.2 ネズミの群れ
砂漠の民の暮らしは、日を追うごとに貧しさを極めていった。
土地はさらにやせ細っていったし、少しでもましな土地を探そうと思えば“外”に近づかねばならなかった。
“外”に近づけば近づくほど、人さらいが現れる可能性は高くなった。
ある十人ばかりの小さな群れがあった。
その集団はあまり“外”から近くないところに居を構えていた。
人数が少ないと、力づくの人さらいから身を守るのは難しい。
だが、そのぶん、食料の確保の敷居は下がる。
特にこの“群れ”には、食べ盛りの若い者はたった二人しか居なかったので、土地が貧しくともなんとか生活ができていた。
食事の大抵は、砂の中や上をうろつくトカゲやヘビ、サソリなんかだった。
食事を探す以外にやることもなかったので、それ以外は大抵、ぼろ布で作った日よけの下で昼寝をしているばかりであった。
大人たちは別にそれで良かったが、このような土地でも、若者は若者らしく、好奇心のやりどころを探して砂の丘を駆け回っていた。
ぼろ布を纏った若い娘が、枯れ枝を振りながら砂の丘を歩いていた。
枝を振る腕や砂の上を滑る脚は痩せていたが、健康的に焼け、しなやかだった。
枝を振り振り砂丘を行く。娘の長く伸びた髪が揺れる。
絹のような髪が、太陽の光を浴びてきらきら光っていた。
彼女は何やら、注意深く丘の表面を観察しながら歩いているようだ。
砂丘の表面は風に馴らされなめらかになっている。
彼女は砂のシルクの中に僅かな乱れを見つけた。静かにしゃがみ込むと、そこにそっと枝の先を近づけて、軽く振ってみる。
すると砂の中から素早くトカゲが顔を出し、顎でしっかりと枝を挟み込んだ。
彼女の指は素早くトカゲの首根っこを捕まえて、そのままへし折ってしまった。
それをぼろ布の隙間に押し込むと、また枝を振り振り丘を歩き始めた。
太陽が傾き始めた頃、誰かが娘の名前を呼んだ。
声のぬしは彼女が兄のように慕っている青年だった。娘が青年に今日の成果を披露して見せる。
大小さまざまなトカゲとサソリ、それに立派なヘビだった。
今晩の彼らの食事になるのだろう。青年は娘を褒めて頭を撫でてやった。ご褒美をもらった娘は、照れくさそうに首を縮めた。
夜の砂漠は随分と冷え込んだ。
日が沈むと“群れ”の全員が肌を寄せ合い、日よけの布を被って暖を取らねばならない。
火を起こす術は知っていたが、燃やせるものがいつでもあるとは限らなかった。
いくら肌を寄せ合っても、外側の者はやいばのような夜の風に晒されることになり、よく寝付けない。
この“群れ”では、当番制で外側に寝る者を決めている。今晩の震える役回りには先程の青年も含まれていた。
彼の身体の前面は骨に沁みるような寒さに震え、背中は仲間の体温で温められていた。
しかし、背中に意識を集中すれば、あまり寒さを気にしないで済む。
他の者が寝静まってからも、青年は眠っていなかった。
寒さのせいではない。今晩は特に冷え込むような夜ではなかった。月明かりが砂丘を照らしているのが見える。
青年は月が好きだった。
見ていると気が休まり、心の芯から暖かくなれた。それを眺めるために眠らないのだ。
月の出ていない晩となると、あたりは完全な闇に包まれてしまう。星だけでは足りない。冷えた砂粒のほうがずっと多いように思われた。
そうなると身体は夜の闇と寒さに溶け、消えてなくなってしまうようだった。
青い砂丘に動くものは何もない。砂漠にすむ生き物たちは、日中の日差しで蓄えられた熱を求めて、砂の奥深くへと去っている。
青年は静寂に耳を澄ませる。
背後から聞こえる身内の温かな風。ときおり吹く風が巻き上げる砂の音は、誰かを探すようだ。彼はその狭間に居る時間を味わった。
青年が月を眺めるのに飽き、眠りに取り掛かろうとしたとき、砂丘の向こうで何かが動いたように見えた。
見間違いだろうか? せっかく引き寄せた眠気を押しやると、砂丘へ目を凝らす。
確かに何かが動いている。一つではない。それは五つも六つもあった。
人影だ。こちらへと近づいてきていた。彼らは一体何者だ?
考えられる可能性はふたつある。ひとつは他の“群れ”の仲間。ひとつは人さらいの集団だ。
仲間なら余程の事情が無い限り、夜間の移動は控えるはずだ。
しかし、この場所は“外”に近い地域では無いから、人さらいの線も考えがたかった。
その両方が関係しているかもしれない。人さらいに追われて、逃げてきた仲間だろうか?
青年は仲間たちを起こすべきだろうかと思案する。
しかし、若い自分が“群れ”を守るのだという気概、それに好奇心と若さゆえの無謀のなせるわざか、たったひとりで人影を確かめることに決めた。
「なあに、もしも人さらいだったら、大声を出して知らせれば良いだけのことだ」と考えたのだった。
青年は立ち上がり、影たちに向かってゆっくり歩き出す。
砂を蹴る音で仲間の眠りを邪魔しないように、細心の注意を払う。
群れから離れると、途端に冷えた空気が背に忍び込んできた。背後で眠っていた老婆が震える音が聞こえる。
影たちとのあいだには、身を隠せる場所は無い。あちらのほうも彼が近づいて居るのには気づいているはずだ。
だが、特に慌てる様子はなく、ゆったりとこちらへ向かって来ている。そのもったいぶった足取りは、青年に危機感を払拭させるものだった。
近づいていくと、次第に影の正体が判っていった。
「ぼろではない服」に身を包み、背には何か「棒状のもの」を背負っている。
彼らは背負ったものを背から下ろし、こちらに向けた。月光が尖った先端部分をきらめかせる。
三日月のように鋭い。青年はそれが武器であり、向けられた意味を理解した。
けっきょく、影たちは人さらいの集団だった。彼らの歩みが遅かったのは、単に砂地を歩きなれていないせいだ。
それと、むやみに音を立てて獲物が逃げるのを防ぐためだ。
六人の背の高い男たち。砂漠の寒さや、砂を避けるために多めに着たのであろう衣服が、彼らの体躯を一層大きく見せていた。
「人さらいが来たぞーーっ!」
青年は振り返り、口に両手を当て、眠った群れに向けて力の限り叫んだ。
うしろでは連中の衣服が擦れる音と「ぎし」という聞きなれない音がする。枝を力任せに振ったような音が立て続けに聞こえた。
途端に彼の右足が急に燃え上がった。
彼は足を見やった。腿には羽の付いた、硬くしなやかな木の棒が突き刺さっていた。
肉が力を失い膝をつくと、刺さった矢はぽろりと抜けて砂の上に落ちた。
抜けた矢に続いて血が噴き出し、痛みが入り込む。流れる血は青い月明かりに照らされて、黒っぽく見えた。
青年は「こんな立派な棒があれば、色々なことに使えるだろう」と考えた。
「そいつは若い、殺すな」
先頭に立った男が、倒れた青年に槍の穂先を向けながら言った。暗くて顔は判らない。
ひとりを残して、他の男たちは“群れ”へと歩を進める。
群れの人々の何人かは、青年の叫び声で目覚めていた。
首を伸ばしてあたりを伺うと、見慣れぬ大男たちがこちらに向かって歩いてくるのが見える。
身動きをとろうにも、人々は団子になっており、まだ眠っているものさえもいる。
とにかくあれが危ないものであるとは解ったが、逃げられそうもない。
「おい、おまえら。殺されたくなかったら、若い奴をだせ」
先頭に立つ男が、群れの人々の頭に言葉を引っ掛けた。その声は落ち着き、静であったが、夜の砂漠の風よりも冷たいものだった。
「ここには若い者はおりません。みんな年寄りばかりです」
いちばん端に居た老婆が答えた。老婆は男の顔を見ることなく、震えながら骨ばった手で膝をさすり続けている。
老婆のほかには返事をするものはなかった。だが、寒さや日光から守る為に被っていたぼろ布がうごめいているのが見えた。
「本当か? 昨日の連中も、同じことを言っていたぞ」
「本当です。だからよそへ行ってくだされ」
「嘘だな。昨日の連中は、ここの群れには若い男がひとりと、えらく美人な娘が居ると言っていた。若い男はあいつだろう」
そう言って倒れた青年の方を指さす。
「彼だけです。他には、わしのような枯れ木みたいな者しか、残っておらんのです。彼に酷いことをしないでやってくだされ」
膝をさする手が早くなる。
「そうか。では勝手に探すことにしよう」
男はそういうと槍をちょいと前にやった。
老婆はうめき声をあげ、膝をさする手を止めた。
代わりに何か、祈りのようなものを呟き始めた。
団子になった人々のあいだから短い悲鳴が漏れる。
団子は老婆を残し、一層強く身を寄せ合った。まるでカメが甲羅の中に頭を引っ込めるかのように。
彼らの多くは、逃げだすことも逆らうことも考えなかった。相手は武器を持っているとはいえ、人数ではこちらのほうが多い。
駄目で元々、戦うことだってできたであろう。だが彼らは、過酷で希望も娯楽も乏しい毎日に気概をすり減らし過ぎていたのだ。
死を望んでいたわけではなかったが、生き疲れて果てていた。今日を生き抜けば、また明日も生きなければならない……それだけだった。
くだんの娘も同じく、団子の中に居た。
彼女は、“群れ”の「面倒見の良い女」に頭を押さえつけられ、隠されていた。
娘は血の繋がりのすべてはとうの昔に失っていた。だから彼女にとっては、群れのすべてが家族である。
そして何より、正義感溢れる青年の妹だった。彼女は青年に付き従い、彼の正義を写し取っていた。
そんな彼女が、この危機に立ち上がらずにいられなかったのは、至極当然ことであろう。
槍を持った男は松明に火を点けた。
男の顔が炎に照らされ露わになる。頬骨が影を作り、立派に蓄えられた顎鬚と混ざり、顔を縁取っている。
「めんどくせえ。早く出せ」
痺れを切らした男が、老婆に思いきり槍を突き立てる。悲鳴は聞こえなかった。ただ、ぶつりと肉が切れる嫌な音ははっきりと聞こえた。
「なんだこいつら、ろくに悲鳴もあげやがらねえ。死んでるのか、そうじゃないのか」
男が何度か槍を動かす。ぶつり、ぶつり。ようやく叫び声をあげる老場。叫びに呼応するように、団子がぶるりと揺れた。
娘は顔が上げられず、声のしたほうを見ることができなかった。
恐怖からではない。彼女の頭を押さえ付ける手は震えていたため、おおよそ何が起こっているかは推測できたが。
「私が出ないと、殺されてしまうわ」
娘は頭を押さえる女に囁いた。女は何も言わず目を固くつむったまま、顔だけをいやいやと振る。
「やめろ!」
怒気に満ちた声と、砂が激しく巻き上げられる音が聞こえる。
青年が駆けてきた。腿から血を流しながらも、群れへと駆け付けたのだ。しかし彼は、あっという間に取り押さえられてしまった。
「おい、こいつを押さえてなかったのか!」
髭の男が怒鳴る。
「こいつ、俺の目を刺しやがった!」
青年のあとから、顔を押さえた男が現れた。男の左目の部分には矢が立てられ、押さえる指の隙間から、次から次へといのちを溢れさせている。
「“コニア”! 逃げるんだ!」
取り押さえられた青年が呻く。
「にいさん!」
青年の声に反応し、娘が立ち上がった。立ち上がった勢いで“群れ”を隠していた日よけは除けられ、押さえていた女も亀のようにひっくり返されてしまった。
女は目立つのを厭ってか、すぐさま両掌で顔を覆い地に伏せた。
「おい! 槍を寄越せ!」
目を押さえた男が、横に居た仲間から槍をもぎ取った。彼は怒りと痛みで、顔じゅうに皴を作っていた。無事なほうの目もおぼろで赤い満月だ。
「こいつ! 俺の目を刺しやがった!」
男は同じ言葉をもう一度呻くと、青年に向かって槍を突き下ろした。穂先は素直に背中へと吸い込まれた。
青年は堪らず、げえと悲鳴をあげる。槍を握る男のこぶしは青い血管が影濃く浮き上がり、震えている。
「やめろ、売り物にならなくなるだろう!」「せっかくここまで歩いてきたのに!」
他の仲間が制止する。だが、男の恨みは凄まじく、男数人掛かりでも止めるに届かない。
「こいつ! 俺の目を! 刺しやがった!」
一言一言に憎しみを込めて、何度もやいばを突き下ろす。
青年の口からは、刺されるたびに、唾気のある音といのちが吐き出された。
あまりにも怒気が満ちた空気に、人さらいの仲間たちまでもその場に立ち竦んでしまった。
片目の男の恨みは目玉が返されるまで果てることはない。
そのうちに青年は、叩くと音を鳴らすだけの楽器になった。
「大した価値もねえくせに!」
砂を巻き上げんばかりの怒声。目を押さえる男は、最後に力いっぱい突き刺し、両手でねじってに穂先を押し込んだ。
槍の柄を伝い、男の血が青年の身体へと流れて行った。
「クソヤロウ!」
言い捨てると男はその場に座り込み顔を覆った。それから、小さな声でぶつぶつと繰り返した。……クソヤロウ。……クソヤロウ。
さきほど彼を取り押さえようとしていた男が、彼を立たせてやり、肩を叩いて宥めた。
永久に目玉を返してもらえないと知った男は、仲間たちに連れられ闇の中へと消えて行った。
僅かばかり空気が緩んだ。
それもつかの間、群れの人々は恐怖を口にし始めた。
ようやくだ。いくら彼らが生への活力に欠けるとはいえ、目前で青年があのような死を演じれば、仕様のないことだろう。
強固な甲羅を背負ったカメはネズミの群れとなりつつあった。
「お前もああなりたくなかったら、来るんだ」
髭の男が娘に槍を突き付けた。娘は青年の亡骸に焦点結んだまま、口の中で何やら呟いている。
まるで砂の亡霊。目には光を湛えたまま。赤い亡霊。
「おい、聞いてるのか」
穂先が鼻先まで近づけられた。それでようやく娘は槍を突きつけられていることに気付いた。
「どうしてにいさんを。ゆるさない」
娘は槍を払い除けると髭の男を睨みつけた。
今にも飛び掛からんといったさまだ。うずくまった仲間の身体に妨げられてなければ、すぐにでもそうしていただろう。
男は槍を群れの一人へと向けた。
穂先を向けられただけの彼は、まるで青年と同じにされたかのように悲鳴をあげ、砂の上を尻で這いずり逃げようとした。
娘は脅しに怯むことなく言う。
「お前も殺してやる」
髭の男はため息一つ吐くと、槍を下げ、石突きを砂につけた。
「みんな! あいつらはにいさんを殺したのよ!」
娘は指差し、仲間に向かって叫んだ。
しかし返ってきたのは、同意や共感の怒りではなく、無言の視線のみであった。
彼女は“群れ”の人々を見渡した。誰しもが薄暗い表情をし、口元は緩み切っていた。
ただ、彼女に向ける視線にだけは、もの言いたげに、芯を通したまま。
小動物や草食動物が群れを成す理由の一つに、仲間が捕食者に襲われているあいだに、他の者が逃げ延びるというものがある。
人間だって群れを成す。人間が群れを成すのは役割分担や効率化のためだ。
もっとも、飢えや恐怖に飲まれた彼らが、まだ人間と呼ぶに相応しいものだったかはわからないが。
ともかく、こうして銀色の髪をした娘は、“外”へと連れられて行くことになったのだ。
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