.23 母の歌
……。
誰かが私の身体を揺すっている。大げさに心配するような。
聞きなれた涙声。哀しそうな声を聞いているというのに、私は安心する。ずっと昔に、私が物心つく前に死んでしまった、母を思い出す。
嘘。思い出せない。私には本当に母が居たのだろうか。
私は棄てられた卵からひとりでに産まれたんじゃないだろうか。ヘビのように。もしかしたら砂の中から勝手に沸いて出たものかもしれない。
身体は疲れ、目は閉じているというのに、凄まじい眠気が瞼をいやらしくくすぐっている。
眠りたい。私は何も見ていないし、聞いていない。何もしていない。
ぐっすり眠って、目が覚めれば、にいさんが居て、あまり好きじゃない世話焼きのおばさんが居て、
私にこっそりおとぎ話をしてくれたおばあさんがいて、もしかしたらお母さんも居るかもしれない。
お母さん。お母さんはどんなにおいがしたっけ?
知らない。分からない。思い出せない。
焦げ臭いにおい。――嫌だ。
血と肉の腐ったにおい。――嫌だ。
鋭い鉄と、四本足の獣のにおい。――嫌だ。
私のにおいを嗅ぐ、太った男のにおい。――嫌だ。
潮風のにおい。潮風と、これは何? 潮風と……――私の友達のにおい。
コニアが目を覚ますと、視界いっぱいに、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔があった。
彼女自身は泣いていなかったが、暖かな雨を受けて顔中暖かな水に濡れていた。頭は何か柔らかいものの上に乗せられているようだった。
「よかったあ。目が覚めだんだ」
娘は鼻声で喜ぶ友人をぼんやりと眺める。
「私、どうしてたんだっけ……?」
(覚えているくせに)
「コニア、ここに倒れてたんだよ。私、目が覚めたら、ひとりぼっちになってて、探したら、丸焦げになってる家があって、コニアが、ここに倒れてた」
友人は言い終えると、再び娘の顔に雨を降らせた。
コニアは友人の膝から起き上がると、あたりを見渡した。焼け落ちて、黒い柱だけを残す家々。
黒くひん曲がった人型の物体。あるいは干からびてしまったそれ。ばらばらになって、断面から別の赤黒さを覗かせる物体。それらの多くはまだ煙を燻らせていた。
「無事で良かったよ。これはなに? どうしてこんなことになったの?」
友人の問いかけ。分からない。喉がひりつく。鼻の奥が渇いている。こめかみがキツツキに突かれているようだ。
水が欲しい。
“水”を想像したコニアは、急に胃がせり上がり、吐いた。
「大丈夫!?」
背中がさすられる。
水。子供。……あの子はどうなったんだろう。まだ幼さを残した、コニアに助けを求めた、服に火を着けられた少年。
どうなったんだろう?
コニアは柑橘味の唾液の糸を垂らすと、もう一度えづいた。
涙が流れていた。吐いたためではなかった。砂漠で兄を失ったときにも、食堂で大衆の目に晒されたときにも、手首に痛烈な痛みを覚えたときにも流さなかった涙。
彼女はずっと目の裏に砂漠を飼い続けてきた。独りでずっと砂の上に水を撒き続けてきた。
それがいつか湖になることを願って。いまや、そこは海になっていた。
墓穴から現れた娘がするりと彼女に入り込み、砂を吹き飛ばしたのだ。
いつの間にかそこからは、たくさんの潮水が流れ出てきていた。
「そっか、つらかったんだね」
髪が撫でられる。
コニアの砂漠は、撫でれば撫でるだけ水を吐き出した。衝動に任せ、好きなだけしゃくりあげ、声を涸らして泣いた。
(これでは生娘どころか、赤ん坊ですね)
涙の氾濫などお構いなしに、妨害者の声ははっきりと聞こえた。
(何を悲しむというのでしょう? おまえは死なずに済んだのですよ。これからまた、そのお友達と素敵な生活を営むことも、本当の女の悦びを知ることも、私の力を使いこの不条理の世をひっくり返すこともできるのですよ)
諭す声は娘の安らぎを遠ざける。
(まだそこに転がってる、焼けた子供のほうが偉いものですよ。己の死を前にして不平ひとつ漏らさないのですから)
コニアは友人の膝から顔をあげ、反射的に視線を移した。そこには焼けて衣類と火傷の区別も付かなくなった塊があった。
「コニア、どうしたの?」
急に立ち上がった娘に驚く。
コニアは塊へ駆け寄る。もはや確証は持てないが、それはあのとき、彼女が助けようと水を探してやった男の子だった。
皮肉にも彼は、身を焼く焔の為に気を失っていたためにヘビの目から逃れていたのだろうか。
幼い子供はまだ息をしていた。苦しそうに吸い、吐くたびに小さく。
娘は彼を抱きかかえてやりたかった。だが、身体のすべてが痛みを呼ぶ傷に見え、どうすれば苦しませずにやってやれるのか分からなかった。
彼女の代わりは友人が務めた。友人は臆することなく、子供の頭と上半身を持ち上げ、自身の膝に頭を乗せてやった。
友人は何も喋らなかった。子供もうめき声を上げない。先ほどまで、娘のすがっていた場所には子供が鎮座した。娘の胸の中に僅かな欲求がちらついた。
娘は膝の上の子供から視線を逸らした。
風が通り過ぎる。村を囲う木々がざわめく。風は鼻を覆いつくしていた炭と灰に、森の薫りを差し入れた。
訪れる静寂。
沈黙を守っていたプニャーナの口から、節を付けた言葉が紡がれた。
お月様があんなに大きいのは お星さまのお母さんだから
目を閉じたって あなたを見ていてくれる
砂粒がたくさんあるのは お空の星がおりて来たから
身体を横たえたって あなたのそばにいてくれる
眠れ 眠れ みんなと一緒に 眠りなさい
みそっかすだった面倒見の良い娘の歌。
乾いた大地と空しかない古郷で作った歌。子供を寝かしつけるために、何度も繰り返した歌。
コニアは古郷の夜を思い出していた。
いつか青年と、彼の好きだった青い月の晩に訊ねた、彼女の母の話。
飢えと危険に囲まれた古郷では人死には珍しくなかった。大抵が家族の誰かを失っていた。だから彼女にとっては誰しもが家族だった。
――この子供は家族をみんな失ってしまった。そして最後の自分の持ち物さえも失おうとしている。
膝の上のいのちが目を開く。それはほとんど死にくっついだけのものだったが、確かにコニアを見ていた。彼は何か言いたげだった。
(おまえが殺したのですよ)
いつかの目。青年が死んだときの仲間の目。食堂で毒と聞いた時の目。彼女に向けられた目。
娘の心を黒いヘビがぐるぐると周る。私が、私のせいで?
「お姉ちゃん。火、消してくれてありがとう」
最期の言葉だった。それははっきりと発音された。彼はそれを伝えるためだけにいのちを漏らさぬよう息を潜め続けていたようだった。
子供の声がヘビを散らした。
(……殺したのは私じゃないわ。私は助けようとした。あなた、何を言っているの? あなたも見ていたでしょう?)
(確かに、子供は殺さなかったでしょう。助けなかっただけで。でも、あの子の母は? 父はどうだったのでしょうね)
(それは私じゃないわ。あなたか、男の人達よ。私じゃないほかの誰かよ。間違えないで)
最後に残ったヘビもちろりと舌を出し、闇の中へと退散していった。
ふたりは小屋の持ち主のときのように、子供を埋めてやった。
本当は、村に居たすべての亡骸をそうしてやりたかったが、娘ふたりの力では到底及ばなかった。
「コニア、あなたは怪我してない?」
訊ねるプニャーナ。
「私は、大丈夫よ」
身体にはかすり傷一つ残っていなかった。
「良かった。じゃあ、お腹は? お腹空いてない?」
腹は空いていた。だが、いまだ村を覆うにおいが胃に要求させることを禁じていた。
「大丈夫。でも、ちょっと疲れちゃったから、休んでいいかしら?」
そう言うとコニアは燃えなかった石壁の陰に腰を下ろした。
きっと、プニャーナは自分が腹を空かせたのだろう。だから訊ねたのだ。
においの無いところまで行って落ち着いたら、彼女の為に食べ物を探してやらねば。
だがその前に、コニアにはやらねばならぬことがあった。
(あなた。何が目的なの?)
頭の中で語り掛ける。返事はない。
(単純に祭司長から逃げたいだけじゃ、ないんでしょう?)
娘は疑っていた。自分と意識を共有し、命令する、この高慢で高飛車な女の声を。
娘は意識を集中し、闇の中からヘビのしっぽを掴み、引きずり出そうと探った。
だが指先は何も触れなかった。
“神樹の精”は自身の都合でしか現れないようだった。聞こえているのに黙っているのか、それとも声が届いていないのか。
コニアは溜め息を吐いた。休憩はそうそうに切り上げになりそうだった。
とつじょ、空を切る轟音と、全て吹き飛ばすような風が村中を襲った。
コニアの視界に「赤い花」が流れてくる。彼女は立ち上がり石壁の陰から飛び出した。
「プニャ!?」
そこに居たはずの赤い花の持ち主は風と共に消え去っていた。
***