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「化け物!!」
美しい女性が真っ直ぐにこちらを見つめて叫んだ。
その顔は奇妙に歪んでいてなんと言い表す表情なのか解らない。が、その時ほど真っ直ぐに見つめられたことは――その女性からはもちろん他の人間からもなかったので、その言葉こそが自分を表す言葉なのだと、理解した。
化け物という言葉の意味は知っている。しかし何なのかはわからなかった。
急に辺りが暗くなり、なにも見えなくなった。先にいた男の気配が消え、急に沸いて出たように闇とともに現れた気配が残っている。化け物と呼ばれたものの気配だ。少女はそれを確かめるように目を凝らした。
「人が死のうが血しぶきが飛ぼうが無反応なのに、化け物という言葉には反応するか」
闇の中、一段深い闇の固まりが笑いを含んだ声を発して近づいてくる。先ほどまで騒いでいた男より低い声。足音はしない。
書物に目を通していた時から少しも動かずにいた少女は、自分の目の前で止まった声の方に顔を上げ口を開いた。
「化け物?」
「お前、口が利けたんだな」
「…」
何の感慨もない声で尋ねて、答えだけを待つように少女は目の前の闇を見つめた。
「…化け物だが。それがどうした?」
「どうして?」
「どうして?どうして化け物なのかって?」
少女がうなずく。
影はフッと息で笑うと、少女の前に座り込んだようだ。声の位置が低く近くなる。
笑いを含んだ声で言う。
「人を喰うからだ」
「人を喰うと化け物なの?」
影の答えにすぐに質問がかえる。
クックック、と喉の奥で笑う影。それに合わせるように空気が動き、風が起こる。雲の切れ間から漏れる月明かりが少女の白髪に反射し、影の輪郭を少し浮かび上がらせた。肩と思われる辺りを包む毛が揺れている。とても柔らかそうな毛だ。
「化け物を知らないのか?」
「化け物。――化けた姿を変えたもの、妖怪、お化け。ふつうでは考えられない能力・状態の人」
影はまた楽しそうに笑う。
「ふつうではない、ねぇ。俺にとっては人を喰うことはふつう極まりないことだが?」
「…」
つい、と少女の髪が一房浮かび上がった。
白い束の上に絡みついた細く長い指が見えた。先が尖っていのは爪かもしれないが、影絵のように、指と爪の境目は見えない。
影が手で少女の髪を攫い、引き寄せたのだった。声がする方へ運ばれるのを見て、食べるのかと少女は見つめたが、髪は影の口元で止まった。
「人は人とは違うものを化け物と呼び、化け物は化け物とは違うものを化け物と呼ぶだろう。蔑視や恐れから。まぁ、化け物と呼ばれるのも俺は嫌じゃないが」
「私は、人は食べない」
「へぇ」
適当に相づちをうちつつ、値踏みするように影の指が手に取った髪をもてあそぶが、少女は気にせず影をまっすぐに見つめ続ける。
「でも私は化け物なの」
揺るぎない真実を並べたような言葉に影は動きを止めた。
それから肩の毛がふわりと揺れて――顔を少し傾げたようだ――少女を見返す。
闇の中、赤い舌がチラリと閃いた。
「…ああ」
何かに納得したように軽く頷くと、髪を手放して言う。
「お前はバグじゃないんだ」
「バグ?…バグ【bug】プログラムの誤りの箇所」
「それだ。化け物にも色々いるが、俺はバグという種の人を喰う化け物だ。ま、俺以外のバグは知らないし、名前みたいなもんだな」
「あなたは『誤り箇所』なの?」
「お前…」
影――バグは黙り込んだ。そうすると今まで笑っていたのが嘘だったように空気が冷たくなった。
いつのまにか月は気まぐれな雲に覆われ、また灯りを隠している。
答えを待ちつつふと俯むくと、闇に慣れた少女の目に白い己の手が映った。しかし正面に視線を戻すと、そこには何も見えない。先程は動いていたので気配を感じられたが、微動だにせず黙り込まれると、その存在が感じられず闇と向かい合っているように感じる。
「バグ」
名を口にする。と、右頬を撫でるように何かが触れてゆき、その何かに顎を持ち上げられた。
バグの手のようだが、自分とは違う固い感触に少女が逆らわず顔を上げると、そこにバグの目があった。まつげが触れるような距離で目を覗き込まれる。
近すぎて顔の造作はよくわからないが、胴体のように顔まで毛に覆われてはいないようだ。
漆黒で光を吸い込んでしまう瞳を覗き返すと、まだ闇を見つめているのと区別が付かない。だが、自分より高いらしい体温が伝わってきてその存在は感じられた。
少女は答えを待つ。
「お前は、足りないな」
バグの言葉は答えではなく、意味も解らなかった。
ただ言葉に合わせて唇に息を感じて、少しくすぐったく感じた。
今までそんな近距離に自分以外の存在を感じたことはなかったが、それでも特に気にすることなく少女は表情を動かさず聞く。
「足りない?」
「俺が人を喰うのは記憶を喰うということだ。知識や色々な感情の記憶が多いほどいい。お前は知識が多くて極上だと思ったが、感情が足りない」
「感情。喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち」
「お前バグみたいだな。知識でできている」
感情を感じさせない声で言い残し、顔が遠ざかると再び闇の中に一人取り残される。
「バグ、みたい?」
問いが終わらぬうちに手を取られ、暖かい湿った感触に指先を撫でられる。少女がピクリと肩を震わせると手をつかむ力が強くなる。
湿った音が闇に響き、繰り返し撫でられる内に舌で指を舐められているのだと気づいた。
「食べるの?」
「いや、お前なら今食べても美味いだろうが、もっと美味くなることを考えると惜しい」
そう言いながら惜しむ様子もなく手を離される。
「下に落ちていた死体の血だな。さっき喰った男が殺したのか…無駄なことを」
味を吟味するように舌が口の端を舐めるのを見て、先程この指で血に触れたことが少女の脳裏によぎる。その血から『記憶を喰った』らしい。
「こんなものを舐めたくらいでは喰ったことにならないが、死に際の感情ぐらいは伝わってくる。年下と侮っていた同僚に背中から刺された驚愕と憤怒、そしてお前に天使に祈るように救いを求めている、といったところか」
「天使」
「さっきの男はお前を喰いたかったらしいがな。天使を喰おうとは神をも恐れぬ所業というやつか。別のものは恐れているようだったが?」
バグはクツクツと喉で笑いながら気まぐれな動きで、今離した手を再び掴み引く。少女は、
「あの人も化け物?」
問いながら抵抗なく引き寄せられ、その胸に倒れこんた。やわらかい毛皮に押し付けられる形になり、空気を求めて顔を上げる。
「あれは人間だ。俺の喰うとは意味が違う…俗語はわからないか?」
言いつつバグは少女の身体ごと抱きこみ、伸びたその白い首筋に顔をうずめる。固く冷たいものが肌に当たっている。牙だろうか。
その仕草に、獣はまず首に噛み付いて獲物の息を止めるということを少女は思い出した。しかしバグはそれ以上動かない。
「知識の匂いがするな」
バグの声は自分の手の中の獲物を弄ぶような陶然としたものだった。首に熱い舌が這った。
「食べないの?」
「喰われたいのか?」
「いいえ」
少女の答えにまたクツクツと笑う。抱きしめられ、触れているところからその振動が伝わった。
「嫌だといっても喰うがな。しかし俺はグルメだ。せっかくの素材を最高の状態で喰わないようなもったいないことはしたくない。それにお前がどんな感情を持つのか興味がある。…今は空腹でもないしな」
笑い、話す間も首元を甘噛みされ、髪をゆるく引っ張られる。背中に痺れが走って、少女のまつげが震えた。バグは続ける。
「しかしどうしたものかな。俺は感情がない。喰った感情も知識と同じように俺の中で蓄積されはしても、理解したり同調することはない。つまりその内容が俺の中で意味を持つこともない。だからこその『バグ』だ。その俺がお前に感情を教えないといけないらしい」
「感情がない?笑うのに?」
「喜怒哀楽くらい大概の動物にある。俺もその例に漏れず、だ。だが俺を満たすのは俺が未だ触れたことのない複雑な感情と貴重な知識で、それは俺にないものだ」
上機嫌な様子でバグは少女を抱きしめている腕を緩めると、口の中で二言三言つぶやいた。すると緩やかな風が部屋の中を渦巻き、目的を持った動きで窓から吹き出してゆく。バグが少女を背中から抱きしめなおす頃には月が姿を現し、部屋にほのかな光を取り戻していた。
「お前の願いは…」
真っ赤な舌がチラリとのぞく。
「『愛ってなあに?』、か」
「バグ?」
「さて、愛も感情の一つだ。感情のお勉強と一緒にお前の望みも叶えよう。俺は喰う前に獲物の願いを一つ叶えることにしている。味が上がるからな」
「食べられたくないという願いは?」
「それでは獲物ではなくなってしまうだろう。獲物以外の願いを叶える義理はない。それにお前の一番の願いはそれではないだろう。」
「…」
「始める前にお前の名前を聞いておこうか。終わってからでは呼ぶ暇がないかもしれないぞ」
「名前」
「なんと呼べばいい」
促され、少女は自分の名前を自分の中に探す。
化け物は名前ではないことは判っている。いや、本当は覚えているが、実際に呼ばれたことのない名前は自分の名前でありえるのだろうか。
実際には一瞬迷っただけで、少女は呼ばれ慣れている名を口にする。
「人形」
「人形?」
「そう呼べばいい」
「―――」
絶句のような短い間の後、クッと息が詰まったような音が少女の頭の後ろで―――バグの喉で鳴った。
そして爆発する笑い声。
「はっ、はは、あはははははは―――」
喉の奥で震える様にばかり笑っていたバグが声を上げて笑っていた。強く抱きしめられ、肩に後ろから押し付けられる顔が震えて、少女の頬を黒いハリのある髪が揺れる。身体を包む柔らかい毛とは違う。いや、外見的にはバグは人間とそう変わらない形であることに少女はもう気づいていた。
笑いが止まらないバグの髪の感触を手で触れ、自分との違いを確かめていると、その手を掴まれる。
「こんなに愉快なのは久しぶりだ。お前は本当に面白いよ」
掴んだ手にバグが慈しむような口付けを落とす。
「人形か。人形と呼ばれるのが嫌で必死に悲喜劇を演じた奴もいたのに、お前は自ら人形と呼べというんだな。いいだろう、人形。お前のための話は決まった」
さあ、はじまりはじまり
話してあげよう御人形さん。お前が人間になるために。
その暁にはお前を頂くための物語を。
パソコンの調子が鬼のように悪いです。
いきなり更新が飛んだら、パソコンのせいか私のド忘れです。
明日は予告通りお休みをいただきます。
明後日からは、バグのお話が始まります。




