20 婚約者
キスマーク事件から早五日。あの日から毎日のように我が家を訪ねて来たイザークだったが、お父様によって一歩も家には上がらせてもらえなかった。
お母様の手引きにより彼からの手紙は届いていたけれど。
「お嬢様、イザーク様からですよ。旦那様にはバレないようにしてくださいね」
「……ありがとう」
テレーズが毎晩こっそりと手紙を運んで来てくれた。来てくれるのは嬉しいが逢えないので、申し訳ない気持ちになる。外交官のお仕事だって忙しいだろうに。
愛するリディアへ
すまないが、どんなに急いでも婚約の書類を揃えるのに一週間程かかりそうだ。それに、必ず君の義父上に許してもらうから少しだけ待っていて欲しい。
リディアに逢って、今すぐ抱き締めたい。これまで君のいない生活をどうやって過ごしていたのだろう?と思うほどに君のことばかり常に考えているよ。
リディア、愛してる。
早く直接君にこの気持ちを伝えたい。
今夜はとても月が綺麗だよ。
時間があれば外を覗いてご覧?
イザーク•アンジェル
手紙を読み終わると私は真っ赤になった。彼からの言葉が甘すぎてドキドキしてしまう。
――付き合ったらこんな感じなのか。
記憶喪失の時の彼は、全部が偽物というわけでは無いらしい。彼のこの溺愛っぷりはイザークが今まで隠していた部分のようだ。
婚約の正式書類は通常一ヶ月程かかる。取り寄せるものが多いし、政略結婚が主流な貴族社会では様々な取り決めがあるのでそれを書面に残さねばならないからだ。
「一週間で用意できるものかしら?」
彼が必死になってくれている様子が目に浮かんだ。
「早く逢いたいな」
鏡で首を見ると、くっきりついていたキスマークはだいぶ薄くなっている。それが少し寂しい気がする。
「……」
執務室でされた甘い口付けや、首を吸われた時のことを思い出してぶわっと身体中が熱くなった。
「うわぁ……む、無理かも」
ベッドの上でゴロンゴロンと右や左に転がりながら恥ずかしさをやり過ごした。あの時は勢いでいけたけど、次に逢った時私はイザークの愛に耐えられるのだろうか。
沸騰しそうな頭を冷やすために、部屋の窓を開けた。夜風がひんやりとして気持ちがいい。そういえば今夜は月が綺麗だと手紙に書いてあったな、と思い空を眺めた。
「ああ、本当に綺麗ね。彼も見てるかな?」
月を堪能していると、窓の近くでガサガサと音がして私は驚いて声をあげそうになった。
「リディア……俺だ。声出さないでくれ」
そこには木の上に隠れていたイザークの姿があった。私はビックリして、手を口に当てたまま何も言葉が出なかった。
彼は木からひょい、と窓に飛び移って部屋の中に入って来た。月夜に照らされたイザークはとても格好良くて見惚れてしまった。
「イザーク……さま……どうして……」
「逢いたかった」
彼は嬉しそうに微笑み、私の手をぎゅっと握った。
「電気がついていたから起きてるとは思っていたが、あのタイミングで窓を開けてくれるなんて思わなかった」
「ビッ……クリしました」
「驚かせてごめん。月のことを手紙に書いたからもしかしたら……と期待して夫人に頼んで秘密で庭に入れてもらっていたんだ」
イザークはちゅっちゅ、と私のおでこや頬にキスを繰り返している。まさか月の話が私に窓を開けさせる目的だったなんて……なかなかの策士だわ。
しかし、普通に考えてここはニ階ですごい高さだ。もし落ちたら怪我では済まない。冷静になると恐ろしくて背筋が凍る。
「イザーク様、危ないじゃないですか!こんなところに登って!!」
「留学中に筋トレしておいて良かった。昔なら無理だったが、今は木も余裕で登れるようになったよ」
そんなことを言う彼に、私は外に聞こえないように小声で怒った。しかし彼はとろんと目尻を下げて「ごめん。でも君にどうしても逢いたくて」と笑っている。まったく……そんな顔をされたらそれ以上怒ることができないではないか。
「危険なことをしないでくださいませ。あなたが怪我をしたら……嫌です」
私は彼の胸にギュッと抱き付いた。離れていたのは数日だけのはずなのに、久しぶりな気がするのが不思議だ。
ああ、温かくてポカポカする。イザークの体温がとても気持ちが良かった。もっと近付きたくて私がすりっ、と頬を寄せると彼はガバッと私を引き剥がした。
「……?」
「か、帰る」
「え?」
いきなりどうしたと言うのだろうか?私何か嫌われることした?急な態度の変化に私は不安になった。
「ま、待ってください」
今にも窓から出ようとしている彼の腕を掴んで、引き止めた。
「私……何か気に触ることでもしましたか?」
泣きそうになるのをグッと堪えて、イザークに質問した。有耶無耶にして良いことはない事を私は知っている。きちんと理由を聞いた方がいい。
するとイザークは口を手で押さえたままくるりと振り返った。彼は顔だけでなく、耳まで真っ赤になっていて驚いた。
「リディア……けて…………だろ」
彼は頬を染めたまま俯いてゴニョゴニョと小声で呟いた。しかし、何を言われたのかよく聞こえなかった。
「?」
首を傾げ続ける私を見て、彼ははあ……と小さくため息をつきガシガシと乱暴に髪をかいた後に私の耳元に顔を寄せた。
「今……つけてないだろ?」
つけてない……?何を……いや……そう言えば、もう寝るだけだと思っていたので私は薄いナイトウェアとカーディガンしか着ていない。
なのに私は何をした!?自分から彼に身体を押し付けて……抱きついてしまったではないか。なんて破廉恥なことをしてしまったのか。
今度は私が真っ赤になる番だった。勢いよくカーディガンで前を隠した。
「……っ!」
ああ、恥ずかしすぎてどうしたらいいかわからない。
「俺が……悪い。いきなり来たから。すまなかった」
彼はポリポリと頬をかいて、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「い、いえ」
「このまま一緒にいたら、色々と我慢できなくなるから帰るよ。リディアのこと大事にしたいから」
「……はい。気をつけてくださいね」
そう伝えると、イザークは私の唇に軽くちゅっとキスをして「結婚後は我慢しないから、今から覚悟しておいて」と色っぽく微笑んで軽く手をあげ颯爽と帰って行った。
私はその場でヘナヘナとしゃがみ込んだ。キスだけでもいっぱいいっぱいなのに、それ以上のことなんて私はできるのだろうか。
その日の夜は、目を閉じるとイザークの顔が浮かんできてなかなか寝ることができなかった。
♢♢♢
「サヴィーニ伯爵、我が家の馬鹿息子が申し訳ない。それはもうよく言って聞かせましたのでどうかお許しを」
「……いえ。私も大人気ない対応をしてしまいましたので」
「伯爵は何も悪くありません。むしろお優しいですよ。私がリディア嬢の父親ならぶん殴っています」
ハハハ、と笑いながら物騒なことを言っているのはイザークの父親アンジェル公爵だ。
「こちらが婚約の正式な書類です。ご確認を」
「はい。最後の部分以外は大丈夫です」
お父様は手渡された書類を一読し頷いた。すると公爵は優しく微笑んで私をじっと見つめた。穏やかそう……なのだけれど、やはりオーラが違うというか有無を言わせない圧倒的な存在感がある。
「リディア嬢、きちんと話すのは初めてだね。どうしようもなかったイザークを更生させ、愛してくれて本当にありがとう」
ニコリと微笑んで、手をぎゅっと握ってくださった。
「は、はい。でも更生なんて……私は何もしていません!」
「ふふ、可愛いね。どうか緊張しないで欲しい。君はもう私の娘になるのだから」
イザークによく似た顔のお義父様は、とてもダンディで素敵だ。将来の彼はこんな感じなのかな?とぽーっと眺めてしまう。
彼は苛ついた様子で「リディアの手を早く離してください」と自分の父親をギロリと睨みつけた。
「はは、心が狭いね」
「……何とでも言ってください」
ムスッとしたイザークはお義父様の手を無理矢理払い除けた。
「リディア嬢、君は結婚後息子に何を望む?記憶喪失や前回の婚約破棄等迷惑をかけた分、望みを最大限聞こう」
「望み……ですか?」
「ああ、婚約の誓約書の最後にその項目を入れる。遠慮なく言ってくれて構わないよ」
お義父様はニコリと私に微笑んだ。望み……イザークに望むことってなんだろう。
「ちなみに愛人や側室は作らないっていう文言はもう入ってるからね。もしこいつが浮気したら、リディア嬢の一存で即離縁できる」
「お義父上を安心させるためにあえてその文言を入れましたが、俺が浮気なんてするはずがありません。俺が愛するのは一生リディアだけですから」
私がイザークに望むこと……望むこと……。何かあるかしら?
「あ!一つありました」
「なんだい?」
「あの……その……」
こんなことお願いしてもいいのか心配になって、私はもじもじしてなかなか言い出せなくなった。
「リディア、何でも言ってくれ。君の希望は俺も叶えたいから」
イザークにそう背中を押してもらい、私は勇気を出して口に出すことにした。
「い……」
「い?」
「お仕事……い、忙しいとは思うんですけど月に一回は外で二人きりでデートしたいですっ!!」
私がそう叫ぶと、何故か部屋がシンと静まり返った。あれ?なんで何の反応もないの?私なんか変なこと言った?
しばらくの沈黙の後くっくっく、と声を殺した笑い声が聞こえてきた。
「はっはっは、私の娘になる子は最高だな」
「え?」
「我が公爵家では金でも地位でも、国宝級の宝でも大抵の物は用意できる。それなのに……リディア嬢は……こいつとの月に一回のデートだなんて……ははっ、面白い」
あー……ああ、そういう話だったの?でも私はお金も地位も宝物も欲しくない。
「リディア……可愛すぎる」
イザークは真っ赤な顔を両手で隠して、机の上で悶えている。
「でも、それがいいです」
「わかったよ。伯爵もそれで構いませんか?」
「ええ、この娘が望んだことですから。リディアのことをよろしくお願いします」
「はい。これからはリディア嬢を我が娘として扱い、サヴィーニ公爵家一同で大事にさせていただきます」
こうして婚約書類は国へ提出され、私達は正式な婚約者になった。イザークも家の出入りが許され、いつでも逢えるようになった。