10
リンは貴族とは名ばかりの家に長女として生まれた。
10歳で親元を離れ、王城の侍女となった。王女付きと命じられた時は誇らしく、初めて会った7歳のローズフェリアの美しさには感動を覚えた。
しかしその存在の意味を教えられ、ローズフェリアが主だという理由で自分までひどい扱いを受けた時、全ては憎しみに変わった。どうしてこんな目にと思った。ローズフェリアに罪はないことは頭の片隅では解っていたが、余裕がない時は他人に優しくなど出来ない。憎む捌け口が必要だった。美しさも尊さが抜ければ妬ましかった。
それに自分も幼かった。二人でいても自分から口を利かない、表情も変えない少女を愛おしく思うことも難しかったのだ。例えそれがローズフェリアの悲しい処世術だったとしても。
しかし8年も近くにいて、今、何も感じないということはない。年下の主を哀れに思う気持ちもあるし、自分で自分の振る舞いが嫌になることもある。元はリンにとっての処世術でもあった――ローズフェリアが感情を隠したのと同じく、城でうまく立ち回るために選んだ形――だけに、どんなに心と身体になじんだものであっても、他人をなじる姿は醜いと我に変えることがあった。
そしてまた、そうさせるローズフェリアが憎くなる。リンの心は複雑な愛憎でいつも濁っている様だった。
それが今はない。ローズフェリアが良縁に恵まれたのだ。外遊から皇太子が連れ帰った方のおかげでまず扱いが変わった。まだ公に約束されてはいないが、降嫁先の目星も付いた。あるいは一生このままかと恐れていた所に、これ以上ない相手。このまま上手くいけば、今まで自分を見下してきた者たちを見返すことができるだろう。
リンはローズフェリアの幸せを曇りなく一心に祈っていた。ローズフェリアも自分も幸せになれる。ローズフェリアを憎く思うこともなくなる。
これがきっと最初で最後のチャンスだ。
この話をより確かなものにするため、この縁を公然のものとすべく、リンはローズフェリアの毎夜の秘め事をそれとなく広めるのだった。
目を閉じていても時間は変わらず過ぎていく。心を閉じていても、それは同じことだ。
ローズフェリアは変わらぬ日々を過ごしていた。
アカネキと会い、塔を登る。
全てが明らかになってから初めて塔を登った時は、自分でも訳がわからず目眩がした。だが、リンの笑顔に部屋を押し出されて、ローズフェリアが向かう先は他にはなかった。
そして塔での時間は以前と変わることなく優しく、まるで王城での一幕こそが悪夢だった気がした。
ただ一つ、かわったことがある。
それは塔の部屋に小さな明かりがつけられるようになったことだ。それにより以前は闇に包まれ見えなかったものが見える。あの日、笑ってお前の兄だと名乗った顔が目に映ったが、ローズフェリアは心を閉ざしていた。
兄はその部屋ではリヨウキだったから、心を閉ざしさえすれば変わらずにいられた。
それは約束だった。
「まさかここには戻ってこないと思っていたが…どうして来た?」
窓のない塔の部屋はいくつも火が灯され、闇が覆うものはない。まっすぐに兄に見つめられてローズズフェリアは息が詰まった。扉を開けたまま一歩も動けなくなる。
それを見て薄く笑う表情は、リヨウキのものだ。先から感じている目眩がひどくなる。
「何も考えずここに来たという顔だな。ふん。私は以前からこの場所が気に入っている。馬鹿馬鹿しい場所だが、確かに人目はなくなるからな」
「…ここ以外、来る所がなくて」
「明け渡すつもりはない。そもそもお前、女はこちらをうろついてはいけないのを知っているな?今まで人目につかずに入れたのは、シノールの協力があったからだ。騒ぎを起こしたくなかったら、すぐに戻れ」
もうこちらに視線をやることもなく冷たく紡がれる言葉に、変わらない横顔に、目眩は大きくなる一方だ。
「…リヨウキ様」
助けを求めるように、ローズフェリアの口から言葉がこぼれた。
横顔が、こちらを向く。
「リヨウキを求めて来たのか」
その顔は冷たい、なぜか怯んでしまうような表情で。いつかこんな目を違う場所違う人に見たと思う。
「私は…」
「忘れるというのだな、ここでのこと以外すべて。…ははっ!傑作だ!まさに人形だな」
「人形…」
あの時、これ以上考えられず知りたくもないと思った。
それは正しく人形で、もう人形で良いのではないかと、ローズフェリアは思う。
「わかった、お前が人形である限りこの部屋で遊んでやろう。ああ、そういう約束だったな?」
元々、人形遊びだったと言われている。しかし
「約束だ。…さあ、ローズフェリア様」
甘い声と伸ばされた手をローズフェリアはつかんだ。
そうして毎日過ごしている。
それからまた少し変わったことは、アカネキが皇太子宮に移ったことだ。そのため目覚めてからまた塔に行くまでの時間にすることがない。
ローズフェリアはいつも自室でじっと時が過ぎるのを待っていたが、今日は久しぶりに庭園の温室を訪れることにした。
白バラの木の根元の隠れるように座ると、様々な記憶が押し寄せてくる。初めてリヨウキとここで出会ってから、2ヶ月が経とうとしていた。あの時感じた胸の高鳴りは、今身体の何処を探しても、ローズフェリアには残滓さえ見つけられなかった。
何がいけなかったのかわからない。生まれてから、何を間違えたのだろう。それともやはり…
この存在こそが。生まれてきたのがいけなかったのだろうか。
ローズフェリアは瞳を閉じた。
と、土を踏む足音が聞こえる。
迷わず進む足音は、王城への使いのものだろう。温室の中の自分には気づかず行くだろうと、ローズフェリアは目を閉じたまま耳を澄ませる。
すると足音が温室に入り、近づいてくる。息を殺していたローズフェリアが、ハッと顔を上げる頃には、少し先からまっすぐにこちらを見つめる顔。
「ルリーサお姉様…」
立ち上がり、慌てて礼をする。
そこには、第一皇女である姉がたった一人で立っていた。
「お前はここで何をしているの?」
下女に命じるよりも硬く温度を感じさせない声、詰問口調に嫌悪が現れている。
「私は、バラを…」
「誰かを待っているんじゃなくて?」
「…何のお話でしょう?」
「お前の侍女が何を言いふらしているか知っているわね」
「リンが?」
ローズフェリアの返事を聞かず投げられる言葉は、怒りに張り詰めているようだ。ローズフェリアは傷つくことのない様、感情を出さぬよう心構えをする。自分は人形なのだ。傷付くことは何もない。そう思うと、怯えていた心がすっと軽くなる。
「お前が名のある方と夜毎に会っているという話よ!恥知らずなお前の侍女の話は王城にも届こうかというところ。恥ずかしくはないの!アカネキ様に少し気に入られたからと調子に乗って…。噂を大きくして降嫁でもしようというの?汚らわしい、人形の考えそうなこと!!」
自らの言葉に煽られるように、声が高くなり、ルリーサの顔が歪んでいく。
「何度言ったら解るの?お前は人形なのよ、結婚などできる訳がないでしょう。人形らしく大人しくしていればよいものを、お母様の顔を使って立派な方を惑わせるなんて…お父様がなんとお思いになるか」
「…」
「お前は一生後宮に一人でいるのよ!あの侍女を黙らせなさい、そして二度と部屋の外に出ないと誓いなさい!!」
「…できません」
「なんですって?」
「結婚など考えておりませんし、リンの勘違いは正します。でも部屋から出ないというお約束は出来ません」
「お前…っ」
「失礼します、お姉様」
「待ちなさいっ…!」
トーンの上がった声の制止が追ってきたが、ローズフェリアは温室の入口へと向かう足を止めなかった。
と、美しく整えられた爪が食い込むほどの強い力で肩をつかまれ、力任せに振りむかされる。
視線の先にローズフェリアは振り上げられたもう一方の手を見て、逃げようと顔を背けた。
衝撃を予想して目を閉じる。
次の瞬間、頬ではなく背中を強く押されてローズフェリアは倒れこんだ。衝撃に身をすくませるその耳に、なぜか姉の小さな悲鳴が聞こえて、ローズフェリアはそのまま顔だけを上げる。
「…シノール様」
ローズフェリアは呆然とその名を口にした。
暴れる姉の両手を軽くひねるようにして後手に捕らえているのは、シノールだった。
「ここはもう王城にも近い。ルリーサ様、お納め下さい」
「シノール!やはり噂は本当なのね…どうして、よりにもよって何故あなたが?!」
強い非難の声。矛先が自分に向いたのを知り、シノールは捕らえていた手を離し、膝をついた。
「ご無礼、お許し下さい」
「そんなことよりも質問にお答えなさい。あなたもあの人形が良いと言うの?!」
あの人形、と視線がローズフェリアを貫く。
その燃えるような眼。嫌悪。
「そんなに…私の存在が赦せませんか…」
向けられた強い感情に、立てないままローズフェリアは思わず呟いていた。
するとそのローズフェリアの言葉に、シノールの肩を強く掴み揺さぶっていたルリーサの手から力が抜け、落ちた。
「ルリーサ様」
小さく呼ぶシノールの声を気にかけず、ゆっくりと身体ごとローズフェリアと向き合ったルリーサを見てローズフェリアは声にならない悲鳴を上げた。
荒れ狂う感情が削げ落ち、冷たく光る眼。それはまさに、約束の時の兄の眼と同じだった。
そして、この場所だった。シノールを見てローズフェリアの記憶が合致する。
既知感を覚えたのは、あの日ローズフェリアに向かって剣を抜こうとしたシノールの眼だった。
あの時シノールの眼にあったのは純粋な殺意。
その殺意と見まがうほどの憎悪、嫌悪を向けられているのだ。
それでは、とローズフェリアは思う。
それでは、美しい外見を見てただ遊んだのだという兄の言葉は嘘だったのか。
それどころか子供の頃からほとんど会ったことのない兄にまで、傷つけ殺したいと思うほど憎まれているというのか。
人が人を愛し、嫌うのには必ず理由がある?
しかし生まれたことは、自身の罪なのか?
「お前のその…」
煮え滾るように少し震えた姉の声に我に返る。
ひどい言葉が投げられることを予想して再び身構え、まっすぐに顔を向ける。
「お前のその、何も知らないで自分を哀れんでいるのに我慢がならない」
「?!」
その言葉は予想外のものだった。
呪詛のような言葉は続く。
「何を奪っているかも知らずに、美しく生まれてしまったばかりにと浸っているお前が憎い…。存在が赦せないかですって?何もかも赦せないわ、赦せないから存在だって憎い!お前のおかげで私がどんな思いをしたのかも知らずに、自分一人綺麗な振りをしている。そうしてこんな風に生まれなければと、自分自身に非など求めず幸せなこと…。お前がどれほどのものに恵まれているとっ!!」
昂る感情に溢れた涙で声を詰まらせる。憤りが体内を荒れ狂っているのを示すがごとく震えるルリーサの身体をシノールが支えた。
そこへ主がいないことに気づき慌てていたらしい侍女たちが、声を聞きつけたのかやって来てルリーサの身体を受け取り連れて行くのを、ただただ声もなくローズフェリアは見送った。
「ローズフェリア様」
その場に残っていたシノールがいつまでも立ち上がらないローズフェリアを気遣うように声をかけてくる。
その声にビクリと反応して、差し出された手から逃げるように立ち上がる。
ローズフェリアは混乱していた。
「…私が奪った?恵まれている?」
何を言われているのか解らなかった。
ただ、皮肉や陰口ではなく真直ぐに向けられた憎悪が生々しくローズフェリアの心臓を射る。
足に確かに感じていた地面が崩れだしたような感覚に襲われ、ローズフェリアは後も見ずに走り出した。
滑り込み金曜日…できてない!
もう本当に申し訳なく。。。
そして土日はお休みをいただきます。




