつかれている。
「……リディが忘れただけだよ」
イザークは眉を下げて、寂しそうにそう呟いた。その表情に私はズキリと胸が痛んだ。なんでこっちが罪悪感を抱かねばならないのだ。
彼は相変わらず私が記憶喪失だという設定は崩さないつもりらしい。
「でもいいんだ。二人でこれから沢山思い出を作っていけばいいんだから。だから過去のことは思い出さなくたっていい」
「……」
「もう一度、私を好きになって欲しい」
彼は真剣な表情でこちらを見つめている。吸い込まれそうなグリーンの美しい瞳は、以前の悪魔と一緒だ。
「どうして私……なんですか?もっとお綺麗な方ももっと才能のある方も、もっと家柄の良い方も沢山いらっしゃるではありませんか」
何の目的か知りたかった。私は貴族として可もなく不可もない、よくいる娘。伯爵家の中では由緒正しい家系ではあるが、アンジェル公爵家の御令息が望むような身分ではない。
顔もそれなり、スタイルもまあまあ……勉強だって分野によって得意不得意がある。特別な力も何もない。
「リディじゃないと駄目なんだ。リディのことが全部好きだから」
全部好きなんていう男を信じられるほど、私は子どもではない。だって具体的なことを言わずに誤魔化しているのだから。
「全部好きなんて……結局どこも好きではないと言っているようなものです」
「私の愛を信じてもらえないのなら、全部言葉にしようか?」
彼は私の頬を大きな手で包み込み、目を細めて甘く見つめてきた。
「輝いてる小麦色の髪も、深い海のようなブルーの瞳も……真っ白なすべすべの肌が桃色に染まるのも好きだ」
「は?」
「鈴の鳴るような可愛い声も、花のような甘い香りも好き」
そう言ってイザークは私の肩を抱き寄せて、首筋に鼻を当てた。匂いを嗅がれているのだとわかり、私は真っ赤になって身体を慌てて離した。
――いきなり何!?は、恥ずかしい。
何がいい匂いよ!彼の方が常に何百倍もいい香りを纏っているというのに。私は香水を使っていないので、指摘されるようないい香りがするはずがない。ヘアオイルは良い香りのものを選んでいるが……ふんわり香る程度の控えめなものだ。
「な、な、何するんですか」
「すごくいい香りだから我慢できなかった」
「変なこと言わないでください。香水使ってませんよ!」
私は首筋を手で隠しながら、彼を咎めるようにギロリと睨みつけた。
「香水なんかじゃない。リディ自身が甘いんだよ」
「私自身が……あまい……?」
意味がわからない。人間が甘いなんて表現は間違っていると思う。
「甘いものは苦手だが、リディだけは大好きだよ」
彼は私の唇をツンと人差し指で突いて、ニコリと微笑んだ。
「……っ!」
この笑顔にときめかない御令嬢などいないのではないかと思うほど、ドキッとする顔だった。私は首を隠していた手で、今度は慌てて唇を隠した。
「それに……君は優しくてとても温かい」
優しくて温かい?優しいというのは、他に褒めるところのない人に使う常套句ではないか。温かいって体温的なこと?いまいち意味がわからない。
「でも君の好きなところなんて言い出したらキリがないんだ」
「……アリガトウゴザイマス」
感情のない声でそう伝えると、彼はふうと大きなため息をついた。
「その顔は信じてないね?リディが信じてくれるまで、君の素晴らしさを三日三晩ずっと語り続けてもいいよ」
「え?」
「その場合は寝かせないけど、覚悟はいい?」
口元は笑っているのに、目は笑っていない。私は危険を察知してぶんぶんと左右に首を振った。
「し、信じます」
「本当に?私が君をどんなに愛してるかわかったのかい?」
「わ、わ、わかりました」
全然わからないけれど、こんなのわかったと返事をするしかないではないか。
「良かった。じゃあ、そろそろ行こうか」
当たり前のように腕を差し出されたので、渋々エスコートを受けた。
「とても美味しかったです。ありがとうございました」
部屋を出る時に店員さんに感想を伝え、私はペコリと頭を下げた。
「ご馳走様。リディが気に入ったみたいだから、また来るよ」
「嬉しいお言葉をいただき、ありがとうございます。また是非お二人でお越しくださいませ」
店員さんは嬉しそうに微笑んだ後、恭しく頭を下げた。どうやら支払いはいつの間にか終わっているらしい。いつそんな時間があったのかと、そのソツのなさに脱帽してしまう。
――さすが。遊び慣れたモテ男は違うわね。
昔の軟派で不良な悪魔もキャーキャー言われていたが、今のイザークは正統派な男前で全世代の女性を虜にしそうな見た目だ。きっと留学先のカリンバルでもさぞかしモテたことだろう。
「素敵なカフェに連れて来ていただき、ありがとうございました。ご馳走様でした」
「リディが好きそうな店だな、とリサーチしてたんだ。一緒に行けてよかったよ。でもまだまだ行きたい場所があるから楽しみにしててくれ」
彼は馬車に乗った後も、ご機嫌にこれから行きたいデートスポットを何個も何個も楽しそうに告げていた。
この人ならどんな女性もよりどりみどりだろうに、なぜ私なのだろう?
「……カリンバルに彼女はいなかったのですか?」
「え?」
彼の怪訝な声を聞いて、私は自分が思っていたことを実際に声に出していたことに気が付いた。
「いるはずないだろ!私の恋人はリディだけだ。離れていても君のことしか想っていなかった!!」
イザークは私の両肩をガシッと掴み、怒りの表情を見せた。
「神に……いや、君に誓う。私は絶対に浮気などしていない!そしてこれからも絶対にしない!!」
ギリっと唇を噛み締めて、悔しそうな苦しそうな顔を見せた。あまりの必死な様子に私は驚いてしまった。
「ご、ごめんなさい。あの……私……」
私が怖くてカタカタ震える姿を見て、イザークはハッと正気に戻った様だった。
「いや、すまない。大きな声を出して。リディは悪くない……私が悪いんだ。そうだよな……昔の私を知っていたらそう思うのも無理はない」
力なく笑った彼は、怒られた子犬のようにしゅんと項垂れた。
「あの当時の私は、それくらい酷かったからな」
彼が自分でそう言うように学生時代のイザークは女癖が悪かった。それは私の記憶と合っている。
♢♢♢
女は基本的に来るもの拒まず、去るもの追わず。それが悪魔のスタンスだった。
最初にあの濃厚なキスシーンを見てから、悪魔は私に意地悪をするようになった。
『お前のせいで俺の女が一人減った。だから責任取れよ』
この男はわざわざ私の教室まで文句を言いに来たのだ。クラスメイトの御令嬢方はいきなりの悪魔の登場にキャーキャーと黄色い声をあげていた。
『い、い、嫌です。私に関係ありませんもの』
しかも、自分が勝手にあの御令嬢を切り捨てたのではないか。
『ああっ?お前に拒否権なんてないに決まっているだろう。これは命令だ』
ずるずると私を引きずりながら、教室から半ば無理矢理連れ出された。そして誰もいない空き教室に引き摺り込まれ、壁まで追い込まれた。
『地味だが……まあ、ギリ合格だな。素材は悪くない。たまには慣れてない子猫ちゃんの相手もいいだろう』
悪魔は私の顎をグイッと上げて、ニッと意地悪そうに笑った。そのままゆっくりと顔が近付いて来たので、私は驚いて悪魔の頬を思い切り引っ叩いた。
『……痛ってぇ!何するんだ!!』
何するんだはこっちの台詞よ。いきなりキ、キ、キスをしようとするなんて。破廉恥すぎる。
『は?お前……まさか泣いてんのか?俺とのキスがそんなに嫌かよ』
そう指摘されて、私は自分が泣いてることに初めて気が付いた。
『嫌です!ひっく……だって……口付けは……ひっく……将来の旦那様としか……しちゃいけないものですもの』
えぐえぐと泣きながら、私はそう言った。だって我が家ではそう言われ続けてきた。軽々しくキスなんてしたくない。しかも、好きでもない男に奪われるなんて絶対に駄目なことだ。
『……本気かよ』
悪魔はチッと舌打ちをして、私の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
『今時、一人の男に操を立てるなんて馬鹿みたいだな。初心そうだから、揶揄って遊んでやろうと思ったけどやーめた』
なんだかよくわからないが、諦めてくれたようだ。私もだんだん気持ちが落ち着いてきて、涙も止まった。
『ちなみに操を立てる程惚れてる男は誰だよ?どうせ、お前に似合いのガリ勉の童貞野郎だろ?』
『……まだいません』
そう言った私に悪魔は眉を顰めた。
『はぁ?婚約者とか恋人いないのかよ?』
『いません』
『なのに必死で唇を守ってんのか?』
彼は信じられない物を見るような顔で、私を見下ろした。
『もちろんです。口付け……特に初めての口付けは特別だと聞いて育ちましたから。将来の旦那様に捧げます』
未来の旦那様との口付けを想像すると恥ずかしくて、私はポッと頬が染まる。きっと……口付けは素敵なものに違いない。
『……天然記念物』
天然記念物?私が?どういう意味かわからず、私は首を傾げた。
『今時キスなんてガキでもしてるぞ。それ以上のことだってみんな隠れて上手くやってる』
口付け以上のこと……そう言われて、たまたま見てしまった悪魔のいやらしいキスシーンを思い出してしまった。私には刺激が強すぎて、恥ずかしくて耳まで真っ赤に染まる。
あ、あんなのあり得ないわ。婚約者でもなさそうだったし、遊びであんなことをするなんて破廉恥すぎる!
『くっくっく……顔がりんごみたいに真っ赤だねぇ?何思い出してんの?子猫ちゃんのえっち』
悪魔はニヤニヤと笑いながら、私の耳をそっと撫でた。
『ぎゃあ!触らないでください』
私が叫ぶと、彼はにっと意地悪く微笑んだ。
『お前、面白いな』
それから私は毎日のように揶揄われたり、意地悪をされるようになった。それまでの悪魔は碌に学校に来ていなかったのに、私に嫌がらせをするためにちゃんと登校するようになった。
それから何故か侍らせていた派手で綺麗な御令嬢方も『つまらない』と遠ざけ、私は悪魔に何処にいても追いかけ倒される羽目になったのだ。
♢♢♢
「信じてもらえないかもしれないけど、私にとってリディが初恋だ。我ながら素行の悪い男だったが、君以外は自分から好きになったことはない」
あなたは私のことも好きじゃなかったじゃない。ただ、揶揄って暇つぶしをしていただけ。
「私は君に出逢って本物の恋を知ったんだ。だから、もう一生リディしか愛さない」
彼は私の手をギュッと握って真剣にそう伝えてくれた。まるで本当にそうであるような錯覚を起こしそうだった。
――私が忘れているだけなのだろうか?
しかし、彼との甘い思い出など何も思い出せない。しっかり自分を保たないと今の彼の言葉に引きずられそうになるので気をつけないと……私は再度気持ちを引き締めた。
※6話投稿の前に7話を先に投稿してしまいました。
前後して読まれた方、申し訳ありませんでした。