.28 父と子
ムン族族長ルゴスは笑っていた。これから始まるであろう血と炎の宴。
彼は戦いを愛してやまない。そして武芸と戦果を尊重し、武勇に優れるものは敵でも認める男である。
彼の打ち立てた「伝説」には枚挙にいとまがない。だが本人としてはそれは単なる「現実」に過ぎない。
彼は鍛え上げた少数の兵で十倍の敵を倒すとか、防具を身に付けず剣ひとつで獅子に挑み斬り殺すとか、一晩で百人の女をひっくり返すとかそういった事をやった。
だが彼の考える伝説とはもっと信じがたいもので、翼も無く空を飛ぶとか、火を吐く竜の喉に剣を沈めるとか、山のように巨大化して島を作るとかそういうものだ。
高いところから飛んで顎を打つ以外は試しようがなかった。
豪傑ルゴスにとっては信仰の違いも、奴隷に対する人道的配慮も、敗北者たちの決起さえも戦いの為の理由付けに過ぎない。
ルゴスの眷族には自然信仰や古代神話を信じる者だけでなく、火を崇める連中や書物を珍重する連中も混じっていた。
そういった宗旨替えは徐々に広がっており、侵略や支配だけでなく納得の上の融和によっても行われていた。
その上、彼自身も宗教へ懐疑的……というよりは、自分で見た事実以外信じない性質である。
だから大楢の国の理知的な三本柱だけをあげつらって理由にするわけにはいかなかった。その為に奴隷の人道論と復讐を利用した。
それに毒づいていた祭司は当然多かったが、彼のそれを包み隠さない豪放磊落な性格は多くの戦士たちの支持を集めていた。戦士たちにとって彼は父であった。
大戦争の為の御膳立ては揃いつつある。
ルゴスはすぐにでも刃を交えたかった。鉄と鉄のぶつかる振動を骨で感じたかった。
とはいえ彼も知略や交渉を用いないわけではない。仮にも多くの民族を束ねる長である。
ルゴスは実子の一人を軍使として大楢の国へ送り出していた。
だが息子はすぐに首だけになって帰って来た。
ルゴスはこれにはたいへん驚いた。息子が殺されたからではない。
八十九人の内の一人が死んだところで「奴の運が無かっただけよ」と笑い飛ばすだけである。さらば――ええと。何番目かの息子よ! 来世で会おう!
本来、軍使の首を送り返すという行為は「否」の返答を意味する。だが、首をもって来た大楢の兵士は「応」の返答を添えたのだった。
これが彼を驚かせた。大楢の国が大それた挑発をしているのか、単に混乱をしているのだけなのか測りかねた。
だが彼はこの驚きも愉しんだ。さっそく兵士の首を奪い、五十七番目の息子にそれを持たせ「捧げものは明朝までに届けること」と伝言を添えた。
族長の望んだ「捧げもの」は敵対国の王の身柄である。事実上の降伏勧告。
そして王の否定は大楢の国の三本柱を崩し、祭司の権力を認めさせるものだ。これで彼の身内の祭司は全員納得した。
ルゴス自身は「まさかそんなものが通るはずなかろう。勧告に対して憤慨し、奮起し抵抗を強めるに違いない」と期待していたが。
だが、思いもよらない「応」の返答。戦争は始まらずして終わり。しかし、彼にとって政治上の勝利は味も栄養も無いものだった。
エスス祭司長は降伏勧告を受け入れる返答をした。
しかし、それで戦が収まるとは考えていなかった。
豪傑ルゴスの戦好きは多くの者が知っていたし、奴隷制によって家族を奪われ尊厳を奪われた者への償いは、血をもって行われる以外に法が無かったからだ。この勧告自体が茶番だと考えた。
だが政治的な手続きを挟むことで、戦闘への準備を多少なりでも整えることができる。その為の「応」であった。
そして、ルゴスもまたエススと同じ考えに辿り着いた。
どの道理由を付けて攻め込むつもりではあったが。攻撃の一時見送り。待てば向こうから攻めて来るだろう。
都合が良い。この戦いは面白くなるに違いないと考えた。敵方の祭司長が、森に守られ戦を避けて来た数ばかりの烏合の衆を、どうとりまとめ戦うのかと楽しみにしていた。
だが、彼にとって予想外の事がひとつ起こった。
それは明朝に二人目の軍使が首と体を繋げたまま戻り、しかも「捧げもの」が本当に届けられたことだった。
……。
さて、時は少し遡り、部屋に戻されたルーシーン。彼女は教育長の袖に着いた血についての不安を巨鳥に打ち明けていた。
タラニスは「彼がプニャーナの治療を担当したために、血が付いたのではないか」と楽観的な意見を述べる。
このほうがルーシーンが安心すると考えた。だがいっぽうで「エススならば……」と考えていた。
またも鳥から活力をもらったルーシーンは、エススの部屋へと再突撃を決めた。
今度はモルティヌスが何かを言ったのか、廊下には巡回の兵士が増えていた。だがそこは百戦錬磨のおてんば娘。
幼少より培った隠密を発揮し、何者にも邪魔されることなく部屋を訪ねることに成功した。
「エスス。居るわね。あたしよ」
扉を叩くルーシーン。
「お入りください」
ルーシーンは虚を突かれた。拒絶されると考えていた。
強行突破を予想していたのに、すんなり招かれるとは。
彼女がわざわざ挨拶を挟んだのは、拒絶への怒りを燃料に扉を蹴り飛ばす用意があったからだった。
「エスス、話があるの」
「どうぞ。お話しください。エポーナ王」
エスス祭司長は自分の席に腰かけ、髪の毛を結いなおしているところだった。
顔は相変わらず疲れが彩っていたが、どことなく若々しさを保っていた。
――そういえば、エススは何歳なのかしら。
娘はふと思った。付き合いは長いが、彼については知らないことが多すぎた。
「御触れを解いて欲しいの」
勢いを殺がれたルーシーンには、いきなり核心に触れる程の勇気がなかった。
「御触れとは“神樹殺し”の件ですかな?」
エススは座ったまま口の前で手を組み、ルーシーンのほうは見上げずに言った。
「そうよ」
「できませんな。彼奴は国賊です」
「あの子はこの国の人間じゃないわ。無理やり連れてこられたのよ」
「奴隷とて国民です。それに、大罪人であることには変わりません」
「あの子がそんなことするはずないわ。あたし、会った事あるもの」
「ほんのいっときの事でしょう? 私とて、あの娘がそんなことをするとは思いませんでした。私はあの娘に目を掛けていたのです。非常に落胆しました」
エスス祭司長は長い溜め息を吐いた。
「間違いかもしれないわ。どうやってあんな大きな木を枯らすことができるっていうの? もともと病気だったに違いないわ。だって、あの子が来る前から神樹は毒を出していたのよ」
毒。ルーシーンがエススを説得できる気でいた理由。
これが無ければ話すだけ無駄だと考えて、別の娘の為にあちこちの部屋や墓穴を荒らすことを考えただろう。
「毒は関係ないのです。エポーナ王。“種”なのです。それは神樹に宿る生命の源。彼奴はそれを盗み出したのです」
ルーシーンには寝耳に水だった。
王は幼少より神樹や教義について学ばされてきたが“種”の存在など聞かされていなかった。
やはり大事なことは何も教えて貰えていなかったのだ。娘の腹には再び湯が沸き始めていた。
「プニャーナは? プニャーナはどこへやったの?」
エススは聞きなれない名前に少し首を傾げた。
「プニャーナ? ……ああ、あの娘は知りませんでしたな。仲間の居所も“種”の行方も」
「まさか、処刑したなんて言わないでしょうね?」
机へ詰め寄るルーシーン。
「なぜ気になさるのです。あなたには関係の無いことでしょう」
「あるわ。あの子はあたしの友達よ」
「友達? いつの間に。まったくあなたは……油断も隙もありませんな。王が大罪人と通じていたなんて……」
エススはルーシーンが幼いころに脱走を試みたと聞いたときのような顔をして言った。
「罪人じゃないわ。友人よ。用が済んだならプニャーナを解放してあげて。知らないって言ったんでしょう?」
娘の手が机を叩き鳴らした。
「お優しいことで」
エススは肩をひくつかせた。
「何が可笑しいの。何をしたって、大切な人を思いやるのは当然よ」
「仰る通り!」
エスス祭司長は立ち上がった。
「ルーシーン・エポーナよ! あなたは友情や愛が一朝一夕で成るものとお思いですか?
そういったものは多くの年月を掛けて育むものです。愛に至ってはたとえ百年掛けても充分ではない!
仮に今が満ち足りていても、明日はもっと良くなる事を望むでしょう。愛は永遠に育ち育み続けるのです!
私はそう思っております。それが、城の中で十四年ばかり生きただけの小娘に語れるものとは思いませんな!」
エススの語りには迫真があった。見た目通りでも娘のニ、三倍は生きている人間の弁だ。
ルーシーンも彼の意見には賛成だった。だが彼女はここで折れるわけにはいかなかった。
「確かにあなたの言うとおりだわ。でもあなたはあたしにその機会をくれなかった。
お城から出してももらえず、誰の力にもなれず、それでどうしろっていうの?
私、あなたの力になりたかったわ。ずっと、ずっと!
わがままも沢山したけど、言いつけを守ってお勉強だって沢山したわ。それなのに何がだめなの?
お父様と同じように、あたしが女だから? それとも“あたし”だから?」
十四年越しの思いの丈。娘は自分のほんとうを一息にぶつけた。エススはそれを受け止め、飲み込み、色を変えた。
「残念です。ルーシーン。百年とは言わず、あと少しだけお待ちいただければ、名実共に王になれたというのに。
あの小娘が逃げ出さねば。もう少し早く現れておれば……。
私はあなたが先王をなぞらずして国を慮っていたことにも気づいておりました。
このまま計画通りにいけば、次の太陽祭ではあなたを本物に王にする予定でした。
しかし、太陽は雲に隠され、雲はやがて血の雨を降らせるでしょう」
エススはさらに深い色に染まる。
「私とて、あなたの事が嫌いだったわけではありません。情というものがございます。
たとえ王にそぐわないお転婆のはねっ返りであろうと、長い付き合いでしたからな。
共に国を切り盛りした同志であった先王の忘れ形見なら尚更。
……幼き頃よりあなたはちっとも私の言うことを聞いてくれませんでしたな。
城から抜け出そうとしたのも数えきれない……。
ときには目を見張るような知恵を披露されて驚いたこともあります。子を持つのはこういう事かと思いました」
深い哀しみの色だった。ルーシーンは魅入った。
想いの交換は彼女に手ごたえを感じさせていた。父の死去より娘の心に在り続けた空白のひとつが埋まりつつあった。
「ですが、お別れです」
だから、気付けなかった。足元に這い寄る無数の枝と蔓に。
彼女は理解者から突き付けられた決別に突き飛ばされた。
だが身体は動かなかった。腕に、脚に、身体中に無数の植物が回り込み、獲物を絡めとるヘビのように彼女を締め付けていた。
「これは何!? お別れって、どういうこと!?」
蔓は口にも入り込み、彼女の舌を巻きとった。口の中が青臭い香りで充満した。
「王には最初で最後の国務に就いていただきます」
緑のす巻きにされた娘は問いただそうとした。舌の自由を奪われた口は唾液を生むだけだった。
「ムン族の族長は王の献上を求めております。応じれば戦闘が回避できるやもしれません。
“種”を見つけねば終わりなのです。“種”があっても、あの娘を見つけなければすべてやり直しなのです。
そしてもう、この国にはやり直すだけの時間がない……」
長い溜め息。
「エポーナ王。我々は“神樹”の為に在るのです」
そう言い残すとエススは部屋を出ていった。
ルーシーンはもがくそぶりを見せなかった。
超常の緑の縄は現実で、彼女の二番目の父にとって、娘もまた二番目だったことを思い知らされた。
重ねて来た想いは最初から届くはずがなかったのだ。
エスス祭司長は兵士数人と他部族の男をひとり伴い戻って来た。兵士たちはルーシーンを担ぎ上げる。
父と娘はもう、互いを見ることは無かった。
大楢の娘は運ばれて行った。
王としての責務の為に。
国の延命の為に。
信仰の儀式、その威力の証明の為に。
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