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.25 砂の城

 歩く。砂の上を歩く。誰かを探して。私は誰かを探している。


 いったい、誰を?


 ずっと続く砂の風景は、私の記憶の片隅にある。

 耳を澄ませば聞こえてくる音は、風が砂をさらう音か、打ち寄せる波の音だろうか。


 私は焦げたにおいのするどこかからずっと歩いて来た。

 嫌なにおいのする暗闇に押し込まれ、暗い森に揺られて、獣の目に晒されて。少しは明るくなったと思ったのに、また雨が降り始めてしまった。


 ここが砂漠なのか砂浜なのか分からない。ただ暗くて乾いていて、足が疲れて右手が痛んで。

 顔に砂が当たって、それだけが前に進んでいるということを教えてくれている。



 私はずっと流されてきた。誰かに手を引かれてきた。

 古郷でもみんなの言いなり。するなと言われればしなかったし、助けてと言われれば助けたわ。

 仕事のために人目から離れられて、ようやく自由だった。

 日が沈むまでに帰って来られる距離なら、どこへ行っても構わなかったし、見つけたヘビの卵を独り占めにしても、拾った種を食べずに植えてみても、誰にも文句を言わせなかった。

 けっきょく、植えた種から芽がでたことはなかったけれど。そもそも種だったかも分からないかも。

 ちゃんとしたのは見たことが無かったから。


 でも素敵じゃない? 芽が出て、茎が伸びて、葉を付けて、花を咲かせて、実をつけて、また種が採れて。

 いつか森が作れたらなって。私が夢見がちだってのは解ってるわ。群れのみんなにいつも言われていたから。


 日が沈むまでには戻らなきゃならなかったの。

 あそこに戻るのは嫌だった。みんな、何もしないのよ。ただ食べて、寝るだけ。

 私の事を夢見がちって叱ったけど、本当の夢をたくさん見ていたのはどっちかしらね。


 水に関わるときくらいだったわ。みんなが積極的になってたのは。

 雨が降ると頭にたらいや桶を掲げて、踊るのよ。嬉しいからじゃないわ。嬉しいんだけど。そのほうがたらいにたくさん水が溜まる気がしてたの。


 いつも世話をしていたのに、大して感謝されなかったし、あまり褒めても貰えなかった。

 もっとも、あんな人たちに褒められても、なんだか馬鹿にされてる気がするのよね。


 でも、毛の生えた獣をとっ捕まえて来れたときは、素直に褒めて貰ったわ。

 私も自分で自分が偉いと思ったし、みんなも本当に褒めてた。獣は一晩ですかすかの骨だけになった。


 別に褒められたかったわけじゃないのよ。それは、にいさんがやってくれてたから。


 私がしたかったのは、あの人たちに文句を言う事。


 人を助けるのは苦じゃないわ。むしろ好きなのよ。えっと、好きなのは誰かが安らいだり、感謝されたりとか、そういうのじゃないの。

 単に視界に困っている人が居るのが嫌なのね。髪に入り込んだ砂を払って、すっきりするような感じ。

 だから感謝されなくてもなんとか我慢はできたわ。


 でも助けを当たり前に捉えたり、要求したりするのは変でしょ?


 だけどみんなは私より大人だったし、物知りだったし、変だと思ってても黙ってた。にいさんだってそうしていたし。


 面と向かって文句を言えないから、彼らへの罰として獲った食事を全部食べてしまったことがあるわ。一度だけね。

 誰かが昼のぶんを余分に食べてしまって、食事にありつけなくなった人がでたの。

 ありつけなかった本人が文句を言うならまだ解るんだけど。いつも偉ぶるおばさんがいるのよ。

 大して役に立たないくせに私に世話を焼こうとするおばさん。子供だったときは感謝していたわ。

 でも、私が自分で何もかもできるようになっても、おばさんは“私を助けようとする”のをやめようとしなかった。

 ずっとそれしかしなかったの。それで、そのおばさんが私にちゃんと全員ぶん獲って来いって文句を言ったのよね。

 私は獲って来てたのよ。毎食ぶん、全員ぶん、ちゃあんと揃うようにね。


 数だってろくに数えられないくせに。くそったれ。本当、くそったれ。食べて寝て、くそったれのくせに。


 むかっ腹が立ったから、いつもよりがっついて狩りをしたわ。

 でも、あんまり腹が立ったもんでそのうちつまみ食いを始めて、食べきれなかったぶんはその場に逃がしてやったわ。

 ああ、逃がしたと思ってたけど、私は捕まえたあとにすぐ殺しちゃってたから、それは正しくないわね。

 服の中でトカゲが暴れるのはくすぐったいのよね。余裕があるときはそれも好きなんだけど、あの日はだめだった。くすぐったいのにいらいらした。


 手ぶらで帰ったから、けっきょく罰を受けたのは私ね。私一人。

 にいさんも狩りに出てたみたいなの。当番じゃなかったのにね。

 にいさんは私ほど狩りは上手じゃないから。私だけが晩御飯抜き。

 喰らわされたのは熱波みたいなお説教。うぇー。そんだけ元気があるなら、自分で獲ってくればいいのに。

 まあ、私のお腹はお説教が入るほどの隙間もなかったけど。


 にいさんは自分のぶんを減らして私にこっそり持って来てくれたけど、断ったわ。

 その代わり、愚痴を聴いてもらった。全部白状した。にいさんは苦笑いしてたわ。


 にいさんはね。すごく優しいの。私よりもずっとね。たとえば、調子の悪い人が居たとするでしょう?

 その人と寝る場所を代わってあげるのよ。夜は冷えるから、団子の外側は寒いのよ。

 私だって頼まれればそのくらいしてあげられるけど、にいさんは自分で調子の悪い人を見つけて来るし、ただ代わってあげるだけじゃないの。

 どこがどう調子悪いのかとか、朝になったら調子はどうだとか、気を遣ってあげられるのね。


 私はにいさんに引っ付きっぱなしだったから、毎日元気か聞かれたわ。

 おあいにく様。毎日元気よ。それに彼は、食事が足りないときは自分のぶんを分けていたわ。

 私なら、次の当番を代わったり、余分に獲ってきて穴埋めをするだけなんだけど。


 本当。そういう優しさって素晴らしいと思う。私には無いものだから。尊敬するわ。

 ……うん? 皮肉じゃないわよ。でもね、どうして私がそれを持たないのか、何か理由があるはずなのよ。自分でははっきりと分からないんだけど。


 ある時にいさんに訊いたのよ。「どうしてそんなに優しくしてあげるの?」って。

 にいさんは、「今の群れの引っ張り役が引退したら、次は僕の番だから練習をしているんだよ」って言ってたわ。

 「今の引っ張り役のおじさんはあまり働かないし、そんなに親切でもない気がするわ」私はそう言ってやった。

 にいさんはまた苦笑いしていたわね。

 「なんなら私がやってあげてもいいんだけど」これは言いかけたけどやめておいたわ。


 そのうちおじさんが引っ張り役をにいさんに譲った。

 どうしてだったかしら? 膝を痛めて動けなくなって……そこからだわ。そこから寒い日の翌日は働けなくなって、冬が来る前に引っ張り役を譲ったってわけ。


 引っ張り役の仕事はひとつだけ。それは「決定すること」。

 例えば群れの移動先をどこにするかとか、雨が降ったとき誰が水探しに出かけるかとか、そういうこと。

 にいさんが最初にやったのは、群れを少し荒れ地から離して砂漠のほうに移動させることだったわ。

 狩りはほとんど私とにいさんでやっていたから、私たちが居ないあいだの安全を選んだの。

 荒れ地のほうが生き物や草木は多いし水も貯まり易いけど、そのぶん“外”の連中が入ってきやすいから。

 私は秘密のヘビの巣まで行って帰ってこれなくなったから、残念だったわ。


 にいさんも私ほど元気じゃないから、狩りが大変になるのは良くないはずなんだけど。

 お優しいのは結構だけど、損を被るのはけっきょく、私たちじゃない?

 まあ、にいさんの事は大好きだったし、引っ張り役の決定は絶対だからね。仕方がないわ。


 何をするにも“外”の事は気を付けなきゃならないの。おばあさんからよおく聞かされていた話。

 いつもおとぎ話を聞かせてくれたのはおばあさんだけど、それはせがまないと聞かせてくれなかった。

 でもこの話は別。おとぎ話じゃないのよね。


 “外”の村で私たちの祖先が受けた仕打ち。連中は親切なふりをして、私たちから掠め盗ろうとするのよ。

 盗れる物なんて何一つ持ってないのにね。虫釣りの枝? 火打石?

 それとも私たちが着ているぼろ? そんなものは“外”にいくらでもあるわ。じっさい、いくらでもあったし。


 連中が欲しがるのは私たちそのものなのよ。


 どうして欲しがるのか分からないけど。人だって“外”にはいくらでもいるでしょうにね。

 もっとも、私と、にいさんと、おばあさんだけ残してくれたら、あとはあげてしまっても構わなかったけど! あはは!


 けっきょく、盗られたのは大事なものだけだったわ。にいさんとおばあさんは奴らに何も渡さないために、私を渡さないために永久に奪われてしまった。

 こう言ったらなんだけど、にいさんはそうしないほうが良かったわ。

 やっぱり損を被るのは私たちなのね。そうすべき人達はほかに居たじゃない?

 あの人たちはどうなったのかしらね。ごはん食べてますか? 怪我や病気をしたとき、どうしてますか? ふふ。


 おばあさんはある意味幸運だったとも言えるわ。私やにいさんが居なくなったあと、どうなるか分かり切っていたし。

 おばあさんはもう何もできなくなっていたものね。私におとぎ話を聞かせてくれたおばあさん。

 血が繋がっていたかどうかは定かじゃないけど、にいさんの次に大好きだったおばあさん。

 おばあさんは私を叱らなかったわ。おとぎ話を聞かせていた張本人だからだろうけど。

 私が“外”や“昔の話”へ興味を示すとみんな怒るのよ。うっかり“外”へ行きたいだなんて漏らすとそれは罪になるわ。今や大罪人ね。



 もしも、この砂山の先に、あの人たちが居たら文句を言ってやるわ。


 くそったれ! このやろう! ってね。

 ……おばあさんが居たらお礼を。にいさんが居たら、私が“外”で見聞きしたことを話すわ。

 それで、一緒に“外”へ行こうって誘う。私が手を引いてね。


 私が盗られたもの、盗られなかったもの。“外”では思いのほか盗られなかったわ。むしろ貰ったもののほうが多かったと思う。

 行動に対する正当な対価ってなんでしょうね?

 聞かされていたとおりの話なら、私は“ご主人”に“テゴメ”にされるべきだったし、あの奥さんには家事を“押し付けられる”べきだったわ。

 それでも足りないくらい。あの話のように、私も森で桶に入れられて焼かれるべきだったのかもね。


 だって、あの家に危険は無かったのよ?

 “外”だから“外”は無いし、水も貰えたし食事も貰えた。しかも今までのよりもずっと美味しいものをね。

 今だから言えるけど、奥さんが作ったスープはお城で食べた物よりもずっと美味しかったわ。これまで生きてきていちばんの食事。

 あの時は、にいさんとおばあさんを盗られた悲しみで、ずっと胸がつっかえてしまって何も言えなかったけど、もし次に会えたらお礼を言わなきゃいけないわ。

 ご主人にもちょっとだけならいいかも。どうせ、群れのおじさんたちと大して変わりは無いわ。血を流すようになってからはご無沙汰だったけど。


 そういえば、にいさんは何もしなかったわね。何もね。……知っていたはずなのに。


 私は小さいころからにいさんのあとに引っ付いてたけど、本当はうしろじゃなくて横に居るべきだと思っていたのよ。

 “おとな”になって、強くそう思うようになったわ。私と彼とじゃ、考えかたが違うのよね。だからこそ、一緒に歩いて欲しかったの。

 でも、私はトカゲのしっぽで、にいさんは私を横に置かないで、“群れ”と一緒にうしろに置いたわ。


 実際は私のほうが前であるべきだったのかもね?

 海を見た翌日くらいかしら。私のほうが前に居るべきだったと思うようになったのは。


 人は嫌いよ。人間は嫌い。全員くそったれよ。今まで話した、これが理由。充分でしょう?

 本当は好き嫌いは関わってから決めるべきだと思うわ。でも、無理に関わる必要もないし。

 男は特に嫌い。にいさん以外ね。私の事を「突く」ことしか考えてないのよ。

 おじさんたちは“棒”で突いた。ご主人は突きたがった。

 祭司長と教育長は言葉や空気で突いたわ。ふたりに関しては熱いかか寒いかの違いはあったけど、ああいうのは初めての事ね。

 親切にしてくれた兵士は初めは私を突いたりしなかったけど、結局は人さらいと同じだったのね。

 少しくらい信じてもいいかなって思えたのに。男はキライ。


 だからなのね、あの子に引っ張られて町から逃げたのは。良い御身分で良い暮らしだったのにね。


 私はね。あの子を、プニャを取り返さなきゃいけないのよ。

 あの子は私を必要としているし、私にとってもあの子は必要なの。あの子はにいさんから余計なものを取っ払ったようなものよ。

 身勝手? 勝手でも良いわ。誰も彼も勝手なんだから。私だけが勝手をしてはだめだなんて変よ。

 あの子の勝手とそぐわないときだけは、そうね。考えても良いケド……。


 まあ、そういうわけで“神樹の精”の言う事とか“祭司長の野望”なんて関係ないのよ。

 私は正義の味方じゃないわ。にいさんが居たらなんて言ったかしらね?

 手首に卵が埋まったのがにいさんだったら? ……にいさんは正義の味方だったかしら?

 最期は間違いなくそうだったと思うけど。正義の味方って本当はもっと、勝手と勝手をぶつけ合うものよ。戦争ってやつ? そう思わない?

 

 もしも、この砂山の先に、プニャが居たら、嬉しいわ。

 でも、一緒ににいさんやおばあさん、それに“あの人たち”までもが居たらどうしたらいいのかしらね。

 多分、都合よくはいかないわね。プニャとにいさんは優しいから。できれば“あの人たち”は遠慮したいんだけど。


 それにしても、全然前へ進まないわ。歩いても歩いても。いつの間にか雨が強くなってる。喉は乾いていないわ。

 足元がどろどろ。足が前に出ない。肺に雨が入っちゃう。息が苦しい。入って来られるのは嫌いよ。嫌なヘビ! でも、独りじゃ前へは進めないわ。


 見て。砂山が溶けてしまったわ。向こうが見える。

 海だわ。海の前に、大きなお城があるわ。プニャと遊んで作ったお城よりも大きい。

 でも、本物のお城よりは小さいわね。


 中から、誰かが手を振っている。声は聞こえないわ。雨の音が酷過ぎて。短い髪。私と同じ色ね。肌もそう。



 ……行かなきゃ。



「雨が降ると、砂の城は固くなるんだ」

 にいさんだわ。雨の音はしなくなった。全くね。


「私、もう歩けないわ」

 疲れがどうしてだか嬉しい。


「ここに留まるのかい?」

 にいさん、なんだか顔がぼやけているわ。そういえば、彼の名前は何だったかしら。にいさんは、ずっとにいさんだったから。


「雨が止んだら、ここを出るわ。にいさんも一緒に行こう」

「そうだね、ここには食べるものが何もない」

「私、ここへ来るまでに沢山トカゲを獲ったわ。ほら、見て」

 私は服に隠したトカゲを次から次に取り出す。また褒めて貰える。


「みんな死んでいるじゃないか」


「そうよ?」

 にいさんは何を言っているのかしら。


「どうして殺したんだ」

「殺さなきゃ食べられないわ」

 私は首を傾げる。

「食べないくせに殺したのか」

 にいさん、怒ってる?

「要らないの? お腹、空いてないの?」


「全部! 殺して! しまった!」

 にいさんが片目を押さえながら叫んでいる。


 知ってるにおいがする。ここへ来る前に嗅いだ。焦げ臭いにおい。


「違う。私が殺したんじゃないわ」


「違わないわ」

 にいさんは言った。女の人の声で。


「あれは私じゃない!」

「感じたでしょう。温かかったでしょう」

 にいさんは言った。私の頭の中で。にいさんは片目を押さえたまま“にっこり”している。


「殺したのはあんただ!」

 私の両手がにいさんの首を絞める。


 どうして!? こんなことしたくないのに!


「苦しいよ」

 にいさんはいつもの苦笑いだ。私の手は離れない。左手すらも! せめてその顔を見ないで済むように、私は顔を下へ向ける。


「僕のせいでおばあさんが死んで、君は売られた。そう言いたいんだ」

 私の手がにいさんを黙らせようとする。温かい。熱い。熱くて手が離れた。


「ごめんなさい……!」

 私は自分の行いを謝る。


「謝るんだ。やっぱりそうなんだね」

 違う。そうじゃない! でも、私の口は動かない。


「そう、間違ったんだ。でも、もっと早く否定して欲しかったよ。僕が馬鹿なことをする前に」

 私も馬鹿だった……。もっと言ってやれば良かったんだ。


「さようなら、コニア」

 致命的な決裂。


「さようなら、にいさん」

 永遠の離別。


 ……顔を上げるとそこにはにいさんの形をした砂のかたまりがありました。


 お城の中だというのに雨が降っています。中庭みたいだと思います。


「ここは寒い。出て行くといい」

 砂の像が私に言います。それは一音発するたびに、ぼろぼろと崩れていきます。ミソサザイのさえずりのように。


 わたしはお城からはなれます。

 おしろはとけはじめます。あめがふると固くなるなんて、うそっぱちでした。

 ほんとうはかわいているほうがいいのでしょう。

 このままわたしもいっしょにとけてしまいたい。おしろをながめながらおもいます。


 おしろのなかにはまだだれかがいます。にいさんかしら?


 かみがながいから、にいさんではないです。わたしかしら?


 わたしのかみのけはもっとまっすぐだし、はっぱやごみをひっかけてはいません。あれはだれでしょう?



 犬が吠えました。



 プニャーナが埋まってしまう! 城を。城を乾かさないと。火を起こさないと!

 私は服の中を探る。私の手はトカゲみたいに身体をくすぐるだけ。引っ掻いても、噛み付いても、役に立たない。

 手のひらに鋭い痛みが走る。引っ張り出した手が何かを掴んでいる。割れた火打石と、沢山の血だ。

 顔を上げると城はもう泥の塊になってこちらに流れて押し寄せてくるところだった。



 キツツキがけたたましく木を叩く。



 コニアは大きな木の枝の上で目を覚ました。眠っていたというのに息が上がっている。

 身体中が痛んだ。特に枝に接していた部分がひりついていた。

 痛みに気をとられたが、仕事に取り組む鳥に抗議の一撃を喰らわすのは忘れなかった。


「よりにもよって、この木を突くこと無いでしょ! 赤ハゲ!」


 木から降りると、伸びをした。あくびと共に涙が流れる。それを指で払うともう一筋の濡れた痕が見つかった。

 何か悪い夢を見ていた気がする。それなのに彼女の心は、朝の森の気配に一体となっている。澄んだ中には使命感だけが浮かんでいた。

 ヘビや獣にやられるのを警戒して上で寝たのは間違いだったかもしれない。お尻をさすりながら木を見上げる。

 人に見つかりたくなくて、獣除けの火を焚くのも避けた。身体はすっかり冷えてしまっている。関節が痛い。

 注意深過ぎるのかもしれない。地面に目をやる。昨晩つけておいた、向かうべき方角を示す矢印。ちゃんと残っていて胸を撫で下ろす。


 コニアは焼けた村でプニャーナの姿が見えなくなったとき、巨大な鳥が空へと舞い上がるのを見た。

 その鳥は親友を足からぶら下げていた。彼女は一瞬で事態を理解し、鳥の向かう方角に走った。

 鳥の影こそは一瞬で見失ったものの、確かにそのさきに友人が居るという熱い確信のもと、彼女はまっすぐに進み続けた。

 枝を潜り、根を跨ぎ、ウサギの家を荒らして、キツネの通り道にすら頼らず。ひたすらまっすぐに。


 彼女に大木を迂回するだけの力が無くなってきたあたりで、“神樹の精”が声をかけてきた。


(このまま大楢の国へと戻る気ですか?)


(あの鳥が飛んで行ったのは大楢の国なのね?)

 目的地がはっきりとし、幾分か気力が戻るコニア。


(そうです。あの鳥は怪鳥タラニス。エスス祭司長の手先です)

(だったら、私を捕まえればよかったのに。どうしてプニャを?)


(彼が出てきたという事は、エスス祭司長も本気の様ですね)

 コニアの問いかけには答えず、声は何かを思案するするように言った。


(止めたって無駄よ。あなたには従わない)

 娘は左手で右手首を押さえつけておく。


(もはや逃げても無意味でしょう。このまま祭司長のもとへ行き、邪魔者を殺すのです)


(殺すだなんて)


(おまえはいい加減、自分の立場を受け入れるべきなのです)


(私は誰の命令にも従わないわ。ただプニャを助けに行くだけ)


(そんなにあの娘の事が大切なのですか)


(そうよ)


 しばらくの沈黙。


(……いいでしょう。おまえが国へ戻る為の手助けをしてあげましょう。

 ですが、忘れてはなりませんよ。おまえはもうかつてのおまえではないのです。

 神樹から落たときに死んだのです。

 空を目指して樹を登った娘も、ミソサザイのさえずりに心弾ませた娘も、死んだ男に恋い焦がれる娘も、もう居ないのです)


 “神樹の精”の言う通りかもしれなかった。

 “神樹の精”とコニアが一体になったとき、彼女は生まれ変わっていた。

 だが、精の言葉は一体になる前の出来事をも指していた。


(人の心を覗かないで!)

 拒絶の言葉は“神樹の精”でなく、嫌悪感に向かって放たれた。同居人に向かってそれを叫んでも、返答の中身に関わらず無意味なのだ。

(可愛い娘。おまえは大人になろうとしているのです)


(大人だろうが子供だろうが関係ないわ。私は私、コニアよ! たとえあなたが生き返らせたのだとしても、この身体は私のものよ! どこに向かって歩くかは、私が決める!)

 強く言い返すコニア。


(強い子は好きですよ。また友人の髪にハナイチゲを挿す日が来ることを祈っていてあげますよ……)


 声はまだ何か彼女に向かって何か話していたが、ただの擦れた笑い声にしか聞こえなくなり、そのうち消えた。

 コニアは頭に挿したままだった花を投げ捨てると踏んづけてやった。


 ……それから今朝までは“神樹の精”はずっと静かだった。

 理由は分からなかったが、これからも黙っていてくれるとありがたい。コニアはそう思った。

 彼女とのやりあいは酷く精神を消耗する。だが、皮肉なことにそのやりとりが友を取り戻すための行き先を示し希望を与えた。

 しかし同時に、彼女の言う「手助け」というものが不安を酷く駆り立て、慎重にならざるを得なくしていた。


 さいわい、残りの旅では人にも獣にも遭わずに済んだ。

 ずっと食事を口にしていないので、倒れてもおかしくはなかったが、これも“神樹の精”のなせる業か、空腹が娘の活動を妨げることは無かった。

 砂地で鍛えた足裏も悪路で多くの傷を負っていたが、眠っているうちに殆ど治ってしまっていた。


 その力は親友プニャーナとの距離を縮めるための役に立っていたが、娘はそれらに気付くたびに親友の遠くへ向かっている気がしてならなかった。

 コニアはそれでも歩き、森が再び闇になる前に抜けることができた。


 赤く照らされる草原と、それに続く城下町の家々が現れた。



 コニアより一足先に国へ戻っていた兵士ヤンキスは頭を抱えていた。

 どうやら彼は、義理や同情を殺してまで選んだ未来へと辿り着く前に、死ぬことになりそうだったからだ。

 祭司長の部屋の前で右往左往する。中には人の気配がある。自分から入るか、出てくるところに鉢合わせるか。


 婚約者を連れて、いちかばちか国外逃亡という手も無いわけではない。

 だが、愛する人に自分たった一人の為にすべてを捨てさせるだけの度胸は持ち合わせていなかった。

 彼にとって、彼女は彼自身よりも重いのだ。その上に彼は、「さらに厄介な問題」に帰路の途中で出会っていた。


 それは自分だけではなく、未来の伴侶やお互いの家族、一切合切すべてを巻き込む血の予兆だった。

 おそらくは、これから報告をしなければならない魔物にとっても不都合な話だ。


 彼は村が焼かれるのを見た。その村は大楢の国と親しくしている部族の村だった。

 彼は水を分けてもらうつもりで村へと近づいていた。だがそこは夜を割く光に包まれ、命が命を奪う狩場となっていた。


 襲撃者は大楢の国の付近に住む弱小民族だった。

 狩猟と傭兵業で生計を立てる文化程度の低い民族だ。

 殺される友好者たちを前に、ヤンキスは身を隠すしかなかった。


 殺しを楽しむ連中の下卑た笑い。口では正義を謳い、腕は武器で悪を成していた。

 彼らの蛮行の鳴らす音がヤンキスの天秤に正義の金貨を何枚も重ねたが、皿は揺れすらしなかった。


 ヤンキスが涙を呑み、忍び足で立ち去ろうとしたとき、不穏な会話を聞いた。

 その会話は、これが単なる野蛮人による殺しではなく、ムン族を中心とした少数部族の連合が行ったことで、「村落の次は大楢の国を標的にする」という内容である。

 この虐殺はかつて奴隷として仲間を奪われた人々の正義の狼煙というわけだ。


 つまり、ヤンキスはこれを自分を殺すエスス祭司長へと伝え、彼に戦争への備えか、和平への手立てを用意してもらわねばならなかった。

 日が数歩歩む程たっぷり悩んだすえ、意を決して扉を叩く。中から祭司長の声がし、兵士ヤンキスは名乗った。


 部屋の中ではエスス祭司長が壁のほうを向いてぶつぶつ言っていた。


「あの……エスス祭司長?」

 声をかけるヤンキス。


「おお! ヤンキスではないか! 待って居ったぞ! して、“種”は? 娘は?」

 祭司長は飛び込んでこいと言わんばかりに両手を広げてヤンキスを迎えた。

 まるでついさっき、返事をしていたのを忘れたかのような振る舞い。

 だが、彼が全くの手ぶらで戻ったことに気付くと、身体中から夜の森のにおいを発し始めた。


「エスス祭司長に重大な報告があります!」

 においに飲まれぬよう身体を棒のように立たせ、上を向いて叫ぶヤンキス。


「最期ぐらい聞いてやろう」

 “にっこり”笑うエスス祭司長。


「ムン族とその他多くの部族の連合が、我ら大楢の国へと戦争を仕掛けようとしています!」


「何!?」

 祭司長の顔から“にっこり”が消える。


「首領はムン族族長ルゴスと思われます。すでに森の村がひとつ焼かれています。この目で確認しました。連中はすぐにでも国へ攻め入るつもりです!」

 一息に伝えるヤンキス。しばらくの沈黙のあいだ、彼の喘ぎだけが室内に聞こえた。


「なななななんだと!」

 震えるエスス祭司長。再び彼の身体から闇のにおい。


「ムン族! ことあるごとに我らのやりかたにケチをつけて来た愚か者どもか!

 それが! 愚かな貧乏くさい連中と手を組んで!? たいした文化も持たぬくせに!?」


 ムン族の国は大楢の国の隣だ。彼らは神樹を崇拝する国と同じく、大自然を崇め、星と生贄に占う呪術の盛んな民族だった。

 それゆえ、現実的な産業や、政治体制は発展しているとは言い難く、対して信仰を政治機構のひとつとして露骨に組み込むやりかたをする大楢の国へと苦言を呈し続けてきていたのだった。

 彼らムン族と多くの弱小民族も、奴隷商売や人身売買が無かったわけではない。

 だが、あくまで小競り合いのすえの戦利品としての「正当な範囲」で行ってきていた。

 連中は、その暗黙の了解を破り、あまつさえ火の粉を降らせた高慢な国を狙う機会を虎視眈々と窺っていたのだった。


「ええい! 伝令せよ! 兵を集めよ! どうせばれるだろうが、国民にはまだ知らせるなよ!」


「はっ、はい!」

 兵士ヤンキスは返事をし、回れ右をした。戦争になってしまうだろう。

 不安ないっぽう、安堵もしていた。どうやら戦禍が彼の死をうやむやにしてくれそうだった。

 戦いに生き延びられれば、だが。

 伝令が済めば一旦抜け出し、抜け駆けて家族や婚約者に避難を促そう。


 やれるだけの事はやるんだ。そして、生き延びるんだ。


「それとヤンキスよ。貴様は事が済んだら私の元へ戻って来い、必ずだぞ」

「ひゃ、ひゃい……」

 ヤンキスの決意と希望は一瞬で黒く塗りつぶされた。



 いくさの報は城の中に嵐を持ち込んだ。

 あるものは鬱憤をぶつける相手を見つけたと歓び、あるものは家族への愛と正義を掲げた。


 モルティヌス教育長に至っては、怒りいきり立ち、海も砂漠へと変える気迫で勝利を誓った。

 その際の彼の弁は名言も名言、熱く魂を震わすものであったらしいが、ここでは割愛しようと思う。


 熱気を巻き込んだ彼らの意気軒昂な姿は、先日までの怠惰な職務態度など戯言であったかと思わせた。

 だが、熱波の嵐の中には一筋の冷気が渦を巻いていた。


 それは、ムン族の族長の噂である。今まで何度も摩擦が生じて来たものの、彼らムン族と直接やいばを交えることは無かった。

 だがムン族は周辺の民族を統率し、その代表として挑みかかってきている。

 彼らの同盟や配下には生粋の戦闘民族や蛮族も含まれる。

 彼らは力のない者には従わないだろう。それらを率いるムン族族長ルゴスの統率力、それに彼個人の打ち立てた武勇伝は大楢の国にも届いていた。


 彼は多くの戦闘民族との戦いに勝利し、そのすべてにおいて先陣を切り、指揮を執り、男たちを鼓舞し、また敗戦の将を赦し力を認め取り込んできたというのだ。

 彼は生ける伝説と称されていた。


 そんな男を相手取っての戦争だ。いくら大国で人数の勝る大楢の国の兵士とはいえ不安が無いとは言えば嘘になる。

 彼らは森に囲まれ、森に守られて生きてきた。いっぽうでルゴスたちは、信仰を持ちながらも森の中で、或いは森を打ち払い生きてきた。


 エスス祭司長は戦争の準備を進める。

 だがそれは、満潮を迎える海の前に砂の城を作り上げるような愚行といえた。


***

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