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.26 無知と鞭

 水滴の音が反響する。


 プニャーナは冷たい石牢の中で目を覚ました。

 彼女は初め、自分がどこに居るか分からなかったが、口に噛ませられた布と両手両足を固定する木枷が経緯を思い出させた。


 娘は夫婦に引っ張られて城へと連れ戻された。

 その際、酷く抵抗した。と言っても、暴れたり叫んだりしたわけでなく、単に拘束に抗議したり、友人への心配を真摯に訴えかけただけの事だった。

 その努力は結晶となり、口と手足に嵌められていた。


「よう、お嬢ちゃん。お目覚めかい」

 見知らぬ男の顔が近づく。彼の息が鼻先に掛かる。くさい。


 男はプニャーナが目覚めたことを確認すると近くの椅子に座り、槍を抱きながらあくびをした。

 芋虫みたいになった娘はもごもご言った。


 ――これを外して。


 男は椅子に座ったまま耳に手を当て、彼女の言葉をようく聞き取った。


「何言ってるか分からん」


 娘は男の態度が自分の要求を真剣に聞こうとしているためのものだと思い、繰り返しもごもごやった。


 ――お願い、これを、外して。


 男は再び彼女の前に来ると身を屈め、耳に手を当て一語一語聞くたびに頷いた。


「おいしい、ごはん、食べたい」

 男は顔に笑顔を作ると「俺もだよ」と言った。


 確かに食べたいけど。娘は友人と別れてから何も口にしていない事に気が付いた。

 再開への渇望がすっかり空腹を忘れさせていたのだ。


「この国はお優しいからな。不作の年だって、ちゃあんと罪人にも食事をくれてやるんだよ。残念ながら、あまりおいしくはないが」


 そういいながら机の上から木皿と椀を持ち出した。

 不自由な娘の鼻先にそれらが置かれた。椀は澄んだ水で満たしてあり、木皿の上にはなにかの麦を捏ねて作った小さな団子がみっつ乗っていた。


「朝食だ」

 娘はもごもごやった。


 ――ありがとう。


 横になったまま自分のくっついた手足を上下させる。なんとか団子の乗った皿に手が届くが、手足だけでなく口も拘束されてることを、そこになってようやく思い出した。


 ――あの! すみません。食べれないんですけど!


 男はじたばたやるプニャーナを退屈そうに眺めている。娘が再三の抗議をすると、男は謝った。

 そして立ち上がり、「そういう野良猫居るよな」と言い残してどこかへ行ってしまった。


 プニャーナにはなんのことかさっぱり解らなかったが、彼に自分の意図が伝わっていない事だけは解った。

 せめてにおいだけでもと思い、団子に鼻を近づけいっぱいに吸ってみたが、青い牢獄と同じかび臭いにおいがしただけだった。


 彼女はほったらかしにされた。ここには他に誰も居ないのだろうか? どのくらい時間が経ったのだろう? コニアは? 多くを制限された娘にはそれを知る術はなかった。

 男が立ち去ってからしばらく経った頃、なにやら癖の強い発音で喋りかけられた。声からして男性の様だ。


「娘さんも捕まってしまったのネ。どうしてこんな若い娘さん。ここの連中は、まったく酷いネ」

 プニャーナは必死に身をよじり、声の出どころを探した。しかし、先ほどの男の椅子と机以外は壁しか見つけることができなかった。


「ワタシ、ここの先輩ヨ。他所の国から来たネ。城下町で料理屋開いてたら捕またヨ。

 何も悪いことしないネ。ここは階段から近い。入ってくる人みんな見えるヨ。

 娘さんとても別嬪サンネ。それに若い。子供にワタシより酷い扱いおかしいネ。

 ワタシ閉じ込められてるけど、怒られるけどおしゃべり自由ヨ」


 異国の料理人を名乗る男は、城下町で料理屋を開いていた。

 それだけだ。彼自身の弁明通り、何も悪さをしてはいない。

 ただ、この国の先王は異国の者に騙されて毒を飲んだ歴史があり、そこに酷く不安定な国勢が重なっただけの話だった。


 プニャーナは彼のおしゃべりが気に入った。壁の向こうは明るい気がした。

 なんとかそれに応えようと自分も光る手立てを探したが、呻く以外にできることは無かった。


「娘さん、よく聞くネ。あの男、ものすごく意地悪ネ。ワタシの食事に、毒を混ぜたネ。食べると“お腹ピーピー”ネ。きっと娘さんの団子にも入ってるヨ」


 その娘はじつを言うと、猿ぐつわをされたまま無理やり口に団子をねじ込んで食べられないかと思案していた。

 窒息の危険と、ちょっとした尊厳が空腹に負けそうになっていたところの援軍だった。


「今まで何人もここを通ったネ。一度ここから出された人は、戻ってくることは無いネ。ここ、すごく嫌なトコロ。でも、ここから出る人、みんな嫌がってたヨ。ワタシの国にも同じような場所あるネ。みんなもう処刑されてしまったに違いないネ」


 処刑。故郷にはなかった行い。言葉だけは知っていた。

 悪さをすると捕まって処刑されるとか、火炙りにされるとか。言うことを聞かない子供を脅しつけるための文句に過ぎなかった。


 ――私たち、何も悪いことしてないのに。


 親友に対する心配はしていた。この国に戻れば捕まってしまう。だが、その先の事まで考えは及ばなかった。

 今の自分の状況から察するに、親友が捕まればどうなるのかは彼女の鈍った頭にも明白だった。


 ――コニア、来ちゃだめよ。


 プニャーナは常に他人の心配を第一としてきた。彼女は優しい。だが生粋の性根だけがそこまでさせてきたわけではなかった。

 彼女も初めは子供だった。“群れ”の生活では、子供は早く大人にならねばならなかった。

 口が利けるになれば大人と連れ立って、水や食料の確保を手伝った。


 餓死や病死、事故死が珍しくない彼女たちにとって、最低限の肉体の健康を維持することが第一であった。

 食料の確保は完全な仕事であり、大人の行為であった。だからそれには本来子供が受け取るべき「愛情」は支払われなかった。


 プニャーナにもまた、家族が居なかった。

 砂漠の民の人口は知れていたから、おおざっぱに言えば多くが親戚で、群れは家族と同義だったが、彼女にはそれすらも居なかった。

 成長するにつれて消えていくはずのどん臭さが、彼女を大人にも子供にもさせなかったからだ。


 どちらにも属さないみそっかす。

 彼女はそのうちに子供の面倒を押し付けられるようになった。不満はなかった。身から出た錆だから。


 子供達には自分と同じようになっては欲しくない。その気持ちから彼女は自分の役目を大切にした。

 子供たちは多くの物を欲しがった。無い物はくれてやれないから、子供にはそのうちに支払われなくなるものを与えてやった。

 彼女の取りぶんは大人たちへ狩りができない代わりに捧げなければならなかったからだ。


 彼女は何かを求める時、意識的か無意識かどうかに関わらず、まず自分から与えた。

 それがちゃんと返されることもあれば、そうでないことも度々だ。ときには仇で返ってくることもあった。

 彼女にとって損や痛みは耐えるものではない。家族よりも近しい存在だった。


 故郷を抜け出しても彼女の境遇は変わらなかった。老婆に奴隷として使われ、棒きれで叩かれ、睡眠を奪われた。

 その代わりに死は遠ざけられ、食事は確実に与えられた。奴隷生活は不満を覚えるどころか、砂漠の価値観なら幸せを感じるべき待遇だった。


 娘は本来の砂漠の民の生きかたと違っていた。

 自分の身全てを火打石と食べ物に変えた。それらを“群れ”に与える代わりに「何か」を買い取ろうとした。

 望んでいたのは奴隷生活ではなかった。


 奴隷になった彼女にはそこそこの自由が与えられていた。それは何をしてもいい自由ではない。

 お使いで外に出たり、庭の手入れをしたり、家事を習得するための自由。仕事に付随するものだった。

 いくら奴隷の取り扱いに関する法が厳しくなったあととはいえ、彼女の待遇も友人と同様に破格の好待遇だった。


 自由は先に与えられた。彼女が結果を出す前に。結果はのろまな彼女に支払いの不足を要求し続けた。

 しかしここには子供たちは居なかった。お使いの途中で目にした子供たちは古郷の子らとは違い、娘が与える必要のある者は居ない。

 だから彼女は、代わりに唯一の支払いである「棒打ち」を肯定しなければならないと考えた。


 けっきょく、プニャーナにとっては故郷に居た頃よりも悪くなっただけだった。

 支払いに困った彼女は詐欺により「死」という嘘の対価を作り、夜逃げを敢行する。


 老婆は面食らった。まさか自分の棒打ちで娘が死のうとは。

 老婆は金持ちで、気位が高かった。財産は今は亡き旦那が遺したもので、継ぐ者は居なかったので特に惜しむ必要は無い。

 だから高い娘を買い、維持の為に奴隷には勿体ないほどの食事を与えた。


 だが、旦那との生活で培った矜持は失うわけにはいかなかった。

 奴隷とはいえ殺したとあれば世間体が悪い。プニャーナはそれを知っていた。


 プニャーナは外出毎にすれ違う人々へ持ち前の優しさと明るい挨拶を発揮していた。その娘を殺したとあれば尚更だ。


 目論み通り、老婆は娘が逃げたことにした。老いた身体に鞭打って、一世一代の大仕事をした。

 老婆は城と王家が嫌いだった。自分よりも金持ちで、実体の無い尊敬を集める。その城の裏手の穴に自分の汚点を押し付けた。

 掘り返される心配も薄いのも加えて都合が良い。老婆はまた代わりの奴隷か召使いを探さねばならくなった。


 そしてプニャーナはコニアと出会う。

 その時も彼女はまずは相手の手を引くことから始めた。本来の彼女の気質には暗い森は恐ろしすぎる程に恐ろしかった。

 それからの生活のほとんどにおいて、彼女は受け取る側に回った。

 だが友人はそれを咎めず、何も要求しては来なかった。心の底で戸惑いを覚えながらも、その居心地の良さに身を委ねた。

 彼女が自分の世界に招き込んだ友人は、常識を打ち破ったひとり目になった。


 その後、娘は友人に習得したことを披露する機会に巡り合った。

 友人は彼女を褒め称えた。娘の辿った人生がようやく肯定された。戸惑いは完済され、彼女の世界は作り変えられ始めた。


 だが、無知な自分の一部がいまだ革新を拒んでいた。

 その無知は来てはだめだと友人を思いやる行為と、再会への望みは相反すると主張した。主張の穴は鉄格子と石の壁と石の床が塞いだ。


 矛盾と不可能に苛まれ、ただ祈ることしかできなくなった娘。

 時の流れの見えぬあなぐらの中で行われた祈りの妄想は、勇敢な友人が鉄格子を罵声と共にひん曲げるものだった。


 妄想のコニアの曲げた鉄格子が十を数えた頃、見張りの男が戻って来た。


「いやあ、飯は外で食うに限るな。最近は食堂で出る食い物がけち臭くてしょうがない」

 男は腹を擦り、喉からシチューの息を押し出した。


「ややっ? お嬢ちゃん。俺が折角あげたお団子を食べてないのかい?」

 プニャーナは彼のそれが意地悪であるとようやく知ったが、問いかけには素直に反応してもごもごやった。

 内容は妄想の友人に倣ったものである。猿ぐつわが彼女の品位を守った。


「なになに、この布を取って欲しいって?」

 娘のもごもごの正体は当てなかったが、別の望みを言い当てる男。


 意外な回答に必死に顔を上下させるプニャーナ。


「いやあこれは申し訳ない。猿ぐつわをしたままじゃあ、飯は食えなかったな!」

 そう言うと男は格子を開けて娘の猿ぐつわを取ってやった。


「さあ、お食べ」

 男は団子を摘まむと娘の唇に押し当てた。

 プニャーナは口を開き、団子を受け入れようとした。……が、隣人の警告を思い出し、口を水気たっぷりに噴いて団子を噴き出した。


「きたねえな! 団子要らねえのかよ?」

「毒が入ってる」

 娘は首を振った。

「毒? 入ってねえよ、そんなの」

「入ってる。聞いたもん」


「聞いた? ははあ……」

 男は立ちあがると牢を出てた。机の上に置いてあった何かを手に取り娘の視界から去る。



「余計なことを言ったのはだぁ~れかな?」



 娘の耳に別の牢が開かれる音が聞こえた。しまった。それはむしろ私だ。


「ワタシ、何も言ってないヨ! きっと団子が痛んでたネ!」

「確かにな~。この地下牢は貯水槽を利用したものだからな~。カビでも生えたかな~……ってそんなすぐカビが生えるかっ!」


 石牢全体に乾いた音が響く。娘は音に驚き首を縮めた。


「ヒイヤー。痛いネー!」

 悲鳴をあげる隣人。


「じゃ、じゃあ、においヨ! 毒のにおいがしたネ!」


「この腹下しは無味無臭なんだがな~。ああ、そっか。お前は異国の料理人だったな~。異国の人間は毒に詳しいもんな~~。お前は料理に毒を入れようとして捕まったんだっけなあ?」

「ち、違うよ! ワタシ料理人の誇りアルヨ! 毒なんて入れないって何度言えば分かるネ!?」

「そもそも料理人かどうかも怪しいんだよな~~、何か作って見せろよ~~」

「材料なきゃ何も作れないヨ! 料理作って欲しかったら材料用意するネ!」


「なんかちがくな~い? 態度でかいよね」

 再び乾いた音が響く。続いて悲鳴。


「鞭、だめネー! 料理作らせて欲しい! 材料ください! なんでもいいネ! お願いヨー!」

「ください? ただでか?」


「要らないくず野菜買い取るヨ! 骨でも皮でもいいネ!」

 懇願する料理人。


「ね、ねえ! 何やってるの? 何の音?」

 プニャーナが声をあげる。


「商売してるんだよ~~」

「買うヨ! いくらでも出すヨ! だからここから出して欲しいネ!」

「うんうん。それは考えとくね。でも、毒団子の事をばらした支払いがまだ済んでないよね~。罰として鞭打ち百回かな~」


「ワーーーーッ!」

 石の部屋は音で溢れた。音は裂いた。空気を。皮膚を。喉を。


 プニャーナは耳を塞ぎたかった。それは叶わず、手足の枷を身体に引き寄せることしかできなかった。


「ユルシテ。ユルシテ欲しいヨ!」


「んん~、外人の言うことは良く分からんなあ」

「この国の言葉ちゃんと覚えたヨ! あんたの耳が悪いネ!」


「なんだと、こら!」

 ひときわ強く響く音。


 娘の耳は音を拒んだ。音を止めたい。打たれているのは娘ではなかったが、その一発一発が彼女を苛んだ。

 男の言った「団子の支払い」。それは本来自分が払うべきもののように思えた。

 主張に勝った自分の一部もその意見に賛成する。妄想の牢へ助けに来た友人は正義によってそれを推奨した。


「待って! その人をぶたないで!」


 叫び。


 石の箱は水滴の落ちる音を響かせた。



「その人の代わりに、私をぶって」



 ――また、やってしまった。



 隣から足音が徐々に娘の牢へ近づいてくる。

 さっきまでは彼が歩いても足音なんてしなかったはずだが、それはいやに大きく聞こえた。


「待つネ! そんなことされたら国に帰っても家族に顔向けできないヨ! ワタシ、姪っ子沢山いるネ! 娘さん身代わりなんかにできないネ!」


 異国の料理人は、生涯で一番大きな懇願をしたようだ。だがそれは男の耳の穴には大きすぎた。

 男がプニャーナの牢へ入ってくる。彼の手は鞭を張ったり緩めたりと忙しなく動いていた。


「君が、代わりに?」

「うん。あの人が教えてくれなきゃ、私はお団子を食べていたから」


「本当に、いいの?」

 にこにこした男が訊く。


「……うん」

 娘は寝転がったまま深く頷いた。


 男は娘の両肩を掴むと、石壁を背に座らせてやった。


「君は優しいねえ。あんな得体の知れない外国人の為に。そんな優しい子をぶつなんて、俺にはとてもできないよ」

 覗き込む男。


「だから、やっぱりあっちをぶつね」

 男は立ち上がり踵を返そうとした。


「だめ! 私をぶって!」

「だめヨ! ワタシぶつネ!」


「んん~。大人気だなぁ。みんなこれが好きなんだね~」

 鞭に舌を這わせる男。


「祭司長がね、君の事は丁重に扱えっていうんだよ。あとで神樹殺しの大罪人を捕まえるために、お話をしてもらわないとだめだからってね」


「私は話さないわ」

 男を睨むプニャーナ。


「抵抗すれば共犯者だよ? まあ、祭司長ほんとはおっかないからねえ……」


 男はぶるりと震えた。


 彼はかつて、囚人を鞭打ち死なせたことがある。そいつは無罪だった。

 それでも別に言いわけなんていくらでも作れる。

 だが、間が悪かった。ちょうど祭司長が身元引受人を引き連れて階段を下りてきたところだった。


「本当は俺が聞きだす役目をしたかったんだけどねえ。祭司長がどうしてもっていうんだよ……」

 男は鞭を持った手を力なく垂れた。


「俺はね! 鞭で人を叩くのが大好きだからこの仕事に就いたんだ!」

 子供のような笑顔。頬は紅潮し、言葉はカエルのように跳ねる。


「汚い犯罪者や、税金を払わない卑しい奴! それに怪しい外国人! でも可愛いお嬢ちゃんは叩きたくない!」

 彼は言った。信念を込めて。正義を込めて。そして人生を込めて。


 娘と隣人はその異様な雰囲気を呑み、息ができなくなった。


「叩く! 叫ぶ! 嬉しい! 叩く! 叫ぶ! 楽しい! 叩く! 叫ぶ! 気持ちイイ!」


「……分かるぅ?」

 男はかがみ込み、首を傾げながら娘の顔を覗き込んだ。男の瞳いっぱいに娘の震える唇が映る。



 男は子供の頃から、人が痛がったり苦しがったりするのを見るのが大好きだった。

 幼いころ、友達と探検に行ったときの事を今でも思い出す。

 彼の友達は、格好の良い虫を追いかけて、深いやぶに分け入ったのだ。

 密度の濃いやぶは鋭い葉をもって友達の肌をめちゃくちゃに切り裂いた。

 それぞれの傷はまったく大したことは無かったが、どこを触ってもどう動いても傷が痛んだので友達は激しく泣いた。


 それが彼の「初めて」だった。そのあと、親にたっぷり絞られて、危ないやぶに入ることは禁止された。

 だが彼は友達の泣き顔と、慰める振りをして傷に触れたときの反応が忘れられなかった。


 彼にも分別はあった。直接手を下せば酷く叱られるだろうし、仲間内から爪弾きにされるだろう。

 悪くすれば自分が虐められる立場になる。彼は自分が痛いのは大嫌いだった。友達がやぶで付けた傷のひとつでも貰えば、同じくらいに泣き喚いただろう。


 だから彼は仲間内で駆けっこを流行らせた自分を天才だと思った。

 男の子たちは速さだけではなく、度胸試しも好きだった。

 如何にでこぼこの道を走破するか。如何に跨ぐにはつらい段差を飛び越えるか。親の畑は格好の競技場だったが、実際に駆け回ったときはさすがに怒られた。


 競争心は怪我への恐怖を薄れさせた。遊ぶたびに誰かがどこかを擦りむいた。

 素直に泣きじゃくる子もいれば、震えながらも仲間へ強さを示そうとした子もいた。

 彼にとってそれは甘いお菓子と肉汁滴るステーキの違いだった。


 彼はそのまま成長し、大人の男の真似事を覚える。そして彼の嗜好と真似事は関連付けられた。

 何か大きな事故や事件があればやじ馬に出かけ、被害者たちの光景を目に焼き付け、大事に大事に家へと持って帰った。それから彼は満足を得た。

 だが、それは「他人の手によって用意された」ものだったし、あとから真似事によって得たものだ。

 彼は練習を重ねながら、いつか自分の手で本物を行うことに思いを馳せた。


 彼は大人になり仕事に就いた。

 初めは兵士になって人を槍で突き殺すことを考えたが、自分が突かれるのはまっぴらごめんだったので、祭司を選んだ。

 祭司なら生贄が苦しむさまも見れたし、拷問や刑の執行にも参加できる。

 それは周りの嫌がる仕事だったため、大した苦労もせず希望は通った。


 彼は人々がこの仕事を嫌がるのがさっぱり理解できなかった。こんなに楽しいのに。


 牢の見張りは彼ばかりの仕事ではなかったが、開戦の準備で兵士の多くが駆り出されていたため、石の牢獄は彼一人の城になっていた。

 だから、昨晩から彼は異国の料理人を使い、繰り返し「本物」を愉しんでいた。



「わからないよ……」

 娘の唇が哀しそうに動く。



 男は思い出の旅から帰ると、娘を見て驚愕した。


「俺、お嬢さんを鞭で叩きたくないって言った」

 立ち上がってそっぽを向く男。湿気た風が娘の顔を撫でた。


「嘘じゃないよ。女の子は大事に扱わないといけないと思ってる。それは嘘じゃないよ」


「でも君は共犯者だから犯罪者だし、見るからに外国人だし、多分奴隷だし絶対税金払ってない!」


 ……。


「口が利ければ問題無いよね」

 男は自身へ問いかけて、腕を組み頷いた。



 男の長い思案と講釈が、プニャーナの覚悟を薄れさせていた。

 彼が異常なのは無知な彼女にもよおく分かったが、彼は自分で言った通り、自分をぶたないと信じていた。人が好いのだ。

 そんな彼女は、優しさか正義か支払いか分からないままの己の発言に後悔していたが、自らの口でそれを撤回せずに済んでいたことに安堵していた。


 だが、それが反転した。


 男は娘へ向き直ると石床の上をうろついた。彼の鞭にとっての最高の位置。

 男から溢れる高揚感は空気を伝い、娘はそれを恐怖へと変換して受けた。



「怪我はさせないからね」



 そういって男は鞭を振った。蔓でできた鞭はほとんど自らの重さだけを頼りに娘へと打ち付けられた。

 娘は首筋に鞭の感触を受けて身を縮め、まぶたは涙をせき止めるように働いた。それは徒労に終わった。虫が触ったような一撃。


「あああ~。弱過ぎた! 壊しちゃいけないのって難しいなあ!」

 残念そうな文言に反して男はほとんど泣きそうになっていた。

 彼は母に感謝していた。女の子は大切に扱いなさい。彼女はそう言った。大切に。大切に!


「もうちょっと強くするね」

 鞭を振り上げる男。どくどくと造られるのを感じる。再び振るわれる鞭。空を切る音。緑一閃。

 今度は服の上から胸を打った。乾いた音が鳴る。


 プニャーナは「痛くない」と思った。痛くない。痛くない。


「やめるネ!」

 隣人の声はふたりには届かない。


「おかしいな~! ちょっとは痛がると思ったのに」

 プニャーナの服の布地は頑丈な舟の帆を転用したものだ。大切な友達と作った服は新たな主人を守るために必死に風を受け、張りつめていた。

 鞭の威力は服を抜け、彼女の皮膚に僅かな波を作った。それは堪えられないほどの痛みや傷は与えなかった。

 だが老婆への支払いを彷彿とさせ、娘の心に赤ミミズを這わせた。


 男は娘の僅かな変化に気づき、父に感謝した。父から聞いたことがある。

 ネギは固い土でいじめて育てれば甘くなり、カブは柔らかい土でのびのび育てれば甘くなると。

 男は甘いネギは好きだったが、カブはからいほうが好みだった。この娘はネギに違いなかった。



「ネギの煮つけ!」

 男は鞭を振り上げた。

 幸福に身体を弓なりにし、快感の弦を引く。



 鋭い猟奇の矢は彼女の頑丈な服ではなく、むき出しの足を貫いた。



 娘の喉から悲鳴とも絶頂とも取れる声が漏れる。

 声は青暗い牢を赤くした。


 男を受け止めた左足のふくらはぎ。瑞々しい皮は霧散し、初めての肉の川を作り、血の氾濫を起こした。


 娘の瞳は空回りし、涙は内へ流れ、喉は駆け回った犬のような呼吸を発し続ける。

 服は捲れ上がり、身体は繊月を描き震え、石の床に暖かい海を作った。


「はああ~~っん!? 最高おおおん!」

 男の上と下が万歳した。


 鞭の一撃は嘘と本当、どちらの「痛くない」も消し飛ばしていた。

 娘の瞳には何も映っていなかったが、頭は男の次を「避けろ」と命じ、手足はそれに従おうと木枷に血を滲ませ激しく音を立てていた。



 ――男は“最後”を迎えるために再び弓となった。


 ――妄想の友人が鉄格子を破ることも無く。


 ――娘の服は捲れて肌の多くを晒け出し。


 ――隣人は老いた母が死んだ日よりも咽び泣いた。



 ――そして男の手が振り下ろされた。



 ――いたい。



「そこまでだ」


 男の愉しみを邪魔したのは、かつて娘の腹に槍を酷く打ち付けた男だった。

 だが彼は娘を助けるために現れたつもりはなかった。



 事実、プニャーナは救われなかったのだ。



 兵士の介入により男の快楽は霧散したが、鞭の勢いは全く衰えていなかった。

 そして、娘の右内腿は熟れ過ぎて破裂した瓜のようになっていた。


「いいいい。今いーところだったのによお!?」

 兵士に喰って掛かる男。 

「いいところじゃねえよ、馬鹿。祭司長に何も言われてないのかよ」

「馬鹿!? 馬鹿はおめえだよ!」


 いきり立った男が兵士に向かって鞭を振り上げた。

 兵士ヤンキスは男が腕を振り下ろすよりも早く、槍の石突きを腹に埋めてやった。

 男は唸り、うずくまるとすすり泣き始めた。


 ヤンキスは男を一言罵倒すると、石床で痛みの水遊びに耽る娘に視線を落とす。彼にはやはり、娘に見覚えがあった。

 彼は娘が落ち着き、口が利けるようになるまでその場で黙って待つ。石牢は三色の泣き声で彩られていた。


「あ、ありがとうございます……」

 プニャーナはしゃくりあげながら礼を言う。彼女の視界は痛みによって正常に機能していなかった。

 目の前に友人のいのちを狙い、自分に傷を負わせた男が居たのに、それとは気づかなかった。

 僅かな既視感は危機から救ってくれた事実により深い安心感へと変わった。


 ヤンキスはプニャーナの手足の枷を外してやると、腋を抱え立ち上がるのを手伝ってやった。

 娘は久しぶりに足の裏を地面へ付けたが、下半身が死にかけた四つ足の獣のようになっている。

 獣の身体は冷たくなりながらも暖かな血を滴らせていた。


「ここから出るぞ」

 娘は怪我よりも床に広がる辱めの痕のほうを気にしていた。

 ヤンキスはそれに気づくと、気づいていない振りをしてやるために、水たまりのそばに転がった団子を拾い上げ、口に放り込んだ。

 さいわい団子は汚れていない。娘は何かを伝えようとしたが、ヤンキスが娘の身体を引いたため足が痛み、その機会を失った。


 プニャーナの心に次第に熱が戻って来た。ここから出られるのだ。なぜ出られるのか、どこへ行くのかなどは考えなかった。

 それなのに彼女はコニアとの再会がすぐそばにあるかのように信じていた。


「お嬢さん、出ていくネ? ……オイ、そこのアナタ! お嬢さん処刑したらワタシも死んでアナタ達一生恨むヨ!」

 異国の料理人が警告した。


「大丈夫だよ。彼女はちょっと質問されるだけだ」

 プニャーナは暗い牢において一つの光だった隣人の姿を目に焼き付けた。

 それはどんぶりを被せたような髪型で、鼻の下に子ヘビの様な髭を蓄えた、まじめにばっちり決めたいで立ちだった。

 どこか愉快な話しかたとの落差のせいで、感謝と敬意が無ければ笑ってしまったかもしれない。


 だが、彼の首から下は笑いとは無縁のものだった。

 娘はそれを老婆の赤ミミズの上に強く焼き付けると、兵士に気付かれないよう、こっそりと優しい料理人に手を振り、今できる精一杯の笑顔を送った。


 隣人は笑顔を信じ、それ以上何も言わないことにした。


 兵士ヤンキスは娘を伴い階段を上がる。

 娘が彼の正体に気付かなかったのは彼にとっても幸運だった。

 それと同時に、彼女に鞭が振るわれていたことも。


 あの男を放って置けば、娘が死に絶えるまで打ち続けていただろう。

 救ったことで少しだけ償った気になっていたのだ。彼女とその友人の命を奪おうとした罪を。


 だが彼は、その程度では償いきれないどころか、矮小な自己満足であることも理解している。欺瞞的だった。

 牢に居た外国人に話した事も嘘だった。



 なぜならば、彼が今からこの“神樹殺しの共犯者”を連れて行く先は、あの神樹を愛してやまない最強の祭司、エスス祭司長の部屋だからだ。



 ふたりの登る階段には、娘の血と兵士の罪で軌跡が作られていった。


***

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