4
シノールは温室を出ると迷わず王宮に向かって走った。途中で仕えている背中に追いつく。シノールが来るのを待っていたらしい。振り返らず歩き出す。
「お待たせいたしました」
「あれが第二王女のローズフェリアか。噂には聞いていたが、本当に人形と見まがうばかりの美しさだな。だがあれは人形ではない。他愛のないことでうろたえていたぞ」
「お戯れはお止しください。アカネキ様がいらっしゃいます」
シノールの苦々しい声に褐色の明るい顔が満面の笑みで振り返った。
「シノール、人は人形になれると思うか?」
「…人は人以外にはなれません」
目を伏せて答えたシノールの言葉に主の唇が笑みを深めるように歪む。
「まあ、どちらにしても…」
「王子?」
「少しの間だ、お前は黙って見ていろ」
持っていた花束をシノールの胸に押し付ける。
「これを、アカネキ姉上に。わかったな」
後宮は騒然とした空気に満ちていた。
ローズフェリアは自分の部屋に戻り、部屋付の侍女に手の傷を手当してもらいながら、オズオズと事情を聞いた。
「あら、興味がおありですか?月に二度のお茶会さえ座っていられない方が?」
「ごめんなさい…リン」
「笑って参加できなくてもせめて最後まで話しを聞いて来て下さればいいのに。黙って座っているのはお得意でしょう、お人形様は」
「…」
リンという名のこの部屋つき侍女は城中で冷遇されるローズフェリアを同じように見下し、そんな主人に仕える自分を哀れんでいた。しかし同時に、自分の利益のためにはローズフェリアが落ちぶれてはいけないことを自覚しており、表向きは献身的に尽くした。ローズフェリアの武器はその外見だと考えていることを隠そうとせず、それを示す場の情報を逃さないため、後宮中の侍女に自分の身の不幸をひけらかし近づいては様々な情報を何処からか得て来るのだった。
「明日、皇太子様がお戻りになったお祝いの式典が開かれるのです。その用意で皆様忙しいのですわ。何でも皇太子様はどこか南の小国から奥様となられる方をお連れになったそうで。この後宮のローズフェリア様から一番離れたお部屋に入られるのですって。」
手当てを済ませると、そこでチラリとローズフェリアを一瞥し、立ち上がる。
「私そのお部屋の用意を手伝いに参ります。ローズフェリア様は明日の用意は必要ないそうですので御用は無いでしょう」
力いっぱい扉を閉めてリンは出て行った。いつものことだが国中の貴族や王族、外戚が集まる場に出られないことに腹を立てているらしい。当分つらく当たられるだろうことを覚悟して、一人になったローズフェリアはため息をついた。いつもなら唯一声を聞かせてくれる相手を失くして深く落ち込むところだが、今日は別に気になることがあった。
別の国から後宮に来られる方というのは、先程聞いたリヨウキの姉に違いない。
一度落ち着いた心臓がまた暴れだす。何故そんなことになるのかわからず、ただ座っていられずローズフェリアは立ち上がった。
後宮では高貴な人ほど奥の間を与えられる。実際、一番奥の間は姉の第一皇女が利用している。奥にいくつか王族のための部屋があり、賓客の間、そして側室や愛妾、侍女や使用人の部屋が並ぶ。
ローズフェリアは王族のための部屋の一番端の部屋を与えられていたので、奥の間との間にいくつか空室がある。皇太子である兄が連れ帰った姫君は皇太子宮に移るまではそのうちのどこかに入る可能性が高い。その部屋の準備がまだ終わっていないのならば…
「リヨウキ様のお姉様は近くの客室にいらっしゃるかもしれない」
ローズフェリアはそっと部屋を出ると客室に向かった。奥の部屋からローズフェリアの部屋は離れていたので、誰かに見つかる心配はなかった。
いくつかの扉をノックし、返事が返った瞬間、頭が真っ白になる。衝動的に、用もなく来てしまったことに気づき慌てるローズフェリアの前で扉が細く開かれた。
ドアを開けた侍女はローズフェリアの美しさに息を呑み、呆然と立ち尽くした。部屋の奥から誰何する声がして侍女は我に返ると、己を恥じるように顔をしかめ、声を尖らせた。
「どちら様でしょう。アカネキ様は長旅でお疲れです。いかにこちらにお住まいの方でも、今日ばかりはお約束も無く急におこしになられても、お通しいたしかねます」
きっぱりとした口調に挫けそうになる。ローズフェリアは張り付いた無表情の下で緊張しつつ食い下がった。
「お疲れのところ申し訳ありません。私はローズフェリアと申します。失礼かと思いましたが、私の姉になる方に一時でも早くお会いしたいと思いましたの。ご挨拶だけでもお許しくださいませんか?」
「アカネキ様が姉…?ローズフェリア…」
無表情でのきっぱりした物言いにたじろぎながら呟いた侍女は、サッと顔色を変える。
「少々お待ちくださいませ」
扉が閉まり侍女が部屋に戻る。そしてすぐに扉は開いた。
「お待たせして申し訳ありません。失礼いたしました。どうぞお入りください、第2王女様」
別人のように丁寧になった声を聞きながら、ローズフェリアは部屋の奥で、迎えるように立ち上がった女性に目を奪われていた。
肩にゆったりとかかる少しウェーブの入った豊かな黒髪に、褐色の肌は輝くばかりに滑らかで、薄い紗を幾重にも巻きつけたゆったりした異国のドレスが包む細い身体は猫のようにしなやかだろうと、立ち上がる動きだけで想像できた。そして何より、明るい緑の優しい瞳の色が、ともすればキツくなりそうな整った顔の印象を和らげている。
――この方がリヨウキ様のお姉様。なんて美しい方…
ローズフェリアは言葉も忘れて立ち尽くした。と、アカネキが困ったような笑顔で首をかしげる。
「ローズフェリア様?どうぞ、お掛けになってくださいませ」
「はい。失礼します」
ギクシャクと示された椅子に座る。
声まで美しく優しい響きで、隣にアカネキが座るとほのかに甘い香りがする。ローズフェリアは訳も分からず緊張していた。
「侍女の、シノの失礼をお許しください。私を思って少し…慣れないところで気が張ってしまったのですわ」
「いえ、私こそ、お約束どころか先触れも出さずに急に伺ってしまって」
「いいえ、こちらからご挨拶に参らなければいけませんでしたわ。申し訳ありません」
そこまで言うとアカネキはすっと立ち上がり、ローズフェリアの見たことの無い、優雅な動きの礼をした。
「申し遅れました。私、南のガイザから参りましたアカネキと申します。私もガイザの第2王女でしたのよ。どうぞ仲良くしてくださいませ」
「アカネキ様…」
ローズフェリアは噛み締めるように、そっとその名を口にした。こんな風に優しく微笑んで話しかけられることはまず無かったから――上手く微笑み返せない自分が恥ずかしかった。
「それで、ローズフェリア様。使いの者もなしに一人で直に参られるなんて、どのような御用でしょう」
「本当に、申し訳ありません。失礼なことをしてしまって…」
「いいえ、そうではないのです」
顔をこわばらせ、礼儀も忘れて腰を浮かすローズフェリアの手をそっと押さえてアカネキは下から顔をのぞくように首をかしげた。
「では本当に私に会うためだけに来て下さったのですか?」
触れた手と声の柔らかさに、まっすぐに見つめる瞳に、ローズフェリアは無表情の奥で瞳を揺らした。
「…」
「嗤っているのではないのです。どうかお掛けになって、お顔を上げてくださいませ。それでしたらローズフェリア様は今日一番嬉しいお客様ですわ」
「私が…?」
「ええ」
秘密を打ち明けるように微笑む。その親しげな微笑に、自分の存在を喜ばれるということに、ローズフェリアの胸のうちが震え、喜びがじんわりと広がる。
自分がどこかで期待していたことに気づく。リヨウキの姉に会ってみたいという気持ちとは別に、あの方の兄弟なら受け入れてもらえるのではないだろうかと。
「この部屋についてからご挨拶に伺ったり、人づてにお言葉を頂いたりたくさんの方にお会いしましたけれど、この後宮での人間関係や決まりごと、私の国に興味をお持ちで…誰にも私自身を歓迎されてはいないのだと思っていましたの。予想はしておりましたけれど…ガイザのような小さな国の者などと思われているようで少し国が懐かしくなっておりました」
「アカネキ様…」
目を曇らせたローズフェリアの頬に掌で触れてアカネキは微笑んだ。
「きれいな青い瞳。くるくる色が変わるんですね…。私、あまり嬉しくなかったお客様からローズフェリア様のことも聞いておりましたの。あまりよくない噂で、どんな方かと…」
その言葉に掌の下で敏感に強張る頬を溶かすようにアカネキは撫でながら、でも、と続けた。
「でも、実際のローズフェリア様はとても感情豊かな方。それを表すのが不器用な方…寂しい思いをされたのですね」
「私が、気味悪くないのですか…。表情の無い人形のような…」
「感情が無ければ恐ろしいですわ。でも表情が無いだけでは、私怖くありません。お人形のように美しいだけではありませんか、何も特別なことはありませんわ」
その優しさに抱きしめられながら、涙がこぼれそうになってローズフェリアは視線を落とした。
しかし、どこかで全てを享受することが躊躇われて涙を見せられなかった。それと同時に、初めての温もりにすがりつきたい気持ちも抑えがたく、懺悔のように口が動く。
「お聞きになられたのでしょう。私は母の生と引き換えに生まれたのです。お母様はもともと病弱な方で一度の出産でさえ耐えられないと言われていたそうです。でもお姉様とお兄様が無事に生まれて、お母様は逆に元気になられて…でも私を孕まれてからは、体内から蝕まれるように体調が悪化して…。誰もが子供を諦めるように言ったそうです。お父様がお母様を説得して、なのになぜか私が生まれたのです。術中になぜか助けるはずの命が失われ、闇に返るはずの命が残った」
ローズフェリアは頬に触れる手を振り切るように顔を上げた。
その顔は真っ白で、今にも零れそうだった涙は消え去り仮面のように何の表情さえ浮かんでいなかった。自分の言葉に浮かされるようにローズフェリアは止まらない。
「兄弟で唯一のこの金髪も、この顔も、瞳の色もすべてお母様のもの。気味が悪いまでに瓜二つ。私がお母様を内側から食い破り、奪った証。憎まれて当然、寂しい思いなんてして当然。私のためにたくさんの人が大切な、この国のバラとまで言われた方を失くしたのですから。望まれてもいないのに生まれてきた私は存在すべきではないものなのですわ」
改めて口にすると、何を忘れようとしていたのだろうと思う。
許されるわけが無いのだ。
身体の芯に冷たいものが広がっていく。感情が凍りついて、瞳から色が失われる。
つい一瞬前に渇望し、得かけたものが靄に覆われ何か思い出せない。
と、暖かいものに包まれる。のろのろと視線を動かすと誰かに抱きしめられている。
ローズフェリアは一瞬誰だったろうかと考えて、アカネキのことを思い出した。
「でもあなたは人形ではないでしょう。表情が無かったらなんだというのです。存在すべきではないもの?ではあなたはなんだと言うのです?人の胎から生まれたなら人間以外のなんだと?母に似ていたら何が不満ですか?譲り受けたものを、本当に気味が悪いと仰るの?」
言葉と同じ力で強く抱きしめられた腕の中で、ローズフェリアはぶるぶると震えた。無表情の下で荒れ狂う感情が吹き出ようとするように。
「隠そうとしても無駄です。あなたは人間ですもの。感情が無いはずがないんです。人形の真似事をして抑えても無駄ですわ。さあ、何か仰って!」
そういいながらアカネキは許すようにローズフェリアの顔をより強く抱きしめ、自分の肩に押し付けた。
沈黙が広がり、徐々にローズフェリアの身体の震えが収まる。ローズフェリアは鉛のように重く感じる腕をぎこちなく動かし、アカネキの背にすがりついた。指はまだ震えていた。
肩に押し付けられたまま、くぐもった声で呟く。
「私は…人形は嫌です。人間であることをお赦しください。お母様…私として生きることをお赦し下さい!」
例え一人であっても口には出せなかった本当の望みを口にしたローズフェリアは泣き崩れ、アカネキに抱かれたまま泣きつかれて眠ってしまったらしい。
後宮には基本、男性はいないのであのシノという侍女が運んでくれたのだろうか、目が覚めるとローズフェリアは自分の部屋の寝台の上だった。
一瞬全て夢だったのかと呆然として、枕元にアカネキからの手紙を見つけてローズフェリアはまた少し泣いた。
式典の準備のために呼ばれていて、どうしても行かなくてはならない。目覚めたときに傍にいないことの謝罪と、また是非会いたいとの旨が書かれていた。
手紙を胸に抱いたまま寝室を出ると、外は薄暗かった。どうやら半日ほど眠っていたらしい。涙と皺でぐしゃぐしゃになったドレスを変えようとして、ふとローズフェリアはバラに気づいた。アカネキの部屋を探す前に水差しに挿した、リヨウキにもらった紅いバラ。
ローズフェリアは紅いバラは好きではなかった。母の好んだのは白いバラで、紅いバラは血を吸って色づいたように思えてならなかった。しかし、このバラは捨てることができず、着替える前に水を替えてやる。
アカネキを母のように慕うのとは違う強さでリヨウキを慕っている自分を訳も分からずローズフェリアは自覚していた。
一段と寒くなってきましたね。
最近私は妙な夢にうなされる朝が続いてます。
消耗する…。
なんでこんな夢を見るのか検討もつかない夢を見ることありますよね。
夢判断もおっつかないよフロイト先生。




