.27 光と闇
ルーシーン・エポーナは太陽が天辺を過ぎたときになってようやく、友人が石牢に放り込まれたことを知った。
遅い朝食を得るために下へ降りたところにこの話を聞きつけ、弾かれたように地下牢への廊下を走る。
いくら戦争の騒ぎで人手薄になっているとはいえ、地下への階段の前ではふたりの兵士がネズミ一匹通さぬ決意を保ち続けていた。
当然、主君である小娘であっても通さぬし、その口から発せられる命令も通さなかった。
ともかく友人の顔を一目見ようと、ルーシーンは思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てた。
逆に褒めたり賄賂の提案なども試したが、兵士たちは生粋のエスス祭司長派である。娘の滑稽にも思える努力に眉も心も動かさなかった。
娘は己を呪った。彼女は昨晩、友人である巨鳥と仲直りをし、遅くまで語り合っていた。
このため彼女が目覚めた頃には、太陽は塔に登り詰める直前になっていた。
皮肉にも昨晩の幸福な時が投獄の報を聞くのを遅らせた直接の原因となったのだ。
そのプニャーナに仲を取り持ってもらった部分もあっただけに、彼女の呪いを加速させた。
突破や救出の目処は立たず、ただ待つだけの時間。
ルーシーンは高まる呪いを持て余し、それを「過去」へと向けることで自分を保つ。
呪いは異国の錬金術師を毒に沈め、愚かな父を殺し、その右腕をへし折り、現世から逃げ去った母を掘り返し、その腹から産まれた子を殺した。
無償の愛を受け続けた神樹にも火を放ち焼き尽くした。
最後に残ったのは如何ともし難い現実だけとなった。
ルーシーンは地下牢の出入りを一切見逃すまいと、兵士のあいだの闇を睨み続ける。
もしも魔法が実在するのならば、彼女は主義を捨ててでもそれに縋っただろう。憎しみを魔力に変えて、溢れる哀しみを呪文に変えて。
ルーシーンの前に法衣を着たひとりの男が現れる。音に聞こえる獄吏。
彼は外で食物を随分と蓄えたようで、痩せた身体に歪に出っ張った腹を抱えていた。その姿は貧困の魔物を彷彿とさせる。
獄吏はルーシーンの前で足を止める。彼の目が座り込みを敢行する娘をなぞるように這う。男の無礼な振る舞いに王は何も言わなかった。
ただ娘は彼の足先から頭のてっぺんまでなぞり返すと、再び闇のほうへ視線を戻した。
正直なところ、こんな男にすら助力を求めたい気持ちであったが、彼の瞳の奥に宿る飢えが娘の目を逸らさせた。
――そんなお腹をして、まだ食べ足りないの?
彼はすぐに娘から興味を失い、聳え立つ二本の鉄槍を難なくすり抜けて行った。
男が下へ降りて暫くすると、闇の中から叫びが這い上がって来た。
恐れと痛みへの返答。それは娘の臓物に冬の川となって流れ込んだ。
だが彼女は胃の痛みを認めながらも、その胸を撫で下ろす。その叫び声が男性のものだったからだ。
それからもう一度川が流れ、お祝いと脅迫の混じった声色が響いた。
娘は聞き取ろうと耳を澄ませたが、石室を幾重にも反響したそれはわけが分からなかった。あるいは反響は大したことが無かったかもしれなかった。
理解の不足はルーシーンの不安を駆り立てる。
地下牢で行われているのはいったい何か?
囚人の義務や獄吏の権利についての知識は読み憶えていたが、現実はときおり記述を上回ることも知っていた。
ここで燻っていることは利口な娘にとって苦痛のひとときであったが、下へ降りていけないことはある種の幸運であったかもしれない。
ルーシーンの前をさらに別の男が通り過ぎた。彼は娘に一瞥もくれず、同僚たちのあいだを通り闇の中へと進んで行く。
彼女は槍を潜り抜けられる男たちと自分との違いについて考えようとした。
しかしそれは、突如、闇から噴き出した赤い川によって妨げられた。
「プニャーナ!」
抑えきれない破壊の魔法が彼女の脚を突き動かし、闇の中目掛け身を踊らせた。
兵士たちも下で起こる非人道的行為に気を取られ、娘がぎりぎりに近づくまで動けなかった。
交差する槍に身体を打ち付け、ルーシーンは叫けび続けた。
それが心配だったのか謝罪だったのかは分からない。もはや彼女の喉から発せられる単語はでたらめだった。
しばしの沈黙。兵士たちもルーシーンを押し返そうとはせず、地下の気配に意識を向けていた。
何か幾つかの会話が交わされたのち、石の階段から歪な反響が近づいて来た。
闇の中からルーシーンの友人が姿を現した。
彼女は兵士に支えられなければ前に進めないようで、一段一段登るたびに自由になっているつま先を石段に打ち付けていた。
そしてルーシーンは彼女の血の滲む下半身を見た。
ルーシーンはあとずさりをするとその場にへたり込んだ。石床に血を垂れ流す友人。
己の無能の結末を脳が拒否する。意思に反して瞳は罪へと釘付けになった。
娘は思った。友人は壊されてしまったに違いない。
階段を登って来たのはかつて他人を心配していた優しい娘ではなく、闇の地下牢そのものなのだと。
プニャーナは笑って、ルーシーンを見た。笑いかけながらも少し恥じ入った。
――そっか、あの子も私を助けようとしてくれてたんだ。友達だったね。
青い地獄から生還した娘の瞳には希望の光が戻っていた。それはもうひとりぶんの光も加えて明るさを増していた。
ルーシーンには分からなかった。なぜプニャーナが笑えるのか。
光と闇の落差は彼女の賢いはずの頭を大幅に上回っていた。
誰も助けられなかったというのに、プニャーナは救われたかのように見える。
それは気丈な装いではなく。誰も助けられなかったのに。
兵士が友人を連れ去ってからもルーシーンはすぐには立ち上がれなかった。
空虚だった。友人は医者のところに連れて行かれたに決まっているし、槍のあいだを潜り抜ける必要もなくなった。
今すべきことは、部屋で腹を空かせているであろう最初の友人になけなしの食事を探して来てやることだけである。
ルーシーンは立ち上がろうとしたが、布の人形のようにぐにゃりとなった。見かねた兵士の片方が娘に手を貸した。
太陽は城の塔を越え、下り始めている。食堂は片付いていた。
その為、ルーシーンが巨鳥に持って帰ってやれたのは、空腹と事の済んだ凶報だけだった。
巨鳥は娘と一緒になって落胆し、慰めの言葉を掛けた。それは傷のすべてを癒さず、現実を変えることもしなかった。
だが、ルーシーンに祭司長への詰問を決意さるだけの魔力は持っていた。
鳥はもはや娘を止めることも、嘲ることもしない。あまつさえ部屋を飛び出すルーシーンを鼓舞してやった。
ルーシーンは祭司長の部屋へと駆けて行った。
平時と違い、人影疎らな城では楽な仕事だった。娘は扉に手を伸ばした。指先が届く前にそれはひとりでに開いた。
中から現れたのは教育長モルティヌスだった。
「おお、これはエポーナ王。どうなされました?」
彼の目の奥の炎は、王を目にして小さくなった。
「そこをどいて。エススに会わせてちょうだい」
「それはなりません。エスス祭司長は戦の為に戦略を練って居られる最中です。たとえ王でも通すことはできません」
「戦略ならあたしだって考えられるわ。手伝うから。入れて」
「だめです」
押し通ろうとする娘を抱きとめるモルティヌス。
ルーシーンの頬に教育長の法衣の袖が触れた。何かべたついた、冷たいものを感じる。
娘にはそのべたつきのにおいに覚えがあった。年頃の娘なら誰もが知ってるにおい。戦士なら誰しもが知ってるにおい。
それは地下牢からの生還者の姿を思い出させた。娘の下半身は生還者と重なり震えた。
「さあ、部屋までお送り致しますぞ。これから我ら大楢の国は無知無謀なる蛮族どもに思い知らせねばなりません! ……蛮族の長ルゴス! ……許しまじ!」
教育長はお得意の破竹の文言をひねり出すことができなかったようだ。
言葉を切りため息を吐くと、普段とは反対の声でルーシーンに語り掛けた。
「エポーナ王は我らの将です。みだりに出歩かぬようにお願い申し上げます。間者が紛れているとも限りませんので……」
教育長の促しに素直に従い、部屋に戻るルーシーン。彼に押されている最中、視界にちらつく赤い袖の意味を考えた。
答えのうちのひとつが、彼女を再び部屋へと押し戻す。
モルティヌス教育長は彼女が部屋に入るのをしかと確かめてから立ち去った。
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