その5
駅のホームで電車を待っている間も、電車が重々しく到着し帰路につく人々を飲み込んでいったあとでも、僕のアパートの最寄りの駅の外へ出てからも、僕と彼女は話をし続けた。他愛のない話題が次々と思い浮かんで発せられた。高校生としての日々が終わってからのことを、大学生になってからどんな出会いがあり、どんな出来事を経験してきたかを、お互い無造作に並べ立てて、重ねあって、反応しあった。
東京の夜道は明るくて、仕事や飲み会を終えた人がかなり歩いてはいたけれど、昼間の喧騒と比べればやはり静かなものだから、僕らの会話は周りと比べて一際賑やかだったと思う。夜なのにやかましいと思われていたかもしれない。とはいえ飲み会帰りの大学生なら仕方ないと愛想をつかされてしまっていたかもしれない。でも、あいにくだけど僕には、周りを歩く人のことを気にしている余裕は無かった。
僕は倉橋の話題に集中し、明るく前向きに応えるように努めていた。笑い続けることが肝要だった。笑い合う行為だけが唯一彼女と通じ合っていた。笑いが絶えてしまえば、彼女がこの場からいなくなってしまう気がした。
今この時この瞬間、彼女との話が絶えてしまえば、たぶんもう話す機会などないだろう。彼女は本来関係を断ちたがっている。その気になれば、いつでも断てるのだ。飲み会のときも、僕は他人にならなければならなかった。僕と彼女の関係を知らない者に、僕の彼女に対するかつての想いを知られることは、決して許されない行いであった。
「佐々森クンの家、DVD見れる?」
彼女の問いかけの声は、耳障りではなくなっていた。僕に対して、余すところのない好意を纏った声に思えた。
「パソコン使えばね」
「じゃあ一緒に見ようよ! 今ちょうどDVD持っていて、本当は帰ったら見ようと思っていたの。でも、誰かと見た方が絶対に楽しいし。ね?」
倉橋が僕の肩を突いてくる。転がり込む口実にしては、手が込んでいるように聞こえた。見れば、自分のバッグを少し開いている。見覚えのあるレンタルビデオ店のケースの隅っこが顔を覗かせる。
「本当に借りていたんだ」と思わず口に出してしまう。彼女は顔を綻ばせて、また肩を突いてきた。
断る理由は無かった。というより、思いつかなかった。
僕が了解の返事をした直後、倉橋からは、「終電までには帰るからね」と歯切れよく釘を刺さしてきて、思わず苦笑いで返した。
僕は映画に詳しくなかったので、パソコンのドライバにセットされたその洋画のタイトルを見てもピンと来なかったけど、撮影されたのが80年代か90年代初頭あたりで、役者陣がそれほど有名なメンバーではないことは理解できた。マイナーな恋愛映画だ。これが片思いを主題にしたシリアスな作品であれば、僕の内心は穏やかではいられなかっただろうけど、誠に嬉しいことに映画の主人公とヒロインが盛大なる両想いであるところからストーリーは始まった。恋の邪魔をする悪い奴らをコメディタッチでなぎ倒している。単純明快で、一度見たらきっともう見たいとは思えないタイプの映画だ。それにも拘わらず、このときは妙に僕の感覚を刺激してきた。大して面白くないと頭の片隅で思っていても、もう片隅で子どものようなくすぐったい感触が膨張し、面白おかしさで満ち溢れる。腹を抱えて笑いこむことさえもあった。身を屈めて顎が外れそうになりかけていたら、さすがに倉橋にも、「笑い過ぎ」と窘められた。本当にそうだと思った。
僕と倉橋は膝丈ほどの小さな四角いテーブルの一辺に並んで座っていた。僕は手を後ろに伸ばして支えにし、倉橋は肘をテーブルに乗せて支えにしている。テーブルの上にはコンビニで調達した100円程度のスナック菓子を置いておいたけど、まだたくさん残っている。散々飲んで食べた後なのだ。何かを含める気になどなれなかった。だったらスナック菓子など買わなければ良かったのに、買い物をしている真っ最中では、ほんの数分後の自分たちに対する配慮なんて全く思いつきもしなかった。
映画のストーリーはぐいぐい進んでいく。停滞すれば観客が逃げてしまうと知っているかのように、次々と新展開を巻き起こし、部隊がめまぐるしく変わっていく。
「角谷君とはね、大学二年になる直前でわかれたの」
倉橋の告白は突然だった。
映画は、登場人物が次の目的地へと移動するとても中途半端な場面で止まっている。怒涛の展開が止まり、笑いどころも敷かれていない。静かなシーンでもあったので、倉橋の声は明瞭に僕の耳に丁寧に届けられた。ただ残念ながら、内容を受け止めるのには多少の時間を要した。思考の切り替えで反応が遅れる。僕がのろのろと手の支えを取り、背筋を伸ばしたとき、彼女もようやく話の続きを始めた。
「嫌いじゃなかったんだけどね。角谷君。でもなんとなく、これ以上続けても意味ないだろうなあって思っちゃった。それを言ってみたら、角谷君案外すんなり納得してくれて、それじゃこれから友達に戻ろうって言ってくれたの。また何かあったら会おう。一緒に遊んだりとかさ、ってね。私ももちろん納得した。健全に別れた方だよ。泣いたりもしなかったし。まあ、それから今まで、会ってないけどね」
映画の発する青白い光が、彼女の横顔を照らしていた。青い光の効果なのか、頬の膨らみが異様に綺麗に見えた。草木の一本も生えていないどこか遠い星の地表を彷彿とさせる膨らみ。
長めの睫が瞬きをして、下の方で動きを止めた。彼女は目を閉じている。真っ黒い睫の錠がかかる。
「そうだったんだ」としか言えなくなった。実際言ってみると、まるで他人事のようで、冷たい。言っていても良い気はしない。
彼女の口がわずかに上向きに傾いた。
「気になっていたでしょ、佐々森クン」
「そりゃ、ね」と、僕は頷いた。
「角谷君と付き合いたいって、私が最初に相談したの、佐々森クンだったものね。角谷君と仲良くて、話しやすい性格していたから、つい相談しちゃったんだ」
僕は何も言わなかった。口を噤んだまま、曖昧に倉橋から目をそらす。
角谷と仲がいいと言われて面食らってしまっていた。そうか、僕は角谷と仲良かったのか。今ではもう会話もしていないし、連絡さえ取っていないのに。昔の僕らは友達だったんだ。角谷と倉橋が付き合ってから、話しかけづらくなってしまって、僕は角谷と距離を取った。そのときに、友人関係さえも記憶の奥底へと沈み込ませてしまっていたらしい。
映画の中で誰かが高笑いをしていた。周りのモブたちも笑っていた。理由は不明。話の内容はすっかり僕の耳から零れ落ちてしまっていた。理由のわからない笑い声ほど不快なものは無いと知った。
真横で倉橋の息遣いを感じた。彼女は僕の方を見ているらしい。話しかけようとしているのかもしれない。ほんの少し首を捻れば確認できるのに、僕の首はどういうわけか、錆びれたネジのように頑なに動かなくなっていた。
「コンクール」
倉橋の声がする。
「ねえ、高校の夏のコンクール、覚えている? あれ確かDVDもらったんだよね。顧問の先生が買って、部内のみんなに配ってさ」
「ああ」
該当する思い出が胸の中でぽつりと灯った。夏のコンクールが終わって、音楽室で行われた打ち上げの際に、顧問の先生からひとつひとつ手渡しで送られた我が部活の演奏DVD。成績は芳しくなかったし、自分たちの欠点を思い知らされるのが怖くて、僕の周りではすぐに見ようと試みる人はあまりいなかったと思う。倉橋は見たのだろうか。見たのだろう。あの頃の真面目で練習熱心な倉橋なら、自分の欠点に真摯に向き合い成長の糧にできたに違いない。
「持ってる?」
倉橋が言う。僕はこくりと頷いてしまう。コンクールのDVDの話を聞いて、アパートにまで持ち込んでいたことをちょうど思い出していたものだから、つい無頓着に反応してしまった。視界の端のぼんやりした空間で、彼女がしたり顔をしているのを感じた。
「それじゃ、今度はそれ見よう」
飛び跳ねるような動きで、倉橋の身体がパソコンの傍に移動する。コメディ映画は何らかの爆発シーンで停止された。そんな大仰なシーンになっているとは全く気付かなかった。どうして爆発しているのかは気になるところではあるが、わざわざ借りてまで見たいと思えないのは変わらなかった。
僕がいそいそと自室に向かい、お目当てのコンクールのDVDを持ってくる間、倉橋はテーブルに手をついたまま目を輝かせて待っていた。僕が不器用に笑うと、何倍にも増幅された笑顔が返ってきた。DVDを起動する間も、ずっと視線が離れない。いったい僕の何をそんなに凝視しているのだろうと、気になって仕方なくなるくらい、視線は熱を持っていた。
映画を見ていた時と同じように、僕と彼女は二人で並ぶ。DVDは静かに、コンクールのオフィシャルな説明文から映し出された。収められているのは一校分の演奏のみ。欲しいと思う高校をピンポイントで買えるようになっていて、大抵の場合は部活の身内の方が買っていく。有名校にでもなればそれなりの売れ行きになるのかもしれないが、僕らの高校の演奏に付加価値などないに等しい。ごくごく平凡な部活の、平凡な演奏の映像データでしかなかった。
それでも、実際に映像が映し出されると、僕の心は沸き立った。
画面の中に出てくるのは、ほんの数年前の僕らだ。高校生の頃の僕と、その仲間たちが、やや固い足取りであらかじめ用意されていた椅子に腰かける。各々の楽器を構え、譜面台の位置を調整し、先生の指示を待つ。舞台の裾から、いかめしい顔をした先生が整然と歩いてくる。額に皮膚の襞が浮かんで見えるくらいのしかめ面。それが先生の厳しさの現ればかりではなく、先生の生来の緊張しがちな性格ゆえの表情でもあることを知っているのは、きっとあの吹奏楽部員になったことがある者だけだったのだろう。
先生が赴任してきてから幾数年、何代目かの部員の、昔の僕たち。高校生の僕たちが、しわくちゃの先生の顔を見て、泣きもせず、笑いもせず、どこにも逃げ場のないことを悟り覚悟する面持ちでいる。先生の指揮棒が、金管の低音を指し、振り上げられ、指された少年の指が楽器のピストンを素早く抑え込む。音が、流れる。支えの音。始まりの音。
僕らの成果が実ることなく終わってしまった、コンクールの始まりを告げる音。
トランペット奏者の中に、かつての僕の姿があった。髪が短く揃えられている。丸い頭が際立って、童顔が惜しげもなく晒されている。高校生だからまだ許されたのだろう。大学生で、あの髪形は、厳しめの部活動でもやっていない限りはしたいと思えない。高校生のときは考えようともしなかったことだけど。
次に角谷の姿を見つけた。このころにはすでに倉橋と付き合っていたはずだ。背の高い男。座っていても、周りの部員からは頭一つ抜けている。手が長く、トロンボーンの独特な長さも気にならなかったことだろう。
彼がいたのは、トロンボーン奏者の中の、ファースト。重低音と高音の架け橋となり、なおかつ要所ではメロディを担当することもある。この日も、あった。細い木管の重なり合いが一段落ついたあとで、低音が深く沈み込んでいく。その途中、トロンボーンが一直線に突き抜けていく。湖から飛び出す海鳥のように、と先生はよく言っていた。湖なのに海鳥とはどういうことか、と誰もが思ったことだろう。とにかく気持ちよく吹くことなのだと、角谷は自己流に解釈し、演奏の中で表現をした。DVD越しからでも、その解釈が成功であることはよくわかった。びしっと張った彼の腕、構えられたベルを震わせて、観客に向け音が突き抜けていく。身体は細いくせに、出す音は大きい。重低音を掻き消してしまいがちで、後の講評でも指摘されていた。でも、このときの角谷の表情は、とても清々しそうに見えた。
「角谷君をふったのは私の方だよ」
現在の倉橋が、演奏の真っ只中で口を開いた。演奏を楽しんでいたはずの僕の耳が、遠くなる。いくら嫌だと思っても、彼女の声に集中してしまう。
「私が先に言い出したの。せっかく付きあわせてくれたのに、ごめんね」
「謝るなよ」
首を横に振りつつ、僕は呻いた。謝罪される意味はわかるが、謝罪されたいとは思わなかった。
彼女はもう違うのだ。僕は自分に言い聞かせる。昔の彼女はもういない。昔僕が相談に乗ってあげたあの少女は、もう新しい彼女へと上書きされてしまったのだ。角谷とも別れて、僕ともまったく関係のない赤の他人へと変貌してしまった。
「佐々森クン」
声がした。
僕は振り向かなかった。演奏は一向に耳に留まってくれない。流れて流れて、どこにも引っかからないまま抜けていってしまう。
彼女の腕が、僕の片腕に絡みついてきた。
僕の身体が硬直する。彼女を振り向くこともできず、振り払うこともできず、ただじっとパソコンの画面を見つめている。高校生時代の自分たちを見つめて、頭を真っ白にさせて、倉橋実夕未の吐息を首筋に感じている。彼女の顔が迫ってきていた。肩の付近にあったはずの彼女の額の感触が、鼻筋になり、頬へと変わる。腕の絡みつきはきつくなり、やがて二の腕のふくらみを確信できるようになった。腕の奥の胴体も寄せられる。手の甲が彼女の腰に触れる。骨ばった、痩せた腰。手のひらが広がり、彼女の膝に落ちて広がっていく。艶やかな髪に触れる。柔らかくて、柳の葉のように撓っている。彼女はさらに身を寄せてきた。
僕の心臓が跳ね上がる。
「今も、まだ……」
湿った吐息が僕の耳に触れ、絡みついていく。甲高い声ではない。粘りつくような重みのある声。今の彼女が、普段は発していないであろう声。だけど、かつての彼女の声とはもちろん違う。もっと大人びて、艶めかしくて、聴いている相手を縛り付けるために存在する声の出し方なのであった。
僕の内側に芽生えていた逃げ出したい気持ちは、彼女の存在感を前に踏みつけられ、痺れていく。僕は動くことができなかった。すぐそばに寄り添う彼女の言葉から発せられる言葉がいかなるものであろうとも、彼女はかつての彼女ではなく、僕の望む彼女はもういないというのに、僕の耳は集中することをやめようとはしなかった。耳に聞こえてくるのは今の彼女の声だ。しかし頭の中には、かつての彼女がいた。かつての彼女が今の彼女の声を発している。高校生の頃の彼女が、もっと成熟しなければ知りようもないような態度で僕にまとわりつき、誘い、見つめてきているイメージが浮かぶ。不釣り合いで不恰好で、非道徳的なイメージが、僕の思考を弄ぶ。強制的な集中は好き嫌いの範疇を越え、抗いようのない使命となって僕を縛り付けている。彼女の声を聞くように。じっと黙って、動かぬように。
彼女の顔が、不意に離れる。
「やめた」
緊張の糸を叩き斬る声がする。湿り気を失った僕の耳がそれを受け入れ、数回の瞬きの後に、僕の口から「え?」と声が漏れた。空気中に置き去りにされた音は拾われることもなく溶けていく。
彼女はすでに立ち上がっていた。動揺しながら向ける僕の視線の先で、彼女は頬を緩ませていた。笑ってはいる。でも、その笑顔は、今日一日でみたどの笑顔よりも弱々しく、微かで、すぐにでも泣き顔に転がってしまいそうに見えた。
彼女は玄関へと向かっていく。僕が慌てて、「おい!」と呼びかけて、ようやく動きが鈍くなる。それでも決して止まろうとするわけではなかった。
「佐々森クン、昔とちっとも変っていないんだね。私のことみんなに言わないでおいてくれるし、部屋にも上がらせてくれて、コンクールも見せてくれるし、ほんと、優しい。私が遊びでキスを頼んでも、簡単に許してくれちゃいそう」
僕には背中を向けたまま、靴箱の傍にしゃがみ込んだ彼女は、小さな声で、「駄目だよそれじゃ」と続けた。
「キスなんかしちゃだめ。今の私に優しくしないで。私はきっと、佐々森クンの望んだ私と違うから」
胸の中がざわついた。僕の望んだ彼女と違う――その言い回しが、僕の心に浮かんでいた言葉と重なり、膨らんでいく。倉橋に何もかも見透かされていたのだ。僕がかつて何を想って彼女を見つめていたか、今の僕がいかに彼女に失望をしているか、すべてを知ったうえで、彼女は僕を試したのだ。
彼女が靴を履き、立ち上がる。ドアのノブに手を伸ばし、開くと、夜気を纏った風が入り込んでくる。涼しい初夏の一陣の風が、暗い僕の部屋を踊り抜けていく。
「ごめんね」と彼女が言う。何もできないでいた僕に対し、その横顔だけを見せて。彼女の顔はやはり笑っていた。口の端が上がっていて、目は弧を描くように閉じられて、頬のあたりにひとつ、淡い光が粒となっていたが、すぐに彼女の手に撫でられ消えてしまう。
ドアが閉じる。彼女が僕の前からいなくなる。コンクールの映像がもたらすアイボリーめいた光のほかは何もない、薄暗い部屋に僕だけを残して。
力の抜けた僕の視線は、よろめきながらも吸い込まれるように、コンクールの画面へと泳いでいった。制服を纏った演奏者たちのうち、ちょうど半分が見えるカット。僕は半分見切れる形でトランペットを構えている。トランペットがメロディを鳴らしている場面だろうと推測がついた。構えているのはトランペットとアルトサックスたちだ。金管と木管、両者の音が組み合わさって、曲の盛り上がりを形作っているシーン。トロンボーンを含めた低音はいったん裏方に回っている。角谷はというと、トロンボーンを腰に据え、次の演奏に備えていた。
視線は動き、木管の列の端へと移る。フルートは演奏していたが、クラリネットは休んで、先生の指揮を見つめていた。次に入る箇所のために、拍を読み取りスムーズに入るために。
倉橋実夕未は、その中にいた。クラリネットだから、並んでいることに問題は無い。しかし、その顔は指揮者を向いていなかった。
彼女の顔は、振り向いていた。斜め後ろ、僕の方向を真っ直ぐに。
思わず息を飲み込んだ。
彼女は僕を見つめていた。コンクールの真っ最中なのに。顔を伺うことはできないが、用もないのに振り向くにしてはあまりに不似合いな舞台だったのに。
彼女はこのコンクールのときにはもう、僕が彼女のことを好きであることを知っていたのだ。
靴を引っ掻けて外に出る。風が吹き抜け、僕を撫でてくる。
階段を駆け下り、道路に向かう。脚の先で靴が嫌な形で曲がったけれど、痛みはない。僕は躊躇わずに駆けることにした。
まだ彼女が遠くに行っていないことを信じて。
彼女に会わなければならないと思った。
「ごめんね」と言ってくれた彼女に対し、僕の言葉は足りていない。
僕に彼女の謝罪を受け止める資格などない。
僕は彼女が好きだった。高校生の頃から好きで、角谷と付き合ってからも、離れたところから好きでい続けた。二人に対して何も邪魔になるようなことはせず、静かに疎遠になっていった。それを、彼女は優しさと受け止めたのかもしれない。
けど、それは違う。それは優しさだけによる行動じゃない。
僕は角谷と疎遠になっただけだ。彼女と付き合い歩く角谷を近くで見ていることがつらくて、遠い位置に、それでいて彼女を見ていられる位置に、自分の居場所を作りたいと思っていたに過ぎない。
自分の気持ちをひた隠しにしていたのは、言い出す勇気がなかっただけだ。誰よりも、僕がその事実を知っている。勇気を出せない自分に憤っていたからこそ、僕は二人から目を背け、過去から逃げて生きてきた。
僕は優しくなんてない。僕は自分勝手に生きているだけ。声高にして叫びたい衝動を、走る力に変えていく。
久しぶりの疾走で、胸の中がキリキリ痛む。呼吸のリズムがとりにくく、落ち着かずに埋もれていく。脚を必死に前に突き出し、靴の中で指が悲鳴を上げる。
それでも僕は走り続けた。
街の角を抜け、道へ出て、歩道の人を避けながら、駅への道を戻っていく。
ほんの数十分前まで彼女と共に歩いた道。彼女が駅を使うなら、必ず通るであろう道。
もしも違う道を使っていたとしたら、やみくもにでも走って見つけ出す。
僕は彼女に会わなければならない。頭の中で反芻する。
街の角をまた曲がる。
道の先に駅が見える。煌々と照るホームの光。構内から数名の人がトボトボと吐き出されていく。
彼女の姿は見えない。別の道にいるのか、駅のホームにいるのか、すでに電車に乗ってしまったのか。
どれかははっきりわからない。
それでも僕は走り出す。
ひとまず駅へ、真っ直ぐに。
僕は彼女と会わなければならない。
会って伝えなければならないのだ。僕の事実を、僕の弱さを。
それすらできないのであれば、僕は彼女と本当の意味で疎遠になるに違いない。彼女の中で、僕は、優しさの名札をつけた案山子にでも成り果ててしまう。それだけは、絶対に嫌なのだ。ほんの少し言葉が足らないだけで、途方もない何かが失われることもあるのだから。
発射のベルの音が鳴る。
またひとつ電車が行ってしまう。
彼女が乗っているかもしれない電車が、可能性とともに、またひとつ。
改札から人が雪崩れ込んでくる。膝に手をつく僕の傍を、数多の人が邪魔そうに通り過ぎる。
彼女は、いない。
諦めたくない。
それでも彼女は、やはり、いない。
――了