.14 火打石と打ち金
広大な海。
到底使い切れないほどの水を前にした娘たちの頭には、早急にやらねばならない仕事が浮かんだ。
「ねえ、私たちって、すごく臭くない?」
「うん……なんかにおうよね……」
墓場の穴の中に居たふたりの服や体には、生理的嫌悪感をもよおす汁が、たっぷりと付着していた。
森を抜けたころには、潰れた嗅覚も落ち着き、両者ともにお互いの発する臭いに閉口していたのだ。
本当ならば、疲れていようとも、ふたりはもっとお互いの事を訊ねながら歩きたいと考えていた。
だが疲れに加え、口を開くとえづいてしまいそうな程の悪臭が、それを妨げていた。彼女たちはさながら、動く腐乱死体といったところである。
彼女たちはさっそく身体と服を洗うことにした。
プニャーナは着ているものをその場に脱ぎ捨てると、波打ちぎわへと駆けて行った。
この状況は、娘たちの恥ずかしむという心を沖のほうへ連れ去っていた。
だがコニアは、もう少し朝焼け海の余韻に浸ってから、そうしたかった。彼女の古郷では、これほどまでの水が拝めることも無かったし、こういった贅沢な水の使いかたをするのなら、儀式的な気持ちで行いたいと考えたからであった。
「コニア、早くおいでよ」
波打ちぎわでプニャーナが呼んでいる。仕方なく、コニアも服を脱ぎ棄て、薄浅葱の海へと駆けて行った。
ふたりは遠慮無しに水の中に飛び込んだ。過酷な旅での疲労と、傷だらけの身体を癒すために。
塩っけたっぷりの海水の中へと。
「ぎょええええええ!」「ああああああああ!」
当然、傷口に海水が染みる。哀れふたりは、火あぶりに掛けられた罪人のように叫び倒した。
先を競って、砂浜へ逃げ延びようとする。娘たちは水を蹴るたびに、悲鳴をあげた。
ようやく砂浜へたどり着いたふたりは、砂の上を転げまわった。そこで小さな砂の粒が傷口に入り込んで、二度目の拷問をたっぷりと堪能した。
彼女たちの痛みが引き、それからおっかなびっくり身体を洗い、それから服を洗濯し終わるには、たっぷりと時間が必要だった。
ふたりは、風の吹く海岸沿いを歩いた。海から吹き付ける潮風と、暖かい日差しがが、まだ湿った服を乾かすのにちょうど良い。
鼻先の問題はなんとか片づけたふたりであったが、それが落ち着くと次は、飢えと渇きが気になって仕方がなかった。
海の水は到底飲めたものじゃなかったし、今のところ食べられそうな生き物にも遭遇できていない。
とにかく、何か空きっ腹に役立ちそうなものを求めて、海岸線を進むほかなかった。
「ねえ、あなたもあの砂だらけの国から来たの?」
コニアがプニャーナに訊ねた。
日が昇るまでは気づかなかったが、プニャーナも彼女と同じく、小麦色の肌と銀の髪をしていた。
ひとつだけ違ったのは、髪を濡らしたときに、コニアの髪の毛はまっすぐになったのに対して、プニャーナの髪は多少の湾曲を残したことだった。
生来の癖っ毛らしかったが、それが髪についたゴミを取るのを難しくしてしまい、いまだに頭には、枝とか蔓とか何かの生き物の筋のようなものが絡まったままになっている。
「うん。こっちには自分で来たんだよ」
自分で来た。
その発言にコニアは驚いたが、それと同時にここに至るまでの経緯を聞くのは失礼であることに気付いたため、自分のうかつさに恥ずかしくもなった。
「私は“外”の世界がどうなってるか、知りたかったから……。あなたは?」
問い返すプニャーナの表情には遠慮は無いようだ。
「すごいね。私なんて、無理やり売られたようなものだったよ……」
コニアは正直に答えた。故郷の仲間への恨みを込めて。
「そうなんだ……」
プニャーナは言葉の続きを紡げないようだった。
なんと言っていいのか分からない。それは当然なことだろう。
「でもけっこう、良い思いもしてきたんだけどね」
慌てて悲壮感を打ち消そうとするコニア。
「分かるかも。こっちのほうは、食べ物がおいしいものね」
プニャーナが言う。
「そうそう、寝る場所も砂の上よりマシだしね」
「お腹空いた。……それにちょっと眠い」
「うん。寝る場所も、どうにかしないと」
ふたりはそろって、空っぽになったお腹をさすった。
「ねえ、あれは何?」
プニャーナが指さす。その先には小屋のようなものがある。
「小屋ね。誰か住んでいるのかしら」
「食べ物分けてもらえないかなあ」
プニャーナのお腹が提案をした。
「行ってみる? ちょっと怖いけど……」
遠目で見ても小屋はあまり綺麗な代物とは言えなかった。
何か住んでいるとしても、その者の品性がどうであるかを雄弁に語っている。
「もし、おばけがでてきたら、逃げよう」
「プニャ、おばけは居ないと思うわよ……」
ふたりは小屋へと近づいた。木で作られた簡素な小屋は、潮風のせいで随分と痛んでいた。
大きさは中庭の小屋の倍以上はあった。外の壁には破れた網が掛けられている。とりあえず、屋外には人影はない。
「すみませーん。誰かいませんかー」
コニアは開けっ放しになった扉から中を覗き込んだ。
中には誰も居ない。かまどのようなものや、ワラを敷いた床、いくつかの木箱などが見えた。
空気は埃っぽくにおい、においの元は小屋の中の物すべてに被っていた。
「誰も居ないわ」
振り返り、プニャーナに告げる。
「勝手に入って、怒られないかな」
「人が住んでいるようには思えない」
中の床には、風で入ったであろう砂が散乱していた。
コニアは小屋の奥へと足を踏み入れてみた。プニャーナもそれに続く。
「おばけ、居ないかな……」
「居ないってば」
まったく馬鹿なことをいう子だと、コニアは少し呆れた。
部屋の隅に、布を被せられたものが置いてある。中身は何だろう。
「それなに?」
覗き込むプニャーナ。
「わからない」
「食べ物だったらいいなあ」
コニアは布を引っぺがした。
中から出てきたのは、海の空気にすっかり水分を奪われた人型の物体。つまりは、死体。
「「きゃああああああ!」」
小屋から飛び出すふたり。
「コニア、おばけ居ないって言った!」
「言ったけど! あれはお化けじゃない! ここで死んじゃった人よ!」
地団太を踏み小屋を指さすふたり。
「ここで? ……独りで?」
つと、怖がるのを止めるプニャーナ。
「うん。多分だけど……」
ふたりは“かれ”が急に動き出さないか心配しながら、外へと運び出した。
“かれ”の身に着ける衣類には乱れもなく、綺麗なものであった。
身体にも大きな怪我はなく、どこかに血の跡があるようにも見えなかった。
病死か、餓死か、はたまた老衰か。ともかく“かれ”がこの場所で死んだのは間違いないようだった。
遺体を見たプニャーナは提案した。
“かれ”を埋めてあげようと。その代わり、しばらく“かれ”の小屋を使わせてもらおうと。
コニアは部屋の中から穴掘りに使えそうな棒を見つけると、小屋の横を掘り始めた。
砂の地面は棒で掘っても、すぐに穴へと砂が流れ込んでしまった。
仕方なく、湿った土が出るまでは、ふたりがかりで手を使って砂を掻き出すことにした。
“かれ”は痩せていたとはいえ、娘たちの手で埋めてやれるほどの穴を掘るには、かなりの時間が掛かった。
彼女たちの古郷でも、死者は穴に埋められている。
決まった墓場があったわけではないが、野ざらしにすることは無かった。
また、いくら飢えていようとも、その死肉を喰らったりもしなかった。
物質的にも文化的にも貧しい民族ではあったが、人としての最後の境界を超える習慣は持ち合わせていなかった。
――にいさんはちゃんと埋めて貰えたのかな。
コニアは“かれ”に土を掛けながら、故郷の兄を思い出す。胸に何かがつかえる感覚。
砂漠に居た頃は一日の長い時間、彼にまとわりついていたはずなのに、優しかったはずの兄の顔が墨で塗り潰したようになっていた。
彼は血を分けた兄ではなかった。いつから「にいさん」と呼び親しむようになっていたのだろうか。
彼の本当の名前も、彼が他の“群れ”の仲間とどういう風にやりとりをしていたのかも、思い出せなくなっていた。
もしかしたら初めから憶えていなかったのかもしれない。
彼女の中に残っていた思い出は、狩りの成果を褒めて貰えたこと、怪我や病気を心配されたこと、彼女の好奇心や妄想癖を肯定的に捉えてもらったことなど、兄が妹に“与えた”行為ばかりだ。
他の事など彼女のくぐって来た闇に揉まれて消え去ってしまった。
コニアは城を出てから、兄が必要ではなくなっていた。
ひとりで、自分の意志で穴を出て新たな仲間と森を進んだ。彼の事はどこかに置いてきてしまった。ちゃんと埋めてやりもせず。
「さようなら、知らない人。安らかに眠ってね」
プニャーナが呟いた。
ふたりは小屋の中を本格的に探索した。
持ち主は漁師だったのだろうか、小屋からは、銛や舟の櫂などが見つかった。
それとナイフと、調理器具、食器。食料さえ得られれば、ここでも古郷より豊かな生活ができそうだった。
これら道具の解説と“かれ”の職業の推測はプニャーナがおこなった。
コニアも「漁師」の存在くらいは話で聞いたことがあった。
「食べ物を見つけたわ」
プニャーナはどこからかパンを引っ張り出した。
パンは今まで見た白いパンではなく、なんだか全体的に緑がかって、青い粒をまぶしたような異様な見た目をしていた。
「ねえ、それ食べられるの……?」
「大丈夫! 私、こんな見た目のチーズを食べたことあるけど、なんとか食べられたよ」
「ふうん……」
コニアはチーズを見たことが無かったので、なんとも言えなかったが、このパンが異常であるという考えは変え難かった。
これを見てから、頭でずっと警鐘が鳴り響いている。
緑のパンはさておき、水を探さねば。コニアは小屋中の瓶を覗いて回った。
「こっちの瓶には、水が入ってるわ!」
入り口の陰には大きな瓶が置いてあった。中には水が入っている。においは少し妙だったが色は透き通っており、パンよりは平気そうに見えた。
「それ、大丈夫だよ。飲んでみたら、ただの水だった」
そういうとプニャーナは水を手ですくい、飲んで見せた。コニアもそれを真似する。
やはりにおいは少し気になったが、潮水を飲むよりは何倍もましだった。これでようやく、ふたりの渇きは癒された。問題は食べもののほうだ。
「もうひとつ、壺があるけど、こっちは何かな」
コニアが声のしたほうを向くと、プニャーナが別の瓶を指さしていた。
壺ではない。首長で、両端に取っ手の付いた奇妙な形だ。
「中に何か、液体が入ってるのは確かなんだけど」
瓶にはしっかりと栓がされているようだった。
「開けてみる?」
「たぶん油かな? それより、お腹がすいちゃった。パンを分けようよ」
瓶への興味をすぐになくし、手にしたものを半分に割るプニャーナ。青緑の物体が、コニアの前に差し出される。
「本当に、これを食べるの?」
コニアは不安が隠し切れない。
「うん、大丈夫だって。食べて見せようか? ほら……」
「ちょっと待って!」
プニャーナの腕をつかむコニア。
「えー、だいじょぶだよお」
頑なな綱引き。
「良いことを思いついたのよ」
「良いこと?」
提案する娘の顔は自信ありげだった。
ふたりは連れ立って、波打ちぎへとやってきた。
コニアの言う「良いこと」というのは、単にプニャーナにカビたパンを食べさせないための出まかせではなかった。
コニアの手には木製の棒が握られている。
その棒には紐が結わえ付けられており、紐の先には青いパンの切れ端が括りつけられていた。
ちなみに紐は自分の頭から数本か拝借したものでできている。
「釣りよ!」
「釣り! でも、ここではサソリもトカゲも居ないよ」
「違うわ。魚を釣るのよ」
「……お魚!」
魚という言葉を聞いて、目を輝かせるプニャーナ。故郷に魚は居なかったが、こちらに来てから口にしたことがあったのだろう。
コニアも食堂で出されたものを口にしたことがあり、良い印象を持っている。
「海には魚が居るのよ」
「そっか! パンでお魚を釣るのね。コニアかしこい!」
「ふふん」
娘は得意げに鼻を鳴らす。コニアは群れで一番の食事獲り名人だ。
もちろん釣りにも自信がある。砂からサソリやトカゲを釣るのは得意だ。
彼女らの古郷でも、遊びというものがひとつだけあった。それは釣りだ。
小枝に長い髪の毛で作った糸を結び、釣り竿を作る。餌はないがその代わりに短い木片を使う。
大きな手だと獲物に警戒されてしまう。木片を敵や餌に見立てれば、勝てると思ったサソリやトカゲが食いついてくるというわけだ。
それは食事の確保だけでなく、ちょっとした暇つぶしにもなった。
コニアはどんな方法でも上手く獲物を捕らえられたので、わざわざ釣り竿は使わなかったが、やはり暇人だった彼女はこれもまた得意であった。
場所が砂から水に変わり獲物は魚に変わったが、もちろんうまくやる自信があった。
モルティヌス教育長の説教の中に、漁についての話があったからだ。
食べ物や生き物に関することは、耳の中のパンを上手くすり抜けていたようだ。
「よし、じゃあ行くよ」
パンを投げ、遠くに落とす。しばらくすると、パンの近くを何かが通った。
「来た!」
「静かに!」
魚はまるでパンを気にせず、素通りしてしまった。そのうちにパンは水に溶けて消えてしまった。
新しくパンを付けてやってみるも、魚はまったく寄り付かなかった。
「ダメね……」
塊が小さすぎるのかもしれない。コニアはけちらずに、大きな塊を使ってみることにする。
すると、魚は落とされたパンに驚き、少し距離を取った。
逃げたかと思われた魚は、しばらくするとパンの前へと戻ってきた。やった。パンを口へと吸い込んだ。
「「今だ!」」
勢いよく竿を引くコニア。しかし、紐はパンからすっぽ抜けて、餌だけ取られてしまう形となった。
「ああっ、逃げちゃった!」
プニャーナが残念そうな声をあげる。
残りのパンを使って何度も試したが、魚は彼女たちを馬鹿にするかのように餌にあり付き続けた。ふたりの手元にはもう、パンは残されていなかった。
唐突に立ち上がるコニア。釣り竿を砂浜に投げ捨てる。
「コニア、何するの!?」
「このやろー!」
コニアは法衣も脱ぎ捨てて、ぼろ一枚になって海へ駆けて行った。
コニアは魚の居たあたりに行くと、何度も両手を海の中へ突っ込んだ。繰り返し水しぶきをあげる海面。
はたから見れば、彼女は暴れているようにしか見えない。何度か、水中への突きを繰り返した後、彼女はぴたりと動きを止めた。
両手を引き上げると、その手には必死に逃れようともがく大きな魚が握られていた。
小屋を漁り、火を起こす道具を探す。かまどがあるということは、なんらか火をつけるための手段があるということだ。
コニアはかまどの周りや、その辺の木箱の中を漁ってみた。
手のひらに収まる位の石と、金属の板が出てきた。火打石と打ち金だ。
「あ……」
それを見たプニャーナが短く声をあげた。
「どうしたの? やりたい?」
コニアは火打石を見せる。プニャーナは首を振った。
「私ね、見栄張ってたの」
「見栄?」
聞き返すコニア。
「自分で“外”に来たって言ったでしょ? あれ、ちょっと違うんだ……」
ぽつり、ぽつりと語り出す娘。
プニャーナも故郷に居た頃は、コニアと同じように“群れ”に所属していた。
その“群れ”は子沢山だった。育ちざかりの子供が多ければ当然、確保しなければならない食事も増えるし、外敵から守らなければならい対象も増える。
仕事の多い“群れ”では、子供を含めみんな、様々な役割を与えられていた。
「私、なにやってもダメでさ」
プニャーナには得意なことが無かった。
移動すればのろまで一人だけ遅れてしまう。
水を汲みに行けば貴重な瓶を割ってだめにしてしまうし、獲物を捕る競争をすれば、年下の子供にも負けてしまう有様だった。
「お前はなにもするなーって、大人の人に怒られちゃった」
ひとりでに笑うプニャーナ。
砂の故郷で求められる事はあまり多くない。
だが、生きるためのこれらが上手くなければ、味噌っかすにされてしまうのは、仕方のないことだった。
その為、いつも彼女に与えられていた仕事は、小さな子供と共に大人しく留守番をすることだった。
「ある日ね、“外”から“商人の人”が来たの」
それは、留守番する彼女と子供以外が出払っているときの出来事だった。
「“商人の人”はね、沢山の食べ物や道具をもっていたの。
お話でしか聞いたことの無いような、おいしそうな食べ物。
パンでしょ、野菜でしょ、お肉の干したものに、木の実を潰して作った香辛料。お鍋に、瓶に、服に、それと火打石」
火打石。火を起こすための手段の一つ。
荒廃した土地はあれだけごろごろと腹の足しにならない塊を持っていた癖に、着火に向いた石を産出しなかった。
打ち金に関しても、大昔に誰かが使っていたものをごく稀に見つけられた程度だった。
だから、着火に足るひとそろいを、“群れ”でひとつ所持できれば良いほうだった。
「私ね、みんなの火打石を割っちゃって……。えっとね。小さい子供が寒い寒いって言うから、火を焚いてあげようとして……。そしたら、まっぷたつになっちゃって……。大事なみんなの石なのに……」
彼女はひと震えした。
「だから、火打石がすごく欲しかったんだ」
“商人の人”はそこで商売を行うつもりだった。当たり前の話だが、この国の人間は他所の国でも通用するような金貨や銀貨は持ち合わせていない。
「“要らないもの”と交換で、品物と交換してくれるって言ったの」
彼女たちは物々交換に使えるような、余分な物も所持していない。
“商人の人”はそれを承知したうえで、砂漠に商売に来ていた。
「私、要らないものなんて持ってないよって言った。そうしたら、“商人の人”は、そんなに子供がたくさん居たら、食べるものに困るだろうって。誰か一人と交換で、品物みんなと交換してくれるって! 品物みんな、よ」
大人たちが戻って来たときには、味噌っかすの娘は影も形もなくなっていた。
たくさんのごちそうと、火打石。それに泣きじゃくる子供たちを残して。
プニャーナは悲しそうな顔をしていた。
「“大楢の国”ではね。おばあさんの家に居たんだ」
プニャーナはコニアとは違い、その後、独り暮らしの老婆の家に買われていた。
老婆は主人に先立たれて独りだった。金持ちではあったが、身体の不自由が始まった老人は日常生活に苦労する場面が多かった。
初めのうちは、金で手伝いを雇って生活をしていた。
老婆は負けん気が強く、雇い入れた者と頻繁に言い争ったらしい。
女どもとは熾烈な口げんかに発展し、最後には辞めて行ってしまう始末。
男ども相手では、口ではなんとかやり込めることができたが、腕力の関係で何度も危ない目に遭っていた。
酷いときは、殴られたあとに財産を持ち逃げされそうになったりもした。
そこで老婆は、奴隷を買うことにした。力の弱い若い娘で、なおかつ言葉に不自由しそうな外国のものを希望した。
砂漠の民は、大楢の国と共通の言語を使っていた。
だが老婆は、奴隷という立場を考慮すれば、発言で制圧するのは難しくないと考え、プニャーナの購入を決めたのだった。
「いやあ。私、こっちでも何やってもだめでね」
老婆は家事の大半をプニャーナに任せた。
掃除、洗濯、炊事に庭の手入れ。手際の悪いプニャーナは、沢山の失敗をした。
服はかびさせるし、料理は焦げさせるし、花の芽を摘んで雑草を育てるし、また火打石を割ってしまうし……。
「おばあさん、すごく怒ってた」
老婆もまさか、不自由な自分よりも使えないものが来るとは思わなかっただろう。
だが、失敗はそう何度も繰り返さなかったし、のろまはのろまなりに、時間を掛ければなんとか仕事を終えることができた。
唯一の救いはまじめだったことだ。プニャーナはそのため、早朝から夜中まで働いた。
「ご飯だけは、おいしいもの食べさせてもらってたんだけどね。でも、眠たくって眠たくって」
彼女を襲う睡魔は時折、苦心の末に習得したはずの仕事を失敗させた。
「おばあさん、失敗すると私の事を棒でぶつんだ。パンを作るのと同じ奴で。私があんまりにも、どんくさいから」
コニアは老婆への抗議を口にしようとしたが、プニャーナが続きを話し始めて遮られた。
「でもね、おばあさん、棒よりも細い腕をしててね。叩かれても全く痛くなかったんだ」
プニャーナはそう言うと、自分の肩を抱いた。
「ある日ね。これはつい最近の事なんだけど、おばあさんの大切にしていた瓶を割っちゃって、酷くぶたれたんだ。おばあさんにしては、上手にぶつものだから、私、ひっくり返っちゃって」
……。
「そのとき、ぱっと閃いたのよ」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
プニャーナは勢い余って頭をぶつける演技をしたのだった。そして彼女は、それっきり動かずにおいた。
「おばあさん、最初はずっと怒ってたんだけどね。そのうちに、私が返事しないから、死んじゃったと勘違いしてさ」
老婆は焦った。奴隷相手とはいえ、いつぞやの法改正のせいであまりに手ひどく扱うと罰せられることもある。
いくら老い先が短いとはいえ、罪人として牢獄に入れられたり、生贄の材料にされるのは真っ平御免だった。
罪が露見すれば、来世でもろくなことにならないだろう。
老婆は悩んだ。悩んだすえに、プニャーナをこっそり、“根の穴”に捨ててしまう事を思いついた。
なるべく家から遠いほうが良かった。町はずれの穴なら、気に留める者は少ないと思われた。
だが、そのぶん、盗掘に遭う可能性がある。その後の扱い次第では、人目に触れる可能性もある。
ならば、より安全な城の裏まで捨てに行くしかないだろう。
そういうわけで、老婆は歳で痛む足に鞭打って、プニャーナを引きずり引きずり、闇夜に紛れ“根の穴”へと向かったのであった。
「あんなに上手くいくとは思わなかったよ。
でも、夜ってすごくおっかなくって、独りじゃとてもじゃないけど、逃げ出せそうも無かった。
そこにコニアが来たってわけ。最初は死体だと思ってたのに、急に動き出すし。笑いだすし! びっくりしたよ!」
死んだふりの名手はからからと笑う。
「足を引っ張られるまで、あなたに気が付かなかったわ。私てっきり、死んじゃってて、あそこはあの世か何かだと思ってたから……」
「どう?」
プニャーナが鼻を鳴らしてコニアの顔を覗き込む。
「どうって?」
「大したものでしょ、私の“死んだふり”」
彼女はしっかりと胸を突き出して偉ぶった。
「そんな話だったかしら……?」
コニアは首を傾げる。
「そうだよ! それと、火打石は大切にしましょうってこと!」
コニアはこの娘の話を聞き、共感を抱いた。同じ出身に、似た境遇。それにちょっとした困難を、一緒に乗り越えたことも手伝って。
きっと彼女は、他にもっと言いたいことがあったのだろう。
そう思ったが、今はこれだけで充分だと思った。
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