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シノールはじっと空を見上げていた。気配を断ち、人に気づかれないように空だけを一晩中。今、視界いっぱいに瞬いていた星が徐々に姿を消していく。自分の立つ地面に視線を一度落としてから、シノールはゆっくりと振り返った。
視線の先で、昨夜ローズフェリアが入っていくのを見送った塔の入口が開き、男が出てくる。
「待たせたな、シノール」
「いえ」
少し乱れた服で気だるげな空気を纏って歩み寄る主に膝まついて答えれば、律儀なその姿に小さく笑われる。
「シノール、己の中にある罪は忘れてしまえば消えると思うか」
「…忘れることが本当にできるなら」
「なるほど。しかし私は欲することは罪だとは思わない。それに際限がないことこそが人の罪であり、人の業だ」
手で示され立ち上がるシノールに背を向け、先に立って歩き出す身体から甘い女性の香が薄く漂った。
「持つ者は、その価値を知れないのだ。シノール、お前はどう思う?お前はきっと知っているだろう?」
「…」
シノールは答えず、立ち尽くした。その顔が青ざめている。
「あれの侍女に伝えておけ。お前は残らず、部屋に戻れ」
「…かしこまりました、王子」
光にまぶたの下の目が刺され、ローズフェリアは目を開いた。
視界が明るい光に包まれ、次の瞬間その事実にぎくりとする。リヨウキとの約束の場所に窓は無い。動いた記憶が無いのに目に入る天井は見覚えがありすぎるものだった。
まさか全て夢なのかと青ざめ、身を起こそうとすると下半身に鈍い痛みが走り、背筋が強張った。 訳がわからず動けずにいるローズフェリアに声がかけられたのはそのときだった。
「お目覚めですかローズフェリア様」
「…リン」
ノックもせずローズフェリアの寝室に入ってきた侍女はいつになく機嫌がいい。
「お体の調子はもうよろしいのですか?もうすぐ昼ですが、軽い食事をお持ちいたしましょうか。薬も何か食べていただいた後でないと体が負けてしまいますわ」
「リン、どうして…」
浮かれた調子で話し、返事も聞かずに出て行こうとするのを呼び止めると、満面の笑顔で振り返る。
「シノール様の御指示で口の堅い男を連れてお迎えに上がったのですわ」
「…シノール様?」
「ええ!さすがローズフェリア様。シノール様といえば陛下の信頼厚い宰相様の嫡男で、皇太子様の外遊にもお供されたような方。文武両道で若くして騎士と認められた上、母方の血筋も高貴で将来を約束された方ですわ。式典にでないローズフェリア様は他国から縁談はまずありませんし、これ以上の良縁はございません。後宮の全ての方が羨ましがりますわよ」
「他に、どなたかいらっしゃらなかった…?」
夢ではなかったのだと胸を撫でおろしながらも、ローズフェリアが会っていた相手がシノールだと疑わないリンの様子を疑問に思って聞く。シノールの位の高さにも驚いたが、リヨウキのことが気になった。
「他に?いいえ、シノール様お一人でしたわ。誰か御付の方がいらっしゃいましたの?」
「いえ、そう…」
意味が解らないという顔で聞くリンに顔を背ける。確かに今聞いたシノールの身分なら、誰かの使いということは普通まず考えられない。外遊中からの知り合いで騎士でもあるということで、リヨウキがこちらにいる間の世話役を特別に請け負っているのだろう。
どんな反応が返るか解らなかったし、ローズフェリアはリヨウキのことをリンに打ち明ける気はなかった。ただ、リヨウキがシノールに後を任せて行ってしまったことが寂しかった。
「ローズフェリア様、今日はどのようなご予定で?」
考え込むように黙りこんだローズフェリアにリンが上機嫌でいつもは聞かないようなことを聞く。 親しい人を呼んだり、サロンに顔を出したりしないローズフェリアにリンがこういった伺いを立てる事はまず無い。驚いて顔あげ、答えを待つ顔のリンを見たローズフェリアは慌てて予定を考える。
「そう…ご都合がよろしければアカネキ様に昨日のお礼を」
口にしながらいい思い付きだと思ったが、リンの顔が一瞬鼻白んだものになって、また笑顔になる。
「ではすぐに伺ってまいりますわ。その後は、今日もシノール様とお会いになられるのでしたら夕食を少し早めに用意して、お召し物の準備もしておきますわ」
直截な言い様にローズフェリアが詰まっている内に、そのようにするのがよろしいですわとリンは生き生きと動き出し、ローズフェリアは一人部屋に残された。
その日からローズフェリアは毎日塔に行き、昼に目覚めアカネキと会い、また塔に行くという生活を繰り返し過ごした。
塔の部屋はいつも暗く、会話もほとんど無く、ただ肌を合わせた。それでも求められる感覚にローズフェリアは深く満たされていた。
「ローズフェリア様、名前を呼んで下さい」
熱が残る体で横たわるローズフェリアの髪を撫でながら、服を身に着け終わったリヨウキが言った。
「リヨウキ様?」
「そう。その名前を忘れずに」
「忘れるはずありません。どうしてそんなことを…国に帰られてしまうのですか?!」
「言ったはずです。ローズフェリア様が求める限り与えると。もう必要ありませんか?」
「そんなことになることは決してありません!」
頭を起こして強く言うローズフェリアにリヨウキが闇の中低く笑う。
「それならば、明日もここで」
立ち上がり、あとは返事を待つこともなく出て行く。扉を開けた瞬間、外に置いてあった蝋燭の揺れる明かりにリヨウキの背中が浮び上がる。
いつもリヨウキは熱が引く間もなく先に塔を出る。決して振り返らない背中に、ずいぶん、光の下ではっきりとリヨウキの顔を見てないことにローズフェリアは気づいた。
「リヨウキ様」
忘れないようにと言われた名を口にする。ついさっきまで自分を抱きしめていた腕を思い出してローズフェリアは目を閉じた。闇の中目には映らなくても、ローズフェリアにとって、それはとても確かだった。
そのまま眠りに落ちる間際、ローズフェリアは思った。
明日の約束をするのは初めてだ、と。
「よい事というものはまとめて来るものでございますわね」
「…」
今日もリンの機嫌がいい。
目が覚めるといつも塔から自分の部屋に戻っていて、眠りに付く時と景色が変わっている。
最初のうち、ローズフェリアはそれに戸惑った。
リンは笑顔で食事の用意をする。アカネキは優しく姉妹のように親しくしてくれる。その上、皇太子妃となる予定のアカネキの存在は後宮で一目置かれているため、アカネキの目を気にしてローズフェリアへの嫌がらせが減った。
夢のように生活が変化し、目を覚ますたびに夢の境界線がどこなのかとローズフェリアは一瞬わからなくなるのだった。今はただ、もし夢ならば覚めなければ良いと思う。
返事が返らないことを特に気にすることなく、リンはいつも以上にローズフェリアを飾り付けていく。
今日は皇太子である兄と王宮で会食をすることになっていた。以前話しているときに、ローズフェリアが兄弟の話を聞きたがった流れで、外遊から戻った兄と一度も顔を合わせていないことを言うとアカネキが提案してくれたのだった。
実際は戻ってからだけではなく、子供の頃から話した事はおろか顔を合わせたこともない、今では顔もわからないであろう兄だった。しかしアカネキを選んだ人ならば妹として受け入れてくれるのではないか、ローズフェリアは不安と期待で揺れていた。
いつもより早く目覚め疲れが残る体が重かったが、緊張から紅潮した頬がローズフェリアを普段以上に生き生きと彩っていた。
「王宮での内輪の会ということで、私は給仕させていただけなくて残念ですわ。次は是非こちらで会を催すよう提案なさって下さいまし」
うきうきと一方的に話ながら準備を終えたリンに背中を押されて立ち上がる。青い布のドレスに軽く薄い飾りレースがふわりと揺れる。コテでゆるくウェーブをつけた明るい金髪が背中を飾り、全体の印象が冷たくなるのを防いでいる。
ローズフェリアは美しかった。王宮へと歩く道すがら、すれ違う全ての者が振り返った。
以前は怯えていた他人の目を気にすることなく歩む姿は、目を惹かれずにはいられないものだった。
「ローズフェリア様、ご案内します」
王宮の入口で声をかけられる。そこにはシノールが一人で立っていた。
「シノール様…」
「リヨウキ様はいません」
シノールが一人でいるのに会うのは初めてで、ローズフェリアの視線が辺りをさまよう。その目が誰を探しているのかすぐに見抜かれ、頬が染まる。
「そう、ですか。アカネキ様がいらっしゃるのでもしかしたらと…」
「行きましょう」
「…はい」
最後まで聞かずにシノールが背を向け歩き出す。
ローズフェリアは居たたまれない空気を感じて、口を閉じるとその後を追った。
もう更新時間について言及するのはやめます(爆)
R18じゃないよねと、最初に散々悩んだのですが、全然問題なさそうな仕上がり(ですよね?)
むしろもう少しくらいは踏み込んだ記述が必要か考えて、結果投げ出しました。
いつかもっとエロい話も書いてみたいような…




