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心の病と彼女

作者: 一角黒馬

文章を書くのも苦手だが作品タイトルを考えるのも苦手です。

「精神疾患」というデリケートなのをテーマにしたので、不快に思われる方がいるかもしれません。


マグカップを割った。

(つとむ)の彼女である、優子が。

厚みのあるコップが地面に叩きつけられ、ゴッという重い音のすぐ後に、ガラスの割れる高い音が響いた。

驚いていると、優子は泣きながら棚の上の物を投げ飛ばし、壁や床を、見た事も無いくらい強い力で殴ったり蹴ったりした。

その様子を見た勉はサッと気持ちが冷えた。

一体何をしているんだ。何にそんな怒っている。言いたい事があるなら言えばいいじゃないか。

言おうとしたのを無視していたのが自分であるという矛盾にも気付いていたが、暴れるくらい言いたい事が溜まっていたなら怒鳴りつけてでも聞かせればいい、と、勉は自分にも非がある事を認めようとせず、全て優子が悪いと決めつけた。

そばにいると不愉快なので携帯電話と財布と上着を持って外に出ようとした時、優子が自らの腕を切っているのが目に映った。

幼少期の記憶が一瞬蘇り、背筋がゾワッとする。

次に怒りがフツフツと湧いて「勝手にしろ!俺は知らないからな!」と吐き捨てドアを勢いよく開け外に出た。


最近、優子の様子がおかしかった。

「調子の悪い日」は付き合い始めた頃から時々あったが、調子が優れない事など誰にでもあるだろうと思っていた。

女性には女性の事情もあるだろうし、そういう日はあまり構わずにそっとしておいた。

正直言えば、機嫌の悪い人と接するのが苦手なのもあったが。

だが、最近はその「調子の悪い日」が頻繁にやって来て、奇行が目立つようになった。

落ち込んだかと思ったら口だけ笑わせて動き回り、また落ち込む。

独り言をブツブツ呟いたり、突然泣き出したり。

その様子に勉は覚えがあったが、きのうせいだと思い込んだ。

そうであって欲しくなかったから。

二日に一回のペースで「調子の悪い日」が来るので、お互いに口数は減っていた。

優子もあまり話そうとしなかったし、こちらから話すなんて事も無かった。

ちょこちょこ優子から話しかけられたが、優子の奇行にイライラしていた勉は無視したり何も言わずにその場を離れたりした。

あの状態が続くのなら別れようと思った。

今の優子といると、嫌な過去を思い出してストレスになる。

あと少ししたら別れを告げようと決めたのが、昨日の事。

いつものように勉が冷たい態度を取ったのをきっかけに、優子は暴れ出したのだ。


ネットカフェまでは歩きだとそこそこ時間がかかるので、友人に愚痴を聞いてもらおうと思った。

「絶対に出ろよ」と念じながら数コール。

「はいはい」

繋がった。それだけで、釣竿の餌に小魚が食いついたような、ほんの少し嬉しい気持ちになる。

「僕だよ。今、いいか」

「おう、勉。全然大丈夫だけど、なんだ、不機嫌そうだな」

「ああ、さっき怒鳴り散らしてきた後だ」

「えっ、喧嘩でもしたのか?」

「あれは喧嘩って言うのかな。家で優子が発狂して腕切ったんだ。最近奇行が多かったし、こっちもストレス溜まっててさ。全く、訳分かんねえよ。だから今家出て、ネカフェ向かってる途中」

「……マジでか。心配じゃねえの?腕切っちゃったんだろ。傷の具合によっては病院に……」

「そんな深くないだろ。付き合ってらんないって」

少し切って血が出たくらいじゃ気も失わない。多少ふらつくくらいだろう。

心配するとすれば、傷口をケアせずに放置して膿んでしまう事だが、勉にとって自傷行為するような奴なんてどうなろうと構わなかった。

「優子ちゃん、優しくて良い子だったのに。何かあったんじゃねえか?お前の事だから、大して相談にも乗ってないだろ」

「何かって何」

大して相談に乗ってないと言うのは図星だった。

「大きなストレス抱えてたりさ。例えば、職場とか家族とか。一度病院に連れてってみたらどうだ。自傷行為するくらいだから、もしかしたら……」

「なんだ。病気だって言いたいのか」

「そういう可能性もあるって事」

「もしそうだったら、すぐ切り捨てる」

「おいおい。お前本当そういうとこ直した方が良いぜ。精神疾患の人に偏見持ちすぎなんだって。あんな仲の良かった優子ちゃんを簡単に切り捨てるとか言っちゃって」

「僕が精神を患った奴に何をされたか知ってるだろ。偏見を持つななんて言われても無理な話だね」

「………でもさ、優子ちゃんに怒鳴って家出てきちゃったのはお前にも非があると思うぜ。早めに家戻って、ちゃんと話聞いてあげな。まだそうとも決まった訳じゃ無いんだし」

「はぁ。まともに話できるのかね。まあ明後日までには戻るよ」

あまり人の言う事を信用しない勉でも、この男、薪頭(まきとう)の言う事には渋々だが従う事が多い。

薪頭の言う事が間違っていない事を知っているからだ。


土曜日の朝をネットカフェで迎えた勉。

目覚めた時刻は11時前。

いつもなら当然もっと早く起きるが、昨晩は興奮していたのかなかなか眠りにつけなかったのだ。

ネットサーフィンをしているうち苛立ちは治まったのに、眠りにつけないせいで、色々と考え込んだ。

優子の奇行を思い出す度、過去の記憶が蘇る。

そして、ますます優子と記憶の中の女が重なる。

考えたくも無いのにその光景は何度も脳内で再生され、優子に対する疑いは確信に変わっていった。

時刻は既に昼に近いが、家に帰ろうという気はしなかった。

けれど、薪頭に早く帰るよう言われたし、そもそもあの家は自分の家だ。

優子に別れを告げて家から追い出せばいい話。

少しだらけて、12時になる前にネットカフェを出た。


家の中には誰もいなかった。

だが、きれいに掃除されてあった。

放り投げられた小物たちは元の場所に並べられ、ガラスが割れた形跡も無い。

テーブルの上には「突然騒ぎ立ててごめんなさい。お互いに落ち着いたら話がしたいです」と書かれたメモが置いてあった。

本当だよ。騒ぎ立てるなんてレベルじゃ無かった。

話す事など別れ話くらいしか無い。

メモ紙を片手で握り潰し、ゴミ箱に放り捨てた。


優子がいなくなって、自分で料理をしなくてはならなくなった。

一人で暮らしていた時はスーパーなどで適当に買って食べていたが、つい最近まで優子が手料理を作っていたので、冷蔵庫には食材が余っているのだ。

腐らせるのももったいないので仕方なく自分で調理するが、料理が苦手な勉は一品作るのに四苦八苦。

食欲の湧くような料理は一度も作れず、食事の面では優子の作る料理が恋しくなったが、そんなのはすぐにかき消した。

あんな状態の人間の料理を食べてみろ。毒でも盛られてあの世にいってしまう。

頑張って食材を減らしてやっと無くなりかけた頃、優子からメールが届いた。

メールの内容はメモ書きと大して変わらない。

謝罪と、会って話がしたい。それだけ。

正直、会うかどうかも迷った。

こっちがしたいのは別れ話だけ。

面倒な奴の話に付き合いたくないし、別れを告げて逆ギレされても困る。

メールだけでサッと済ませたかったが、最後くらい顔を合わせてやってもいいか。


ファミリーレストランで待ち合わせ、席に向かい合わせて座った。

優子はホットコーヒーを頼み、勉に何を頼むか聞いてきた。

「僕は結構。そんなにゆっくり話すつもりは無い」

怒ってはいない。だが、明らかに冷たい勉の態度に、申し訳無さげな優子の表情がさらに悲しげになった。

ホットコーヒーだけを注文し店員が去り、沈黙。

「……この間は、本当にごめんなさい。その事についてゆっくり話がしたかったの」

「何を話そうって言うんだ。言い訳か?僕が話したいのは一つだけだ」

「ずっと黙ってた事があって、きっとそれを聞いても勉さんの気持ちは変わらないと思うし、もしかしたらもっと………」

優子は言葉を詰まらせた。

「ずっと黙ってた事」が何であるか勉は薄々勘付いていて、だから余計に優子に否定的になっていた。

「……病気なんだ。私」

想像した通りだったので、大して驚きもせず適当に相槌を打った。

コーヒーが運ばれ、優子は控えめに礼をした。

「中学生の頃から心の病気で、でも今じゃ普通の生活を送れるくらい回復したの。けど、やっぱり不安定な時期ってあって、春になると……調子が悪くて」

「去年の春はそうでも無かっただろう」

去年の冬辺りから一緒にいるが、春にあそこまで様子がおかしかった記憶は無い。

「こういう事言うの、あまり良くないと思うんだけど……勉さんと一緒に生活するうちに、ストレスがどんどん溜まっていって、それであんな事になっちゃったの」

勉は眉を顰めた。

一緒に生活するのがストレスで?

それで回復しかけてた病気が悪化して暴れたと?

優子の歯切れの悪い喋り方も相まって勉は苛立ち、やはり相手の話に付き合う物では無かったと思った。

「もういい。これ以上言い訳を聞くつもりは無い。別れよう」

席を立つ勉を優子は引き留めた。

が、振り返る事も無く足早にファミリーレストランを出て行った。


優子に別れを告げ、本格的に一人の生活に戻った勉。

食事は出来合い、横に並んだ布団は押入れ、収納ケースの中の女物の服は優子の自宅に送り付け、歯ブラシはゴミ袋に。

行動に移すのは早かったが、どの作業にも少し躊躇いがあった。

優子を振った本人に未練が残っているとでも言うのだろうか。

おかしな話だ。


数日後、匿名の手紙が届いていた。

封を切って、念のため手を突っ込まずに中を覗くが、カミソリなどの危険物は入っていないようだ。

折られた便箋が二枚入っているだけ。

封筒から出して読んでみると、綺麗な字でこう書かれていた。

『こんにちは。優子です。どうか破り捨てずに読んでください。』

優子?

差出人が優子であると分かった瞬間なんてしつこい女なんだとゴミ箱に放りたくなったが、破り捨てずに読んでほしいと書いてあったので、今度は何の用だと目を通した。

何だかんだで少し気になってしまっていた。

『数日前はまた怒らせてしまってごめんなさい。

何度謝るのかって感じですが、それだけ勉さんに迷惑をかけてしまっているんですね。

病気の事を最初から話していればこんな事にはならなかったかもしれません。ずっと黙っていた私が悪いです。

きっと勉さんは「勉さんと生活するのがストレスになった」と言った事にとても腹を立てたのでしょう。せっかく私の話に付き合ってくれたのに、口下手なせいで誤解を生んでしまいました。

私は、勉さんといるのが苦痛だった訳では無いんです。逆に勉さんといると楽しくて、安心して、ずっとそばにいたいと思っていました。

けれど、勉さんはどう思っているのだろうととても心配で、なかなか眠りにつけない日もありました。

私は楽しくて安心する。けれど、もしかしたら勉さんは楽しくないし、一緒にいて不愉快かもしれない。

そんな思いが、私のストレスになっていたのです。

勉さんを嫌いになった事なんて一度もありません。それは、今でも同じ事です。

また言い訳のようになってしまいましたね。別れを告げられたのに、しつこくてごめんなさい。

最後に一つだけ、お願いがあります。

ご飯を作らせて欲しいんです。一緒に食べたいなんて贅沢は言わないです。家に上がらせてもらわなくてもいいです。

ただ、私が作った料理を食べて欲しいんです。

勉さんは料理が苦手だから、どうしても出来合いの物ばかりになっているのではないでしょうか。

良かったら、連絡ください。 優子』

あの一言の誤解を解くのと、自炊した料理を食べて欲しいという事だった。

勉は手紙を読んで悪い気はしなかった。

誤解を解く文章を読んで、大したすれ違いも無く一緒に生活していた頃を思い出したのだ。

付き合い始めたばかりの熱々な高校生のようにベッタリしていた訳でも、二人でいるのが幸せで馬鹿みたいに浮かれていた訳でも無い。

けど、何だか心が温かくて、今なら人に優しく出来るんじゃないかと思っていた。

ほんの一瞬だったが、不覚にも、優子が恋しくなった。

だが、返事は書かなかった。

一緒にいて心地が良かったのは昔の優子であって、今の優子じゃない。

今の優子は、狂気を内に秘めていながら常人のふりをしている狂人だ。

手料理が絶対安全なんて保証は無い。


スーパーで買ってきた弁当を食べていると、電話がかかって来た。

どうせ薪頭だろうけど、もし優子だったらと考えると少し怖い。

優子は遠慮がちな性格だから振られた後に電話なんて事出来なさそうだが、気が触れて興奮状態だったりしたら何度でも電話をかけてきそうだ。

なんて思ったが、当然電話をかけて来たのは薪頭だった。

「おう、様子はどうだ。暇無くてあれから日にち経っちゃったけど」

声色からして、別れたとは思っていなさそうだ。

別れたと言ったら驚くだろうか。

「別れたよ」

「……え、マジ?優子ちゃんと別れたの?」

やっぱり、別れたとは思っていなかった。

「ああ。数日前に」

「………」

勉は少し笑った。

「言葉も出なくなるほどショックか?」

「いやぁ、ショックだし思う事は色々ある。けど、俺は部外者だから何も言えねえなって。ちゃんと話し合ったんだろ?まさかひどい振り方してないだろうな?」

「ひどい振り方ってなんだよ。暴言も暴力もしてない」

「はぁ、そうか。それなら良いけどよ。お前が決めた事だし」

溜息を吐くほど優子が気に入っていたのかと、勉は意外に思った。

「……ま、こんな話はここらでやめて、今度いつ空いてる?気分切り替えて遊ぼうぜ」

薪頭は声色をパッと切り替えた。

遊ぶのは大賛成だった。気分を切り替えて優子の事なんて忘れよう。と言っても、未練がましく相手を想っているのは優子だけだ。


子供が寝ていた。

布団は二つ並べられているが、子供しかいない。

中途半端に開いている襖の向こうから、ブツブツと何かが聞こえる。

寝ていた子供が目を開け、むくりと起き出した。

子供は襖を開けた。

そこには、頭を抱えてうずくまり何かを呟く女の姿があった。

子供は女を避けるように壁際を歩き、台所のパンとコップを手に取り、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

テーブルに置いてコップに牛乳を注いでいたら、突然女が金切声を上げた。

肩を震わせて女の方を見る子供。

女はのそりと起き上がって、台所に置いてある包丁を手に取ると、自らの腕を切りつけた。

子供は顔を引きつらせて顔を背けた。

ポタ。ポタポタ。

血が床に滴り落ちる。

「………おい……お前……」

酒に酔ったかのようなふにゃふにゃした声で子供に喋りかけた。

「な、何」

声が震えている。肩も小刻みに震えている。

もう見たくない。これ以上見たくない。

そう思ったが、勉は喋る事も動く事も目を背けることも出来なかった。

そして女は、無抵抗の子供に……


目が覚める。

悪夢を見たせいで動悸が激しい。

優子が暴れた日から、頻繁に悪夢を見るようになった。

どれも全部過去の記憶だ。

あの夢の続きも覚えてる。

まだ子供だった頃の勉は恐怖でしかなかったが、大人になると怒りに変わり、思い出す度にあの女をどうにかしてやりたいと思う。

夢であの光景を見ている時、ずっと今にも手が出そうになっていた。

いや、手を出そうとしていた。

だが、自由に動けなかった。

だったら目を背けよう。そう思ったが、目を背けることも出来なかった。

幸い、一番辛い場面は見なくて済んだが、それでもひどい不快感だ。


薪頭と遊びに出かけた。

優子と遊びに行く時とは違って、カフェや服屋なんて行かない。

友人が行きつけのバーで昼間から酒を飲み、バッティングセンターで体を動かし、アメリカンな穴場でまた酒を飲みながらカードゲーム。

たまには男友達と遊ぶのも良い。

いや、これからはまた男友達しかいないのか。

優子以外に仲の良い女性なんていなかった。

まあ、女なんて面倒な奴が多いし、男友達がいてくれればそれでいい。

特に、薪頭はとても良い奴で、気が合う。

男友達、なんて言ったが、友達と呼べるほどに仲が良いのは薪頭だけだ。

薪頭が何気なく通り過ぎたカフェ。

そのカフェは優子のお気に入りのカフェで、よく二人でお茶をしたり、そうだ、薪頭に優子を紹介したのもこのカフェだった。

わざわざ顔まで見せて紹介したのは薪頭くらい。

「薪頭さん、明るくて良い人だったね。今度、また三人でお喋りしたいな」

帰りに微笑みながらそう話した優子の顔を思い出す。

「ん、おい、どうした勉。歩くの遅えぞ」

数メートル先で、薪頭が立ち止まり振り返っている。

「あ、ああ」

ハッとする。

何を考えているのだ。なぜ優子の事など思い出している。

「ちょっと考え事してた」

「遊んでる時くらい頭空っぽにしようぜ」

この辺りは家からさほど遠くなく様々な店もあり、優子ともよく来ていた。

きっとそのせいで、余計な事を思い出してしまうのだ。


仕事を終え帰宅し、入浴を済ませた。

休憩したらスーパーで買ってきた天丼を食べよう。

大して美味しくないのは知っている。白米は冷めてて、天ぷらは衣だらけ。

けど、近くのスーパーでサッと一つ買って帰るのが一番楽で、いつもそうしている。

ふと、テーブルの上に置きっぱなしの手紙を読み返した。

「ご飯を作らせて欲しい」「ただ、私が作った料理を食べて欲しい」

優子の手料理は今でも恋しくなるほど美味しかった。

誰よりもずば抜けて美味しいとか、プロ並みだとか、決してそんなでは無かったけど、優子と一緒に食べる温かいご飯は美味しかった。

料理くらい、食べてやってもいいかな……。

そう思ったが、精神を患った奴の手料理だと思うと、毒でも入れられてるんじゃないかと疑ってしまう。

しかも、自分が振った相手だとより一層。

一度だけでも試してみようか。一体何を作って来るだろう。

そんな事を考えていると、インターホンが鳴った。

勉の家に訪問者が来る事は珍しかった。

荷物が届く事などほとんど無いし、誰かに用がある時は携帯電話で連絡を取り合っている。

誰が何の用だとチェーンロックをしてドアを開けると、そこには久々に見る女が立っていた。

自分から別れを告げたにもかかわらず丁度優子の事を考えていたので、そんな自分が嫌になった。

「家まで来て何の用だ」

何回も優子の事を思い出してしまっているのを悟られないように、あからさまに冷たい態度を取った。

「えっと、その……迷惑かもしれないんだけど、ご飯作って来たの」

勉は驚いた。

さっきまで優子の料理が恋しくて、一度だけでも連絡してみようかなんて悩んでいたところだったのだ。

気持ちが揺らいでいる時にそれを見せられたら、ついついもらってしまいそうになる。

「本当に勝手なんだけど、どうしても、食べてもらいたいって気持ちが……」

振った女になど興味が無い、冷たい自分を貫き通そうとし、「帰ってくれ」と言いかける。

だが、優子の持つ弁当箱らしき物からほのかに、食欲をそそる香りがする。

不安そうな優子。

意地を張って追い返すか、欲に正直になるか。

「もらうだけでも、どうかな。自分のために作った訳じゃ無いから、勉さんが食べたくないなら他の人とかに」

もらうだけ。そうだ、もらうだけ。

「ああ、そこまで言うならもらおう」

優子の表情は少し明るくなり、安心したように微笑んだ。

チェーンロックを外すと弁当箱らしき物を手渡され、優子は「ありがとう」と言って去って行った。

布に包まれた箱は、まだ温かかった。


布団に横になっていると、インターホンが鳴った。

きっと数十分前にメールをした薪頭だが、ドアの鍵を開けていない。

起き上がろうとすると頭痛がひどくなるが、鍵を開けなければ助けを呼んだ意味が無い。

無理矢理体を起こして、ふらふらと玄関へ向かい鍵を開けた。

少し凭れ掛るようにしてドアを開けると、買い物袋を持った薪頭がいた。

「おうおう、大丈夫か勉」

「ヤバい……」

よろけながら寝室に戻る勉にスポーツドリンクを渡し、買い物袋を台所に置く。

「何度くらい出てる?」

「38度5分」

「しっかり熱出てるな。今からフルーツむいてやっから」

台所は綺麗に整頓されており、これはこまめに片づけているのではなく使っていないんだとすぐに分かった。

優子と別れてから食事がまた出来合いの物になったのは、台所を見なくても分かる事だった。

薪頭はピーラーや包丁を使い、果物を一口サイズに切った。

しばらく使っていなさそうな皿を水ですすぎ、盛り付ける。

寝室へ運ぶ途中、床に二つ折りされた紙が落ちていた。テーブルの上に封筒があるので、テーブルから落ちたのだろう。拾い上げる際にちらりと見えた文字はとても綺麗な字だった。

一体誰からの手紙だろうかと気になったが、勝手に内容を見る事はしなかった。

「勉、フルーツ。朝から何も食ってないんだろ。食べといた方が良いぜ」

うう、と唸りゆっくりと体を起こし背中を丸める。

「……悪いな、薪頭」

そう言うと、フォークを手に取りオレンジを口に運んだ。

「ただの熱なんだ。寝てれば治るようなただの熱。なんで……なんで優子と別れた後に、こんな熱を出して……」

寝言のような喋り方で、より何の話をしているのか薪頭には分からなかった。

「優子がいなくなった後にこんな熱出たら、そりゃあ……僕でも……僕でもさ……」

勉はそのまま俯き、無言になった。

「おーい、大丈夫か。食わないのか」

反応しないので、フォークを手から取って横にさせる。

こんなに勉が弱ってるのは初めて見た。

勉が優子と付き合う前にも一度看病したことあるが、ここまででは無かった。

勉は目をうっすら開けて天井を見つめているので、起きてはいるんだろうが、恋人でもない男がずっとそばにいるのもリラックス出来ないだろうとその場を離れようとした時、また勉が何かを喋り始めた。

「僕でも、不安なんだよ。一人でいるのが……だって、優子がいたんだ。当たり前のように」

珍しく弱音を吐いてる。そう思った時、薪頭はハッと気付いた。

さっきからどうして優子の名前が出てくるのだろうと思ったら、そういう事だ。

きっと勉は意識してない。ついつい出てしまったのだ。本音が。

薪頭はリビングに戻り、心の中で勉に謝りながら、テーブルに置いてある手紙を読んだ。

『こんにちは。優子です。どうか破り捨てずに読んでください。』

やっぱりだ。これは優子からの手紙だ。

あれだけ優子に対して言っておきながら、手紙を捨てられずにいるんだ。

本当に嫌いな奴だったら、勉は『破り捨てずに読んでください』と書かれてあっても躊躇い無く破り捨てているはずだ。

薪頭は、手遅れにならないうちに勉を説得しようと、「早く治れ」と念じながら看病をした。


「わざわざ仕事終わりに呼び出すなんて、何の話?薪頭」

しかもこのカフェで、と心の中で思った。

今日は木曜日。熱はすっかり下がって当然仕事があった。

何の話かも伝えず平日に呼び出すなんて、お遊びじゃない事は何となく分かる。

薪頭のテンションもいつもより低めだった。

「大事な話。特にお前と、んー……もう一人にとって」

「は?」

「俺はずっとこの話がしたかった。けど、お前の調子が元に戻るまで堪えてたんだ」

「うん」

「どう話せば納得してもらえるか分からないけど、直球に言うとな、勉、お前、優子ちゃんの事好きだろ。まだ」

勉は顔をしかめた。

それは心から不快に思ったからでは無く、優子の事に関して否定的になるのが癖になっていたからである。

内心ドキッとしてはいたが、気付かないふりをした。なぜなら、心の病気を理由に優子を振ったのは自分だから。今更その事に気付いてはいけないからだ。

「そんな顔したって無駄だぞ。俺には分かってる」

「どこに、優子が好きだなんて思わせる行いがあった?好きだったら振る訳無いだろう」

「悪いが、手紙を読ませてもらった。優子ちゃんからの手紙、捨てられなかったんじゃねえか?」

しまった。そういえば、手紙をテーブルの上に出しっぱなしにしていた。

まさか看病してもらうほど熱が出るとも思ってなかったし、熱が上がってからはそんな事考えられなかった。

「…………」

「あんま責めたりするつもりは無いけどよ。お前が寝込んでる時自分の口で言ってたぞ。「優子が当たり前のようにいたから、一人が不安なんだ」って。余計なお世話かもしれねえけど、それを聞いちゃあ友達として放って置けない」

それを聞いて勉は顔が火照った。

知らぬ間にそんな事を口にしていたのか。

確かに、ただの熱と分かっておきながら、不安で薪頭にメールを送ったのは事実なので、薪頭の言う事は嘘ではないのだろう。

「優子ちゃん、心配して手紙までくれたんだろ。一緒に住むとか恋人関係に戻るとか、そういうのは後回しにしてさ、ご飯くらい食べても良いんじゃないか。どうせ前みたいに出来合いのもんばっかなんだから」

「……何が入ってるか分からない。毒とか」

薪頭の言う事に心は折れかけ、言い訳する子供のように小さく口を動かした。

本当は毒など入っていない事を知っていた。

薪頭は今日会ってから初めて笑った。

「毒?だったら俺が味見してやっても良いぜ。優子ちゃんが毒なんて入れる訳無い事を証明してやるからよ」

ただの意地。この前優子の持って来た弁当を食べて以来、精神を患っているっていうだけの理由の不信感は薄れていたが、その後も態度や状況を変えようとしなかったのはただの意地だった。

薪頭がこの話をしてくれたのは心のどこかで嬉しく思っていて、言い訳を並べて話を長引かせる気は無かった。


仕事の昼休みに悩みながらも優子にメールを送った。

『夕飯を作ってくれないか』

送ってしまったからにはもう後戻りは出来ない。

優子への態度を変えるんだ。優子が許してくれるのなら、変な意地を張らないで自分も変わろう。

なんて返信が来るか、もし了解してくれたらまた家に弁当を届けに来るのか、ドキドキして昼食を食べる気にならず、飲み物だけを飲んで仕事を再開した。

きっと優子なら喜んで持って来そうだ。

いっそ振ってくれたら、なんて事も考えるくらい、緊張した。

仕事が終わってバスに乗り携帯電話の画面を開くと、返信が来ていた。

『了解しました。今日の夜で良いですか?』

もちろん今日の夜のつもりだった。

「はい」以外に選択肢は当然無く、返事を送った。

今日、来るのか。今日だけでは無く明日も明後日も。

好きな子と会う約束をした学生のような気分になった。

ドキドキしたまま家に帰り、風呂に入り、そわそわしながら待っていると、インターホンが鳴った。

時間の約束はしていなかったが、一緒に暮らしていたのでタイミングが分かっているのだろう。

ドアを開けると、今度は生き生きとした顔の優子が立っていた。

「こんばんは、勉さん」

布に包まれた弁当箱を差し出され、気が付く。前回弁当箱を包んでいた布を返さなくては。

弁当箱は使い捨てだったが、布は返さなければならない。

「ちょっと、待ってて」

弁当箱を手に取り、急いで畳んであった布を持ってきて、優子に渡す。

「これ、前の。……と、あ、ありがと。弁当」

目を逸らしながらそう言うと、優子は、本当に嬉しそうに笑った。

「うん。私も、食べてくれてありがとう」

次の日も、その次の日も、勉の夕食は優子の弁当だった。

薪頭から「その後の様子はどうだ」と電話がかかって来たが、優子の弁当を食べてる事だけを話し、それが一日の楽しみになっている事は話さなかった。

4日目、帰ろうとする優子を引き留め、家に上がらないかと言った。

弁当をもらうだけもらってすぐに帰すのはなんだか申し訳無いし、夕飯の時くらい一緒にいてもいいかなと思ったのだ。

優子は涙目になりながら頷いた。

家に入る時に「お邪魔します」なんて事を言うので、勉は振り返らずに「そんなこと言わなくていい」と言った。

弁当を半分わけるのを拒否するので、家にあった羊羹(ようかん)を出した。

「勉さんは、和菓子が好きだったよね」

二人で面と向かって話すのが久し振りで気恥ずかしく、「うん」とだけ答えた。

それでも、優子は笑顔のままだった。

「明日からは自分の分も持って来れば。それか、家で作っても、良いけど……」

優子はさらに嬉しそうになった。

「じゃあ、作らせてもらっても良いかな。お弁当だと出来ない料理もあるから」


家で料理を作る姿を見てても、一緒に夕食を食べていても、違和感は無かった。

あの日が嘘のように思えるくらい、嬉しそうだった。

料理中に袖をまくって見えた左腕には2本の傷があり、過去の記憶が蘇る事もあった。

けれど、今の優子と記憶の中の女の姿は重ならず、怒りの感情などは芽生えなかった。

優子に「調子はどうなんだ」と聞いてみると、「とても良いの」と微笑む。

「勉さんと別れてから一気に落ち込んじゃって、夜もまともに眠れなかったけど、勉さんに料理を食べてもらえるようになってから、とても調子が良くて」

元気な優子を見ているうち、悪夢は見なくなった。


一緒に夕食を食べる。そこまでは行ったものの、そこから先に進めなかった。

優子の事は好きだ。それはもう認める。意地なんて張らなくなった。

なのに、まだ怖い。

また優子の調子が悪くなったら。また暴れ出したら。母親と同じ事をしたら。

それが怖くて先に進めない。けど、ずっとこのままでいるわけにもいかない。

十日くらい悩み、これは一人で解決出来る事では無いと、薪頭に電話をした。

薪頭しか相談出来ない。薪頭なら解決に導いてくれるはず。今までずっと助けられてきたんだ。

「はいはい」

「薪頭。相談がある」

「お、勉。なんだ相談って」

「優子の事で」

「ああ。優子ちゃんね。うんうん」

「優子といるのが怖くて」

「怖い?どういう事だ」

「お前の言った通り、僕は優子の事が好きだった。それは自分でも認めたんだ。だから夕飯は一緒に食べてる。優子の調子も良いみたいだし、僕も一緒にいて心地が良い」

「うん。それは良い事だよな」

「けど、もっと長く一緒にいるようになったら、また、元に戻ってしまうんじゃないかって。だって、優子は病気なんだ。それも、完治が難しくて、ちょっとした事で病状が悪化する。今は調子が良くても、もしかしたら突然母さんみたいになるかもしれない………大切な人が苦しんで、苦しみのあまり理性を失った行動をする姿を見たくない」

後半、母親の苦しむ姿を思い出し、少し涙声になった。

「…………だったらよ、なるべく元気でいられるように支えてやれば良いんじゃないか?優子ちゃんにとってはお前がそばにいてくれることが一番幸せだろうし」

「僕が支えたくらいじゃ病気には勝てない」

「それはやってみないと分からないだろ。優子ちゃんが発狂したとか何とか言って電話してきた時、お前言うほど支えてたか?奇行が多かったって言ってたけど、その時支えてたらそんな結果にはならなかったと思うぞ。とりあえずやってみたらどうだ。俺もいつでも相談に乗るし」

「僕が支えるなんて……僕に出来るとは思えない」

「前の勉なら無理だろうな。でも変わったじゃねえか。俺は出来ると思うけど。好きなんだろ、優子ちゃんの事。だったらなるべく辛い思いをさせないように努力すれば良い。結果が出なくても、その行為に意味がある」

僕は変わったのか。

本当に、優子を支えられるだろうか。そうしたら、優子は笑顔でいてくれるのだろうか。

もし今優子を呼び出して、大切に思っている事を伝えたら、支えて行きたい事を伝えたら。

「やってみるよ。上手くいくか不安だけど、やってみる」

「おう、やってみな。また何かあったら電話してこいよ」

薪頭との電話を終え、すぐに優子に電話を掛けた。

まだ病気について詳しくないし、接し方や対応の仕方なんて知らないけど、愛を伝えよう。

専門医みたいに知識は無いけど、愛情はある。

それを心から伝える事は、自分にしか出来ない。


優子は勉の言葉を聞いて、子供のように泣きじゃくった。

背中をさすっていると落ち着き始め、優子は「安心した」と笑った。

その笑顔を見ると、これからいくらでも支えていけそうな気がした。

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