5
次の日の朝、リンに式典用のドレスに着せ替えられたローズフェリアは部屋に残された。式に出る許可は結局出なかったのだ。
ローズフェリアが王族として民衆の前に父王と並んで立つことを許されたことは、幼い頃の数える程しかない。瞳や髪の色だけでなくその造作が写し取ったように無き王妃と瓜二つであることが噂されだした5歳の頃には、病という名目で王宮の一室から出ることを許されなくなった。
最初の内は、父王はローズフェリアの部屋を訪れ、喜びまとわり付く娘に微笑を返していたが、徐々に何も言わずローズフェリアの顔を見つめるようになり、やがて訪れることはなくなった。乳母には母を殺した死神のように扱われ、兄弟を始め人と会うことも禁じられた。
幼いローズフェリアはそれが自分だけの特別なこととは最初わからなかったが、年を経るにつれて自分が存在を隠され忌避されていることを知り表情をなくしていった。後宮に移る十三歳になるまで教師や侍女といった必要最低限の人としか会わず、話さず過ごした。
後宮に入って二年。部屋を出歩くことは許されたが、式典に出たことは無い。式の後の内輪な晩餐会は参加を禁止されていなかったが、普段は人の集まる場所に出るのが苦痛でローズフェリアは参加しなかった。
しかし今日のローズフェリアは違った。棘とりをした紅いバラを髪に飾り、昼を過ぎた頃立ち上がった。
後宮の住人は出払っていて、廊下は人気も無く静まり返っていた。歩くほどに緊張が高まる。父に会ったら、姉に会ったら、兄に会ったら。なによりリヨウキに会ったら――?
どんな顔をすればいいのか、どんな顔をされるだろう
不安で、それでも何かに急かされるようにローズフェリアは王宮に向かった。
王宮の広間に入ると次第にローズフェリアに視線が集まり、囁きがさざ波のように広がった。ローズフェリアはその声の大半を占める心無い言葉に無表情で耐えながら、そっと広間を見渡した。リヨウキの姿は見当たらなかったが、アカネキと目が合う。ほっとしてそちらに近づこうとしたところ名を呼ばれる。
ローズフェリアはぎくりとその場に足を止めた。
「ローズフェリア、騒がしいと思えばお前か。どうしてここにいる」
静かなその声にひどくプレッシャーを感じながら振り返る。
父王と、寄り添うように姉が見下す目で睨みつけている。
「お、お兄様とアカネキ様にお喜びの言葉を申し上げたくて」
「すんだらすぐに戻りなさい。お前がいると皆が落ち着かん」
「…はい」
物足りないという顔をする姉を置いて王はローズフェリアに背をむけかけ、ふと立ち止まった。
「ローズフェリア、お前にバラは似合わん」
後はもう一度も振り返らずいってしまう。
父の目に走った嫌悪感に貫かれて、ローズフェリアは動けず立ち尽くした。
残った姉が耳打ちをする。
「人形に挨拶されても、子供でもない限り喜びはしないでしょう。お前はそれらしく、おとなしく部屋にいればいいのよ。…お母様の花を飾るなんて無神経なことがよくも出来たものだわ。ああ、感情を解さない人形らしい所業ね?」
嘲り笑う姉の目にうかぶ、消えることのない敵意の炎に焼かれる。
姉が去り、アカネキが近づいて気遣わしげに肩を抱いてくれるのに無理に笑顔らしきものを作って、後は必死にその場を離れた。
王宮を出ても止まらず庭園に入った。動かし続けているのに一向に凍えた足も指も熱を取り戻さない。ただひたすら左右交互に出していた足が地面のちょっとした凹凸に取られて縺れる。あっけなく地面に倒れ伏したローズフェリアは体中で悲鳴を上げていた。人形は嫌だという自分の願いを受け入れたら、人形でも仕方ないという諦めを捨てたら、今までは我慢できた痛みに身を切り裂かれる。
一人では耐えられない――
「…誰か」
呼ぶ名が無くて、それでも助けを求めて顔を上げた視線の先に、倒れた際に飛んだのであろうバラが映る。
「―――」
あの時、うまく受け取れず落としてしまったバラを、拾って渡してくれた手は暖かかった。
凍えている手を伸ばして今度は自分の手でバラを掴み、ローズフェリアは倒れたまま、そのバラを胸に抱きこんだ。
声には出さず叫ぶ。
誰か――と、一人の名を。
そうして指先の凍えが、身体が冷えたのと区別がつかなくなった頃にローズフェリアは目を開いた。
「私は人間です」
誰にともなく確かめるように呟く。
切ないその言葉とは裏腹に、縮こまっていた体を仰向けにし、ローズフェリアは捨てられた人形のように脱力した。
痛みは感じても慣れている。諦めることも。
いっそ本当に人形であれば楽だっただろうとローズフェリアは思った。それは自分の願いと矛盾する考えであったが、逆説的に正しかった。
人間は人形にはなれないのだ。だから痛みを感じるし、痛みを感じる自分は人形ではない。人形ではないから人形であればと願い、それがまた人間である証拠なのだ。
「なんて…欲深い」
ローズフェリアは紅いバラを見つめ、戒めのように呟いた。
と、バラに呟いた言葉に返事が返って、ローズフェリアは慌てて身を起こした。
「何が欲深いのですか?」
面白そうな顔をしたリヨウキと、その後ろで少し顔色の悪いシノールが立っている。
「!」
「よくここでお会いしますね。倒れているのを見たときは驚きましたが、大丈夫なようですね?」
「あ、はい」
ローズフェリアは恥じ入って俯いた。まさか誰かに――よりにもよってリヨウキに地面に横たわっているところを見られるとは。まだ会は終わってないだろうに…。顔から火が出そうだった。
「…どうしてこちらへ?」
「ああ…。朝からの式典で少し疲れたので、抜けてきたのです。…実はもぬけの殻の後宮の姉上の部屋で休もうと思ったのです。うまくすれば戻ってきた姉とも会える。後宮はこんな時でもないと入れないので」
「まあ」
子供のようにいたずらっぽく笑ってみせるリヨウキにローズフェリアは驚いた。大人で紳士だと思っていたリヨウキの新しい一面を見て、沈んでいた気持ちが浮上するのを感じる。
「これは秘密ですよ。誰かに知られると姉上に怒られる」
「わかりました。秘密ですね」
秘密という言葉がこそばゆく、嬉しい。冷え切っていた心に灯りがともる思いだった。
と、そんな二人を一歩下がった位置から暗い顔で見ていたシノールの硬い声が割り込む。
「王子、早く行かなければ。そろそろ戻られる方も出てくるかと。ローズフェリア様も部屋に戻られるよう言われたのでは?」
「は、はい」
冷たい目に射すくめられ顔がこわばる。始めて会った時の印象から、シノールの目を見ると反射的に怯えてしまう。
座り込んだままだったローズフェリアは慌てて立ち上がろうとして、しかしすっかり冷え切った体は思うように動かず、バランスを崩した。
「あっ」
自分の声とシノールの慌てた声が重なったと思った瞬間、ローズフェリアは暖かい胸に抱きとめられていた。そのまま背と膝の下に手が回され、ふわりと身体が持ち上げられる。
「リヨウキ様!」
「ああ、せっかくのドレスが土だらけですよ。髪ももつれてしまって」
驚きの声を上げたローズフェリアを気にせず、穏やかに微笑んでリヨウキが言う。
「このまま帰っては侍女に怒られてしまうのではありませんか?シノール、姉上の侍女からなにか借りてきてくれ。私はローズフェリア様と塔で待っているから」
「そんな、リヨウキさ…」
「王子!」
自分を置いて進もうとする話に口を開いたローズフェリアを遮って、シノールが声を上げる。
「なんだ」
「アカネキ様がお待ちです」
静かに問い返され、声を上げたことを恥じ入るようにシノールは足元に視線を逃がした。隠しようも無く声に責める響きがこもっている。その空気に身の置き場の無さを感じて、ローズフェリアはリヨウキの腕の中で小さく身じろいだ。
「私は大丈夫です…どうぞ、降ろしてくださいませ」
「代えのお召し物は私がすぐに。王子はどうか、アカネキ様のお部屋へ」
二人から続けさまに言われ、リヨウキはため息をついた。しかしすぐにはローズフェリアを降ろさず、近くからその目を見つめ確認するように問う。
「大丈夫なのは分かっているのですよ。ですが、ローズフェリア様はお帰りになられたいですか?」
「!!」
離れがたく思っていることを見抜かれたような気がして、ローズフェリアは目を見開いた。とっさに言葉が出ない。
その揺れる瞳にリヨウキは微笑んで、ローズフェリアを抱きなおした。高い位置で軽く投げ上げられ、ローズフェリアは思わずリヨウキの胸にすがる。
「姉上にはまた会える。シノール」
「…」
シノールはもう何も言わず短い間ローズフェリアを見つめると、無言で後宮に向かって歩み去った。
シノールが去ると、リヨウキはローズフェリアを抱き上げたまま王宮に向かって歩き出した。
ローズフェリアは展開の速さに混乱していた。どうして自分がリヨウキといたいと思っていることが知られたのだろう。そしてなにより、それを知って、叶えてくれるのは何故なのだろう。
都合のいい答えが浮かんで高鳴る胸を必死に押さえた。つい先刻夢中にその名を呼んで、そして諦めた人物に今抱かれているのがまるで夢の出来事のようだった。
しかしリヨウキに触れる場所から体温が伝わって暖かく、夢ではないと思い直す。そしてこちらのこの鼓動も伝わるのではと気づいて恥ずかしくて堪らなくなる。
「あの、自分で歩きます…」
「身体が冷え切っていますよ。せめて室内に入るまでこのままで」
降ろしてくれとまで言わしてもらえず、胸に押し付けるようにより強く抱きしめられる。
ローズフェリアはその熱に逆らえなかった。
リヨウキが足を止めたのは王宮のはずれにある今は使われていない塔だった。
「私の部屋では途中誰の目に付くか分からないので。シノールが来るまでここで我慢してください。ここなら誰も来ませんよ」
やっと降ろされたローズフェリアは初めて入った塔を見回した。といっても真ん中に大きな円柱があり、壁とその柱の間の細い隙間を階段が上へと続いているだけだった。人は入らないため、床に埃が溜まっている。
リヨウキは壁にかかっていた蝋燭に火をつけて持った。
「一番上に部屋があります。そこなら寒くないし、ここよりは清潔ですよ」
「ここに来られたことがおありなのですか?」
リヨウキに手を引かれて階段を上りながら尋ねる。
「ええ、この塔がこの国で一番高い建造物だと聞いて。何代か前の王が建てて、今は使われていないそうですね」
「何に使われていたのでしょう。物見でしょうか…でもそれはもっと領の端にありますし」
「私は解るような気がしますよ」
「?」
問うようなローズフェリアの間にリヨウキは答えなかった。
後は無言で階段を上る。窓が少なく、細く暗い階段は景色が変わらず、ローズフェリアからどのくらい上っているのかという感覚を奪った。前を歩くリヨウキの背中と繋いだ手のぬくもりだけが頼りのような心細い気持ちになる。
と、振り返らずリヨウキが口を開いた。
「先程、欲深いと言っていましたね。まるで罪のように」
「え?」
唐突な言葉にローズフェリアは問い返した。リヨウキは答えず続ける。
「しかし人間は誰もが欲深い。何でも欲しがってしまうんですよ」
「リヨウキ様…?」
その声が常とは違うように聞こえて、背中に呼びかける。その声がわずかに震える。やっと振り返ったリヨウキの表情は蝋燭の炎が揺れてよく見えない。
「それでも罪だとお思いならば、私がその罪を消して差し上げましょうか?」
「どうやって…?」
「どうぞ」
そこが最上階だったらしい。背後の扉を開いてリヨウキはローズフェリアを促した。質問には答えず、その部屋に入るのが決断だというように。
部屋は暗く中が見えない。しかしローズフェリアはリヨウキの瞳に捕まって、誘われるままに足を前に動かした。胸が不安か期待か自分でもわからないが、身体を突き破りそうな勢いで高鳴っている。
後からリヨウキが部屋に入りドアを閉めた。外に蝋燭を置いてきたのか、闇と沈黙が広がる。
それに振り返ろうとしたところを攫うように抱きしめられる。
「リヨウ…」
名を呼ぼうとした口を塞がれる。
優しく、深い、それはくちづけだった。驚きに強張った唇を甘く噛まれ、なだめられたところを深く深く奪われる。
奪われ、同時に与えられる。その不思議な感覚にローズフェリアは縋りついた。頭の中が真っ白になり、リヨウキの唇に夢中で応えることしかできない。
――コンコン
永遠にも一瞬にも感じられるくちづけの中、小さく扉がノックされ、ローズフェリアは我に返った。
「入れ」
何事も無かったように唇を離し、リヨウキが声を上げる横で、ローズフェリアは肩が跳ね上がるほど驚き、慌てて身を離した。
「速かったな、シノール」
「…王子」
灯りと一緒にシノールが入ってきて、リヨウキと言葉を交わすのをローズフェリアはぼんやりと見つめるが、声はまったく聞こえていなかった。
――あの唇がつい今までここにあった…
口付けの間は近すぎて見えなかったリヨウキの顔から目が放せない。言葉を吐くのに動く唇にその感触がよみがえって、唇が熱くなる。
リヨウキを求める気持ちが体中にあふれ、こぼれそうになる。それを押さえるように、感触を忘れぬように、ローズフェリアは俯いて両手で口を塞いだ。
と、視線の先に靴が。あげようとする顔のすぐ近く、耳元でリヨウキの声。
「もっと欲しくなったら、またここで」
気持ちを読まれたような言葉に顔を上げる。
自分のことをわかってくれるリヨウキの顔が見たかった。どんな目で自分を見ているんだろう。
しかし顔を上げたローズフェリアの目に映ったのは去っていくリヨウキの背中だった。無意識にその後を追おう身体が前へと泳いで…それを遮るように、シノールが前に立った。
「着替えをお持ちしました」
「シノール、様…」
夢から覚めたような感覚に陥って、ローズフェリアは瞳を惑わせた。
「シノールで結構です。髪はこちらでお拭きください。着替えは…」
「一人でできます」
「ではこちらを。私は部屋の外で待っています」
「シノール様!」
義務的に湿らせた布とドレスをローズフェリアに手渡して出て行こうとする背中を思わず呼び止めた。
ドアの前で立ち止まったシノールはもう呼び方を正すことはせず、振り返らないまま無言で促した。
「あの、リヨウキ様は、いつまでこちらにいらっしゃるんですか?」
「…」
シノールは答えない。
自分から去る背中にリヨウキが重なり、不安が膨らむ。堰を失った欲が止められなかった。
「シノール様はリヨウキ様と親しいようですから…なにかご存知じゃないですか」
もっと欲しい、もっと知りたい、傍にいたい――
いつもは怖いと感じるシノールが相手ということも忘れてローズフェリアは質問を重ねた。
「どうしてそのようなことを気になさるのですか」
「それは…私は、リヨウキ様を…」
「ローズフェリア様」
遮るように、ようやくシノールが振り返る。
「!」
シノールとまっすぐに目が合い、あふれ出かけていた言葉が凍りつく。
ローズフェリアは息を呑んだ。この塔に入ってからシノールと目が合ったのはこれが初めてで、ずっと視線を逸らされていたことに気づく。そして、いつもあまり感情が感じられない目をしているシノールの目に押さえ込もうとする激情をローズフェリアは見た。その目は始めて会った時の剣を抜く瞬間の瞳を思い起こさせた。
「シノール様」
怯えてローズフェリアは名を呼んだ。それに気づいたシノールの瞳がいつもの冷たいものに戻る。
「着替えを。あまり遅くなると侍女の方に気づかれます」
「…はい」
着替えを持って部屋の奥に進むローズフェリアを見送り、再び部屋を出ようとしかけてシノールの足が止まる。ドアに伸びようとしていた手が燭台をとる。背中を向けシノールが部屋を出て行くのを待っていたローズフェリアが、いつまでもドアの音がしないことに振り返るのを見つめながら火を吹き消した。
部屋に闇と緊張が広がる。
「シノール様?」
「着替えを」
短い遣り取りは緊張をはらみ、しかしそれ以上の熱は含まない。それでもローズフェリアは空気に絡め取られたように動くことができなかった。
「後ろを向いています。外に出ると話ができないので」
シノールもそれ以上促さず、ローズフェリアに背中を向ける。闇に包まれ、姿は見えないが、石畳の砂利を踏む足音が、シノールが後ろを向いたことを告げる。
後は再びの沈黙。
沈黙がシノールの攻める言葉のように感じて、ローズフェリアはぎこちなく布で髪を拭いた。空気の動きを感じてか、シノールが口を開く。
「この部屋は窓がありませんね」
「…」
「日陰で咲く花はありません。ここで咲く花は無いでしょう」
「何が、仰りたいのですか」
闇の中の淡々とした言葉が動かしがたい真実を予言するようでローズフェリアの声が震える。
「ここにはもう来ないで下さい」
「…どうしてそんなこと」
「何も生まれない、誰の目にも映らない闇の中でのできごとは無いのと同じです」
「何が仰りたいのですか?!」
胸のうちに湧き出る黒い影を吐き出す。
生まれて初めて荒げたローズフェリアの声はどこか悲鳴じみていた。
「ここでのことは夢と同じ。意味が無いといっているのですよ」
「そんなこと…っ!」
ボゥ…
カッとなってローズフェリアが叫ぼうとした時、再び蝋燭に火が灯される。
部屋が照らされ、シノールの姿が目に映る。
「…っ!!」
ローズフェリアの瞳がまっすぐにシノールの瞳とぶつかった。
後ろを向いていたはずなのに音を立てずに振り返っていたのだ。闇の中、ローズフェリアがシノールの方を見ていた間に。
「見えないものなど無意味なのです」
ローズフェリアの中に刻み込むように、じっと瞳を見つめて言うと、今度こそシノールは部屋を出た。
「…あの方はすぐにいなくなる」
ドアが閉まり、残される。
シノールの言葉に抵抗するように、身体が震えた。
「こんなにも激しいものが無意味で、存在しないものだと?今まで生きてきた中で最も確かで強く感じるこの気持ちが!?」
扉に向かって叫んでも応えは無かった。
自分で書いたものながら、ずっと鬱々。
今日は天気も一日ぐずついてますね。
明日は晴れないかな、洗濯外で干したい。




