.19 娘と娘
コニアとプニャーナが浜辺の小屋を占領してから、数日の時が流れた。
娘たちは海辺でも生きてゆけるための術を着々と身に着けて行った。
若い身体と生きようとする意志は何よりも学びの助けになる。
一面に広がる水は飲むことこそできないが、多くの食料を彼女たちに提供した。
提供されたものは、何でも一度は口にしてみた。色とりどりの魚や、気色の悪い軟体生物。
殻に身を隠す貝については舌先が痺れるものが混じっていたため、迂闊に手を出すのを控えるようにした。
故郷とは違い、食べるための工夫にそれほど苦心せずとも、腹を満たすことができた。
今や食べ物は、小屋の中に充分過ぎる程に蓄えられている。
水に関しても、海へ流れ込む川を近くに見つけることができ、そこから汲み取れば良かった。
火と水、豊潤な食料は彼女たちの生活を今までで一番豊かにした。
娘たちは乾燥した大地での暮らしが長かったせいで、水辺に近づくと遊ばずにはいられない。
砂漠の民が雨で小躍りをするように、彼女たちはいつもそんな気持ちだった。互いに水を掛け合ったり、水を住処にする生き物を食べるつもりでなくとも追い回したりした。
食事と水の心配が要らなくなったら、次は寝床だ。
砂浜では良い匂いのする藁は手に入らなかったが、彼女たちはもとより床の上でも砂の上でも眠ることができる。
ただ、壁が風によって不気味な呻きをあげたり、天井の穴から鋭い光や雨が入り込むのは我慢がならなかった。
それは、古郷では野晒しでも構わなかった彼女たちが、“外”へ出て来てから変わった点の一つであった。
小屋の付近の浜には、壊れた小舟が打ち捨てられている。かつての小屋の持ちぬしは、この小舟の持ちぬしでもあったのだろう。
その破れた板の一部を失敬して、天井や壁の隙間を埋めた。
ときおり発生した力仕事は、娘の片方が罵声を発しながらこなしていった。このやろうとか、くそったれとか。
プニャーナは舟を見てこれは何かとコニアに訊ねた。
コニアが説明してやると、なるほどと頷き「いつかこれを直してふたりで釣りに行きたいね」と笑った。
舟の事に限らず、熱血教育長に焼き付けられたコニアの知識は何度もふたりの役に立った。
それでも分かるや解決されることはごく一部だ。それだけ彼女たちの暮らしは不思議と初めてに溢れていた。
コニアはパンくずを耳に詰めなければ、もっと世界が広くなったのかもしれないと少し後悔した。
さて、“食”と“住”が充実すれば、あとは“衣”である。いくら彼女たちが野生的な生い立ちと、制限された暮らしをしてきたからとはいえ、年頃の娘である。
砂漠だろうが大楢だろうが、乙女は乙女だ。すり切れ血を吸った服にどうして我慢が出来ようか。
それにこの荒れた髪もたまらない。生きることについての焦燥が女としての自尊心を殺していたが、ようやくそれが息を吹き返したのだ。
「私に良い考えがあるの」
言い出したのはプニャーナであった。
彼女は小舟から失敬してきた大きな布の塊を引っ張り出す。
元は潮風を抱き込んで舟を前進させる仕事をしてきたそれは、あるじを失い役目を終えてしまっていた。
プニャーナはナイフで頑丈なそれを裁断しようとした。
大きな分断はなんとかなったが、どうにも力不足で細かいところは思うように切ることができない。
「プニャ、この布で服を作る気なの?」
尋ねるコニア。
「そうよ」
「でも、ここには革や糸も、針だってないわ」
「そんな難しいもの、私じゃ作れないよ」
プニャーナが笑う。
首を傾げるコニアをよそに、大きな布を半分に折るプニャーナ。
「ここを頭が通るように、切り取れない? お月様の半分のときみたいに。私じゃ、あんまり自信がない」
「やってみるわ」
コニアには裁縫の経験も知識も無かったが、それでも火打石を割ってしまう相方よりは幾分かましだった。
布地は古くなっていたが大いに抵抗した。かつて舟を前へと運んだ帆布。
その硬い矜持を断ち切る為にはコニアはたっぷり布を罵倒しなければならなかった。
プニャーナはそれがおかしくていちいち笑い転げた。
大きな布に丸い穴が一つ空いただけの代物。
それを頭から被り、腕だけ自由になるように裁断し、腰のところで紐なり帯なりで固定する。
簡単な作りではあるが、墓場の汁の染みた服よりは遥かに良い。彼女たちの新しい服は、潮風のにおいがした。
「すごいわ。プニャ」
服を身に着けくるくる回るコニア。
「あなた、本当にすごい」
ひとしきり回るともう一度褒めた。
「えへ。初めて褒められた」
友人の素直な称賛は、プニャーナの顔を熱し溶かした。
この簡単な服は彼女が女主人のところで習得した、唯一の工作だった。
プニャーナはふたりで行動を共にするようになっても、活躍の機会は乏しく、器用なほうの娘の手伝いをする程度だった。
それは親しんだ友人相手とはいえ、彼女の心にちょっとしたしこりを残していたのだ。
ようやく主役になれた娘は、友人を明るい屋外へ連れて行くと、適当なところへ座らせた。
「なに? 次は何をするの?」
「いいから、動かないで」
プニャーナはコニアの滑らかな銀髪をふたつの房にわけた。それを片方づつ、ゆっくり丁寧に編み込んでいく。
編み仕事を行うプニャーナは真剣だ。コニアには動くことも喋ることも許さなかった。
普段は狩りのときに「少し黙って」とか「動かないで」と言われる立場なのに。
これは彼女の不器用さからのものでも、まして仕返しでもなく、得意な仕事への執着がさせるものだった。
プニャーナは古郷では群れの仲間が狩りや採集に出かける時、いつも味噌っかすにされていた。
小さな子供たちや、なけなしの財産の番。彼女は自分が相応の年になってからも与えられ続けるこの仕事が、無能の烙印であると認識していた。
とろくさい彼女で無くとも、大勢の子供のやんちゃを制御するのは大変な労働である。
……ところが、彼女はそれを簡単にやってのけていた。
彼女は子供の気を引くのが上手かった。
あるときはでたらめに継ぎ接ぎした話で、男の子の冒険心を満たしてやったり、あるときはこれまたでたらめに考えた唄で、独りきりで眠りへと落ちるのを怖がる女の子を救ってやった。
ある種の天賦の才であったが、“群れ”ではこれが毎日のように行われていたし、娘にとっても自然な事だったから、彼女が“群れ”において重要な仕事をやってのけていることに誰も気がつかなかった。
そういった仕事の中で身に付けたものの中に、「髪結いの特技」があった。
“砂の民”にも、男は髪を短く、女は髪を長く保つという文化がある。
鋭い石や、貴重な刃物などで髪や髭を整えた。水で身体を洗うことも、服を気遣うことも許されない暮らしではあったが、彼らは毛を整えることは忘れなかった。
動物だって毛づくろい位はするだろう。
砂漠や荒れ地の気候は、女性の長い髪と首のあいだに熱気を蓄えさせる。このため、女性たちは頻繁に髪をぱたぱたやって熱を逃がさねばならない。
いっそのこと切ってしまえたらと誰もが思っていたが、それは男たちを酷くがっかりさせたので、禁忌とされていたのだ。
つまるところ、女性の誰もが髪を長く棚引かせていたのだが、プニャーナは暑がる幼女を哀れに思い、なんとかできないかと髪を弄り始めたのだった。
それが次第に“群れ”で流行り、時折交流のあった隣の“群れ”でも広がりを見せた。
故郷の死に絶えたと思われた「文化」が、僅かながらに息を吹き返した瞬間であった。
「できた!」
プニャーナはコニアの長い絹の髪を、二つに結い上げた。元は腰に届きそうな絹だ。長い長いみつあみになった。
「これは、どうなってるの?」
おさげを持ち上げ、眺めるコニア。
「髪を編み込んだのよ。コニア、髪の毛を暑そうにしてたから。どう? これなら涼しいでしょ?」
コニアの首筋を、潮風が撫ぜる。
「ありがとう、プニャ。すごい特技、沢山持ってるじゃない」
「えへへ。でもね、これは群れの皆、できたんだよ」
“群れ”において最初に始めたのがプニャーナであっても、技術は技術だ。所有物ではない。
彼女は得意になって“群れ”の女の髪を結ってやった。
初めこそはちやほやされたが、熱気と美を交換できると知った群れの女たちが挙ってこれを覚えてしまい、娘の唯一の特権を奪い去ってしまったのだった。
結えばそのうちに砂が入り込む。それを払うには結い直す必要があった。
繰り返しから覚えることは必然だったのだ。そして男たちも女どもが美容に関心を持ち、色気づいたのを大層喜んだ。
プニャーナに残されたのは子供の髪を弄る仕事だけだった。
これだけは動き回る子供を大人しくさせるコツが要ったので、誰にでもできるものにはならなかったのだ。
「髪先を切るのは、自分でやってね。私は切るのは苦手だから」
「自分で整えるのって難しいのよね、特に前髪」
みつあみを摘まみ、毛先を眺めるコニア。
「やっぱり私がやる? おでこに赤い線が入っちゃうかもしれないけど」
にこにこしながらナイフを持ちだすプニャーナ。
「やめとくわ。その代わり、変になってないか見て」
コニアは伸び放題になっていた前髪を切った。
プニャーナは彼女の髪が斜めになっていないか確認する役目を仰せつかったが、助言をしてやる必要は全くなかった。
「綺麗よ、コニア。ますます美人になったみたい」
大げさに褒めるプニャーナ。
「そうかな……」
今度はコニアがとろけた。
「さて、今度は私の番ね」
そういうとプニャーナは、腰までの長さもある癖っ毛をがさがささせた。未だにゴミが絡まっている。
「これは結べないわね……」
コニアは自分が綺麗にしてもらったぶん、友人の頭の酷い有様に申し訳なくなった。
そんなコニアをよそに、プニャーナは「えいっ」という掛け声と共に、首のあたりで髪をばっさりと切り落としに掛かった。
しかし、髪が硬いのか、刃物が鈍っているのか、なかなか髪を切り落とせない。
「ちょっとプニャ! やめなよ!」
慌てて止めるコニア。
「そうだね。危ないね。コニアにお願いして良い?」
「そういう事じゃないわ。女の子がこんな……良くない!」
砂の上に散らばったごみと銀の髪。
「でも、邪魔なんだもん。髪の毛なんてどうせまた伸びるよ」
「そうだけど……良くない!」
コニアはプニャーナが髪を切るのに勢いのみで反対した。
それは、髪を長く保つのが文化だからとか、女の子の髪は大切に扱わなければならないというありきたりな理屈である。
だが、その目的が美容の為なら、この藪のような状態はなおさら良くないわけで、それに薄々感づいていたために、上手く理由が述べられないでいた。
「良くないなら、私、ワルでいいもん。ここには叱る大人だって、髪を見せなきゃいけない男の子だって居ないのよ。だめなをことしたって自由よ!」
「……確かに」
コニアはプニャーナの弁にあっさりと意見を曲げた。
理由がもっともなこともあったが、彼女の禁忌への反抗に味方をしたくなったからであった。
だめと言われればやりたくなる。背徳行為を蜜と感じていたのはコニアだけではなかったのだ。
「わかったわ。それでもなるだけ、可愛くなるように切ってあげる」
そういうとコニアは、同志の森の伐採へ取り掛かった。
髪を整え終わるころには、コニアの手のひらはすっかり痛くなってしまっていた。
「頭が、身体が軽い!」
背中のごみを取り払ったプニャーナは海へ駆け込んだ。
浅瀬の柔らかい地面の感触を楽しみながら跳ねまわっている。
長すぎる髪の毛は彼女の鈍さを手伝っていたに違いない。
今の彼女は、髪の短さも相まって、快活で運動好きの娘に見えた。
彼女は何か小唄を口ずさみながら、片足を軸にして、くるりと一回転してみせる。
足の指先が水面を撫ぜて、綺麗な水しぶきの輪を作り出した。
どんくさいはずの彼女の身のこなしが、美しく見えた。
コニアは友人の舞踏を眺めながら、海の水で疲れた手のひらを冷やす。
ふと、手首に埋まったままのヘビの卵を見つめる。
あの夜から“神樹の精”を名乗る声は頻繁に彼女の頭を悩ませていた。
特に踏み入った発言はしてこないものの、ひたすら「ここから離れろ」と警告を続けていた。
コニアは声をあしらうか、無視し続けていたが、生活の落ち着いた今になって逃亡への助言に対して黒い予感を抱き始めていた。
少なくとも、小屋に来てから今までの彼女は「幸せ」だった。必要なものが揃ったら、欲は余分な物を求め始める。
……。
「ねえ、プニャ。これを見て」
右手を親友へ突き出すコニア。
「どうしたの? ……なにこれ!? 石? 痛くないの?」
跳ね回っていた娘は手首を見せられると、また跳ねた。
「今は痛くはないわ」
「これ、取れないの? どうして埋まっちゃったの?」
見せられた腕の有様に、顔を歪めるプニャーナ。
「信じてもらえないかもしれないけど……。これを取ったら、私、死んじゃうのよ」
首を竦めるコニア。
「ええっ。嫌だよ。コニア死なないで」
すでに涙声のプニャーナ。
「取れたら、よ」
「そうだね。これが外れたら、きっといっぱい血が流れてしまう。もし取れそうになったら、絶対に私に知らせてね。何か手伝えることがあるかもしれないから」
「ありがとう」
「コニアは私の親友よ。置いて先に死んじゃ、嫌よ」
抱き着いた娘の声は震えている。
「うん……」
コニアは親友の短い髪を撫でてやる。
コニアは真実のほんの一端を伝えられただけでも、気は随分と楽になった。
余計な事を言ったかとも思ったが、彼女の、彼女たちのあいだで育った木が実を付けたことを確かめることができたのだ。
ふたりは真の友情を得た。片や仲間への信を捨て去り、心の一部を凍らせた娘。片や仲間から信を置かれず、自分を売り払った娘。紡がれた友情は失われることは無いだろう。
たとえ何が二人を別とうとも。
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