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.5 奴隷と主人

 娘は包帯の男の問いかけを受けてから、同じ情景を繰り返し思い浮かべていた。

 立ち尽くす娘。彼女を見上げながら囲う仲間たち。その中には、あの時にはすでに死んでいたであろう老婆や、彼女の慕う兄の姿もあった。

 すべての瞳はこちらに向けられているが、焦点は遥か遠方で結ばれ、まるで娘が透明になったかのように視線はすり抜けてゆく。

 その瞳の中は穴だ。真っ暗な深淵。覗き込めば吸い寄せられる。吸い寄せられると、闇の中に何かが浮かび上がる。

 それは、立ち尽くす娘と、見上げる仲間たちだ。そしてまた、仲間の目に吸い寄せられていく……。


 いくら恨みごとや説得を向けても、ただ吸い込まれて行くだけ。それを必死に研ぎ澄まして殺意に変えたとしても変わらず。


 そのうちに娘は諦めた。もはや、思考する力を失っていた。

 小屋を出るさいも、身体は引っ張られるままに動いたし、“新しい主人”がよこしたパンも、言われるがまま口にした。

 正気であればきっと、ふすまの混じらないパンの柔らかさと甘さに頬を痛くしたのだろうが。


 主人が娘を連れてゆくのはもちろん、彼の住まいだ。

 主人は家に着くまでのあいだ、娘に話しかけ続けた。まるで母親が、乳飲み子に優しく話しかけるように。

 当然、彼は男なのだが、本当に母親が話しかけるかのように声色を変えて話していたので、道すがらすれ違った人々はみんな、眉をひそめたり、顔を背けて肩を震わせたりした。

 そんな主人の努力もくうを打って、娘はただ地面に視線を落としたまま、一言も言葉を発さなかった。


 彼の家は立派なものだった。木の柱に土で作られた壁、そこには様々な装飾品が掛けられている。

 動物の皮とか、へんてこな彫り物のある木製の板だとか、どれも砂漠では目にすることのない品々だ。

 彼は“金持ちらしいもの”の蒐集家だった。


 家の周りには木の板で作られた囲いがある。その国にある大樹を囲う石の壁と同じように。

 囲いの内側にはよく手入れされた菜園や、花壇のようなものまで見られた。

 よその家は、土壁がひび割れていたり、木の板に中が覗けるような隙間があったりする。畑くらいはあったが、敷地を囲う塀もない。


 彼はそれを自慢し、娘へ己の幸福を喜ぶようにと促した。

 娘は右から左で、あいも変わらず地面と睨めっこをしていた。


 主人は家につくなり、娘を部屋のひとつに押し込み、さっそく彼女を寝床の上に転がした。

 それまでは優しく声をかけ続けていた主人だったが、いきなりの狼藉だった。娘は特に抵抗することもなく、寝床の上に身を投げうった。


 銀色の、絹のような髪が寝床にぱっと開いた。投げうたれた勢いのままに横を向いた顔。

 それにくっついた唇には、少しだけ隙間があった。隙間からは転がされた拍子に漏れ出た空気が、まだ余韻を保っている。

 彼女のまとうぼろがはだけ、太陽が雲を押しのけるように、小麦色の腿が露わになっている。

 その肢体は身体の重さのぶんだけ寝床に沈んでいた。

 寝床は干し草を敷き詰めた木製の箱に、滑らかな毛皮を繋いだものを被せられた、豪勢なものだ。

 それが転がされた娘と合わさって、神殿に納められた芸術作品を思わせる。

 部屋は暗く小さなロウソクの明かりだけが寝床を照らしてる。影と炎が作り出す相対的高低差が、空間からよりいっそう現実味を奪っていた。


 娘に向かって、主人が何かを話しているようだったが、彼女は何も反応しなかった。

 彼女は疲れ切っていた……。怒りと、呆れと、悲しみに。娘の鼻をくすぐる、まだ新しい干し草と革のなめし材の混じった香り。

 むせ返るようなにおいが娘の頭をさらに鈍らせていった……。


 ――もうこのまま身を任せてしまおう。何もかも、何もかも忘れて。


 ……?


 娘はただ眺めていた。眺めていたというよりは、ただ目が見開かれていただけだ。単にその前で起こったことが、瞳に映ったというだけの話だ。


 主人が寝床を前に、正座をしている。娘のほうを向いてではない。

 娘に背を向けて。背筋をまっすぐに伸ばして。でも首は亀のように縮めて。そんな主人の前に立つのは、一人の女性だ。

 彼女は腕を組み、人差し指で二の腕をとんとんと規則正しく叩いている。

 二人のあいだの沈黙は長く続いた。女性の指が時を刻む音だけが、部屋に響いていた。


「すみませんでした……」

 主人が言う。今にも消え入りそうな声だ。


「わたくしはまだ、何も言っていません。なぜ謝るのかしら?」

 女性の返答は抑揚が無く、死んで冷え固まったヘビを思わせた。


「ど、奴隷を間違って買ってきたから……」

「わたくしがあなたにお願いしたのは、力のありそうな、男の奴隷ですものね。こんな小娘じゃありません」

 寝かされたままの娘を指さす女性。


「お、男の奴隷が売ってなかったんだよ!」

 膝立ちになり、にこにこする主人。

「売ってなかった!? わたくしが奴隷を注文する仕組みを、知らないとでも?」

 ヘビが生き返った。鎌首持ち上げて、赤い舌をちろちろと。


「注文を出すときに、役人が間違えたんだろうなあ」

 手を合わせ揉みほぐす仕草。額には玉のような汗が滲んでいる。

 関係無いが、牙の取れたイノシシが買いなされている国があるという。


「間違えた? お役所のかたは確認をしなかったのかしらね? 男と女とじゃ、値段が全然違うのに?」

 ヘビが噛みついた。


「職務怠慢だ! 今から文句を言ってくるよ!」

 立ち上がる主人。玉の汗が頬を伝い顎から落ちる。


「文句を言って? 返品ではなく?」

 女性は彼を手で制し、眉間に人差し指を突き付けた。家畜の鳴き声が聞こえた気がする。


「返品はだな、その。売り手は金貨を持って、とっくに国を出てしまってるだろうから……ちょっとな?」

 叱られた家畜は、にやつきながら再び正座に戻った。


「家を改築するから人手が欲しくて、奴隷を買おうって決めたのに。どうしてこんな小娘を。しかも、改築に使うはずのお金も、この余計に高い小娘を! 買うのに! ……使ってしまったようで?」

 脱兎が野を跳ねるような抑揚だ。


「返す言葉もありません……」

 主人は顔を下へ向ける。


「いったい、これからどうしたらいいのかしらね? とりあえず、大工のかたには、お断りをしなければならないでしょう。

 もっとも? わたくしは改築には反対でしたから、その点については構いませんが。

 この家はわたくしたち二人には、広すぎるくらいなのに、これ以上お金を掛けることなんてありませんからね。

 なんならこの壁に掛かった妙ちくりんなものも、無くてよろしいかと。わたくしはこの家は今のままでも充分だと思います。

 あなたもきっと、改築について考え直したのでしょうね? だからこそ改築のお金が不要とお考えになられた。

 ……それにしたって、この役に立たなそうな小娘をどうしたら?」


「三人になれば、この家もちょうどいいかも……」

 視線だけ女性へ戻す主人。


「そういう事ではありません! 娘の使い道の話です!」

「せ、洗濯でもさせれば?」


「こんな高い洗濯婦が居るか!」

 飛び掛かる女性。左手でがっちり服をつかみ、右手で力の限り主人の頬をつねった。

「いでででで! いだい! いだいよ! 許して!」

「近所のかたに聞いた話では、あなたどこかの、商売女の家に? 行ったことがあるそうね? それも随分と若い娘の?」

「……行っでないです! 間違いです! 私は! シズ、おまえだけを愛しているんだよ!」


「本当に?」

 女性が頬を掴んだ右手を、ぐいとひねり上げた。主人の頬が顔ごと上へと引っ張り上げられる。


「いだいぃ! ずみまぜん! 行きました、買いました! 大変具合が良かったです!」

 余計な一言。女性は頬をつかんだまま、肩から身体全体をぐるりとひねった。情熱的な踊りの最後を飾るように。

 ねじ切れたんじゃないかしら。


 主人の悲鳴は妙な調度品たちを揺らし、改装前だが立派な壁を突き抜け、ご近所中に響いた。

 人々はちらとこの家のほうを見たのだが、「またか」といった調子で各々の生活に戻って行った。

 この家の主人の助平は、今に始まったことではなかった。それとこの女性――彼の奥方とのやりとりも。


 さて、ご主人の猥褻極まりない計画は頓挫したものの、夫人は娘の処遇に困り果てた。

 なにせ、夫婦二人ぶんの炊事洗濯などたかが知れている。奥方は大変働き者であったから、娘が手伝いに入る余地など、これっぽっちも無かったのだ。

 普段など、余った時間で家庭菜園だの、他所へ売る為に花を育てるだのしていた程である。

 一応、奥方は試しにと娘に家事をやらせてみたのだが、筋は悪くないものの、さすがに自分と比べるとなると、ナメクジが這うように見えてしまい、負担の軽減どころか、かえって彼女の神経を逆なでる結果になってしまった。


 他所の家へ売ろうにも、高値を付けられた娘を買い取れる家など近所にそうそうなく、何よりご主人の手垢が付いた娘だと思われてしまい、愛想笑いと共にやんわりと侮辱される始末。


 仕方なしに、娘は家に置かれることとなった。幸運なことだ。

 食事も与えられ、仕事も取り上げられ、彼女に降りかかることといえば、毎夜懲りないご主人が顔に新しい傷を作る出来事くらいで、娘の待遇は奴隷どころか、お偉い身分と紛うほどであった。

 もっとも、彼女自身はそれを楽しむ様子もなく、外を眺めてはたまに小鳥を目で追うくらいの事しかしなかったのだが。 


 娘がこの家に厄介になってから、しばらく経ったある日のこと。

 夕食の席で、奥方が、ご主人に向かってこう切り出した。


「この娘を、国の“祭司会”に見習いとして寄付してはいかがでしょう」


 祭司。この国の宗教にまつわる行事を取り仕切っている役職だ。

 彼らの役目はそれだけではない。薬剤師、医者、産婆と医療のもろもろ。

 占いに、裁判に、決闘の見届け人。詩歌詠みに踊り子に、教師。木の伐採許可を出すのも彼らだ。

 彼らの仕事はじつに多岐に渡っていた。祭司長に至っては、ここ十年は国の政治の大半を取り仕切っている。

 その祭司の集まりが祭司会だ。当然、祭司会はその祭司を教育する役目も担っている。


 奥方は、娘を祭司会に入れて、厄介払いしてしまおうという腹だった。

 身寄りのない子供が、祭司会に入るのはこの国では珍しくなかったし、仮に奴隷だからと渋られても、奴隷ならば「お好きになさって結構!」というわけだ。

 娘の金額は国も承知のことだから、上手くすれば国に恩を売るくらいの事はできるかもしれない。

 なんなら見習いでなく、生贄に使ってもらっても構いはしない。この娘ならば祭りや儀式によい興を添えるだろう。

 それに、いくらこの家が裕福とはいえ、これ以上ただ飯を喰らわすのも癪だし、なにより、ご主人の悪癖を煽るものをずっと家に置きたくなかった。


 娘のほうは、ここに来たときは随分と痩せて筋張った有様であったはずなのに、ここで食っちゃ寝の生活をしているうちに、年相応の体つきになっていた。

 それがまたご主人にとって毒も毒で、奥方は昼間までも目を光らせなければならなかった。

 ご近所界隈で、異人の泥棒が出たとき以来の大警戒だ。

 寝不足は美容と健康の大敵! 奥方もまだ自分の美貌を棄てるほど長くは生きていない。いい加減彼女も、我慢の限界と来ていたのだ。


 さて、この提案をご主人がすんなり飲んだかというと、ご想像の通り彼は渋りに渋った。


「娘は“おし”だから、向こうに行っても上手くやれない。それに、粗相をしたら我が家の恥になるだろう。国から睨まれ、世間様からうしろ指をさされ、路傍の犬からは小便をひっかけられてしまう!」


 奥方も娘のしくじりは危惧していたので、ご主人の反論にちょっとは怯んだ。

 だが、彼が彼女の隙を目敏く見つけ、やれ好機と、「通いでどこか近所に奉公させたらどうか」とか、「いっそ本当の娘としてここに置いてはどうか」とか、

 「なんならおまえのほうが祭司会に入って、その器量に磨きをかけ、その間、娘に家事を任せてはどうか」だとか並べ立てたものだから、

 かえって奥方の意志は、鍛えた鋼のように堅くなってしまった。対してご主人の両の頬は、引きちぎられ、真っ赤に焼けた鉄のような色になった。

 鉄は熱いうちに叩けと言わんばかりにおまけもついた。


 こうしてご主人は、涙ながらに奥方の提案を了承し、幸運な奴隷は世話になった家を去ることとなった。


***

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