.11 毒の霧
翌朝、城内は大騒ぎとなった。
中庭にある、国家と信仰のシンボルである“神樹”が、黒ずんだ紫色をした煙を吐き出し始めたからだ。
それ自体は初めての事ではなかったし、かねてから噂になっていたことであった。だが、今回は事情が違った。
前回までは、中庭の中がぼやける程度の広がりだった毒の煙が、城内にまで入り込んでしまっていたのだ。
毒自体はそれ程強くはなく、人間は少々気持ちが悪くなる程度のものである。
だが廊下は、足元が毒の霧により紫に煙っていた。視覚的に突き付けられたそれは、人々の心理に影響し、城の住人達は大慌てで城外や二階に逃れなければならなかった。
階段や扉に近い廊下は、逃れようとする人でごった返していた。
やれ、法衣の裾を踏まれただの、見張りの携えた槍が当たっただのの大混乱である。
非難と避難に大わらわだった彼らは、この一大事をエスス祭司長に報告することを、すっかり忘れていた。
祭司長は早朝から兵士を数人連れ出し、不法滞在者をしょっ引く為に、城下で公務に勤しんでいたために不在であった。
城内の人々は普段から、祭司長に頼りっぱなしだ。せんの中庭で起こった体調不良のときも、祭司長がひとりで大抵の処置を施したのである。
この為、今回も中庭へ様子を見に行こうとするものは、一人もなかった。
兵士ヤンキスは、ぎゃあぎゃあと騒ぐ烏合の衆の中から、かつて自分が面倒を見た、祭司見習いの娘を探していた。おっと、もう見習いではなかったか。
彼女が中庭に移されてからというもの、ヤンキスは彼女に近づくことを避けていた。
噂を真に受けて、毒が感染ると考えたからではなく、周りの冷ややかな反応によって、彼女が傷つけられるのを見るのがいたたまれなかったからだった。
一度、娘が彼のことを探している素振りを見せたことにも気付いていたが、自分も毒の噂話に加担している一人であるといううしろめたさの為、彼は知らぬ素振りをして逃げたのであった。
しかし、今度の場合は事情が事情である。いくら彼女が祭司長のお墨付きとはいえ、毒の真っ只中に残すことは危険に思われた。
彼は避難先に娘が居ない事を確認すると、意を決して中庭へ立ち入ることにした。
ヤンキスは一階に戻る前に、これが最後かもしれないなどと思い、新鮮な空気を吸い込んでおこうと深呼吸をした。
しかし、肺に入った空気は喧しい連中が汚したあとのもので、かえって気分が悪くなってしまった。毒の廊下の空気のほうが、幾分かましなくらいだと思った。
一階の廊下は、すっかり荒れ果てていた。床には相変わらず紫の霧が立ち込めている。
霧の中に沈んでいるのは、人々が押し倒したであろう槍立てや燭台。幸い怪我人や病人は居ないようで、動くものは見当たらない。
廊下は不思議と静まり返っている。一階に降りた途端に、二階の騒ぎが聞こえなくなった。
それは夜中の見回りの仕事を思い出す静けさだった。
だが、外側の窓から差し込む朝の日差しは、床の霧をはっきりと映し出し、そのちぐはぐな風景は、先に待ち受ける暗雲を予感させる。
ヤンキスは廊下を進みながら、こめかみに冷たい汗が流れるのを感じていた。化け物でも出やしないかという怖気が、彼の背中を押して速足にさせる。
中庭の扉に近づくと、霧が一段と濃くなった。それもそのはず、中庭の扉は締め切られておらず、身体を通せる程度の隙間が空いたままだった。
そこから、かまどの煙のように毒の霧が漏れ出ていたのだ。
ヤンキスは霧の濃さにたじろぎながらも、意を決して身体を滑り込ませた。
鼻をつまんで、色の薄いところを見つけては息継ぎをしつつ、娘の姿を探す。
真っ先に向かったのは小屋だ。だが、小屋の中には彼女の姿はない。
仕方なく外を探すことにする。霧が視界を奪い、遠くまで見通せないため、広い中庭を隅から隅まで探すはめになりそうだった。
「おーい、コニア!」
声を張り上げ娘を呼ぶ。耳を澄ませるが返事はない。中庭には居ないのか、それとも、毒によってどこかで気を失って?
ヤンキスは何度か彼女の事を呼んでみた。だが、彼はそのたびに大きく息を吸わねばならず、いよいよ頭に痺れるような、喉は焼けるような不快感を覚え始めていた。
もしかしたら、城外へ逃れたのかもしれない。ここにきてようやくその考えが彼の頭に浮かんだ。
そもそも、城内に居た者も多少は外へ避難していたはずだ。自分は上層階の避難場しか見ていない。
わざわざ、この毒の濃い中庭を探す前に外を当たるべきだったのではないか。娘は寝ていたわけでもないようだし、この状況に気付いていないはずはない。
ヤンキスは慌てて娘を探しに来た自分を、随分と間の抜けた奴だと思った。とっととこんなところを出て、城外を当たろう。
彼は踵を返し、鼻をつまんで駆け出す。すると二、三歩もいかないうちに、彼は何か柔らかいものに足を引っかけて、転びそうになった。
ぎくりとして足元に視線を落とす。
法衣。どういうわけか、それはぼろぼろに破れ捲れており、乾いた血が大量についている。
ヤンキスの頭に嫌な予感が過ったが、彼の思考が努めてその予感から目を逸らす。
だが顔についた両の目は、足元の物体の全体像を探り始めていた。
ぼろ布の隙間から覗く、自分たちよりやや濃い、日に焼けたような肌。
散らばったいくつものクモの巣のような線。これは、忘れもしない砂漠の民の美しい髪。若い娘の顔は静かにまぶたを閉じていた。
ヤンキスは大声で彼女を呼ぶ。返事は無い。続いて頬を叩くが反応が無い。
ともかく、こんな場所に置いたままはまずい。彼は娘を抱きかかえると、脇目も振らず扉へと走った。
ヤンキスの右手は彼女の厚手の法衣の背中、左手は足を直に支えていた。手に伝わる体温が、どちらも同じ冷たさであることが、彼の心臓を足より早く駆けさせた。
城内へ駆け込み、見張りの休憩用の机の上に彼女を寝かす。
娘の顔に耳を近づける。
首筋に指を当てる。
胸に耳を押し当ててみる。
もう一度はじめから繰り返す。
もう一度。
もう一度。
何度繰り返しても、そこにある受け入れがたい事実は変わらない。
ヤンキスはうなだれ、しばらくそこから動くことができなかった。
彼の手先や鼻先からも血の気がすっかり失せ、死人を思わす冷たさとなっていた。
だが自分が死人でないことは簡単に確かめられた。目の前の娘を触って比べてみればいい、それだけだ。
いや、青ざめた彼には体温の違いを感じられなかった。
……まだ。まだ。
諦めの悪い彼の鼻の穴から暖かいものが流れ出た。彼はそれを手で受け止めてみる。赤い。その液体の温かさは、自分と彼女が別ったことの証左であった。
長くそこに留まることは彼にとっても危険だった。娘の亡骸を背負うと、中庭の扉をきっちり閉め、城の裏口を目指して歩き出した。
城の裏手には共同墓地があった。
この国では特別なことが無い限り、死んだ者はそこに入れられる。
墓地と言っても、立派な塚や石碑があるわけではなく、それはいくつかの地面にぽっかりと開いた大きな穴ぐらであった。
これは大地を巡る、巨大な神樹の根によって造られたもので、“根の穴”と呼ばれていた。
神樹はあまりにも巨大で、その根は国土の大半を覆う程に伸びていると言われている。
そのため、国内のあちこちに、こういった空洞が点在していたのだった。
墓に入れずに、穴に放る。文字通り投げ捨てるのだが、身体は朽ちても神樹の根によって養分となり、国の礎と一体化する。
だから“根の穴”に入れることは、理にも、死者や遺族の納得の為にも適っていた。この大楢の国のやりかたなのだ。
宗教観として、輪廻転生があった。死んだ者の魂は休息ののち、別の身体で蘇ると。
ちなみに罪や借金は洗われず、次の世に持ち越すことと考えられている。死んでも罪人は罪人というわけだ。
だから、いくつもある穴はちょっとした「位分け」がなされていた。
罪のない者は町や城、神樹に近い位置の穴に。穢れた者、罪人や奴隷は、神樹から離れた町はずれの穴に葬ることになっていた。
それは神聖な樹から穢れを離す意味と、城から離れる程に警備の目が届き難くなり、墓荒しに遭う危険が上がるためであった。
コニアは祭司会が身受けをし、身分が変わったとは言え、元々は奴隷の出である。
それに、今度の騒動は、彼女が扉を開け放しにしたことが手伝っているらしい。
死後とはいえ、事実が発覚し裁かれれば遠くの穴へ葬ることが妥当とされるであろう。
そうなれば彼女の美しい身体は獣に食い荒らされるか、悪趣味な人間に盗み出されるに違いなかった。
だがヤンキスは、娘の早すぎる死への同情があった。その上、彼女の若鳥のような心に秘められた、神樹への憧れに気が付いていた。
彼女は他人と話したがらなかった。それはヤンキスに対してもほとんど同じだったが、中庭や神樹に関する質問は幾つか呟いていた。
彼はこの騒ぎに乗じて、神樹に近い城の裏手の“根の穴”に彼女を葬ってやることに決める。
知られれば自分の立場もまずかったし、引き上げられて遠くへ葬り直されるのは目に見えていたので、独りで内密に行うことにした。
“根の穴”の付近は、どこも墓場特有の臭いがする。
町や城に近い穴では、臭い消しの香草を焚いたり、遺体を葬るときに香草を一緒に撒いたりしていたが、やはり、その本能を揺さぶる死の香りを覆い隠すには至らなかった。
城付近の“根の穴”は特別に大きい。
大地から突きだした、湾曲した神樹の根が土とのあいだに隙間を作りっており、ちょっとした洞穴になっていた。
ヤンキスは巨大な虚に向かって立つ。娘の亡骸を滑らせるまえに、もう一度だけ確かめる。
娘の体臭はまだ死に飲まれておらず、森や畑を思わせる香りが鼻に付いた。
「じゃあな」
最後の挨拶。
娘は去って行った。
埋葬に気付かれないように、香草は焚かずに軽く穴へと撒くだけにしておいた。
「来世では幸せになれると良いな」
そう言い残すと彼は、足早に城内へと戻って行った。
エスス祭司長が城内へ帰還したのは、ちょうど昼頃のことだった。城門前には人だかりができており、連中は彼の姿を見るや否や、助けを求めてすがりついた。
「祭司長、大変です! 毒が!」
「神樹がまた毒を出しているんです!」
口々に訴える避難者。彼らの言う通り、城の窓や扉からもうっすらと毒が漏れ出ていた。
「あんな毒、大したことはないわ。お前たちは修行が足りん。それで、毒はいつから出ておったのだ」
祭司長は早口だ。
「今朝です! 祭司長が城を出られてすぐに気付きました!」
「馬鹿たれ。だったら何故すぐに報告せん」
避難者達を叱り飛ばす祭司長。彼の顔には怒りよりも、呆れの色が濃く出ていた。
「外側のすべての窓と扉を開けて、換気せい。毒はそのうちに消えてなくな……」
祭司長は何かに気付いた様子で、急に黙り避難者達の顔を一通り見渡した。
「お前達、王はどうなさった? エポーナ王は?」
避難者達を詰問する祭司長。
「お、王様ですか? さあ、我々はずっとここに居たので……」
「毒は下に向かって流れているので、二階も平気ですし、王の部屋には毒は届いてないかと……」
避難者達は何やら口の中でもごもご言ったり、黙りこくったりした。
エスス祭司長は大きなため息を吐くと、兵士に命じて扉を開けさせ、まだ煙っている城内へと消えて行った。
時を少し遡り、大楢の国の王、ルーシーン・エポーナは城内の騒ぎに、心を躍らせていた。
朝の支度を整え、朝食が運ばれてくるのを待ちながら、自分で入れた茶を啜っていたのだが、食事係が時間を過ぎても現れなかったのだ。
普段、なんらかの事情や用事がない限り、不必要な外室は控えるように言われている彼女は、これさいわいと部屋を抜け出した。
見咎められても食事係に責任転嫁してしまえば良い。
ルーシーンは廊下に出ると、夜間に冷やされたままの空気を、胸いっぱいに吸い込み、にんまりと笑った。
特に朝は、髪や服装を整えるのに時間が掛かったし、朝食は楽しみの一つでもあったから、この時間帯では脱走に挑戦したことがなかったのだ。
彼女の部屋は城の三階、謁見の間の奥にあった。
下のほうでは毒の霧による騒ぎで大わらわである。ちょうど二階へと、人が逃れてきた頃合いだった。一呼吸置くと、遠くで響く人々の騒ぐ声が彼女の耳へと流れて来た。
「何か、面白そうなことをしてるわね」
騒ぎの声は、明らかに怒りや困惑を含んだ異様なものであったが、退屈をした娘にとっては、それは適度な香辛料としかならない。
廊下を通り、謁見の間に入る。ここには、四六時中立たされている哀れな兵士が居るはずだった。
普段ならば、甘いお菓子で買収するとか、嘘の理由をでっちあげるとか(これは大半が見破られた)、はたまた無理くりに掻い潜らねば越えられない、ルーシーンにとっての第一の関門であった。
謁見の間は静まり返っている。床に敷かれた、立派な赤い絨毯は誰に踏まれることもなく。ただ一つ、王の椅子だけが偉そうにその上にふんぞり返っている。
ルーシーンはこの椅子が嫌いだった。
かつて父がここに座り采配を振るったという。そ
れも今となっては、彼女が年に何度かの行事で使う程度で、謁見の間の機能自体は、祭司長の部屋へと移されていた。
この椅子に座るときは、彼女は一個人のルーシーンではなく、国王とならねばならなかった。
だが、彼女は自分が国民に認められていないことを知っていた。
儀式事であれば、参加者は皆、仰々しい態度で臨むのだが、彼女にはどうしてもそれが幼い自分を認めていない、それどころか馬鹿にしている態度のようにしか見えなかった。
自分はお飾りだ。じっさい、祭司長や教育長に教えられた形式通りの挨拶や、ちょっとした動作をすること以外、彼女には役割は無かった。
目の端に入り込んだ椅子は、ルーシーンのせっかく好調だった気分を著しく害した。
彼女はその返礼として一発、蹴りを入れた。
「いっ……たぁい!」
重みのある椅子はびくともせず、彼女の足にそのまま礼を返した。まるで、ただの椅子である自分のほうが王だと言わんばかりだ。
彼女は、一歩一歩、床を力いっぱい踏みつけながら、二階へ続く階段へと向かった。
この廊下も本来ならば兵士が立っている第二の関門であったが、やはり誰も居ない。
謁見の間の絨毯が、随分と騒ぎを吸い込んでいたらしく、廊下に出れば下に降りなくともはっきりと騒ぐ声が聞き取れた。
「毒はここまで上がってくるのか?」「知るか! 誰かなんとかしろよ!」
「祭司長はどこ行ったんだ! 連絡はしたのか!」「うるせえ、お前が行けよ!」
「なんか俺、気分が悪いぜ」「気のせいだてめえ、俺より先に逃げてたくせに」
「誰だ! 俺の尻を触ったのは!」
……などなど。
どうやら、「神樹の毒の噂」は本当で、今まさにそれが訪れている。
ルーシーンは二階には下りず、階段の手すりにもたれ掛かり、下の様子を伺っていた。
彼女は、隠れて聞き耳を立てるのが得意であったが、今日はその必要は無いようだ。彼らの騒ぎはきっと、城のどこに居ても聞こえるだろう。
とはいえ、せっかくのつかの間の自由に黙って耳を澄ますだけなのはもったいない。
ちょっと久々に外まで脱走を試みてみようか? 今まで城外への脱走は成功した試しが無かったが、今日なら上手くいくのではないか?
聞こえてくる発言の多くは取るに足らないものが多かったが、その中には聞き捨てならないものが含まれていた。
それは「神樹が毒を吐くようになったのは、エスス祭司長の管理不足だから」というものだ。
普段、部下の祭司や国民たちは彼に対して、おんぶに抱っこの状態である癖に、都合が悪くなったら手の平を返すなど、いくら他人事とはいえルーシーンを苛立たせた。
他にも「先代の王が狂ったのが原因」だとか、「今の王が無能だから」だとか、「神樹は切ったほうが良い」だとか、国家への叛逆や否定ともとれる罵詈雑言が流れてきた。
無礼は王たる娘に計画をすっかり忘れさせた。
彼女は、本来ならば王である自分がこの混乱を収めるに相応しい立場であると分かっていた。分かっていたし、そうしたかった。
だが、今まさに、自分への尊敬の念など毛頭ないことが突き付けられたばかりだ。
今出て行けば、いつかエスス祭司長と言い争ったときに言われたように「ぶち殺される」のが関の山だろう。
けっきょく、彼女も彼らと同じように、祭司長が戻って混乱を収めるのを待つしかなかった。
ルーシーンは自室に戻ると、椅子に座り、腕を組んで頬を膨らませ、あれこれと思考を巡らせた。
いつもならば、こういった否定や苦難に直面したときは年相応の、あるいはそれよりも若年の小娘のように、涙に枕を濡らすことしかしなかった。
だが、連中のエスス祭司長への不敬は許しがたく思えたため、悲しみよりも怒りが勝っていたのだった。
エスス祭司長は国務の大半の責任を負っている。ろくに食事も睡眠もとってない。というより、彼が食べたり寝ているところを、誰も見たことが無かった。
それなのに、一日中動き回り、国の為に尽くしているのだ。そこまですることに、彼にとってなんの得があるのか。
その疑問は、彼を知る人物の誰もが抱いた。だが、その謎こそが尊敬と信頼を呼び、皮肉にも彼の立場をより多忙なものにしていた。
祭司長はときに、ルーシーンや部下に対して厳しかった。彼女に対しては手をあげることもあった。
だが、それは無闇乱暴なものでなく、ある程度の筋が通るものである。
ルーシーンは、自分がわがまま娘なのがいけないと理解していた。娘は祭司長に対して、息子が父に持つような尊敬を抱いていた。
そのときそのときは腹立たしかったり悲しかったりもするが、その関係性自体は愛おしく思っていた。
ここのところ、彼の多忙は目に余るものだ。
これは本人には秘密なのだが、彼の一番の楽しみであると噂される、“神樹とのひととき”にすら時間を割けなくなっているのを、ルーシーンは知っていた。
だから、彼女は自分の尊厳の為だけでなく、エスス祭司長の為にも、自分が国務に携わることを切望していた。
この国は本来、国王、神樹、祭司会の三本柱で成り立つものだ。
だが、国王の威厳は失墜し、今日に至っては毒の霧騒ぎで、神樹への尊敬の念も失われつつあった。神樹の吐いた毒の霧は、国民の心をも冒していた。
毒の霧は事実だ。先王が狂ったのも変えることはできない。
状況を良くするために、何かできるとすれば、「ルーシーンがエポーナ王としての役割を果たせることを証明する」こと。
そして、「ルーシーン・エポーナはエポーナ王ではあるが、先代のエポーナ王とは別の人間であるということ」を知らしめなければならないと知っていた。
問題はそれに相応しい機会であった。
次にその機会が巡るのは、作物の豊作を願う「太陽祭」のときだ。太陽祭はこの国では、種まきのとき、実りの前、収穫後の三回行われる。
今は夏で、秋を迎えるにあたって、二度目の太陽祭を目前にしている。
例年通りなら、ルーシーンにはあの忌々しい椅子に座る大役が巡ってくるはずだ。
彼女は、その場で発言すればどうだろうかと考えた。
……だめだ。言葉を示す機会はあっても、行動の点では何も証明できない。
どころか、下手を打って儀式を妨げる行為は無能の証明にしかならない。やはり、発言する前に何か仕事をして実績をあげるしかない。
ルーシーンは立ち上がり、エスス祭司長を説得する方法を思案した。
そんなものは何年も前から繰り返していた。今度もまた繰り返しだ。
ふと、窓際に掛けてある鳥かごが目に入った。いつもなら、忙しく狭い鳥かごを飛び回っているはずの小鳥が、身体を横たえている。
「あなた、どうしたの?」
小鳥は身体を小刻みに震わせ、息も絶え絶えの様子だった。餌も欠かしたことは無いし、乱暴な扱いもしていない。
病気だろうか? やはり、鳥は空を飛んでこその生き物、こんな部屋の中ではなく、外の空気を……。
「空気……!」
ルーシーンは気づいた。神樹の出す毒が原因に違いない。自分たち人間には大して影響がなくとも、小さな動物には目に見えない濃さでも甚大な影響を及ぼすのだ。
彼女は慌てて窓を開けると、鳥かごを外し、両手に抱え、窓の外へ腕を伸ばして外の空気を吸わせてやろうとした。
「ごめんね、やっぱり逃がしてあげればよかった」
目線の高さに上げられた鳥かご。苦しそうにあえぐ、黄色い小さないのち。だがそれは空に帰ることなく、最期のひと震えをした。
娘は祈った。小さな命の為に。
それはこの国の祭司たちに倣ったやりかた。彼女にもまた、祭司の心得はあった。
――我らを支える神樹よ。今、一つの命が終わりを迎えました。血肉は土に還りあなたへ、魂は清められしかるべき時にうつしよへ。
エスス祭司長は、扉を叩き、中からの返事を待たずに入室した。城の中でもひときわ、見事な装飾を施された室内。
その中央には、鳥かごを抱えたひとりの娘の姿があった。
死骸を見つめる彼女の佇まいは、身なりに反して異様な貧しさを発し、部屋の装飾を必要以上に豪奢に見せた。
「エスス、小鳥が死んだわ」
抑揚のない娘の声。祭司長は彼女とは産声からの付き合いだったが、今のような声を聞いたことは一度もなかった。
これには、いつも彼女とのやりあいで優位に立ってきた彼もたじろいだ。
「捨てに行きたいといってもだめですぞ。部屋から出るのはなりません。下は酷い騒ぎです」
祭司長はここへ来るまでに、二階の様子を目にしていたが、騒ぐ連中はほぼ正気ではないように思われた。あれを大人しくさせるには、さすがに彼でも骨が折れるだろう。
「分かってるわ。“捨てる”なんて言わないで。あとで誰かを呼んでくれればいい。小鳥をお墓に入れてくるように頼みたいの」
「そうですか。騒ぎが落ち着いたら、兵に命じて取りに越させます」
祭司長は王から目を逸らしながら言った。
「ねえ、エスス」
王の声には多忙の祭司長を振り向かせる力があった。
「なんでしょう。早く二階へ行って騒ぎを収めねばなりません」
「あたしが寂しがらなければ、この子も死なずに済んだと思わない?」
「さあ、どうでしょうな」
「もう、猫も小鳥も要らないわ」
娘は終始、鳥かごの死骸から目を離さなかった。
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