異世界にもバレンタインを!
何の変哲もないこげ茶色の髪、こげ茶色の瞳、凡庸な容姿。それが私、ピアニー・バレンタイン子爵令嬢だ。
何かに秀でているということもなく、特別な何かがあるというわけでもない。
だから、何か一つ私に特別なものがあればいいと、ずっと思っていた。
――そうしたらきっと、彼を楽しませてあげられるのにって。
「……私……思い出したわ……」
さっき打ったばかりの頭がズキンズキンと痛む。
屋敷の廊下で尻もちをついて、私は大切なことを思い出して呆然とする。
私は水原文梅……、それでいてピアニー・バレンタイン……。
「お嬢様……! 申し訳ありません……! 大丈夫ですか!?」
手を差し伸べてくる我が家のシェフ、リガルドの顔をじっと見る。
さっき廊下で出会い頭にリガルドとぶつかって頭を打って転んだのだけど、それはともかく!
「私、思い出したのよ!」
立派な体躯で力持ちなリガルドに立ち上がらせてもらう。
「どうされたのですか!? ああ……でもとにかくまずはお手当を……!」
リガルドは淑女のように優しく私の手を引いて手近な部屋で手当をしてくれた。
人心地ついて、私は改めてリガルドに切り出す。
「リガルド、聞いて。私、思い出したの。」
神妙な顔で私はリガルドに顔を近づける。
「何をでございますか?」
リガルドは小首をかしげて私に尋ねる。
その様子はまさに子うさぎちゃんって感じでかわいい。実際は身長180cmの男性なんだけど。それはともかく。
「私ね! 前世の記憶を思い出したの!」
「前世……でございますか?」
困惑顔のリガルド。
「ええ! 私の前世は水原文梅! ピチピチの女子大生だったの! ねえ! すごくない!? これって異世界転生よ!? 知ってるのよ私! Web小説でいっぱい読んだもの!」
私は感動に胸を躍らせる。
「女子大生……? 異世界転生……? Web小説……?」
リガルドは顔にはてなマークを浮かべながら首をひねる。
まあ、仕方ないわよね、だって!この世界にはインターネットもラノベもないんだもの!
フフフ……、でも私は知ってる! そう! 知ってるのよ! これ! 頭を打って前世の記憶に目覚める! まさにテンプレ!
死因は……えーと……大学の実習中の事故だ。農学部の実習中にトラクター運転してて田んぼで横転したのは覚えてるんだけど……。
そこからは記憶がないわ……。
もちろん、ピアニー・バレンタインとしてのこの17年の記憶がなくなったわけではないの。
特に何の変哲もない子爵の家に生まれて、特に何の変哲もない子爵令嬢として育って、でも特別にステキな婚約者がいるわ。
ああ、そして明日は待ちに待った婚約者ジェレミア様が来る日なのよね。
私は白い壁にかかっているカレンダーを見る。
今日は2月13日。
だから明日は2月14日……。
「リガルド!」
「今度は何ですか!?」
私はここで重大なことに気がついた。
「明日バレンタインだわ!」
「バレンタイン……? 明日も何も今日だってお嬢様はバレンタイン様じゃないですか」
私はびっくりして目を見開く。
「知らないの? 聖バレンタインデー」
「聖って……、聖人を気取るのはさすがに不敬では……」
困惑するリガルドの様子を見て私はハッと気付く。
そうか! この世界にバレンタインデーはないんだわ!
確かに、17年間そんなことしたことなかったし!
ああ……でも……。
私は婚約者ジェレミア様の顔を思い浮かべる。
輝くような金色の御髪。空のような青い瞳。穏やかでにこやかな笑顔。輝く白い歯……。
一つ年上の子爵令息で、いつも私の話を楽しそうに聞いてくれて、おもしろいものを見つけては一緒に遊んでくれる。この前一緒に行ったガラスの大温室は楽しかったなあ……。一緒に食べた砂糖がたっぷりかかったあげパンもおいしかった……。
うん、好き。
前世の記憶が戻っても彼のことが大好きなのは変わりない。
そして今私の前世の記憶が戻ったのだということは、この世界にはない楽しいことをジェレミア様に教えてあげられるということ。
これは……ジェレミア様もびっくりのイケてる婚約者ってことじゃない?
いつも楽しませてもらうばかりの私だったけれど、ついに私にも特別なことでジェレミア様を喜ばせてあげられる日がきたのよ!
Web小説で読んだような特殊な知識も技術もないけど、彼を喜ばせたい。私と婚約して良かったって思われたい!
そして奇しくも今日は2月13日! バレンタイン1日前よ?
これは! もう! バレンタインをするしかないわ!
前世では彼氏がいなくて友チョコオンリーだったけど、今年は婚約者のいる初めてのバレンタイン……。
異世界情緒溢れる恋人イベントなんてきっとジェレミア様も喜んでくれるはず。
私はうっとりと自分の妄想を巡らせる。
甘ーいチョコで恋人との甘ーい時間を過ごすの……。
いつも思慮深くて私に触れてこないジェレミア様が、私のプレゼントしたチョコに感動して、た……食べさせあいっことか? ここにチョコがついてるよペロッとか? うわわわわ……! いい! すごくいい! やりたい! やる!
これは、普段は手すらまだ握れてなくてイマイチ恋人っぽくない婚約者である私たちが先に進むための重大な一歩なのではないだろうか! いやそうに違いない!
私は拳を握りしめて決心を固める。
「リガルド! お願いがあるの!」
私は、ずっと困惑しっぱなしで眉毛が最大限に下がっているリガルドの手をギュッと握った。
「チャンチャラチャラチャラチャララララッラッラ♪」
私はご機嫌に歌を歌いながらリガルドと厨房に立つ。
「なんですか、それ?」
「異世界ではお約束の料理前に歌う歌よ。これを歌うことによって調理の効率が大幅アップするの」
なんでも3分でできちゃうのよ?
「はあ……。とにかく、一緒にチョコレートをつくればいいんですね?それにしても異世界ではチョコレートを渡して愛を伝える風習があるとは……おもしろいですね」
「うん。じゃあ早速作っていきましょー!」
私は元気よく拳を振り上げた。
「手間ですが……愛を伝えるためとあらば仕方ありませんね」
そう言って彼が取り出したのは、ラグビーボールを小さくしたような黄色い木の実だったわ。
「……なにこれ」
呆然と木の実を見つめる私にリガルドは当然のように答える。
「カカオです」
カカオ……。
「カカオの実ーーーーっ!? そこから!?」
オーマイゴッド!
ついつい天を思いっきり仰いでしまう。
「お嬢様が手作りされるって言うから……」
さっき材料を買ってくるってお使いに行って買ってきたのがコレ!?
「いや! クーベルチュール売ってなかったの!?」
「何言ってるんですか? チョコレートは各店でカカオから作るものですよ? 作りたては風味が違うんです」
「無駄に本格的!?」
これが異世界間コモンセンスギャップ!
「大丈夫です。私も昔チョコレート屋で働いていた時毎日作ってましたから」
「リガルド、チョコレート屋で働いてたの!?」
初耳。
「ええ、ここでシェフになる前は、チョコレート屋で毎日カカオをゴリゴリする仕事をしていました」
「本職!」
なんて奇跡的なの!?
「毎日毎日僕らはすり鉢の前ですりつぶしてイヤになっちゃったわけで……」
何か聞いたことのあるよなないようなフレーズだわ。
「おーい、リガルドー。帰ってきてー」
光を失くして昏い目をしたリガルドの前で手を振る。
ハッと我に返ったリガルドがにっこりと笑う。
「さ、ジェレミア様のために最高の手作りチョコレート作りましょうか」
チョコレート屋の闇が垣間見えそうになって危なかった! セーフ!
「そ……そうね!」
というわけで私たちは鉈でカカオの実を割る作業から始めたのだったわ。
板チョコ一枚を作るのに必要なカカオの実は28個。
私はリガルドの指導の下、カカオの実を割っていく……。
「ぜえっぜえっ……果てしない……!」
まだ10個しか割ってないのに、ただの可愛い子爵令嬢である私の腕はすでにプルプルしているわ……!
「お手伝いしましょうか? やはり手作りチョコレートは貴族のご令嬢の作れるものではありませんよ」
心配顔のリガルドに私は頷く。
「ええ。やっぱりこれは無理だわ……。手作りって言っても別に全部手作りにする必要はないわよね! カカオ育てたのだって私じゃないのだし!」
そもそも当初の予定としては、クーベルチュールを溶かしてテンパリングしてハート型に固めなおすだけだったのだし。
「まあでも、私が手を出すと私の愛もジェレミア様に伝わってしまう訳なんですが……」
顔を赤らめるリガルド(27歳、男性)。
ウチの屋敷の使用人たちは皆ジェレミア様のこと大好きだから仕方ない。
特にリガルドのジェレミア様好きはすごい。でも恥ずかしいのかジェレミア様を陰から見守るだけだったりする。乙女……!
「クッ……! そこはお願い、黙ってて!」
「ええ、いいですよ。心の中だけでニヤニヤしておきます」
リガルドはクスクスと笑って、私の代わりに手際よくカカオをパッカンパッカン割ってくれた。
実の内部の白い果肉の中から白いカカオ豆を取り出す。
「これを一週間木箱に入れて発酵させます」
「ちょっと待って! バレンタイン明日だから!」
終わっちゃうよ!
リガルドは頷く。
「分かってますよ。ですから、今日は特別に時短しましょう」
リガルドはカカオ豆を入れた木箱に手をかざし――
『むん!』
かけ声とともに白銀の光がリガルドの手から放たれた。
「……何をしたの?」
「木箱の中でだけ1週間時間を進めました」
しれっと何でもないように言うリガルド。
「なにそれ!? そんな魔法が使えたの!?」
「ええ、皆には秘密ですよ?」
にっこりと微笑んで人差し指を口元で立てる。
ただの元チョコレート屋のシェフだと思ったら侮れないわ……。
木箱を開けると白いカカオ豆が茶色くなっていた。
「ここから天日干しをします」
「……また時短するの?」
「ええもちろん」
リガルドは並べたカカオ豆に今度はオレンジ色の温かな魔法の光をあてた。
カカオ豆がみるみる乾燥していく……。
「次は選別ですねー。ゴミとか変な色形のものを除いていきましょう」
リガルドに指導されながらカカオ豆を一つ一つチェックしていく。
リガルドは鼻歌を歌い出している。
「楽しそうね」
リガルドが楽しそうだと私も楽しくなってくる。
「毎日の仕事でなければ楽しいもんですよ」
「そんなものなの?」
「そんなもんです」
次に選別したカカオ豆を水洗いして布巾で水気を拭いた。
「はい、次は焙煎です」
フライパンの上にカカオ豆を乗せてヘラで転がしていく。
香ばしいチョコレートの匂いがしてきて幸せな気持ちになってくる……。
「おいしそう……」
鼻をクンクンさせているとリガルドがクスクスとおかしそうに笑う。
「まだ砂糖いれてないんで苦いだけですよ?」
「そうなのね」
そういえば元々は薬扱いだったのだっけ。
パンッという豆の弾ける音がして豆が煎り上がった。
その薄皮を剥いて中身を取り出していく。地味に時間のかかる作業。はい3時間経過しました。
「さあ、ここからがお楽しみゴリゴリタイムです」
大きなすり鉢に薄皮を剥いたカカオ豆を入れて二人でゴリゴリしていく。
「わあ! チョコレートの匂い!」
むわっとチョコレートの濃厚な匂いが厨房全体に広がる。
幸せなにおいに包まれた。
食事休憩を挟みつつ、現在夜9時……。
「ま……まだなの……?」
かれこれ6時間はずっとすり潰しているわ……。
カカオ豆からは脂分がよく出て茶色いペースト状になっている。
だいぶチョコレートっぽいんだけど……。
「ええ、まだです。まだ荒い」
かわいらしい笑みを浮かべた鬼コーチリガルドがまったくOKを出してくれない。
「いつまでこれするの……?」
そこから2時間経過した時点で私は音をあげた。もう腕がパンパンでプルプルが止まらない……。
「もういいでしょう」
コーチの許可が出た! やった!
と思ったのもつかの間。
「これに砂糖と全脂粉乳を加えます」
すごい大量の砂糖と全脂粉乳が加わった……。カロリーの概念……。
「で、これを混ぜ合わせれば完成なのね!」
やっとこの苦労が報われる時が……
「そうです。はい、ここから3日間練り続けましょう」
こなかった。
「だから! 明日あげたいんだって!」
「ええ、ですから」
まさかまた魔法で時短!?
その期待はまたまた次の言葉で裏切られることになる。
「時間操作部屋に入りましょう」
――時間操作部屋、それはリガルドの時間操作魔法により外界と時間の流れが隔てられた部屋。部屋の中での時間の流れは実際の10分の1となる。ちなみに寝食いらずという特典まで付く。
……つまり、私たちの72時間耐久コンチング(練り上げ作業)がここから始まったのだった……。
「お……終わった……」
ヨボヨボしながらツヤツヤに輝くチョコレートの原液を抱えて部屋を脱出する。
色々と淑女にあるまじき髪ボサボサ、着崩れがあるけれど、3日間ずーっとチョコレート練り続けてたんだから仕方ないでしょ!
「お嬢様、頬にチョコレートがついています」
「え? 嘘。取って」
リガルドがハンカチで拭いてくれて、顔を近づけて他にチョコがついてるところがないかチェックしてくれる。
「大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫です」
にっこりと笑ってリガルドは手で少し私の髪を整えてくれた。
「ありがとう……」
「いえいえ」
なんだかそれはお姉ちゃんに面倒見てもらっているみたいで、前世の姉を思い出してほのぼのする。
と、ほんわかしていると後ろから声がかかった。
「ピアニー!」
砂糖たっぷりのチョコレートのように甘やかな声音。
ツヤツヤと輝く黄金の御髪。
大きく見開かれた空色の瞳。
「ジェレミア様!」
私の麗しの婚約者様がいた。
まぶしい! まぶしすぎる!
3日間の地獄の練り練りタイムの後だと感動が止まらない……!
窓からは朝日が差し込んでいる。
ああ、もう朝になっていたんだ……。
つまり、今日は2月14日、聖バレンタインデーだ。
ここまできたらあとはこのチョコレートを型に入れて固めるだけ。もうすぐ完成だ。
ちょこっとだけ待ってもらって完成させよう。
えへへ、ジェレミア様もきっと大感動で喜んでくれるはず……!
私に尻尾があったら間違いなくブンブンいわせてるに違いないテンションで近づくと、ジェレミア様はよろっと後ろによろめいた。
「ジェレミア様?」
え? 何? 私がボサボサヨレヨレだから? チョコ臭いから? 汗臭い? 汚い?
予想外の反応に私は戸惑って体をクンクンする。うん、自分じゃわかるわけない。
でも3日お風呂に入っていないと思えば確かにまずい気は……。
けれど、ジェレミア様が次に見たのは私じゃなかった。
「ピアニー……その男は……」
ジェレミア様の視線の先ではリガルドが急いでシャツの上のボタンを留め直している。ジェレミア様好きとしては身だしなみを頑張って整えてるんだ……。乙女……!
あ、でも、ジェレミア様はリガルドの事知らないんだっけ。リガルドってばいっつもジェレミア様が来るときは隠れてるから。
というわけで私は彼のことを紹介することにした。
「彼はウチのシェフ、リガルドです。
聞いてください! 私たち今すごいことしていたんですよ! こんな硬いのからドロッとしたのが出てですね……! ずっと続けるとなめらかにですね! ごめんなさい! 何言ってるか分かりませんよね……、ちょっと昨日は全然寝てなくて……」
私は3日間の頑張りを伝えたくて興奮してジェレミア様に説明したいのだけど、頭が回らなくて全然言葉が出てこない。
「…………!」
途端にジェレミア様の顔が真っ赤になって、目がつり上がったと思ったらリガルドの胸倉を掴んでガンッと壁に押し付けた。
へっ?
「その部屋で何をしていた……! 返答によっては切り捨てる……!」
騎士でもあるジェレミア様が片手で剣の柄を掴む。
私は突然の展開に動けない。
な……なに……?
「うぐっ……! わ……私は何も……!」
顔を真っ赤にして苦し気に呻くリガルド。
ジェレミア様の目が血走り、リガルドの首が締め上がっていく……。
頭の回らない私でものっぴきならない状況であることだけは分かった。
まずい……! これはまさかイヤーンな勘違いをされている!?
それにジェレミア様が本気出すとリガルドが死んじゃう……!
「やめて下さい! ジェレミア様! 私が頼んだんです! リガルドは私に付き合ってくれただけで……! 何も悪くないんです!」
私が止めに入ると、ジェレミア様は私を信じられない、といった目で見て、その瞳は悲し気に歪む。
「…………っ! ピアニー……、どうして……!」
その目がキラリと光ったように見えたら、乱暴にリガルドから手を離してジェレミア様はそのまま背をむけた。
「…………今日はもう帰る。……今、話をすると僕は……何をするかわからないから……」
そのまま足早に歩き出す。
「ジェレミア様!」
「ついてくるな!」
鋭く言われて、私はついて行こうとした足をビクッと止める。
こんなジェレミア様を見たのは初めてだった。
いつも穏やかで……優しくて……笑ってくれて……。
拒絶だって、初めてのことで。
どうしたらいいのかわからなくて、私は立ちすくんでしまう。
――そして、私の婚約者はいなくなってしまった。
「うう……っ……! ジェレミア様ぁ……っ!」
私は部屋でメソメソと泣いていた。
どうしてこんなことに……! 私はただジェレミア様に喜んでほしかっただけなのに……!
コンコンコン
ノックの音に返事をする。
「ピアニー、入っていいかしら?」
お母様の声だ。
「……はい……」
私は涙をぬぐって、椅子に座りなおす。
入ってきたのはお母様と、リガルドだった。
リガルドは申し訳なさそうに肩を落としている。
「リガルドにすべてを聞いたわ。ジェレミア様とケンカをしたのですって?」
「はい……」
「誤解させてしまったのね」
「はい……」
冷静になれば、殿方と二人で長時間同じ部屋にいるのは良くなかったって分かる。
でもあの時はチョコレートを作ることばかりを考えていてそこまで気が回らなかった……。
それにリガルドよ? 何かあるわけないってウチの者は全員分かってる。
でも、ジェレミア様がそんなこと知るわけもなかった。
「それで? あなたはなぜこんなところでメソメソ泣いているのかしら?」
お母様が小首をかしげて尋ねる。
「だって……、ジェレミア様がついてくるなって……。私……そんなこと言われたの初めてで……ショックで……」
本当はすぐに謝りにいくべきだって分かってる。
でも……怖い。
ジェレミア様の激しい目を思い出す。鋭い声音も。
穏やかで、優しい人だと思っていた。
それだけではないと分かった今では、怒らせてしまうのでは、悲しませてしまうのでは、……これ以上嫌われてしまうのでは……と足がすくんで動けない。
「フフ……。やっと恋人らしくなってきたのね」
お母様が楽しそうに笑った。
「恋人らしく……?」
私はきょとんとオウム返しする。
これって恋人っぽいの?
「そうよ。あなたたちってまるでおままごとしてるみたいだったもの。お互いに気を使ってばかりで無難な楽しいことしかしないの。ぶつかったりなんて一切なくて、お互いのいいところしか見せなかったでしょ?」
お母様がそっと私の手を握る。
「ピアニーはまだジェレミア様が好き?」
「ええ! もちろん!」
それだけは断言できる。
世界がどんなに広くても私が大好きなのはあの人だけだ。
「だったらこれはチャンス。お互いをよく知って……愛を深めていくのよ」
お母様は私の目を真っすぐに見て穏やかに話す。
「……でも、もう私のことなんて見たくもないって言われたら……」
悪い想像が膨らんでいく。
そうしたら私が何をしてもダメな気がしてくる……。
「お嬢様、チョコレートを作りましょう」
リガルドが言った。
「チョコレート? ……でもそれは……」
私は困惑して言いよどむ。
あんなことをしたからこんな状況になっているわけで……。
私が前世に目覚めたからってバレンタインだなんて一人ではしゃいで……。独りよがりにジェレミア様を傷つけた。
「チョコレートに愛を込めて伝えるんです。お嬢様の気持ちを。それが聖バレンタインデーなのでしょう?」
リガルドが儚げに笑う。
「誤解は必ず私が解きます。ですから……お嬢様も頑張りましょう? もう少しで完成なんですから」
それから、私とリガルドはついにチョコレートを完成させた。
大小様々なサイズのハート型のチョコをいくつもピンク色の小箱に詰めて、赤いリボンで飾りメッセージカードを添える。
リガルドはリガルドで何やら手紙をしたためていた。
何を書いているのか聞いても、「秘密です」と口元に指を立ててみせて教えてはくれなかった。
そして、私たち二人は今ジェレミア様のお屋敷の前にいる。
「ジェレミア様は今日はお会いしたくないと……」
顔見知りの使用人が申し訳なさそうに言う。
「そう……ですか……」
胸がズキンと痛む。
こんなこと、今までなかった。
いつだって行っても来ても大歓迎で、門前払いなんて初めて……。
怒ってるのか、戸惑っているのか、悲しんでいるのか……、どれにしたって傷つけてしまったことには変わりない。
「あの……! これ……、ジェレミア様に渡してください……!」
私チョコレートの小箱を使用人に渡す。
「私からもこの手紙を……」
リガルドからは分厚い封筒を渡して、私たちは馬車でとんぼ返りをした。
家に帰って、私は泥のように眠った。
起きていると余計なことを考えるだけだし、何よりチョコレート作りで心身ともに疲れていたから。
ジェレミア様がチョコレートを見てくれたのかなんて分からない。
もう会ってくれないかもしれない。
もうあの優しい目を私に向けてはくれないのかもしれない。
婚約も……お終いなのかもしれない……。
そんな不安が、私に悪夢を見せた。
出てきたのは、チョコレートのお化けだった。
3メートルは下らない茶色い巨体はすべてどろどろに溶けたチョコレートで出来ている。
甘い香りを放ち、口からチョコレートを吹き出して攻撃してくる。
私はその攻撃をなんとか交わしていると、後ろから「ぐうっ!」という声がした。
見ると、それはジェレミア様だった。黄色いカカオの実をぶつけられて地に倒れている。
「ジェレミア様!」
チョコレートのお化けがジェレミア様の頭にチョコレートをぶちまける。
ジェレミア様はチョコレートまみれになって、そしてパキッと固まって動かなくなってしまった。
「ジェレミア様……!」
私はチョコレートを叩いて割って助けようとする。
でも、チョコレートは堅くて、全然割れない。
助けないと! 助けないと!
「ジェレミア様……! ジェレミア様……!」
私は泣きながらチョコレートを叩き続けた……。
「…二ー……! ピアニー!」
愛しい人の声に目を開ける。
不安げに私を見つめる空色の瞳。
キラキラと輝く長いまつ毛。
「ジェレミア様……、良かった……、助かったんですね……」
握られていた手を頬に寄せる。
硬くて大きなジェレミア様の手。エスコートされる時だけ、ダンスをする時だけ触れる特別な手。
用が終わればすぐに離してしまって、困ったように少しだけあなたははにかむの。
それが今私の手の中にある。
すりすりすると心が温かくなって、さっき見たイヤな夢のことなんて忘れてしまう。
ああなんていい夢。
ジェレミア様がベッドにまで来て手を握ってくれるなんてあり得ないのだから、これは絶対夢の続きだ。
私は夢であろうとこのチャンスは逃さないぞと、ジェレミア様の手にキスを降らせる。
いや夢だからこそこの幸運を余すところなく享受するべき。
「大好き……大好き……」
ちゅっちゅと音を立てて手の甲に唇をつけていく。
もう食べちゃいたい。
指をはみ始めた時、ストップがかかった。
「ちょ……ちょっと待ってくれ……! ピアニー! ピアニー!」
手をほどこうとするジェレミア様に抵抗して、両手でがっしりと手を掴み直して胸に抱く。
「ダメですー。もう離しません! 夢の中でくらい幸せでいさせてください!」
夢のくせに抵抗するとは小癪だぞ! 夢ジェレミア様!
「違う! 夢じゃないから! 起きて! ピアニー、起きて!」
真っ赤になってジェレミア様が私に呼びかける。
うん? 夢じゃない?
瞬きをして、自分のほっぺをつねる。
……痛い。
ってことは……?
ジェレミア様は困ったように笑った。
途端に恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「わわわわわわわわっっっ!!!!」
私はあわてて胸に抱いた彼の手を離して、布団を頭からかぶる。
私今何してた!? 夢だと思ってやりたい放題!
顔から火が出そう!
もう布団から出れないよ!
「ピアニー、そのままでいいから聞いてくれ」
しばらくして、穏やかなジェレミア様の声がした。
「チョコレート、受け取ったよ。君が自分で作ったってリガルドの手紙でも読んだ。……馬鹿な勘違いをして君を困らせて……すまなかった」
私は布団を跳ねのけてガバッと身を起こす。
布団に入ってる場合じゃなかった!
謝るのは私の方なのだから。
「そんな! ジェレミア様は悪くありません……! 私が誤解させるような事をしたから……!」
ジェレミア様は首を横に振る。
「いいや、僕が君のことを信じられなかったのがいけないんだ。……君もガッカリしただろう? いつも君の前では格好つけているのに、いざとなれば愛する人を信じることすらできないなんて……。……君に嫌われても仕方がない……。それでも……せめて、謝らせてほしかったんだ……」
沈痛な面持ちのジェレミア様に私は食って掛かる。
「ジェレミア様のことを私が嫌う? そんなことあるわけないじゃないですか! むしろ私の方があなたに何もしてあげれなくて焦っていたのに!」
何も特別の才能がない私。
刺繍をしても「これはジェレミア様に差しあげてはダメ」とお母様に止められるし、ダンスをしたって足を踏むし、歌だって人前では歌うのを禁止されるほどの音痴。才能がないっていうか普通以下にセンスがない。
いつも私のために忙しい合間を縫っては楽しませてくれる彼に、私は何も返せるものがなかった。
なのに、ジェレミア様は驚いた顔で私の目をじっと見る。
「何を言っているんだ? 君は僕にいつもたくさんのものをくれているよ」
「私が? 何を?」
私はまったく心当たりがなくて眉をひそめる。
「笑顔を」
ジェレミア様が微笑む。
「好奇心のままに進む勇気を。失敗してもめげない希望を。
いつもそうやって僕は君に励まされてるんだ」
ジェレミア様の空色の瞳が私を真っすぐに見る。
ああ……好き。
私の心臓がギュッと掴まれたみたいに苦しくなる。
私は、やっぱり彼のことが大好き……。
大好きで、本当にうれしい。
「わ……私も! 私も、ジェレミア様の笑顔を見るのが大好きなんです。だからあなたを喜ばせたくてチョコレートだって作って……!」
「うん。…………でもどうしてチョコレート?」
ジェレミア様が首をかしげて聞いてきたので、私は今までのあらましを話してあげた。
「と、いうわけで、今日はチョコレートを好きな人にプレゼントするという恋人にとって大切な日なんです!」
前世の記憶から一切合切をジェレミア様に話した。
ジェレミア様は少し驚いていたけれど、いつも通りに穏やかに私の話を聞いてくれた。好き。
「それで彼と三日三晩チョコを練り続けていたんだね。フフッ……!」
何かジェレミア様のツボに入ったらしく、肩を震わせている。やった! ウケた!
「ほんっと大変だったんですよ! 私も作る前はあんなにチョコレートつくるのが大変だって思いませんでした」
私もアハハと笑いながら話す。
大変だったことだって、振り返れば笑い話だ。
「えと……それで、チョコ食べましたか? 味見は一応したんですけど……あの、よかったら感想とかいただけたら……」
モジモジしながら聞いてみる。
チョコ屋お墨付きではあるのだけど、やっぱり本人からの評価が気になる。
「うん、すごくおいしかったよ」
さわやかな光り輝く笑顔で答えてくれて、私はそのまぶしさに目がくらむ。
神々しい……! 好き!
この笑顔のために私は実からチョコレートを作ったのだわ! すべてが今報われたわ……!
じーんと胸が熱くなる。
がんばって良かった……! がんばって良かった……!
「チョコレート、まだ残っているんだけど、一緒に食べないかい?」
ジェレミア様がピンクの小箱を取り出して開ける。
「すごくなめらかで……甘くて、おいしいよ」
ツヤツヤして宝石のように輝くハート型の一粒を私の口元に差し出してくれる。
指先が震えていて、顔が真っ赤になってる。
普段の彼は絶対にこんなことしない。
私のために、すごく勇気を出してくれてるんだ……。
私はすごくすごくうれしくて、泣きそうに笑いながらそれをパクッと食べた。
歯が浮きそうなくらいの甘さが口いっぱいに広がる。
「えへへ……、おいしいです。……ジェレミア様もどうぞ」
私もひとつを口元に運んであげる。
ジェレミア様も赤くなりながらも柔らかく微笑んで、私の手からチョコレートを食べてくれた。
念願の食べさせあいっこまでできてもう……こんなに幸せでいいのかしら……?
まさかフラグ? フラグであったとしてもこの幸せは余すことなくかみしめるけどね!
「なんだか恋人みたいです」
私がうれしくなってそう言うと、ジェレミア様は困ったように笑う。
「ずっとそのつもりでいたんだけど……ピアニーは僕の事なんだと思っていたんだい?」
「婚約者です。……結婚の約束をしている……お友達?」
私が小首を傾げると、ジェレミア様はおかしそうに笑う。
「なんだいそれ?」
「だって……、ジェレミア様っていつも私にぜんぜん触らないし……、エスコートの時の手だってすぐに離してしまうし……」
もごもごと口をとがらせると、ジェレミア様は顔を少しそむけた。
「……それは…………………………………………君が可愛すぎるから」
「え?」
な……なんだかすごく可愛いことを言われてしまって、また顔がカーッと熱くなる。
「どこかで区切りをつけないと、君を離せなくなってしまうだろう?」
ジェレミア様は困ったように笑う。
「そ……そういう理由? ……私、そういうベタベタするのが好きじゃないのかなって思ってました」
熱くなってきてしまって手をパタパタさせながら言うと、ジェレミア様は肩をすくめてみせる。
「好きじゃない男がいるわけないよ。君に触りたい……。でも、あんまりベタベタして嫌われたくもない」
「だから嫌いになんてなりませんって。本当ですよ? 触らない方がよっぽど不安になります」
ジェレミア様は眉を下げてムムッとうなる。
「それは困る……」
本当に困っている様子のジェレミア様がかわいくて、私は人差し指を立てて先生ぶってみせる。
「それに今日はバレンタイン。恋人たちの日ですから、ちゃんとイチャイチャしないとだめなんです」
私はそういうことにして「えいっ」とジェレミア様の手を握った。
温かな感触に胸が高鳴る。
「そういうものなのか?」
「そうなんです。困っちゃいますね?」
「でもそういうものなら……、仕方ない……か」
赤くなりながらもほだされてくれたジェレミア様を私はニコニコと見る。
そしたら、私のいたずら心につい火がついた。
これは……、もしかして伝説のアレもいけるのでは……?
「ジェ……ジェレミア様」
私はドキドキしながら呼びかける。
「なに?」
「ここで、一つ異世界のゲームをしましょう」
「ゲーム?」
「お菓子をですね、口にくわえて反対からもう一人が食べていって、お互いの口がついちゃったら負けとゆー……」
私が言うと、ジェレミア様は半眼で私を見ていた。
しまった! 外した!? 調子に乗りすぎた!?
「あ、あの! ごめんなさい! 調子に乗りすぎましたああああっ!!」
土下座しようと手を離そうとしたのだけど、ジェレミア様は離してくれない。
代わりにニッコリと微笑んだ。
あれ? こんな顔見たことない。なんか……黒い……?
「いいよ。ピアニー、やろう」
「は……はい……」
なんとなく何か決定的に良くない気はしたのだけど、乗ってくれてるのだし……?
もしかして明日になったら、バレンタインが終わっちゃったらこんな機会なんてないかも……だし?
私がチョコを摘まもうと箱に手を伸ばすと、ジェレミア様がそれを止めた。
「僕がくわえるよ」
にっこりと笑ってジェレミア様が口にチョコをくわえる。
「ん」
促されて、顔を近づけてチョコを見る。
ん?
あれ?
これってどうやるの?
スティック菓子ならともかく、これ食べるとこが少なすぎ?
私は顔を傾けて、食べれそうなところを散々探してカリッとかじった。
やった!
と思ったら、
「んっ……!」
柔らかいものが唇にあたって――
「んんっ……!」
びっくりして離れようとするも、きつく抱きしめられて離れられない。
えっ……! えっ……!?
混乱したまま何度も唇をはまれる。
熱を帯びた綺麗な空色の瞳を見ていると、とろんとしてきてなにも考えられなくなる。
そのまま私は目を閉じて、甘くてとろけるようなキスが繰り返されるのをただただ受け入れた。
そして、チョコの甘さが完全になくなった頃――やっと私は解放された。
くたっと体に力が入らなくて、ジェレミア様の肩につかまる。
夢心地で、体の全部が熱くて、とてもジェレミア様の顔が見れない。
「ピアニー」
甘い声音にビクッと体が動く。
恐る恐る見上げると、ジェレミア様は私を見下して自分の唇をぺろりと舐め上げた。
「――君は僕を舐めすぎだ」
官能的な視線を向けるジェレミア様を見て、私はすごく――――反省した。
それから、夕食はリガルドが腕に寄りをかけて作ってくれたご馳走をジェレミア様と家族のみんなで食べた。
リガルドはそれを赤く腫らした目でこっそり陰から見ていて、ジェレミア様が深く頭を下げると、恥ずかしそうに奥へ引っ込んでしまった。
それを見て、私はなんとなく分かってしまった。
あの封筒の中身は……きっと、彼が伝えることのできなかった想いで、ずっと伝えるつもりもなかった言葉だったのだろう。
きっと私はそれに触れてはいけないのだろうと思って、目を伏せる。
夕食が終わり、ジェレミア様を見送りに玄関まで手をつないで一緒に歩いていく。
「ピアニー?」
「あ、はい。ジェレミア様」
「今度チョコレートのお礼をするよ。何がいい?」
優しく微笑まれて、私はまた一つ大切な日のことを思い出す。
「あ、それにはですね! お礼専用の日があって、ホワイトデーって言うんですけど!」
「うん」
「ホワイトデーにはですね、キャンディーとかクッキーとかが定番で……」
「じゃあ、今度は僕が手作りしてあげようか」
ジェレミア様がそう言うと、
「わっ…… 私がそれ教えて差し上げましょうかっ!」
奥から真っ赤な顔のリガルドが出てきた。
ふるふると羞恥で肩が震えている。
「よっ……よろしければお嬢様と三人で……!」
ジェレミア様はそれをびっくり眼で見て、それからフッと目が細められる。
「ああ、頼めるかい?」
リガルドの顔がパッと明るくなって、
「はい!」
花のように笑った。
――2月14日、毎年バレンタイン家ではこの日にチョコレートを作る。
友人、恋人、夫婦、親子、それぞれの大切な人と共に作るチョコレートは、甘くてとてもおいしくて、それを作るための数々の困難は人々の絆を深めてくれる。
バレンタイン家が発売したクーベルチュールチョコレートは、それをほんの少しだけ助けてくれて、この世界でも2月14日はバレンタインデーとして世に広まっていくのだった。
読んでいただき、ありがとうございました!