.31 ヤドリギの娘
エスス祭司長はもう待つ必要が無い。
彼の長年の念願を達成する手筈が整う。待ち人がとうとう帰ってくるのだ。
だからもう、それ以外は不要だ。本当はこの国も残し、もっとゆっくり、穏便に事を済ますつもりだった。
エススは寄生ではなく共生を選んでいた。だが、共生も助力も我が身あっての事なのだ。もう、おしまいだった。
ルーシーンの部屋を出たエススは、玉座のある広間を眺めた。豪奢な作り。今や祭事以外で使われることのない空間。
取り残された玉座。椅子はかつて、彼が右腕を務めてきた歴代の王たちが座ってきた。椅子はずっと同じ物だった。
部屋の床を覆う赤い絨毯。これは何度も取り換えられてきた。
あるときは緑の絨毯だった。そのときの王は森と草原を愛していた。
あるときは異国の伝統織りの絨毯。それは討たれた王の血を吸って棄てることになった。
最後の赤い絨毯は焦燥する王の毒を吸った。今は王室へ繋がるただの道しるべ。
エススは階段を降りる。静かな空間に響く彼の靴の音。何度も降りた階段。
部下を伴い、王に続き、或いは肩を並べ。若き王女との鬼ごっこにも使った。彼女は足を踏み外して怪我をしてしまった。泣き声は城中を騒がせた。
あまたの業務をこなした彼の部屋。人々が渇きを癒し、飢えを満たし、談義に耽った食堂。
あまたの祭司を育てて来た勉強部屋の数々。歴史は長いが、暑苦しい男の印象が他の出来事を霞ませてしまっている。エススは苦笑いをした。
もうひとつ階段を降り、廊下を進む。人影は無く、窓から差す光が廊下の空気を煌めかせている。
彼は扉の前へ行く。もう施錠されることのない扉は開けっ放しになっている。
何年も掛けて育て上げてきた箱庭。彼の理想郷の縮図。美しい植物と、小川のせせらぎ。申し訳程度に建てられた小屋には長らく住むものは居なかった。
それでも彼は人間の住める小屋が欲しいと思った。今でも思う。彼の愛を受け続けて来た庭は、庭のあるじが死に絶えてから手入れされることは無かった。
それでも庭の住人達はまだ生きていて、その美しさを保っていた。
中庭のあるじ、“神樹”。何百年にも渡って、この国に君臨し、護り続けてきた神木。
その大楢は儀式により祭司の威厳を高めた。国へ預言を与えた。王たちは木の前にかしずいた。人々に開放され、庭と共に心へ癒しを与えた。
そして、沢山の種を撒き森を育てた。
エススは枯れ木の塔に手を当てる。王は最後の仕事をした。神樹も、祭司長も最後の仕事をしなければならない。
死んだ樹に気を這わせ、意識を繋ぎ、その版図を今一度確認する。大楢の国の血管、あるいは神経。
エススは中庭をあとにした。
城を出る。城下から冷たい空気が流れてくる。夏が終わったばかりだというのに。この国に秋が来ることは、もう無い。
人々の気配が集まる場所へと歩を進める。彼らが暮らした街。彼らが住んだ家。エススが愛した彼ら。
エススは少し離れたところから広場を眺めていた。人の醜さの集大成。己の事ばかり。
自然への愛は教えられても、人間同士の愛をいつも忘れる。彼は人々のこの愚かさも好きだった。
火柱が上がるのを見届ける。天を衝く業火の大樹。それは神樹よりも高く、荘厳で、生と死を孕んで、瞬きに見る美しさほどの儚いもの。
黒い翼が開かれたとき、エスス祭司長は道に片膝をつけ、両手のひらを大地に押し当てて祈っていた。
祈りはここではないどこかの言葉で紡がれていた。異国でも未開でも古代でもない誰も知らない言語。
大自然に呼びかける詩歌。果実と宝石と死骸を孕んだ節。
エスス祭司長のいのちを削り、大地に振り掛ける儀式。それは枯れ果てた大楢の血管にかりそめのいのちを与えた。
いのちを得た神樹の根は太陽を求める。大蛇は狭い土の中でもがき苦しんだ。
ヘビののたうちは国全体を揺るがした。
揺れる大地。地面から這い出る毒蛇たち。
「おい! いったい、どうなってるんだ!」
豪傑がたじろぐ。彼はここ最近驚かされっぱなしだった。まったく。色んな意味で。
「あいつめ! やりやがった!」
叫ぶ巨鳥。背中の娘は羽毛に身体を埋め震えている。
大小無数のヘビは街を壊し、畑を掘り返し、そして人々を襲い始めた。
「なんだこいつらは!」
地面から現れる顔の無い大蛇がルゴスに飛び掛かる。彼は腰の剣を引き抜くと大蛇をまっぷたつに斬った。
傷ついた根は大地に逃げ込み、切り取られた残骸は砂になった。
タラニスは奮戦する族長を無視して空へと飛び上がる。街は大混乱だった。
巨鳥はその阿鼻叫喚の激流の中に、知った顔をみとめた。毒蛇はその男を避け、男は広場へと進んで行った。
ヘビの孵化は町の外でも起こっていた。神樹の根でできたヘビは城から離れる程に細く弱くなっている。
それは勇気を失った蛮族でも、いくさの経験に乏しい兵士たちでもやっつけることができた。
兵士たちは己に降りかかる災厄を打ち倒し、高揚した。
そして街に響く轟音と絶叫を聞きつけ、待機の任を捨て去った。蛮族たちも舐めていた敵兵の武勇に感化され、彼らに続く。
この混乱を町の外から眺める娘が一人。
彼女には大切な用がある。待ち人の為に、人々の目を掻い潜って城へと向かわねばならない。
それには草原に展開された二つの軍勢は邪魔どころの騒ぎではなかった。
鉄砲水や流砂を渡るほうが余程安全というものだ。娘は己に宿る精霊の言に従い、茂みに一晩身を隠し、機会を待っていた。
一度目の混乱は彼女に突破の機会を与えなかった。目の前で行われる伝説の巨鳥による殺戮。
怪鳥は殺しを楽しんでいるように見えた。アリの群れを虐める子供のようだ。娘の腕に埋まったものもそれに共鳴しているような気がした。
二度目の混乱のあと、軍勢は波が引くように街へ吸い込まれて行った。水が無くなったわけではなかったが、娘はようやく前進の機会を得た。
コニアが街に辿り着くころには、毒蛇の群れは去っていた。
彼女の目に傷ついた人々が映る。
怪我人の手当てをする祭司。死んだ家族を抱きかかえ悲しみに暮れる兵士。
独りで路地にうずくまり震える奴隷。コニアは国を危機に晒したお尋ね者だったが、もはや誰一人気に留める者は無かった。
人々はヘビに叩かれ、ぶたれ、巻かれた。多くの者がいのちを落とした。
一匹のヘビから逃れたものの、下から生えた別のヘビに串刺しにされた若者。
二匹のヘビに綱引きをされた女性。
愛する鞭で泣きながら迎え撃ったが、逆に打ち殺された男。
死体の山。死体の道。
一部の遺体は何故か干からびており、髪は老人のようになっていた。まったく酷い有様。
いつか放り込まれた墓穴のほうがマシだ。あそこには少なくとも生と死への敬意があった。
コニアは精霊が示す通りの道を進んだ。道を歩くのに肉体的な苦は無かった。
ただ不条理の死が視界を苦しめるだけだ。多くの根が地面を掘り返して、熱量を得るために大地からいのちを吸い尽くしていた。
大地のところどころは砂地や荒れ地と化していた。人々と同じように、大地も死んでいたのだ。
荒れ地を進む娘。ときおり冷たい風が路地を抜け、砂を巻き上げた。砂漠の夜を思い出す。
鼻先に冷たいものが当たった。見上げると空は鼠色に染まっており、雲は雨の混じった白い物を降らしていた。
彼女が幼い頃にせがんだおとぎ話。
――雪。
これが雪なのだろうか。憧れとは程遠いそれは砂と混ざり合い、凍てつく泥へと姿を変えた。足の裏が焼けるようだった。怪我の心配はしなくても良かったが。
泥と枯れ木の森を抜けると、そこは広場だった。
中央には男がひとり。彼は雪とは反対の色を発していた。
かつて国中の者が尊敬した彼は、今や誰も寄せ付けない気を放っている。
広場の周りにはまだ多くの人々が居たが、そこへ踏み込もうとする者は一人も無かった。生あるすべての人にとっての“外”だった。
コニアは結界をするりと抜ける。事実そこには壁も無く、気温の違いも無く、誰かの禁止令も無かった。
娘と男は見つめ合った。男は“にっこり”笑うと彼女を歓迎した。
「よくぞ、よくぞ帰って来てくれたね!」
エススの声は街中に響いた。十年来の友人を迎えるような、家出の子供を迎えるような声色。
コニアは右手を上げ応える。彼女は少し驚き、己の手を見た。挨拶をしたつもりはなかった。
「素敵な旅だったわ」
口を利いた。コニアではない。彼女の右手。右手首。右手首に埋まった“種”。ヘビの卵。
卵の表面はぱっくりと割れ、縁は血の通ったように暖かい色に染まり、穴の中はどす黒かった。それは人間の、おんなの口だった。
「まったく、お前は私を驚かせることにかけては天才だ。“テウタテス”」
「あなたも、私を怒らせることに関しては天才よ。“エスス”」
祭司長と“神樹の精”は互いをそう呼び合った。
「今度は何が気に入らなかったんだ。出て行ってしまうなんて。
国は大きくなったし、代わりの器だって見つかったというのに。
もう少し待てば、両方がお前のものになったんだよ。
私がこの大楢の国を育てるのにどれだけ苦労したか。
おまえが国が欲しいっていうから頑張って来たというのに!」
エススは国に仕え、王を支える祭司長だった。
ずっと昔から。あるいは歴代の王を操る祭司の王だった。
だが、本当はどちらも違った。彼がこの国を作ったのだ。彼の作った世界。愛する人の為に作った世界。彼は神だった。
――神樹を愛する、祭司の神。
「あなた、女心が解ってないわね。いくら私の為だからといっても、国の事ばかり構ってちゃ、だめなのよ。
それに、あなたがこの生意気な娘に向けた目も気に入らないわね。この娘のどこがそんなにいいのやら」
「そ、それは誤解だよテウタテス! おまえの器になりうる人間をやっと見つけたんだよ!」
「それならもっと、綺麗な子が良かったわ。顔立ちだけは小綺麗だけど。痩せてるし。うーん、髪は絹のようだけど、肌の色が汚いわ! 私は雲のように透き通る白い肌の娘が良かった! よく見たら、髪もババアみたいね!」
「怒らないでおくれ。人の身体が手に入れば、また別のを探せるだろう。今度は一緒に頑張ろう?」
「うふふ。まあ、罰はたっぷり与えてやったけど! あはは! 木から落ちるときの踊りはすごく間抜けだったわよ! コニア!」
コニアは空へ放り上げられた気分になった。何を言っているの? この人たちは。
コニアだけではなかった。ヘビとの連戦を終え肩で息をする豪傑も。鳥の背にいる娘も。腹痛のせいで出遅れた兵士も。
尊敬する祭司長を助けるために駆け付けた熱血漢の理屈屋も。彼らはコニアよりももっと高く放り上げられていた。
……屋根の上の巨鳥だけは呆れ顔で静観していたが。
「どうやら、この娘はまだ“生きている”ようだね」
エススが言う。言葉を向ける先は同じだというのに、態度は昼と夜だった。
「そうなのよ。意外としぶとくって。私なりに頑張って揺さぶりをかけたんだけど」
「そうか。頑張ったんだね。お前も。でも、もう大丈夫だ。私が居るからね!」
エススはほほえんだ。
「期待しているわ。私の愛しい人。戦争になったって知ったとき、あなたが私の事に気付いたんだって、分かったわ」
テウタテスは嬉しそうに言う。
「おまえの器の友人……何と言ったかな? まあ、それが教えてくれたんだ。
その娘の血を見たとき、すべて分かった。おまえが器に上手く寄生できたことも。
だが、おまえと器をここに招くには邪魔が多かった。それまでなるべくいくさを先延ばしにしなければならなかった。
でもちょうど良かったよ、テウタテス。おまえは、戦争が大好きだからね。
おまえは人が死ぬのを見るのが、大好きだからね! 戦争はまだとってあるよ!」
「戦争! 大好きよ! あなたの次くらいに好きよ! 殺し合う人間! 死に抗う姿!
特に、あなたが一生懸命育て上げたものが壊れるときはもう、傑作! あはは!
好き好き! エスス、あなたは天才よ! ここへ来るまでも素晴らしい眺めをいくつも見たわ!」
テウタテスの声は震えていた。愛する人を身体に招き入れるときのような声で。器である娘にもそれが伝わる。無視しようがなかった。
「……でも、残念なことにこの子はそれが好きじゃないみたいね。もしかしたら、一緒にやっていけるかとも思ったんだけど」
「おお、可哀そうなテウタテス。でも、それはどのみち叶わなかっただろうね。ひとつの器にはいのちはひとつだけという決まりがあるのだから」
「そうね。そろそろ、出て行ってもらわなきゃならないわね」
テウタテスは笑い。エススは両腕を振り上げた。
祭司の声に応え、大地から木が生える。
その木には娘が括りつけられていた。手足と、首を蔓に巻かれ、大の字に身体を開いていた。
「プニャ!」
「コニア!」
磔の娘は親友を呼び叫んだ。彼女の脚には乾いた血が黒くこびりついていた。すでに火刑の済んだ囚人のように。
コニアは吊るされた親友へ飛びつこうとした。彼女を拘束する蔓を引き裂いてやろうと。
だが、跳ねたのは彼女のみつあみだけだった。すでに足元には無数の蔓が絡まり、彼女のしなやかな足をただの棒に変えていた。
「この髪型も気に入らないわ。子供っぽいもの」
“コニアの右手”はおさげを掴むと、力いっぱい引っ張り始めた。首が痛みと共に嫌な音をたて始める。空から降るみぞれ交じりの雪が痛みと共鳴した。
「テウタテス。そんなことをして大丈夫かい?」
「大丈夫よ。私はまだ痛くないもの。折れても元に戻せばいいだけよ」
「折ったあとに痛くなると困るよ?」
「いけないわ。エススの言う通り」
右手はそれ以上強く引くのをやめた。
「我々には切り札がある。彼女の心を粉々に打ち砕くためのね!」
「私たちには切り札がある。心が壊れれば器のいのちはひとつに!」
「木から吊るしてばらばらに!」
プニャーナを指さすエスス。
「素敵! 必死に求めた親友が、目の前でめちゃくちゃに引き裂かれるなんて! なんて悲劇なの!」
エススは邪悪な祈りを口にすると、腕を振り上げた。
「勝手が過ぎるぞ! エスス!」
屋根の上からの非難。静観していた風の体当たり。吹き飛ばされるエスス。彼の身体は広場を何度も跳ね、建物のがれきで砂煙を上げて止まった。
「エスス!」
“右手”が悲鳴を上げる。
「まさか、人間嫌いのおまえが寝返るとはな」
立ち上がりホコリを払うエスス。
「寝返る? 馬鹿言うなよ。ぼくはぼくの都合で動いてるんだ。別におまえの味方だなんて言った覚えはない」
「出来損ないの癖に。貴様のその欠けた記憶や力を思い出したくはないのか!」
「本当はもう戻れないんだろう。ぼくは。それを知って利用していたんだろう」
怪鳥が吠える。
「鳥頭というわけでもないようだな? 貴重な同胞だと思って生かしておいてやったが、こうなっては仕方がない!」
エススの腕から“枝”が伸びる。邪魔者を穿つ毒蛇の牙。牙が巨鳥の胸に突き刺さる。屋根の上から悲鳴をあげる娘。
「ばーか。ぼくはその位じゃ傷つかないって、知ってるだろう」
「そうだったな」
枝は幾又にも分かれて鳥の翼を覆う。鳥はす巻きにされて地面に転がった。
「タラニス!」
屋根から飛び降り、す巻きにされた巨鳥へと駆けよるルーシーン。
「いやあ、面目ない」
友人の無事を確認すると、ルーシーンはエススに喰ってかかった。
「エスス! これ以上あなたの好き勝手にはさせないわ!」
エススは自分の耳に小指を突っ込み、垢を取っていた。息を吹きかけ指を綺麗にする。
「ルーシーン。驚きましたぞ。また一段と成長なされた」
エススの心から感傷はすべて消え去っていた。一番の愛以外は城の中へと置いてきていた。
「わたしたちの国から出て行って。種を持って行っていいわ。コニアに身体を返してあげて。プニャーナを放してあげて!」
国のあるじが叫ぶ。
「どこが成長したっていうの? 中庭で走り回っていた、ちび。背は伸びたみたいだけど、わがまま娘のままじゃないの」
おんなの口が尖る。
「ルーシーン! 長らく一緒にやってきたよしみです! あなたに選ばせてあげよう! この吊るされた友人を! むっつに引き裂くのか? それとも苦しまないように一思いに突き殺すのか? さあ、お選びなさい!」
ルーシーンはたじろいだ。
「あなたの責任で! 決定は王の特権! あなたの欲しがっていた王の権利ですぞ! さあさあ!」
コニアはルーシーンを見た。
王を押し付けられた娘は奥歯を噛み締めている。
彼女は血の混じった唾を吐き出すと、崩れ落ちた。そして、友人たちへ謝罪の言葉を述べた。
「……ありがとう。ルーシーン」
ふたりの友人は言った。
「欲張りなお客様には特別ご奉仕! なんと両方を進呈!」
「すごいわ! エススって太っ腹ね!」
――その場に居た全員が吊るされた娘に注目する。
娘の胸には既に毒牙が突き刺さっていた。祭司の腕から伸びた蔓。緑の蔓を伝う赤い汁。
赤い汁を流す娘は、まぶたをいっぱいに見開き、瞳から涙を零す。
「やっぱり、痛いのはいやだよ……」
娘は目を閉じた。彼女たちの友人も、目を閉じた。
人々は空を仰ぎ見た。
巨鳥は己の格好を嗤った。伝説は事実には敵わない。
豪傑は額に手を当てた。現実はときに伝説よりも度し難い。
兵士は罪をまたひとつ重ねた。未来の幸せを受けとる権利を疑う。
熱心な信者は零度になった。
王になれなかった娘は声をあげてただ泣いた。
コニアの心を何かが囲む。這い寄る何かはすっかり彼女を覆いつくした。それは、虚無でもなく、悲しみでもなく、愛でもなく、ヘビでもなく。
――彼女らしい怒りだった。
「くそったれええ!」
娘は力任せに足を持ち上げた。彼女の脚を拘束していた蔓が音をたてて切れていく。だが右手はいまだにおさげを引っ張っていた。
「まだ頑張るのね! すごいわ!」
身体のあるじを褒める種。
「さあ、早くここまでおいで! そして大切な友人に触れるんだよ! そのとき、改めてばらばらにして殺してあげるから! あ、もう死んでるんだった!」
娘は樹木の蛇のあるじの囃し立てる声を無視して足を踏み出す。
子ヘビはしつこく彼女へ追いすがり、そのたびに引きちぎられた。
「コニア君! きみは祭司についてよく学んだね? だったら、死者へ捧げるお祈りは覚えているかな?」
エススの問いかけ。
コニアはモルティヌス教育長から様々なことを教わった。だが、興味の湧かないことに関してはほとんど耳にパンくずだった。
彼女はお祈りを知らなかった。友人へ手向けるべき言葉。
彼女は友人が焼けた子供を看取ったときのような唄も知らなかった。
「あっはっは! だめよお! エスス! この子はなんにも覚えちゃいないわ! 耳に栓をしていたんだもの! あはは!」
「仕方のない奴だな! そうだ! だったら友人へのお祈りは、我々がやってあげよう!」
笑うのをぴたとやめるふたり。
「――我らを支える神樹よ」
ふたつの声が広場に響く。
「今、一つのいのちが終わりを迎えました。血肉は土に還りあなたへ、魂は清められしかるべきときにうつしよへ」
かつて祭司として響かせた荘厳な声。かつて神樹として預言を行った清らかな声。
かつて娘が小鳥へ捧げた言葉。だが、そこに居る誰もがパンくずか、赤い水を欲しがった。
短い祈りを終えるとふたつの声は息を吐き“にっこり”した。己の仕事に満足げな。最高の達成感。
最低の侮辱は、コニアの心にも注がれた。侮辱はすっかり血の上った彼女の頭に冷や水を浴びせた。
コニアは前進むのをやめた。子ヘビが足にすがり、彼女の脚を覆い直す。“右手”が軽く頭を引く。急かすように何度も。
娘はまだ自分の物だった左手を使い、服の中をまさぐり始めた。
忘れた夢の最後。手に掴んだものは、火打石。
力いっぱい握る。石が割れる。血が溢れる。彼女の中からいのちが漏れ出る。
服を朱に染めながら取り出される左手。握られるは割れた火打石。かつて友人が話してくれた、いのちの価値。
「んん? そんな物を取り出してどうしようというんだい? まさか、それで私を殺そうと?」
エススは手を広げ娘を受け入れる姿勢を作った。
「気が狂ったのかしら? 自殺? 自殺するの? ねえ。コニア。自殺するの?
試すと良いわ。ちょうどいい具合に首が張ってることだし。そこを切れば、上手く行くかもしれないわ! 早く! 早く!」
テウタテスは娘の為におさげを強く引っ張ってやった。
娘の石は首を通り過ぎ、“右手”の掴む髪に当てられた。左手を強く引き、友人の結ってくれたおさげが切れた。
「……っ!? どうしてそんなことを! せっかくお友達が編んでくれたのに!」
テウタテスは自分の身体を傷つけられたように非難の声をあげる。
「酷いわ。長くて綺麗な髪だったのに……」
落胆するテウタテス。“右手”から力が抜ける。
「ありがとう。プニャ」
一瞬の隙を突き、右手首を上に向けるコニア。そして、左に手にしたいのちの価値。
「いけない! テウタテス!」
エススの叫びを受けて、おんなの口は卵に戻った。
娘は突き立てる。己の右手首へ。それはヘビの卵を狙ったものかと思われたが、石の刃は卵の横を滑り、肉を刺した。
――痛み。私の痛み。怒り。私の怒り。身体。私の身体。友達。私の友達。
石は自身の肉を抉り、娘の身体へと入り込んでいく。深く、深く。
卵は再びおんなの口に戻り、空を赤く染める叫びをあげた。
叫びに応えるように抉る力を強めるコニア。おんなの口は血の泡を吹いて再び卵に逃げ帰った。
「なんてことを! そんなことをすれば貴様も死ぬぞ!」
「上等よ!」
手首から血が溢れる。腕を伝い、血に落ち、池を作る。娘は力いっぱい罵声をあげ、ヘビの卵を抉りだした。
悲鳴。悲鳴。聞く者の心を凍らせる悲鳴。
数百年間、大地の力を吸い続けた神樹の。その“種”の。同じ身体を夢みて待ち続けた、ヤドリギの娘の断末魔。
「これは、返すわ」
エススへえぐり出した卵を投げる。
エススは愛する人を受け取ると、第一子の誕生を待つ旦那のような、仔猫の死を理解できない子供が何とか元に戻そうとするかのような様子を見せた。
「わ、わわわ、私のテウタテス。テウタテスが死んでしまう! 器が無いと。おい、娘! コニアよ! すぐにこれを身体に戻すのだ! すぐに! すぐに!」
コニアはエススを見据える。
「あなた達だけで勝手にやってれば良かったのよ」
――過程の否定。
「お幸せに」
――目的の肯定。
「そ、そんな! 神聖な神樹の種だぞ! おまえたち人間の、数十年のいのちなどでは測り知れない! 比べ物にならない! 私以外に誰も理解してやれない! そ、そうだ! 私だ私の身体なら器になれる!」
そう言うとエススは右手の手首に卵を押し付ける。彼の右手首にも同じものが埋まっていた。
彼の手首は卵をすんなりと受け入れる。卵は窮屈そうにふたつ並んだ。
「おおお! テウタテス! おまえがわかるよ! 判る! 分かる! 解る! おまえはまだ生きているんだね! 一生懸命! なんて尊い! ああ!」
エスス祭司長は喜びの声をあげ、手のひらを合わせ、最愛の人のいのちが繋がっていたことを神に感謝した。
――そして彼は動かなくなった。
エススの身体は赤いもやを上げながら枯れ木に変わり、手首のふたつの種は紫の霧を吐きながら腐り落ちた。
砂の上には食べ物の最後の姿のようなものが遺された。
コニアの足を覆っていた子ヘビ達も砂へと変わる。街を荒らしたヘビの残骸も、友人を拘束していた木も砂へと変わった。
「馬鹿な奴。ひとつの身体にふたつの種は無理があるよ。知ってただろうに……」
自由になった鳥がぽつりと言った。
地面に倒れるプニャーナ。
コニアの身体は手首から血がとめどなく流れ、酷く冷たくなっていた。
視界が霞む。砂嵐の夜の中、親友の元へと進む。
「エスス祭司長が、死んだ……?」
いつの間にか集まった群衆の騒めき。
「ねえ、あの子。御触れにあった娘じゃない?」
「じゃあ、あいつが、神樹殺し? 祭司長も?」
砂嵐を掻い潜り、愚者の眼がコニアへと届く。
誰かが群衆を怒ってる。
――大丈夫。私はもう気にしないから。
前へ進む娘の足先は凍った泥に痛めつけられ、そのうち消えてなくなる。
――寒い。
みぞれは消え、音もなく雪が降る。
コニアは誰かに、誰でも良いから、抱きしめて欲しい衝動を感じた。身体はもう疲れ切っていた。
以前みたいに傷が勝手に治ることも無い。だが、彼女には最後の仕事が残っていた。大丈夫。その仕事が教えてくれる。
多分、勘違いなのだ。身体が冷たいのも、抱きしめて欲しいのも。本当は抱きしめたいのだ。抱きしめられたいのではなくて、抱きしめたいのだ。
誰でも良いのではなく、誰かでなければならないのだ。
――寒い。みんな震えているわ。
震えは静けさの祈りになり雪と混ざり合う。
コニアはようやく友のもとに辿り着いた。彼女は手で友達の可愛らしいくせっ毛を梳いてやった。指先が頬へ届く。
期待していた温かさは感じない。きっと、私の身体が冷た過ぎるせいだ。それか、この雪のせい。
雪はこんなに綺麗なのに。こんなに冷たくするなんて、酷いね。娘は呟く。
コニアは心の中で友人に報告をした。
「やったよ。プニャ。やってやった。私はやったのよ。――ありがとう、さようなら」
娘はふーっと息を吐くと、友人の上に覆いかぶさった。
***