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.8 籠の中の鳥

 ここは城内のある一室。なにやら騒がしい。

 どうやら歳をとった兵士が、綺麗な服を着た娘に叱られているようだ。


「ちょっと! どうなってるのよ! あんた、朝にちゃんと言ったでしょう?」

「と、仰られましても。あの娘は見習いの身、日中はモルティヌス教育長の講義を受けて居りますゆえ……」


 口をもごもごさせながら、老兵士が縮こまる。

 ご機嫌取りの態度は一種の侮辱と映ったらしい。それは娘の神経を逆撫でた。


「あ、た、し、は! エポーナ王よ! お、う、さ、ま!」

 大声を張り上げる娘。

 一音一音発するたびに、やわらかく胸に垂らした金色の髪が揺れる。

 あまりの大声に、彼女の飼っている小鳥が驚き、籠の中で翼をばたつかせた。


「王様。あまり大きな声を出されては困ります、またエスス祭司長に叱られますよ……」

「エススは関係ないの! モルティヌスの長話野郎! 説教たれ! うんこたれ!」

「王様! あまり下品な言葉づかいをなさらないでください! ええ、ええ。分かりました。そろそろ教育長の講義も終わった頃合いだと思いますので、すぅぐに連れてきますから……」


「うるさい! あんたはもういい! 罰として晩御飯抜き!」

 娘は青い瞳を見開き、老兵士に向かって指を突き付ける。


「代わりにあいつを連れてきなさい。最近、その見習いを世話してる兵士。名前はなんて言ったっけ?」

「ええと確か、“ヤンキス”ですね。彼を連れて来ますので、なんとか夕飯抜きだけは……」

「じゃあ、さっさと連れてくることね! じゅう……きゅう……はち……なな!」


「そんな! 無理ですよお!」

 泣き声を上げる老兵士。


 この王と名乗る、はねっかえり娘。彼女の名前は“ルーシーン・エポーナ”。

 彼女はこの大楢の国の“王”である。


 政治の力がまだ未熟として、エスス祭司長を代役に立てているが、そのじつ、勉学や政治の知識よりも、この牡牛のような気性の荒さと、風見鶏のような気まぐれさが問題となっていた。

 彼女のこの性質は、毎日のように雨霰となり、城に詰める兵士や、祭司たちへと降りかかっていた。

 彼女の噂については城に留まらず、底に穴の開いた壺よろしく、城下にも漏れ広がっており、彼女の眼中無人、気随気儘の振舞いは、国民にはまったく馬鹿にされていた。


「王様? ああ、あのわがまま娘の。いつもお城で好き放題してるんだろう? そんなのが王だなんてこの国も危ないね」

「王様なんて飾りだよ。エスス祭司長が全部やってくれる」

「えーと。おうさま? あーはいはい。尊敬してます! これでいい?」

 市井の声はこういった調子だ。


 とはいえ、先王は狂ってしまうまでは、見事な手腕で国を発展させてきた賢王と称された男だったし、その忘れ形見の彼女をあまり無下にすることができないところもあり、彼女の威厳は表向き……政治的な面においてはかろうじて守られていた。


「お呼びですか、エポーナ王」

 呼ばれて現れたのは兵士ヤンキス。

 彼はおもに祭司長の小間使いを務めていた。見習い祭司希望者の案内も、コニアの世話もその一環である。


「わお。来るのが早いわね。ねえ、あの新しく来た見習い祭司の娘の事なんだけど」


「ああ、あの娘ですか。死刑にでもしますか? 祭司長のお気に入りみたいですけど」

 露骨に面倒くさそうにするヤンキス。彼も多くの国民同様、この娘に対して忠誠を誓っていなかった。

 彼はどちらかと言うと、王の配下というよりは祭司長の部下だ。

 王に対して随分な口ぶりであったが、若い娘にとってはこのほうが気が楽でもあり、見逃されていた。


「待って! そんなこと言ってないわよ。その子をここに連れてきて欲しいのよ」

「別に連れて来なくても、自分で行けばいいじゃないですか。いつも勝手に抜け出してるんだから……」

「それがダメなのよお。最近、中庭を立ち入り禁止にしたでしょう? それで廊下に見張りの兵が増えちゃって。……あのドングリどもお堅くって、行ってもすぐに捕まってしまうのよ」

「あ、もう行ってみたんですね。でも連中が会わせないなら、無理に会わないほうが良いですよ。きっと、その娘は人食い族で、王様の事なんて頭からガリガリ食べちゃいますよ」

「あんた、さっきから適当言ってるでしょ!」


「えへ。バレました?」

 ペロリと舌を出すヤンキス。


「あったまくるわね! あんたも晩御飯抜きにしてやるわよ!」

「うへえ! わかりましたよ。その代わり、自分が連れて来たってことは内緒にしておいてくださいよ?」


「わかったならよろしい! さあ、さっさと行く!」

 娘はヤンキスの背中を両手で押して促す。


「あーでも、それがですね。もうちょっと待ったほうが良いですよ。多分まだ、モルティヌス教育長の講義の真っ最中ですよ。あの人がうるさいのは王様も御存じでしょう?」

「あのうんこたれめ!」

 ルーシーンの口汚い罵倒に、ヤンキスは思わず噴き出した。この娘は口が汚い。他人を詰るときはいつもこうだ。

 これではなじられた相手よりも、彼女のほうの品位が下がってしまうだろう。


 娘は整った眉を上げ下げして思案していたが、あの教育長のお説教の嵐を想像すれば、長く悩む必要はなかった。

 彼女もまた、教育長から様々な“教え”を受けた身であったのだ。


「……まあいいわ、待つわ。講義が終わったら、ちゃんと連れてきてちょうだいね。そうだ! あの子には晩御飯をこっちで食べてもらいましょう。それが良いわ。お願いよ、ヤンキス。ちゃんと連れて来てね」

「了解でっす。……ところで王様。モルティヌス教育長は、うんこたれなんですか?」

「そうよ! あいつはお漏らし野郎なのよ!」


 そういうわけでヤンキスは、コニアをこっそりと王の部屋へと彼女を連れだすことになった。

 “晩御飯抜き”が効いたということもあるが、じつのところヤンキスはルーシーンの事が嫌いではなかった。

 王として認めて尊敬しているわけではないが、彼女が様々な思い付きを試し、騒ぎを起こすさまは見ていて飽きなかった。

 自分に降りかかりさえしなければ、だが。

 今度もまた、なにか面白いことを仕出かすのではないかという、ちょっとした期待があった。

 それに、モルティヌス教育長をあまり面白く思っていない点が合致したというのもある。

 もちろん、そんな彼はコニアの部屋へ向かう道中に、仲間の兵士たちと「モルティヌス教育長に関するちょっとした世間話」をすることは忘れなかった。



 コニアは兵士に呼び出され、寄宿棟から遠く離れた部屋へと案内された。

 わけの分からぬままどこかへ連れていかれるのは、もはや慣れたものであったが、兵士の様子がいつもと違って、何やらこそこそしていたことと、しきりに自分に向かって謝っていたことが気になって仕方がなかった。

 そのくせ、彼はなんだか、にやついていてそれほど深刻そうではなかったし、彼女は首を傾げなければならなかった。


 立派な扉の付いた部屋だった。他の扉とは違い、綺麗に白く塗られている。

 兵士は扉を開けると彼女を中へ押し込み、自分はさっさと外へ出て行ってしまった。


 部屋の中を見回すコニア。ちょっと見ただけでも、今まで見てきた、この国のどんな部屋よりも立派だということが判った。

 部屋に置かれた机のふちには、金ぴかの装飾が施してあり、寝床はまるで白パンのようにふっくらとしたものだ。

 しかも寝床には屋根まで付いて、眠る者を隠すための布まで用意されている。そして、壁に備え付けられた棚には書物が沢山並んでいた。


 なにより、自分の目の前に居るこちらを覗き込む娘。


 歳は自分とあまり変わらないように思える。青い眼、金色でよく手入れされた髪。そして、着ている服。

 それは見たことも無い上等な生地で、素敵な色をしていて……ともかく立派なそれが、彼女が他の者とは格の違う、特別な存在だということを説明していた。


「はじめまして!」

 青い眼の娘は、張りのある声で挨拶をした。声は大きかったが、どこぞの教育長程の熱気は感じない。


「は、はじめまして……」

 答えるコニア。


「良かった。言葉は通じるのね。異国の人だって聞いたから、言葉が違ったらどうしようかと思ったわ」

 そういうと娘は、コニアの周りをぐるぐる回り観察し始めた。ぶかぶかの法衣を勝手にめくったり、絹のような髪を手ですくってみたり……。


「あ、あの。あなたは誰?」

 好き勝手に振舞う娘に対して、恐る恐る質問を投げかける。


「あっ、あたしね。あたしの名前はルーシーン。ルーシーン・エポーナよ。この国の王様なの」

 腰に手を当て、胸を突き出す娘。突き出している割には少し足りない気もするが。


「王様なの?」

「そ、王様。もっとも、王様なんて、名ばかりだけどね」

 青い瞳がほんの一瞬、翳る。


「あたしのことはルーシーンって呼んで! ね、あなたなんて名前?」

「私は、私は……ええと、コニア。コニアよ」

 コニアが自分で自分の名を口に出すのは、随分と久しぶりの事だった。最後にこんな風に自己紹介をしたのは、いつの事だったか思い出せない。


「コニア……良い名前ね。あなたは幾つ? あたしは十四よ」

「私は……」

 コニアは答えられなかった。古郷では年齢は無意味だった。大人と言えば大人ではあったが、それがこの国で言う大人に該当するものかどうかも分からない。

 古郷において女の区別は、血が流れるまえの子供、流れたあとの女、流れなくなった年寄りのみっつで充分だった。

 男のほうはもっと簡単だ。力仕事や荒仕事が、できるかできないか。老人は居ない。男は老人になる前にみんな死んでしまうからだ。


「ね、コニア。あたしと友達になってよ」

 ルーシーンの唐突な申し出。彼女はコニアの黒い瞳を覗き込む。ふた粒のサファイアには力強い意志と、期待が込められていた。


「えっ、友達?」

 困惑するコニア。


 誰かに対して気を許すことを避けていた手前、この申し出を受けるには心の柔和さが足りなかった。

 いや、それ以前の問題だった。――この娘は王様なのに、そんな偉い人と友達? そもそも友達とは示し合わせてなるものなの?

 友達という概念こそはあったが、それはごくまれに出会うよその“群れ”で披露される羨ましい関係だった。


「ねえ、やっぱり、だめ?」

 青い瞳が、再び翳りを纏っていく。

 ルーシーンは勝ち気でわがままな娘であったが、年相応の娘にありがちな、どこか儚げな雰囲気を孕んでいた。

 風が吹けばたちまち消えてしまう、小さな砂山のような。

 あるいは、鉄砲水で流されたという、となりの“群れ”の人々のような。


 コニアはなんとか答えを探そうとした。

 友達だとか、王様だとか、概念だけの存在が急に目の前に投げ込まれたものだから、答えのまえに問題からして疑問まみれだ。

 自分より偉く、かつ親しいという認識に該当するのは、彼女の兄役くらいのものだが……。


 ふたりのあいだに、威厳ある男性の声が割って入った。


「エポーナ王、何を勝手なことをなさっているのですか?」

 エスス祭司長である。


「ちょっと、エスス! 勝手に入って来ないでよ!」

 不意に現れた祭司長に文句をつけるルーシーン。


「何度も扉を叩きましたし、声も掛けましたぞ」

「そうなの? 聞こえなかったわ。どっちにしたって許可も無しに、若い女性の部屋に入るなんて問題よ。ほら、出てって頂戴」

 手を振り、追っ払う仕草をするルーシーン。


「探しましたぞ、コニア祭司見習い」

 エスス祭司長はルーシーンを放って、コニアのほうに詰め寄った。

 コニアは背中に冷たいものを当てられたような気がした。初めて逢ったときの、あの不可解な出来事を思い出す。


「コニア祭司見習いに、伝えねばならないことがありましてな」

 深刻そうな表情をして、祭司長は言った。


 いったい、何なのだろう。コニアは不安になった。

 いまさら自分の身を心配しても仕方がなかったが、どうもこの祭司長とやりとりをすると、自分が無力で弱い存在なのだと突き付けられている気がしてならなかった。

 絶対的な力を前にする不安。人さらいに槍を向けられたときも、“ご主人”の毒牙に曝されたときときですら、これ程までの不安は感じなかったのだ。


「本日の……先ほどの講義をもって、モルティヌス教育長の授業を終了とさせていただきます」


 なんだ、そんなことか。胸を撫で下ろす娘。傍で若い王が「無視するな!」と抗議する声が聞こえる。


「そして、明日から“神樹”の世話係になってもらうことに相成りましたぞ。それと同時に、見習いは終了。立場も奴隷ではなくなりますぞ」

 祭司長が続けて言う。


 深刻そうだった表情を一変させ“にっこり”している。


 言い渡された内容に耳を疑うコニア。当然、彼女を驚かせたのは奴隷の件ではない。

 あの幾度となく思いを馳せた中庭の大楢、“神樹”の世話係のほうだ。

 つまり、つまりだ。世話係ということは、あの中庭を、あの“神樹”を見ることができるということだ。

 彼女は久しく感じていなかった、歓びの感情が腹から湧き上がってくるのを感じた。持ち上がった歓びが頭に届くと、野菜のスープを口にしたときのように、頬が痛んだ。


「明日は朝早くから、仕事の説明をせねばなりませぬからな。さあ、早くこのようなところから出られて、部屋で休まれるが良い」

 エスス祭司長はそういうと、兵士ヤンキスを再び呼び寄せ、コニアを元の部屋へと送り届けるように命じた。


 コニアはいつぞやのときのように呆けて――もっとも呆けていた理由は全く別だったが――ヤンキスに余った法衣の裾を引っ張られながら去って行った。



 ふたりが退室するとエスス祭司長は深ーい深ーい溜め息を吐き、大楢の国の国王ルーシーン・エポーナに向き合った。


「エポーナ王。勝手なことをされては困ります。あれは、あなたの部下ではないのですぞ」

「いいじゃない、別に。友達になってもらおうとしただけよ」

 口を尖らせるルーシーン。


「また“友達”ですか。エポーナ王には王としての自覚が足りませんな」

「そうよ! 王よ。でも、あたしはまだ十四よ! お友達の一人や二人欲しいわ」

「十四と言えば立派な大人です。エポーナ王が寂しいと仰るから、小鳥だって、猫だって連れてきておるでしょう」

「猫は逃げちゃったわ」

「また逃がしたのですか。もう五匹目になりますぞ」

 祭司長のため息。

「勝手に逃げたの! でも、小鳥はまだ居るわよ。逃がすとあんたがうるさいから」

「小鳥は百匹逃がしておりますな」

「そんなに逃がしたかしら? だって可哀そうじゃない。せっかく、空を飛ぶ翼があるのに、狭いかごに閉じ込めて……」

「だったら、部屋で放し飼いでもしたら良いでしょう」

「ダメよ。小鳥はあっちこっちにうんちするんだもん」

「だったらもう、勝手になさるが良いでしょう。それより、勉学のほうはちゃんと進んでおるのですか?」


「お勉強? 棚にある本なら全部、とっくのとうに読んでしまったわ! モルティヌスの講釈も、ほっとんど憶えちゃったし。

 真似だってできちゃうわよ? あたしだって、政治についてだって、解ってきたつもり。そろそろ何か公務をやらせてくれてもいいんじゃないの?」


 熱弁する娘。


「まだ、学ぶべきことがあります」

 にべもなくぴしゃり。


「またそれ? そうやっていつも先に延ばすじゃないの。お城の中ではもう学ぶべきことはないわ! 外よ、外! 外に出してよ! お外で友達を作るの!」

 ルーシーンの靴が部屋の絨毯から埃を舞い上げた。


「それはなりません。市井にはどんな輩が居るか分かったものではありません。濫りに国民の前に姿を現すなんてもっての外。王族に仇なす輩も要るやもしれませんぞ」

「仇なすってなんでよ。あたし、何もしてない。何もさせてもらってないじゃない!」


「はっ、仰る通り! もっとも、そうでなくとも? エポーナ王は分別が足りませぬ。どこぞの血気盛んな者の神経を逆なで、ぶち殺されるに違いありませんな」

 エススは両手を振り上げ王を煽った。

「ふん。お城に閉じ込められたままなら死んだほうがマシよ!」


「エポーナ王」


「うるさい! 何もしてないのに何が王様よ。ひとつも偉くないわ! あたし、王様なんてうんざりだわ」


「エポーナ王!」



 乾いた音。



 エスス祭司長がルーシーンの頬を張った。娘は頬を押さえ、乱暴の張本人と見つめ合う。


「ぶった……酷い……」


「言っても聞かぬなら、何度でもぶちます」

 冷たく言い放つ祭司長。


「エポーナ王には、賢王と称えられた父上君のようになってもらわねば困ります。その為には危険は避けて通り、よく学ぶことが肝要です。それと、もう少しその少々足りないお行儀のほうもなんとかせねばなりませんな? このままだと冗談抜きに、叩き殺されますぞ」

 娘は瞳にたっぷりと涙を溜め、喉を絞り、声が出ないように堪えた。小さな肩は胸から溢れる激情で震えている。


「お父様は、関係ないわ。あたしはあたしよ。エポーナ王なのは、本当はお父様なのよ」

「エポーナ王」

 口調を和らげるエスス祭司長。


「ルーシーンって呼んで! あたしが小さいころはそう呼んでくれてたじゃない……」


「……ルーシーン。ともかく、あまり私を困らせぬよう頼みますぞ。ここのところ、税の取り立てが上手くいって居らぬのです。

 取り立てが上手くいかねば、祭司会や兵士の給料、王の食事や身の回りの物も維持できませぬ。最近は睡眠を削ってまで公務をせねばならぬ有様。私は疲れておるのです」


 エススは息を吐く。肺から息が抜けると目の下の影が大きくなったように見えた。


「……分かったわ。エススも大変だものね。あたし、大人しく勉強して、早くあなたの役に立てるようになるわ」

「ご理解を頂けて嬉しいですぞ。お勉強を頑張ったら今度、ルーシーンの為に“秘密の生き物”を紹介します。それでは、私はまだ仕事が残っているのでこの辺で失礼……」

 足早に退室するエスス。


 ルーシーンは分かっていた。何が秘密の生き物よ。今のやり取りは、エススが自分を煙に巻くための方便に過ぎない。

 自分が何の役にも立たない国の穀潰しだということも。自分が幾ら学んで、良い政治を行えるようになったとしても、すべての国民が認めてくれるわけではないということも。


 彼女の父は確かに賢王と称えられていた。だがそれは、過去の話だ。

 彼は末期に奴隷制を敷き、多くの人々から恨みを買っている。そのうえ、最後は見知らぬ異国の者に騙されて毒を飲み、狂死したのだ。


 それから十年。十年というのは、まだ若いルーシーンにとっては遥か昔の事でも、国民たちにとってはまだ記憶に新しい出来事だった。

 多くの奴隷が解放された今、彼女が何もしてないにしろ、恨みを持った連中に命を狙われることは想像に難くなかった。

 現に彼女が祭事において国民の前に姿を現し、挨拶を行った際に言葉で挨拶を返してくれたのは子供たちくらいのものだった。

 ああ、それとニ、三の石ころと腐った卵が挨拶をしてくれていたわね。


 ルーシーンは実父の死後はエスス祭司長によって育てられた。

 彼女が取り残されたときはまだ、物心がつくかつかぬかであったから、彼女にとって本物の父より、エスス祭司長のほうが父親に近い存在となっていた。

 母親も居ない。城の者は自分によそよそしい態度を取る。


 彼女の心には城の中庭よりも大きな穴が開いていたのだ。そして、そこには中庭とは違って、まだ大樹は生えてはなかった。


 ルーシーンは周りに認められるために何でもやった。

 幼い時分では年相応のやんちゃぶりを発揮し、城の者たちに追い回され、時に追いかけ、石畳と絨毯を踏み鳴らす毎日を送った。


 ある程度分別がつくようになってからは、学問に精を出した。本当に頑張った。

 それが彼女の好奇心を満たしたし、初めのうちは周りから褒めて貰えたからだ。

 しかし、それはそのうちにやって当然のこととして片づけられるようになってしまった。


 祭司の魔術や占いについても、初めは彼女の好奇心をくすぐった。だが、なまじ地の良い彼女の頭は、それらを迷信めいたものとして整理した。


 次は、王としては余分の仕事に手を出すようになった。例えば料理だとか、掃除や洗濯を手伝うだとかだ。

 だが内容の良し悪しに関わらず、城の料理人や掃除夫を困らせるか、叱られる結末しか訪れなかった。稀に喜ぶ者も居たから、まだ救われた。


 食事とは別に焼き菓子を振舞うと城の者は喜んだ。彼女は嬉しかった。繰り返し菓子を振舞った。

 だがあるとき、何やら失敗をしたらしく、多くの者が腹を壊した。それは毒で死んだという父の所業を思い起させた。

 彼女はその楽しみを手放さなければならなくなった。


 それが終わるともうあとは理解の範疇を超えたことをするしか、周りの気を引く手段はなかった。

 彼女はまた、子供のような悪戯や、突拍子の無い思い付きに頼り始めたのだ。

 こうして彼女は、ご覧の通り酷く不安定で、幼少時からの満たされない欲求を引きずったまま、娘の年頃を迎えていたのであった。



 ルーシーンはエススが去ると椅子に腰かけ、机に置いたままの本を開いた。

 もう何度も読み返した本だ。本は異国の文字で綴られていた。この国ではあまり文字による記録を行わない。

 だから、彼女の本棚にあるものは異国の記録ばかりだった。

 さも本当にあったかのように描かれているこれらは、多くは神や王、あるときは著者自身の偉大さを伝えるために書かれていた。

 虚偽に塗れた記述。見栄による不誠実な装飾。彼女にも見分ける分別はある。

 だが、どこか知らぬ異国の地であった不思議な物語は、でたらめと解っていても彼女の胸を躍らせるのだった。

 物語そのものへの憧れではない。


 いつか自分でそんな景色を見つけ出したいという夢だ。


 しかし、今日はいくら紙を捲っても、素敵な情景が彼女のまぶたに浮かぶことはなかった。


 彼女は立ち上がり、窓際に吊るしてある鳥かごに近づいた。

 窓の戸板を開き、外を眺める。


 多くの人が暮らす城下町だ。町は灰色の空に圧し掛かられ、息苦しそうに見えた。

 あそこに暮らす人のどれだけが、自分を想っていてくれているだろうか?

  ……そんな者は居ないだろう。少なくとも、好意的な意味では。


 鳥かごを外し窓の縁に乗せ、かごの扉に手を掛ける。中の鳥が暴れる。



「あなたはもう自由よ」



 ……言葉とは裏腹に、動かぬ指。娘はため息も吐き出せぬまま、鳥かごを元の場所へと戻した。


***

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