16 恋の自覚(イザーク視点)
「大丈夫です?いや、明らかに大丈夫……じゃないですよね?」
何故リディアがいるのかわからず混乱した。しかも……彼女に膝枕をしてもらっている状態だ。
俺は慌てて起きあがろうとしたが、身体がズキズキと痛んで「ぐっ」と呻き声をあげた。
「怪我してるんですから!急に起き上がってはいけません!!」
彼女が声を荒げるなんて珍しくて驚いた俺は、大人しくまた膝の上に戻った。太ももは柔らかくて、なんだか甘い良い香りがする。
――俺は何考えてんだ。こんな状況なのに。
ドクドクドクと心臓が煩い。これはきっと怪我のせいだ。そうに違いない。
「ゆっくり起き上がれますか?痛み止めを飲んでください」
彼女に支えられて少しだけ状態を起こし、薬を飲んだ。口の中も切れていて痛いので、上手く水が飲めずに溢れる。
「格好悪……」
俺がそう呟くと「いつも別に格好良くないですよ。私を虐めてばかりですし」とリディアがフォローにならないフォローを入れた。
――俺を格好良くないなんて言うのはお前くらいだよ。
リディアの前では、俺はどうしようもねぇな。ダサすぎる。
「拭きますよ」
彼女は自分のハンカチで濡れた口元や、水が溢れて濡れた首や胸を優しく拭いてくれた。
「やめろ。お前のハンカチ……汚れるぞ」
彼女の優しさが嬉しいのに、俺はどうしても素直になれなかった。
「別にいいですよ。こんなのまた買えばいいですから」
「……」
「さあ、薬が効くまで寝てください」
彼女は一定のリズムでポンポンと優しく胸を叩くのが心地よくて、いつの間にか俺はゆっくりと眠りについた。
「くしゅん」
小さなくしゃみの音が聞こえて、俺は目を覚ました。外が暗くなっていたことにも驚いたが、彼女がジャケットを脱いでいたことにさらに驚いた。
まだ朝晩は冷える。そんな格好だと寒いに決まっている。そして……そのジャケットは俺にかけられていた。
「あ、目が覚めました?痛みはどうですか?」
優しく微笑んだ彼女が眩しくて、目を細めた。彼女の指が俺の頬に少しだけ触れたが、とても冷たかった。
「だいぶましだ。それより……なんでジャケット脱いでんだ!?お前が風邪引くぞ!!」
「あー……寒いかな?って思って。あなたの方が病人ですし。私丈夫なので」
「馬鹿!今すぐ着ろ!!」
このお人好し。碌でもなくて、いつも虐めている俺なんて放置しておけばいいのに。
――なんでリディアはこんなに優しいのだろうか。
胸がギュッと締め付けられた。彼女のジャケットの上から自分のジャケットを脱いで無理矢理着せた。殴られたせいで色々と汚れているけど、仕方がない。
「イザーク様、細身に見えますけどやっぱり大きいですね」
彼女は俺の上着の袖をパタパタと揺らして、へへと笑った。
――可愛い。
女にそんな気持ちを抱いたことに戸惑った。そして誤魔化すように彼女から顔を背けた。
「あ……当たり前だろ。俺は男だぞ」
「そうですよね」
彼女は俺の態度なんて何も気にしていないようで、ハハハ……と笑っていた。
「図書館から帰ろうとしたら、人が倒れてて驚いたんですからね!しかも怪我してるし意識ないし……死んじゃったかと思いました」
リディアは、傷だらけの俺を見て慌てて保健室で薬箱を借りてきてくれたらしい。
「……悪かったな」
俺が小さな声で呟くと、彼女はニコリと微笑んだ。
「怪我人を放っておけませんから。もう喧嘩はだめですよ」
「……ほっとけ。早く帰れ。これ以上遅くなったら、サヴィーニ伯爵が心配するだろ。何か言われたら俺の名前を出せ。説明しに行くから」
そう言った俺の顔を見て、彼女はくすくすと笑った。なんだ?笑うところがあったか?
「イザーク様と一緒にいたから遅くなったなんて言ったら、お父様は驚いて倒れそうだわ」
「……それもそうか」
こんな素行の悪い男と大事な娘が一緒にいたなんて最悪だろう。そんなことはわかっていたことだが、胸がズキズキと痛んだ。
「どんな男性とも二人きりになっちゃダメって言われてるんです。危ないって」
それを聞いて俺はふっと力が抜けた。俺がじゃなくて男が全部ダメってことか。
「迎えは来るのか?」
「ええ、大丈夫です」
「……入口まで送る」
ボロボロの俺を見て彼女は「一人で大丈夫」と首を振ったが俺は無視して歩き始めた。彼女は戸惑いながらも、後ろをついて来た。
暗くなった校舎には人気がなく、まるで世界で二人っきりのようだった。身体は痛いし、口は切れてるし最悪だ。だけど、リディアがいてくれるので心だけは温かかった。
「……上着返せ。そんなもん家に持って帰ったら騒ぎになるぞ」
「え?ああ、はい。ありがとうございました」
彼女はジャケットを脱いで、ペコリと頭を下げた。彼女が馬車に乗り込むのを少し離れた場所から見送った。
風が冷たくなってきたので、ジャケットを羽織るとふんわりと甘い香りがした。さっき感じたリディアの匂いだ。彼女を思い出し胸が苦しい。
「イザーク様!?そのお怪我はどうされたのですか」
「……別に。放っておいてくれ!」
「お顔も赤くなってます。もしや熱があるのではありませんか」
家に帰ったら、俺の怪我を見て使用人達が驚いていた。そして執事に頬が赤いと指摘をされたが、俺は無視して強めにバタンと扉を閉めた。頬が赤い理由なんて自分でわかっている。
――俺はリディアが好きなんだ。
ポケットに押し込んだ彼女のハンカチをそっと取り出した。俺の血がついているのが残念だが、細かく見事な刺繍がされている。きっとリディアが一生懸命作ったのだろう。
「こんな手の込んだハンカチを俺なんかに躊躇いなく渡しやがって。何がいつでも買える……だよ」
俺はそっと刺繍を指でなぞった。翌朝、俺は執事にハンカチの洗濯を頼んだ。
「イザーク様、これはどなたのですか?」
「……誰のでもいいだろ」
「承知しました」
執事は意味深にニヤリと笑って、ハンカチを回収して行った。
「イザーク様、申し訳ありませんが完全に血は取れませんでした。これは処分するしかないかもしれません。持ち主には新しいものをご用意致しましょう」
「なっ……!捨てるだと!?」
あのハンカチを捨てるなんて、こいつは何を言っているんだ。
「どうしてですか?イザーク様は、普段は汚れたものはすぐに捨てるではありませんか」
「……俺が自分で捨てるから持って来い」
「承知致しました」
俺の気持ちをお見通しの執事は、微笑みながらリディアのハンカチを机の上に置いた。
「……母上が贔屓にしてる店の者にレースのハンカチを持ってくるように言ってくれ。俺が選ぶ」
「はい」
洗濯されたハンカチは……殆ど新品のように綺麗になっていた。アンジェル公爵家の使用人達の優秀さが憎らしいほどに。
だが執事は汚れていると言っていた。そんな物を女に返すなんて男としてあり得ない行為だ。借りたものは何倍にもして返すのが礼儀。だから、これは仕方なく自分の机の中にしまった。
「おい、これ」
「ひゃあっ!な、な、なんですか!?」
いきなり後ろから声をかけたからか、リディアは身体をびくつかせて驚いていた。
「昨日は悪かった。これは詫びだ」
綺麗にラッピングされた美しい総レースのハンカチを押しつけた。
「ええ!お礼なんていいですよ」
リディアはぶんぶんと手を左右に振って、大袈裟に受け取りを拒否した。その態度にイラっとする。
――何時間かけてこれを選んだと思ってるんだ。
「じゃあ捨てる」
「す、す、捨てるですって!?勿体無い。それなら私が貰います。これだから公爵家のボンボンは……」
ぶつぶつと文句を言いながら、俺の手からハンカチを奪い取った。聞き捨てならない台詞も聞こえて来たが、とりあえず受け取ってもらえたのでいいことにしよう。
――甘いんだよ。
こう言えば人の良いこいつが受け取ることはわかっていた。
「うわぁ、素敵ですね。ありがとうございます」
リディアは目を輝かせて、ハンカチを眺めている。どうやら気に入ってくれたようだ。
「……知らね。執事が選んだから」
俺はあんなに悩んで自分で選んだのに、そんなしょうもない嘘をついてしまった。
『助けてくれてありがとう、気に入ってもらえるかわからないがリディアに似合うと思って選んだんだ』
本当はそう言いたかったのに、そんな言葉はまるで出てこなかった。
「そうなんですか。執事さんセンスいいですね」
「ま、まぁな」
褒めてもらえたことが嬉しくて、つい顔がニヤけてしまう。
「どうして貴方が嬉しそうなんですか?」
「……煩ぇ!」
これ以上ボロを出すわけにはいかないと、俺はその場を去った。
――好きだ。
リディアに俺だけを見つめて欲しい。彼女の優しさを俺だけに向けて欲しい。そんな独占欲にも似た感情が心の中に溢れていた。
本日2回目の投稿です。