12 真実①
「リディから手を離せ!!」
助けてくれたのが誰なのか、目を閉じていたってわかる。だって聞こえてきたのは低く響く私の大好きな声なのだから。
「ぐっ……!」
呻き声が聞こえ、そっと目を開けると鬼の形相のイザークがジョシュア様の手を捻り上げていた。
「ジョシュア、リディに二度と近付くな」
「ははっ!それは僕の台詞だ。僕の婚約者に手を出したのはお前だろ?」
「……ふざけるな。リディは婚約相手すらお前だと知らなかったのに。それに彼女を傷付け、手を上げるような男を許すことはできない」
イザークはジョシュアの頬を思い切り殴り、倒れた彼に馬乗りになった。
「こ……んなことして……ただで済むと思っているのか?せっかく品行方正なフリをしてるのに台無しだぞ。こんな騒ぎを起こしたら、外交官として相応しくないと言われるに決まっている」
「黙れ。私は彼女以上に大事なものなんてない」
「リディア嬢は婚約者だった僕を捨てて、顔と地位に目が眩んでお前を選んだ最低女だと噂を流してもいいな。それか彼女を女たらしのお前に寝取られた……とか。くっくっく、社交界の大スキャンダルだ」
「すぐに喋れなくしてやる」
怒りで我を忘れたイザークがもう一度殴ろうとしていることに気が付いて、私は「ダメ!」と彼に駆け寄って手を止めた。
「リディ……!」
「これ以上殴ってはダメ。こんな男……あなたが殴る価値もない。私はそんな嘘をいくら言われたって大丈夫です。助けてくださってありがとうございました」
私が震えながらそう伝えると、イザークは私の手を優しく握ってくれた。恐ろしくギラギラと光っていた瞳も、穏やかに戻ったので私はホッとした。
「でもどうしてここに?」
「手紙が届いた。リディがこの舞踏会に参加しているから迎えに来いと書いてあった。迎えに来ないなら……他の男に奪われても文句を言うなと」
きっとこの手紙はレティシアの仕業だ。彼女は私から話を聞いてすぐに、早馬で手紙を送ったのだろう。
「……遅くなってすまなかった。この男には違う形で罪を償わせる。だから一緒に帰ろう。そこでもう一度ちゃんとリディと話したい。君に伝えたいことがあるんだ」
私が頷くと、イザークは嬉しそうにニコリと微笑んだ。そっと差し出された手を取ったその時……
ごほっ
目の前にいるイザークの口から真っ赤な血が吐き出された。だんだんと彼の顔が青ざめ身体がゆっくりこちらに倒れていくのを、私は何もできずにただただ見ていた。
血の……不愉快な鉄の臭い。そして私の身体に温かくてぬるぬるした赤い液体が染み込んでいく。
「リディ……にげ……ろ……」
「イザーク様っ!?」
「逃げ……ろ」
彼の後ろには血だらけのナイフを持ったジョシュア様が、ケラケラと笑っていた。その異常性に私はゾッと背筋が凍った。
「もう……全部どうでもいい」
「誰か!誰か助けてくださいっ!!」
私は血だらけの彼を必死に支えながら大声で叫ぶと、舞踏会を守る警備隊が駆けつけてくれた。彼等は血だらけのイザークを見て状況を察知し、ジョシュア様はすぐに拘束された。
「はっはっは……無様だな!僕はお前みたいな奴が大嫌いだったんだ!!素行が悪かったくせにずっと成績が良くて、女にモテて……家柄も良くて金持ち?努力なんかしなくても勝ち組なんて許せない」
「こっちがどれだけ苦労をしても天才には叶わないんだ。そんなの不公平だ」
「外交官になったのも、どうせこいつが公爵家の息子だからだ」
ジョシュア様はそんなことを叫んでいる。意味不明で勝手な理由で彼を刺すなんて……あり得ない。ただの嫉妬と逆恨みではないか。
「イザーク様は、卑怯なあなたなんかよりよっぽど努力されています。授業に出なくたって幼少期からずっと遊ぶ時間なんてない程勉学もされていたからです。逆恨みはやめてください!それに外交官になられたのは彼の実力です」
私はギロリとジョシュア様を睨み付けた。彼が何もせずあんなに優秀なはずがないではないか。
「煩い……煩い……煩い!!」
「同じ学年だった僕は、ずっとあいつと比べられてたんだ」
「あの男さえいなければ、僕は幸せになれたのに!」
ジョシュア様は半狂乱のように叫びながら警備兵から逃げ出そうと暴れていた。私はこんな男の戯言を聞いている暇はない。
「イザーク様、イザーク様っ!」
「リ……ディ……愛して……る……」
「しっかりしてくださいませ!死んでは嫌です」
それっきり彼の反応がないので、私は何度も何度も泣きながら呼びかけた。
「ははっ、こいつはもう駄目さ。僕も終わりだがこいつも終わりだ」
「……イザーク様はこんなことで死ぬ男ではありません」
ジョシュア様は警備隊に引き摺られて連れて行かれた。いつの間にかアンジェル公爵家の執事達も傍に来ていた。
「リディア様、イザーク様の治療をします。離れてください!」
私の身体が彼から離されそうになり、私は急に不安になった。
「嫌……嫌です!」
「リディア様!大丈夫ですから」
「イザークっ!イザークっ!!」
「リディア様、落ち着いてください」
「目を覚ましてください。まだ私の気持ち伝えていないわ」
混乱した私は、その後どうやってその場を離れたのか思い出せない。彼と無理矢理引き剥がされ、泣き叫んでいる私をレティシアが慰めていてくれていたような気がする。
彼の血を全身に浴びて、私のドレスは真っ赤に染まっていた。
私は病院のベッドで彼の手を握りながら、無事でいてと祈り続けていた。
医師の話では傷は深いが命に別状は無いので、しばらくしたら目を覚ますとの話だった。しかし何時間経過しても彼が目を開けることはなく、丸一日が経過した。
彼の家族や使用人達は、私に気を利かせて二人きりにしてくれた。どうやら、私のことはアンジェル公爵家の方々も知っていたらしい。
「イザーク様……早く目を覚まして」
私の目からはポロポロと涙が溢れ落ち、彼の頬を濡らしてしまった。
「ごめん……なさい。涙が……冷たいですよね」
雫を指でそっと拭いとると、ピクリと僅かに彼の顔が動いた気がした。
「イザーク様!イザーク様っ!!」
何度も呼びかけると、彼の瞼がゆっくりと開いた。ぼんやりしたまま、私を見つめていた。
「イザーク様!わかりますか?リディアです」
「リディ……ア」
「そうです。ああ、目を覚まされて安心しました」
私は涙を手で拭いながら、ホッとして微笑んだ。彼はまるで眩しいものを見るように目を細めた。
「助けてくださってありがとうございました」
私がお礼を言って手をぎゅっと握り直すと、彼は驚いたように勢いよく私の手を払い除けた。
バシッ
大きな音が聞こえるくらいの勢いだったので、私は驚いて声が出なかった。彼も何も言わないので、気まずい沈黙が流れる。
――拒否……された?
いや、そんなはずはない。再会してから彼が私に近付くことはあっても遠ざけられたことなんて一回もないのだから。
私は勇気を出して、話しかけることにした。もしかしたら手も怪我をしていて痛かった可能性もある。それならば申し訳ないことをしてしまった。
「お……起きたばかりなのに、急に触れてごめんなさい。驚かれましたよね?もしかして痛かったですか?」
私は緊張からか、一気に沢山喋ってしまった。しかし、やはりイザークは何も言ってくれなかった。
「喉渇いてますよね?あ……!私、お水を貰ってきますね。皆さんにもイザーク様が目を覚まされたことをお伝えしなければいけませんし」
わざと明るくそう伝え、部屋を出ようとしたその時「リディア」と低い声で呼び止められた。その呼び方や声はまるで二年前の悪魔の頃のようだった。
「全部思い出した。忘れていたのは俺だ」