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.10 天に昇る

 中庭での生活は驚きと発見に満ちていた。

 コニアは今まで、目に映る生物のほとんどを、「食べれるか否か」としてばかり見てきた。

 だが、食に満たされた今では別の目で見ることができる。


 彼女は、小さな虫が植物や他の生き物の死骸を食べ、その虫をもっと大きな虫や鳥が食べるのを見た。

 花がハチやチョウを引き寄せ、彼らの身体を花の粉まみれにしていることにも疑問を持った。

 生き物の糞が溜まる場所の付近には、特定の植物がよく生えているという関連を見つけ出した。


 コニアは中庭の生活で、どこぞの五月蠅い知識と熱狂だけでできた説教よりも、はるかに多くの事を学んだのである。

 そしてなんといっても、年頃の娘が気に入ったのは花であった。


 コニアの砂だらけの古郷では花は珍しいしろものであった。

 砂漠と言えば、サボテン。サボテンには花が連想されることもあるが、彼女の住む荒れ地には、サボテンは生息していなかった。

 そこに生えていたのは、豊かな土地と同じ種類の植物がおもであった。

 しかし、同じ種であってもどれも痩せていて、花は疎か、ろくに葉もつけることができない有様だった。

 生きた木の証はかろうじて枝の芯が湿っている程度だ。それなりに成長しても、枯れ死んで立ち尽くすものも珍しくない。


 もともと砂漠や荒れ地だったわけでなく、なんらかの事情で急速に悪地へと変貌したらしかった。

 だから、元々そこにあったはずの動植物に関して、なかば言い伝えのようなものとして語られていたのだ。


 言い伝えでもやはり、花は美しく、人々や虫たちを惹きつける魔力を持ったものとして語られていた。

 砂漠の民の多くは、食べられるものと、危険なもの以外に対して興味を示さない。

 言い伝えには、食べられるものの事は多く語られてはいたが、伝聞そのものが彼らの腹を膨らませるわけではなかったから、

 「そういったおとぎ話にうつつを抜かしている暇があるのならば食事を探せ」という締めになることが大抵であった。


 コニアの場合は他とは違った。彼女は他人のぶんまで食事を採ってくる働き者であったし、もう一人の若者である青年も彼女には甘すぎるくらいに甘い。

 つまり、余暇ができた場合に“群れ”の年寄りの老婆に昔話をせがんだり、よその“群れ”と出会ったときに話を聞いて回ったりすることが自由にできたのだ。


 想像は働き者の特権だった。

 過去に幾度となく、想像の世界に身を踊らせた彼女にとって、今の置かれた状況は、おとぎ話の中に居るのに等しいものである。


 そんなおとぎ話から、現実に引き戻されなければならないときがあった。

 毎日、日に二回。それは決まった時間に訪れる。


 食事の時間である。


 中庭に来る前までは、兵士ヤンキスの手によって、彼女の部屋に食事が届けられていたが、中庭ではほかに人が立ち入れないために、彼女のほうから食事のある場所へ出向かねばならなかった。


 中庭はいまだに立ち入り禁止のままであった。

 中庭の入り口に居る見張りこそは居なくなったが、毒を吐くという“神樹”に好んで近づくものは居なかった。

 祭司長から直々に指名されているとはいえ、そんな中庭に住み着いているコニアに対して、良い噂が流れるはずがない。

 彼女が中庭の扉を開けると、付近を歩いているものはクモの子を散らすように逃げて行ったし、今まで物珍しげに付きまとったり、話しかけたりしてきた者たちも、近寄ろうとしないどころか、視界に入れるのも嫌というような態度を取り始めたのだ。


 コニアがそれに気づき始めたのは、中庭に住み始めてから二度目に食堂を利用したときだった。

 食堂での食事は、厨房に詰めている人間や、配膳の当番に当たっている兵士から受けとる形になっていた。

 他の者に倣って、コニアが盆を持ちパンの受け取りに近づいたところ、担当していた兵士がまるで汚物を扱うかのように、胴と腕の距離を放しながらパンを渡してきたのだ。

 スープを注いだ料理人も、おたまを不自然に高い位置で傾け、中身を椀の中に上手に落とす形でそれを行った。


 コニアは、最初は自分が中庭に夢中になり過ぎたために、服を泥や草の汁で汚して、それが酷く臭うのだと考えた。

 じっさい、法衣は随分と汚れていた。

 少し申し訳ない気持ちになりながら、食堂の長机の席に着きトレイを置いた。

 すると、近くに座っていた人々は不自然に席を変えるか、さっさと残りをかき込んで退室して行ったのだ。

 そんなに臭うのかと思って、少し傷つきながらも袖や襟元を嗅いでみたものの、素敵な草の香りがするくらいで、娘は首を傾げるばかりだった。

 砂漠では身体がにおうときや汚れたときは、砂でこすって落としたものだ。ここ最近はそういうことをしていない。そのせいだろうか。


 コニアは、自分がどうして避けられるかを周りに訊ねなかった。

 人さらいの件から正気を取り戻し、それから月日が経ったとはいえ、まだ人付き合いをしたい気分ではなかった。


 唯一、それを聞きだせそうな相手であった兵士ヤンキスは、中庭に移ってからほとんど彼女の前に姿を現さなかった。

 何度か見かけたものの、彼女に気付いてか気付かずか、早々に彼女の視界から去って行ってしまうのであった。


 いくら人付き合いを避けているとはいえ、こういった周りの行動は、年頃の娘の心をガラスに石をゆっくりと擦り付けるように傷つけていった。

 おとぎ話も、何度も聞けば当然内容を憶えてしまい、色を失うものだ。

 最初のうちは、彼女の傷心を癒すのに十二分の働きをしていた中庭での出来事も、日を追うにつれて、当たり前の事象としてしか受け取れなくなっていった。

 


 ある日コニアは、庭に出る気分にもなれなずに、寝床で窓を眺めていた。

 窓のふちには、彼女の気に入った形のどんぐりが並べられている。

 木から離れて多少のときが過ぎたであろうそれはまだ、磨かれた石のような表面をしており、中庭からの光を受けて、てかてかと光っていた。


 ぼんやりと、どんぐりの列を眺めていたら、小屋の薄い板をつつくような、ひっかくような音が聞こえ始めた。

 それは地面に近い位置から始まって、次第に上へ登って行った。


 それから、窓のふちから茶色の体毛に覆われた小動物が顔を出した。リスだ。


 リスは、閉じられることのない窓の縁に身体を全部乗せると、背を伸ばし、鼻を引くつかせながら、周囲を注意深く見まわした。

 リスが身体を回す度に、お尻の先にくっついた豊かなしっぽが大きく揺れる。


 この“賢き闖入者”は、寝床に身を沈めている小屋のあるじには気づかないようだ。

 コニアは特別、この闖入者を驚かさないために、息を潜めてやっていたというわけでもない。


 それでも彼は自分の索敵の出来に納得したようで、どんぐりへと近づいて行った。

 リスは両手でどんぐりを掴み、食べ始めた。小刻みに顎を揺らしながら、手で器用にどんぐりを回転させてかじる。

 こぼれたかけらが木の床の上に落ちて、小さな音を立てた。

 ひとつを平らげると、次のどんぐりへと近づいて行った。今度はどんぐりをかじらずに、丸ごと一つ口の中に押し込んだ。

 頬が膨れ上がり、中に物が入っているのがよくわかる。いっそう“賢き闖入者”らしい顔つきとなった。


 コニアは、お気に入りのどんぐりが次々とリスの頬袋へと消えていくあいだ、ぼんやりとモルティヌスの講義を思い出していた。

 生物についての講義だ。

 彼によるとリスは嵐が来るのがわかるらしく、それを察知して巣穴の入り口を塞いだり、食事を確保して巣穴にため込むという事だった。

 コニアは、講義中はほとんど「耳にパン」で過ごしていたが、この話はどうやら彼女の記憶の片隅に置いてもらえたようであった。


 どんぐりがひとつ床に落ちて、小気味の良い音を立てる。


 ふと、リスのほうに意識を戻すと、彼は変わり果てた姿になっていた。


 両の頬をはちきれんばかりに膨らませて、彼の顔は三倍以上に膨れ上がっていた。

 それでもなお、まだ青い小さめのどんぐりを無理やりに押し込もうとしている。

 コニアの集めたどんぐりには、未成熟なものも多かったが、そのほとんどが窓のふちから消えていた。


 彼の小さな両手によって、どんぐりが口の中に押し込まれたかと思うと、大きくなった頬袋の圧力で、別のどんぐりが押し戻されてしまう。

 苦心のすえに、どんぐりが彼の口の中に納まる。そこでやめておけばいいもを、彼は次のどんぐりに手を伸ばそうとした。

 その拍子にまたどんぐりが口から飛び出し、机の上に跳ねて、それがコニアの寝床へと飛び込んできた。どんぐりは彼女の額に当たった。


「いてっ」


 小さなどんぐりだ。コニアは別に痛くも痒くもなかったのだが、突然の刺激に口をついて言葉がでた。

 短い言葉は大きなどんぐりとなり、“賢き闖入者”の頭へと投げ返された。


 リスは小さな体をびくりとさせる。驚きのあまり、口からどんぐりがひとつこぼれ出る。

 それが呼び水となり、次から次にどんぐりが流れ出てしまった。それらは窓のふちを跳ね、小屋の床へと落ち、ちょっとした音楽会を開いた。


 ぼんやりと口を半開きにしながら、完全に硬直するリス。目はどこか空一点を見つめていた……。


 彼はたっぷりと哀愁に浸ってから、床に散らばったどんぐりを覗き込んだ。だが、小屋の内側に入るのには少々勇気が足りなかったらしく、すっかりしぼんだ頬袋を土産に、中庭へと引き返して行った。



 コニアは“賢き闖入者”が去ったあと、ようやく小屋から出た。腹が空いていたが、食堂には行く気にはなれなかった。

 最近は半々くらいでしか、食堂に顔を出さなかった。それでも食事については彼女は平気だった。

 中庭では花の蜜だとか、野草や低木に成ったすっぱい実を口にすることもできたし、まだ試してはいないが、先ほどの彼のようにどんぐりをかじってみてもよかった。

 コニアは小屋を出ると“神樹”のそばへと行った。いくら何もしなくてもいいとはいえ、寝てばかりいると身体が疼いてしょうがなかった。

 彼女は元々、動き回っていなければ気が済まないたちだ。


 そんな彼女には最近、退屈しのぎに始めたことがあった。


 茶色い樹皮のささくれ立ったところに手を掛け、足でも同じようにする。

 そうして体重を木に預け、さらに上で手足が引っかかる場所を探す。木登りだ。


 彼女の身体は小麦のように軽く、またしなやかである。それは“外”に来ても保たれていた。

 砂漠では走り回るか、何かを捕まえるために素早く動くくらいしか身体の使い道が無かったが、この退屈しのぎには、それが遺憾なく発揮された。

 “神樹”の幹は長く、最初の枝までかなりの高さがある。彼女の身体能力をもってしても、そこまで登るには多少の時間が掛かった。


 やっとのことで枝に這い上がると、城の二階くらいの高さになった。

 とはいえ、見えるものは中庭と壁くらいのもので、壁に着いた窓も戸板がしっかりと閉じてあったから、何も面白い景色は見られなかった。


 毎日、最初の枝と地面の往復を何度か繰り返して、登ることには慣れてきたものの、降りるのはまだ苦手だった。

 下を見れば目が回って危うく落っこちそうになるし、足先の感触だけで下へ降りるのは時間が掛かった。そのせいで、いつも最初の枝より先に行く勇気は出なかった。


 小屋で見たリスがどんぐりを諦めた姿が自分と重なったために、今日こそはもっと上へ登ろうと思ったのだが、やはりだめだった。

 それでもコニアは、いつか城の壁よりも高い枝へ登り、そこから景色を眺めてみたいと考えていた。

 奴隷でなくなった彼女は、監禁されているわけではなかったから、その気になれば外出して外の景色を知るくらいの事はできるのだが、どうしても独りでは外へ出る気にはなれなかった。


 まるで目に見えない壁があるかのように、あるいは、何かの境界線が引かれているかのように。


 仮に仲間を求め故郷に帰ったとしても、元の通りには暮らせないだろうことも分かっていた。

 かといって、この場で留まり続け、祭司とやらになるのも、どうも正しい気はしない。


 ――エスス祭司長やモルティヌス教育長とずっと一緒に?


 そんな霧のようにまとわりく閉塞感から逃げ出すために、彼女は木の天辺へと希望を預け始めていたのだった。


 頑丈な枝に身体を預け、下と変わらぬ壁を眺め、溜め息を吐く。

 ふと、自分の手に目をやると、手のひらに引っかき傷ができているのを見つけた。

 樹皮のささくれにでも引っ掛けたのだろう。薄赤い線に、少し濃い色をした玉がぷつぷつと浮き上がっている。

 傷に軽くくちびるを当て、上を見上げる。

 複雑に伸びた枝が絡み合い、その向こうにあるだろう空を隠している。

 先は長そうだ。娘は口に当てた手のひらを放すと、もう一度溜め息を吐いた。


 中庭の恵みに舌が飽きを覚えた頃、コニアは少し勇気を出して食堂に顔を出した。


 数日ぶりに顔を見せたのだが、城の人々の反応は変わっていなかった。

 彼女はこの数日間に、法衣は一度脱いで小川に失礼して洗ってみたし、身体も綺麗にした。

 彼女も年頃の娘だ。そういうところに気を遣うべきだということを感じていた。それは場内で「そういうものだ」と話されるのを聞いて知った。

 だが、それは意味を為さなかった。

 単に一度付いた悪評は洗っても落ちないという話なのか、そもそも汚れや臭いが原因ではなかったのか、彼女は判断しかねた。

 ともかく、せっかく振り絞った勇気も無駄になったように思われた。


 今日の食堂では少し変わったことがあった。献立の一つに「ブドウ酒」があったのだ。

 そのせいか、食堂を利用する人々の間で交わされる言葉が、いつもよりちょっと陽気であったり、乱暴であったりした。


 コニアの食事にも当然、ブドウ酒が配られた。大衆向けの、安っぽい代物であったが、漬け込みの若さ故の色味の良さは、酒を知らぬ彼女の興味をも引いた。

 赤い、まるで血のような色。だが、本物の血とは違い、濁りは無く、透き通った色をしていた。

 カップの底まで見える。香りを嗅いでみると、果物の酸味のような、花のような香りがほのかにした。


 コニアはブドウ酒の香りが気に入った。しかし、口にしてみてすぐにがっかりした。

 香りや色味の派手さに反して、味はほとんどせず、水に近い。それどころか、舌を引っ張られるような渋みが口に残った。

 周りにいる人々は、この液体を喜んでいるようだったし、配膳係に無理を言ってまでお代わりをしている者まであった。

 首を傾げながらも、赤い液体をさっさと流し込み、野菜の煮たものを口に運び、口直しをした。

 水かミルクが配られるはずのところがこれだったので、コニアは残されたパン、それもあまりふっくらとしていない、ぱさついたものと格闘しなければならなくなった。


 普段なら食堂の空気に耐えられず、急いで食事を済ませて中庭に戻っていたコニアだったが、パンのせいで自ずと長く居座らなければならなくなった。

 周りの陽気な雰囲気も、彼女にとってはあまり好ましいものではなかった。

 それが余計にパンから味を奪っていた。まるで、砂漠の細かい砂がこびり付いたぼろ布を口いっぱいに頬張っているように思えた。


 時間が経つにつれて、食堂では下卑た笑い声や、言い争いが起こり始めた。

 酒に酔って普段の鬱憤が表に出てきたのだろう。

 本来なら、城内でこんな品の無い行為が許されることは無いのだが、献立にブドウ酒が出されるときだけは大目に見られていた。

 城に詰める者は城に詰める者で、溜まったものを吐き出す必要があったのだ。


「おい、あんた! やってるかあ?」


 唐突に、見知らぬ男がコニアに話しかけてきた。法衣を着ているところを見ると、祭司か、その見習いのようだ。

 コニアは自分の口にパンを押し込み塞いでしまった。


「嬢ちゃん! 聞こえてるんだろお? 無視しないでよお! おじさん、家でも娘に無視されてるのにい、うぇっ!」

 がさついた大声に伴って出てきた息は、なかなかの悪臭である。コニアはパンを飲み込むと空いたブドウ酒のカップの中で息を吸い、男に対しては知らん顔を決めた。

「おいおい、絡んでやるなよ。そちらの娘さんは、“我らが神樹”のお世話でお疲れなんだぜ」


「神樹だあ? あんなもん有難がっても、しょうがねえよ。……うぇっ、実際にお仕事してるのは、俺たちなんだからよ。

 神樹様が代わりに仕事をしてくれるかってんだ。それに最近、あれは毒を吐くって言うじゃねえか。

 毒のせいで病人がでて、かえって医者の仕事が増えてるじゃねえかあ。……うぇっ!」

 息の臭い男はえづきを交えながら言った。


「おめえは医者じゃないだろ」

 外野の男が笑う。

「そーよ。俺は、木ぃのお、伐採のあれとかあ、これとかを、うぇっ。するのがお仕事よお。うぇっ。クソの役にも立たないご神木なんぞ、俺がちょちょいのちょいよお」

 男は空気の斧を振ってみせる。


「罰当たりだなあ。こいつ、これでほんとに祭司様なのかねえ。でも、この娘さんが元気なところを見ると、神樹が毒を出してるって噂は、嘘っぱちなのかもしんねえなあ」

「判んねえぞ、毒ってのはあとから、じわじわ効いてくる奴だってあるんだ。うぇっ、こうやって、お喋りしてるあいだにも……」

 男は何かを言いかけていたが、急に静かになった。それから胸を二、三度大きく上下させると、机の下に這いつくばって、胃の中の物を床にぶちまけてしまった。


「え? 毒……?」

 誰かが呟いた。


 騒がしかった食堂が、水を打ったように静かになる。


 ……一同の視線は、うずくまった男ではなく、その横に座っていたコニアに注がれていた。


「ぶぁーか!  毒じゃねえよ! 飲み過ぎた! だがよお、今のでまだイケるようになったぞお。誰か俺にもっと酒を寄越せえ!」

 吐いた男が喚く。

「おめえはもう飲むな!」

 一転して、大きな笑い声が上がる食堂。そこにはもう、娘の姿は無かった。


 コニアは食堂を飛び出し、一心不乱に走った。ロウソクの炎の揺れる薄暗い廊下を駆け抜け、かんぬきが抜かれたままの扉を肩で押し開ける。

 いつの間にか雨が降り始めており、彼女は濡れた草に足を取られて転げてしまった。

 寸法の合わない法衣に邪魔されながらも、なんとか小屋の寝床へと飛び込んだ。


 寝床に突っ伏す娘。昼間に洗って梳かしなおした絹の髪はばらばらに乱れ、僅かな希望を託して綺麗にした法衣も、泥と草の汁でまた汚れてしまっていた。

 彼女をそうまで取り乱させたのは、まずいパンでも、不愉快な息でもなく、足元で飛び散った、野菜とブドウ酒の混ぜ物でもなかった。


 誰ともなく口にした「毒」という単語、それを聞いた人々の顔に垣間見えた恐怖の引きつり。


 ――その顔に付いた目たちが一斉に彼女に向けられ、仲間が自分を差し出したときの事を思い起こさせたためだった。


 家族を殺され、仲間に捨てられ、売られた娘。コニアは自分を可哀そうだと思いたかった。


 だが、実際のところ彼女は、“ご主人”に乱暴をされたわけでもなかったし、

 故郷の仲間たちとは比べ物にならないほどまともな食事にもありつけていたし、

 多くの奴隷のように無理な労働を強いられたわけでもなく、それどころか多くの事を学び、

 幼いころから憧れていたおとぎ話の世界にも触れることができていた。


 自分でも良く分かったいたのだ。

 己の境遇が憐憫に値しないことを。それでも自分が、これまでを生きた世界からは拒絶され、最愛の人を失ったことは事実なのだから、悲しむ権利くらいはあるだろうと言い聞かせた。

 だがいくら自分を憐れもうとしても、黒い瞳は乾き果てたままであった。


 自己憐憫と自己否定を編み込み、それに自嘲で作った重しを重ねていく。

 延々とそれの繰り返し。娘は夜通しでその仕事に取り掛る。外は雨が強くなっていた。


 いつの間にか雨は止み、中庭の狭い空には、柔らかい朝の便りが降り注いでいた。

 コニアは自分がいつ眠ったのか思い出せないまま、寝床から身体を起こした。大して眠れていないはずだったが、身体は何かに突き動かされているように、良く動いた。


 小屋の扉を開け放つと、瑞々しい草木が、上に乗った雨粒に抵抗するように光り輝いていた。

 眩しさに手で額に傘を作るが、下からも差し込む光にはあまり意味がない。


 彼女は目が痛くなるのも無視して、神樹を見上げ、睨みつけた。


 水気を含んだ草や地面を執拗に踏みつけ、中庭の中で最も幅を利かせている茶色い塔まで突き進む。

 壁に鼻先がつくまで近づくと、こぶしを固く握りしめ、力いっぱい叩いた。

 当然、巨木は揺れることもなく、厚い樹皮が音も吸い込んで、まるで何も起こらなかった、「私は何もされていませんよ」と言わんばかりだ。


 娘はしばらく黙ったまま、そのままの姿勢でいた。そして、今度は自分の着ている法衣をしげしげと眺めた。


 コニアは法衣の袖を思いきり捲り上げ、余った布を結んで、肘が見えるほど短くした。

 次は裾を持ち上げると、両手で扉をこじ開けるように引っ張った。力任せにされた法衣はすり切れた部分から簡単に裂けた。

 膝のあたりまで裂くと、邪魔な部分を取り払うために、今度は横向きに裂こうとした。しかしそれはあまりうまくいかず、中途半端な布がいくか切り離されるだけに終わった。

 仕方なく袖と同じように余った部分を結んで短くする。


 ばらけた髪も邪魔に感じたので、半端な布から紐を作り、それを使って後頭部の辺りでひとつに縛った。


「よし」

 小さな掛け声で自分を叱咤する。娘は大げさに顔を上へと向けて、枝葉のあいだから僅かに見える白い空に目を細めた。



 そして彼女は天に伸びる茶色い塔を登り始めたのだった。



 一つ目の枝に立ち、息を吐く。

 雨で湿った苔が何度も彼女を危険に晒し、思った以上に体力を消耗させていた。

 だが彼女は、いつものように二階の壁を見ることもなく、また下を覗くこともしなかった。

 もう一度顔を上へと向けると、再び茶色い壁の続きを登り始める。

 時々、手足の届く場所に、上手く引っかかる場所を見つけられないことがあったが、そういうときは力任せに指を樹皮に食い込ませ、ときには樹皮の一部を引っぺがしてまでして、足場を作った。


 いくつかのあまり太くない枝を無視して、城の頭が見える高さまで一気に登る。


 コニアは腹の中に、痛みで熱くなった手や足の指先に、自分でも正体の分からぬ力を感じた。

 何かを力任せに叩きたいような、蹴飛ばしてやりたいような。それを燃料にすれば、いくらでも身体を上へ上へと押し上げることができた。


 ある太い枝に辿り着いたころには、太陽はすでに天辺へと登り切っていた。太い枝は人が立って歩けるどころか、下にある粗末な小屋ぐらいなら建てれそうなほど、頑丈で広々としていた。

 彼女は枝の先のほうへ行ってみることにした。目の前を邪魔する、小さい枝や葉を除けて、少しづつ細くなる足場に気を付けながら進んだ。

 幸運なことに、足場が娘の重さで弛む前に、木の外への視界が開けた。


 城を越え、城下町を越え、草原を置いてさらに先の森までも広がる景色。


 もっと遠くは霞んでおり、それより先には何があるか分からない。

 昨晩、雨を降らせた雲はどこかへ去り、空には染みひとつなく、遠くまで気持ち良く抜けている。

 姿の見えない風が遠くから流れて来て、あたりの枝葉を鳴らした。


 風はざわめきと共に、コニアの中にあった熱い燃料をどこかへ運び去ってしまった。

 そして、彼女の腹に残されたのは、おなじみの抗議だけとなった。


 コニアは枝に座り、法衣の結び目に手を入れ探った。中からどんぐりをいくつか取り出す。


 リスを思い出しながら、口にどんぐりを頬張る。

 彼の真似をして、舌でどんぐりを、歯と頬肉のあいだまで押しやってみる。

 どんぐりの硬い表皮が歯に当たり、小気味の良い音をたてた。舌で表面の滑らかさを存分に堪能したあと、思い切って歯を立ててみる。


 枝をへし折ったときのような音が鳴り……口いっぱいに、えも言われぬ渋みが広がった。


「ぶえ!」

 割れたどんぐりを吐き出し、口に残った渋みの欠片を慌てて指で掻き出す。


「とても食べられたものじゃないわ……」

 大樹の空でひとり呟く。


 コニアは口の中に不快感を残したまま、ぼんやりと外の世界を眺めた。

 たくさんの家。屋根の下では、人々が各々の生活を送っているのだろう。


 この中には、あのご主人と奥方の家はあるだろうか。

 とにかく大きな家だったことは憶えているが、外装については目にしていないし、何よりあの時はほとんど呆けていたから、ここから見える場所にあったとしても、見つけ出すことはできないだろう。


 この景色よりも先のどこかに、自分の過ごした荒れ地があるのだろうか。

 見える限りではずっと向こうまで緑が続いており、あの荒れ地と地続きであることなど、とても信じられない。


 なぜ、砂漠に住む仲間たちは、あんな苦しい思いをしてまで、あそこに残り続けるのだろう。

 どうせどこへ行っても、何をしたって、苦しみが完全に居なくなってしまうわけではないのに。


 それならば、“外”の世界へ出て行ったほうがよいのではないか。

 あそこに見える森だって、豊かに見えて、危険なことが沢山あるはずだ。城下町にしたって、人が多い故の問題を沢山孕んでいるだろう。

 ……問題があるのだと、熱弁教師が言っていた。


 私だったら、きっと人さらいに攫われなくっても、いつか“外”の世界に出て行ったに違いない。

 思考の終着点には辿りついたものの、やはり自分ひとりだけで見知らぬ土地で暮らすことは、酷く難しいことを思い出した。

 彼女はこの長い旅で体感したのだ。それは、衣食住の話ではなく、こころの問題である。

 もしもこの城からでて、よそへ逃げ出すにしたって、きっと彼女ひとりではやり遂げることはできないだろう。


 娘は思った。

 ――ああもしも、にいさんが生きていて、私と一緒に行ってくれたら、どんなに良かっただろうか。

 

 眺めを堪能しきった頃には、日は傾き、徐々に森や草原を赤く染め始めていた。

 手元が暗くなると、降りることは難しくなる。

 そうでなくとも、登るのに半日掛かったのだから、残った体力でその仕事に取り掛かるのは自殺行為というものだ。


 コニアはこの枝で夜を明かすことに決めた。

 日が沈み、中庭の地面がまるで巨大な穴のようになると、昼間は小屋も置けそうだと感じた枝は、自分の重みでへし折れるのではないかと思う程に頼りなく見えた。


 城や町のあちこちで、松明や篝火が灯されるのが見える。

 眼下の城の屋上では兵士が二人、立ち話をしているのが見て取れた。

 いくら遠くまで見通せるからと言って、やはりここは城の中庭なのだ。見知らぬ兵士に安堵を感じた彼女は、寝るのに良さそうな場所を探し始めた。


 枝は幹に近づけば近づくほど、太く頑丈になる。まずは、そのあたりの座り心地から試すことにする。

 窪んだ部分に葉っぱが溜まっているのを見つけて、そこを寝床にしようと考えた。

 だが、雨水も一緒に溜まっており、踏み入れた足がびしょ濡れになってしまった。

 足を引き上げると濡れた葉っぱが何枚かくっ付いてきた。


 探しているうちにどんどんと暗さは深くなり、これ以上動くのは危険に思われた。

 仕方なく、手探りで枝や幹に触れてみる。凹凸の少ない部分さえあればいいだろう。


 すると、何かが手に当たり、茂みの揺れるような音を立てた。


 なんだろうか。木の枝であるのは間違いないのだが、どうもそこだけやたらと弱々しい細枝が密集しているようであった。

 ……何か別の小さな木が、木の枝の中から生えているような。


 生えぎわがどうなっているのか確かめようと、枝をかき分け右手で探ってみる。左手は身体の平衡を保つのに使った。

 何か堅くて、丸みを帯びた部分が見つかった。

 その部分は何かのねばついた液体に包まれている。

 その粘膜の滑るような感触が、指先から背筋までを痺れさせ、コニアは思わず手を引っ込めようとした。



 その刹那、何かがはじけるような大きな音がして、彼女の右手首に衝撃が走った。



 まるで手首から先が無くなってしまったかのような、激しい痛み。

 無事なほうの左手で右手を押さえるも、腕の重みで振り回されているかのように身体は踊った。

 コニアは右手がどうなったのか知ろうと、左手を右手に這わせてみた。

 手首から先が無くなってしまったかと思ったが、感触を確かめた限りでは、手はちゃんとくっ付いていた。

 だが触れても、それが熱いのか冷たいのか、腫れているのか血が流れているのか、全く区別がつかない有様だった。


 痛みに対抗する足しにしようと、少し足を開き、踏みしめて堪えようとした。


 しかし、右足を少し下げた途端、足の裏から樹皮の感覚が消え去ってしまった。



 そのまま、身体全体が後ろに引き倒れされるようにして、彼女の身体は宙に放り出された。



 娘は自分に一体何が起こったのか、そしてこれから何が起こるのか、瞬時に理解をした。

 その強大な大地の引っ張る力に対しての、せめてもの抗議として、我ながら可愛らしい悲鳴を少しばかり上げた。


 あれだけ過密に茂っていた多くの枝葉は、まるで彼女を助けず、どころか避けているかのようだ。

 助ける代わりに、いくつかの太い枝が彼女の身体を打ちのめす。その度に、枝ではない何かがへし折れるような嫌な音が聞こえた。


 娘の身体は転げるようにして、闇の中へと吸い込まれて行った。


***

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