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その4

幅の狭い急な階段を上っていると、入口から夜風が吹き込んできた。頬や首を撫でる風が涼しく心地よく、そこではじめて、自分の体温がいかに火照っていたかを知った。

外に出る。よその居酒屋の黄色い明かりが並び、飲み会を終えたばかりの人々が、街道にひしめいている。夜中の九時をすぎた頃。一次会が円満に終了し、二次会に行きたい人は集まって次の場所を探し、そうでないものは別れを述べつつ帰宅に思いを馳せ始める。

長谷田や坂部は率先して二次会への参加を呼びかけた。実に幹事らしい行動だったが、残念ながら呼応する声は少なかった。一時は盛り上がりを見せていた合コンだったが、二次会にまで連れ立って楽しみを共有するほどの思い入れは抱けない集まりだったといえる。ほどほどで、一回限りの飲み会だ。

長谷田と坂部が、妙に達観した顔つきで握手をしあう。結局二次会への参加メンバーは集められず、二人はこれからどこか別の場所で飲みあうらしい。

「長谷田に誘われちまったんだよ。もう二、三時間は愚痴を聞いてやらなきゃ」

長谷田が愛想よく男子勢とじゃれあっているのを横目に見ながら、坂部が僕に耳打ちをしてきた。最後まで倉橋の顔をまともに見ることがなかった長谷田。それに付き合う坂部の苦労を想い、「同情するよ」と口にすると、坂部が苦笑いで返してきた。

「じゃ、倉橋のことは頼んだからな」

「え?」

思わず、返す。背中にばねでも仕込まれていたみたいに、とっさに。しかし坂部は何も言わず、身を翻して長谷田に向かい、その頭を思いっきり叩いた。僕の口から、空気がしわしわ漏れていく。見開いた目が少しずつ戻る。

何を驚いているんだろう、と自分で自分を詰ってみる。坂部は倉橋の友達だから、そういう意味で、頼んだだけに決まっているだろう。

街路の喧騒がますます大きくなる。長谷田も宮下も山口も騒いでいるが、さらに彼らを包み込む勢いで、身の回りが酔っ払いたちの声で包まれていく。

「それじゃ、今日はこのあたりで、最後に一本締めと行きましょうかね」

長谷田が声を掛け、掛け声とともに、手拍子ひとつ。駅へと向かう人と、住居にそのまま向かう人と、長谷田と坂部に分かれる。

赤く黄色く街が輝く。車のクラクションが遠くで響く。アルコールの熱に浮かされた活気で満ち溢れていて、ひたすら笑わせるためのやり取りが繰り広げられていく。笑顔が生まれ、あるいは作られ、交わされる。かつて、夜は暗闇だった。火が生まれて幾千年、電気が操れるようになって百数年、少なくとも今のこの場所に、かつて人が恐れた闇はない。街も人も飲み会も、まだまだ終わりそうにない。

だけどひとまず、この飲み会は終わった。星などみえやしない曖昧な夜空を、見上げつつ、そう思う。


駅へ向けて歩いていく男女の集団は、人混みで濾過され、撹拌されていった。携帯電話でもう別の世界の仲間たちとの交信を始めている人もいる。きっと、この話題が出る。「今日の飲み会どうだった?」「ちょっと微妙だったかな」あとは適当に、次に遊ぶ時の約束を交わす。今日のことを忘れちゃうくらい、もっと楽しいことしたいから。まだ就活前の学生なんだし、気楽にね。

この国でも有数の複雑さをもつ駅の入口には、数えきれないほどの人々がせこせこと蠢いていた。地中に上顎から這い出た怪獣が、人を吸って、吐いて、また吸って、ぐるぐる回して悶えさせている。駅ナカデパートの、暖色でに塗装されたお洒落な入口ドアの付近に人だかりができていた。水分過多の吐瀉物が弾ける音とギャラリーのどよめき。誰かが嘔吐したのだろう。饐えた匂いが僕の鼻にまでしっかり届いた。近くにいた仲間たちと目を合わせ、顔を顰め、駅の構内へと歩んでいった。

 幾多の路線の案内図が複雑怪奇に絡み合う中、僕らは慣れた足つきで、エスカレータを降り、オレンジ色をシンボルとした電車の走る路線のホームに辿り着いた。予測されるドアの停車位置にはすでに人が並んでしまっている。くたびれたスーツの人、キャンキャン騒ぐ赤い女たち。そして大量に絡み合う大学生たち。何も証拠がなくとも、大学生だとすぐにわかる。肩の力が抜けていて、ひたすら今を楽しんでいて、それから、諸々、僕らと同じ。だから鼻が利くのだろう。それでも十分不思議だけど。

「実夕未ちゃん、連絡先教えてよ」

すでに僕から一メートルほど距離が開き始めていた宮下の口から発せられた言葉が、僕の耳に不躾に入り込んできて、鼓膜をノックする。油断していた僕の胸が、鳴った。

 倉橋は居酒屋を出てからずっと、宮下と山口の二人と楽しげに話していた。ほかのメンバーが散り散りになる間も男二人が離れようとしなかったらしい。あの人混みの中では意識しなければできない芸当だ。

「うん。いいよー。赤外線ある?」

「俺のはあるけど、山口のは無いから、あとで俺が送っておくわ」

差しさわりのない会話が重なっていく。倉橋と宮下と山口が、目に見えない電波を介して繋がっていく。この世界にまたひとつ、新しい大学生同士のグループが生まれた。宮下と山口という、僕と少しだけれども、ウマが合わないと思われる人たちのいるグループ。倉橋は今、その領土の中にいる。壁の向こう側で、甲高く、楽しげに笑っている。僕が見ることのできない場所で。

一際強い風が吹き付けてきて、僕の頭を覆っていった。周りの数人も身をすくませ、髪をかき乱される。春先の、不安定な低気圧が傍にある。今夜遅くには雨が降ると、テレビのニュースで報じられていたことを、風に殴られたことで思い出した。

傘、買わねえと。

ふとした思い付きが、僕の胸の内で拡大された。傘を持っていないといないのだから、雨が降った時のために傘を買おう。その些細な望みが「やりたいこと」へと昇格し、「やらなければならないこと」であったかのように思われてくる。この拡大が不必要なものであることはすぐにわかった。わかっていても、止めるすべはない。水面に浮かぶ波を人の腕が止められないのと同じように。

僕は宮下たちを振り返った。

「悪い、ちょっと買い物するからここで別れるわ」

「え? ああ、そうか、それじゃ――」

宮下の言葉を半分だけ聞いて、手を乱暴に振って階段を上っていく。山口の返答など待つ気にもならなかった。倉橋のはなおさら。エスカレーターを上っていく。ほかの人の声も、倉橋の声も、もう何も届かない。

駅の簡易路線図が描かれた柱に寄りかかって、深く息をついた。天井からぶら下がる電光掲示板を見上げる。あのホームに次に電車が来るのは、2分後。遅れたとしても、5分もすれば電車が来るだろう。そしたら倉橋たちも行ってしまう。10分経てば絶対安泰だ。誰もいないホームに僕だけがいる姿を、思い浮かべて、ほくそ笑む。実際には10分経ったところで山ほどの他人はまたどこからか現れて知らないうちに並ぶのだろうけど。

罪悪感の砂粒みたいなものが、僕の胸に薄く塗され、遠慮なく拡散されていく。所詮は砂粒だ。僕の心を埋め尽くすには、薄くて、軽くて、小さくて、圧倒的に足りていない。

傘なんかどうでも良かっただろう。

自分に向かって、指を差す。

ただ彼らから離れたかっただけじゃないか。宮下から、山口から。やかましいあいつらから。

いや、違う。

僕が避けたのは彼らじゃない。そんな簡単な理屈であってたまるものか。

それじゃ、どうして。

喉の奥が、擦れて、空気の小さな塊が漏れる。溜息と呼ぶには勢いのある、乾いた笑みを含んだ呼気が押し出される。こんなところで嘘を言ってどうする。聴いているのは僕だけだ。はっきり言ってしまえばいいじゃないか。

僕が避けたのは、彼女だけだったんだろう。あれ以上、変わり果ててしまった彼女の姿を見ていることがどうしようもなく辛くなって、大切に頭の中で燻らせてきた彼女への憧れが霞んでしまうことが怖くて、だから逃げてきたんだろう。


改札の外側で、消防車のサイレンが鳴り響き、僕は弾かれるようにして目の前の光景にピントを合わせた。先ほど嘔吐していた若い男が、担架に乗せられて運ばれていくところが見えた。動けなくなるほどの重症だとは知らなかったので、思わず目を見張ってしまった。

救急車が去り、サイレンの残響が消える。携帯のカメラで事態を撮り、知り合いに知らせるだのSNSにばらまくなどを粗方し終えた人々が、段々静まっていく。元々の、入り乱れた混沌へ。

気が付けば、さっきここに上ってきた時からすでに10分が経っていた。消防車の騒ぎが無ければ、僕は柱に寄りかかったままもっと長い時間固まってしまっていたかもしれない。

ホームには人が大勢いた。電車はすでに二本も通過したというのに、まだまだ人数を消化しきれていない。ドアの停止位置の行列に並ぶと、すぐに後続の人が並び始めた。向かいのホームのアナウンスが飛び交い、反響しあってわけのわからないメロディを奏でる。よくある、光景。聴き取れないと騒ぐ人など今更いやしない。

電車が入ってきて、ゆっくり停車する。行列が中央を開いて二手に分断される。ドアが開き、人が吐き出されていく。くたびれた顔たちが続々と通過する。落ち着いたところで、列の前方の人たちから一人、また一人と電車へ足を踏み入れていく。

僕の足が、固い鉄製の枠を捉えたとき、右腕に何かを押し付けられた。慣れない間隔に驚いて、思わずそれを掴んでしまう。顔の近くに引き寄せる。見えてきたのは、白いビニール傘の柄だった。

見当がつかなくて、後続の人たちに押されつつ、なんとか態勢を真っ直ぐに保って振り返り、そしてようやく見えた。列の一番後ろに、倉橋実夕未が立っているのを、はっきりと。


「買っておいてあげたよ、傘」

僕の目的地である駅のホームに辿り着くと、倉橋が平然とした様子で話しかけてきた。白いビニール傘が、コンクリートのホームを数回叩く。僕のと同じ種類だ。

「……いいの?」

「何が?」

「えっと、いろいろ」

宮下や山口たちとわざわざ離れてしまっていること、彼女の降りるはずではない駅に降りてきていること、そもそも関係がないことにするはずの僕と親しく話してしまっていること、すべてを含めてごっちゃになって、よくわからなくて、いろいろ。ひどい言い方だとは思った。彼女は傘に寄りかかるようにして吹き出した。どうやらどの意味についても理解してくれたらしい。

「いいよ、私もいろいろ話したい。吹奏楽部のときのこととかさ」

僕と彼女のつながりを表すワードが現れて、彼女の示す『いろいろ』が、正しく僕の知りたかった『いろいろ』と同一であるとわかる。さっきまであったはずの壁が、知らないうちに扉になって、僕に堂々と開かれている。

「だからどこか座れるところいきたいな。ついでにさ、今どこに住んでいるか知りたい」

当然、口で説明するだけじゃダメ、と彼女はいたずらっぽく付け加えた。

長く話をしたい、今住んでいる場所を知りたい。それらが都合のいいほどに頭の中で組み合わさって、言葉にならないくらい動揺をもたらした。目を数回瞬いてみたが、さっぱり彼女の真意がつかめなかった。こんなに僕が狼狽しているというのに、きっちりと鼓動を高鳴らせてくれる胸の反応が、途方もなく純粋で無垢で、子どもっぽい。

「というわけで、連れてってよ。佐々森くん」

倉橋がとどめの言葉を刺す。僕は驚いて、驚きすぎて諦めて、小さめの駅から外へと続く道をひとつ示してみせた。毎日毎日、大学へ行くために通っている道。僕の通学路、この日だけの、僕と彼女の帰路の方へ。

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