その3
トロンボーン奏者の友人がいた。角谷って名前だった。
角谷が座る席は、僕のいる列の真ん中付近だった。低音のチューバたちと、高音のトランペットの中間、音の架け橋となる役割だ。真鍮の細長い管を肩に乗せて、右の腕を悠々と動かし、鳴らす。構造上機敏な動きはできないから、低音域でなだらかに楽曲の下支えをすることが多い。それでも落ち着いた曲ならば、前面のメロディラインを華やかに刻み込むこともできる。音を出すところ(朝顔って先生は言っていた)が前に向いているから、音の力がダイレクトに観客に伝わっていく。固定化されたピストンが無い分、管の位置の微調整にて音の抑揚をつけることができる、そんな不思議な楽器を、彼は器用に操っていた。
その角谷に、「吹奏楽部のメンバー、足りなくってさ」と言われたのが、僕が吹奏楽部へ入部したきっかけだった。高校に入学して、ひと月もしていなかったんじゃないだろうか。つまり、角谷と出会ってから、ひと月以内。
「中学の時はずっとサッカーしていたんだけどさ、やっぱり音楽にも触れたいなーって思って、それで吹奏楽部に入ってみたわけよ。そしたらうちの学校の吹奏楽部、人数少ない割に先輩方の仲もあんまりよくなくて、トランペットの人もつい最近二年生がやめちゃったんだよね。もうさ、ぶっちゃけ弱小なわけよ。佐々森、確か部活入ってないんだよね? どうよ、吹奏楽。結構いい趣味だと思うけど」
積極的な奴だと思ったし、くるくる口の回るやつだとも思った。それでも嫌味な要素は無くて、確かに帰宅部は暇だと感じ始めていた僕は、物は試しとばかりに、あっさりとお誘いに乗っかることにした。
はじめのうちは悪戦苦闘で、特にマウスピースに収まりきらない唇の隙間から唾が飛ぶのが気になって仕方なかった。僕だけが異常に唾の量が多いんじゃないだろうかと心配してしまったが、後にトロンボーンの奏者たちが演奏の合間に管の先端に取り付けてあるゴム製の蓋を開いて、足元の雑巾に溜まった液体をドバっと落としているのをみたときは、なかなかの衝撃を受けた。唾もそうだし、管内の空気中の水分も吐息で温められてしまうから、金管楽器はどんどん中に水が溜まっていってしまうのだと、角谷に教えてもらった。
金管楽器の構造上起こりうることは似ていても、トロンボーンとトランペットははっきりいってだいぶ、違う。マウスピースの大きさも、唇に押し当てたときの感触もまるで別物。ピストンで高速に音を切り替えられるトランペットと、腕を駆使して自分好みの音を選び抜くトロンボーンは、求められている役割も異なってくる。僕が角谷から教わることは次第に少なくなって、同じ部活の一員として肩を並べられるようになるまでそう長い時間はかからなかった。まして初めに話しかけてきてくれた彼を拒む理由もなく、気づけば僕は角谷と仲良くなっていた。
関われば関わるほど嫌な気分になる人を、すでに僕は何人も知っていたけれど、角谷はそうはならなかった。たまにやかましいと思う程度だ。静かな方が好きだったけど、角谷の騒がしさは嫌いじゃなかった。人を貶して笑いを取るようなことは絶対にしなかったし、ネガティブなこともほとんど吐かず、何かとギスギスしがちな吹奏楽部内のコミュニケーションを円滑に保ついい立ち位置を築くタイプの男だった。
それに何より、話す内容で僕とウマが合った。
入って数か月は、それこそ何かあれば角谷にすぐに語りかけていた。トランペットのこと、音楽のこと、部活全体、学校全体。思い出すとべったりし過ぎたなと思うけど、当時の僕はあまり気にしていなかった。とはいえ、同じ部室にいる女子の何人かが僕らを指差してコソコソ話しているのを見ることもあった。「あいつらは腐女子だよ」と角谷から聞き、ピンときていなかった僕にその意味を教えてくれたときには、さすがに背筋がぞっとした。誓って言うと、そんなつもりは毛頭なかった。ごく普通の友達、それでいて掛け替えのない友達だった、と今でもはっきり断定できる。
それなのに、最近では連絡を一切取っていない。
アドレスは携帯電話に保存されているから、高校時代から変わっていないと信じるなら、いつでも連絡することができる。それでも、一度しないと決めてしまったことを、しようと思うのは難しい。
僕は前に、角谷にもう連絡しないと決めてしまっていた。
高校二年生の、あの暑い練習の日々を乗り越え、コンクールをほどほどの成績で終えた先での、秋。
倉橋実夕未から、角谷と付き合いたいという相談を受けた、あの日から。
「ええー! みんなもうそんなに飲んだのお!?」
僕と話している間に昔に戻ったと思った倉橋実夕未は、別の席から雪崩れ込んできた男たちを前にして、あっさりと今の倉橋実夕未に戻ってしまった。飾らない話しぶりから、媚に媚びた猫撫で声へ。戻って、戻って、元通り。
「おおよ、なんだ、これくらい! いつでも飲んでるからだーいじょうぶ! それよりも実夕未ちゃん、まだボクとお話してないでしょ~、もうさっきの席替えから時間も経ったし、そろそろこっちきてよー」
「えー、動くの疲れちゃたよお。宮下さんがこっちに来ればどう?」
「お、いいねいいね! じゃボクここ座るう。てか『さん』じゃなくていいよ!」
といって、顔を真っ赤にさせた宮下が、倉橋実夕未の真隣に入り込んできた。アルコールでいくらか耳が膨らんでしまったように見える耳が、僕の目の前にのっそり置かれる。一面、真っ赤。茹蛸のよう。
「ほら、佐々森」
突然背中をはたかれて、「へえ?」と思わず言ってしまう。みれば、宮下と連れ立ってこちらがわに来た男がいた。
「なんだよ、山口」
「なんだじゃないよ、席替えだよ。もう十分実夕未ちゃんと話しただろ? 代われ代われ」
顔色には出ていないけれど、トロンとした目から、山口が宮下と同じ状態であるとすぐにわかった。要するに酔っ払い。肌が白いから、こっちは烏賊だ。
「ああ」とか「ちょっと」とか、言葉を挟んで、実夕未の方をチラ見する。もう少し話していたかったのは事実だ。高校時代から先の彼女が、何をしてきたのか、それを知りたいとようやく思い始めたばかりで、まだこの場を離れるのは早すぎる。もう少し、話をさせてくれ、なあそうだろう、と思って、実夕未を見た。
だけど、実夕未はもう宮下との話に夢中になっていた。手を頬に当てて小首を傾げて、宮下が唇の端を思いっきり吊り上げて、ゲヒゲヒ笑っている。いや、それは言い過ぎかもしれないが、気持ちのいい笑い方ではなかった。僕の頭の中に、「呆れ」の文字が浮かんだ。
「佐々森!」
酔っ払いに叫ばれて、「うわ、わかったわかった!」と慌てて制す。訝しんだ店員に乗り込まれても困るから、慌てて席を立つ。山口が脚にぶつかる勢いで座布団の上に滑り込んでくる。実際、ぶつかった。痛みは無いが、煩わしかった。
宮下と山口が、せわしなく言葉を並び立てた。実夕未がそれに合わせてキイキイ答えていた。キイキイ、キイキイ、些細な興味と定型の答えが応酬されていく。この声は、やかましい。あまり長く聞いていたくない。
空いている席は一番端だった。不機嫌そうな顔の、長谷田の隣。
「よう、元気かよ」
長谷田の肩を叩きながら、問う。
「……そう見えるか?」
「見えないな。うん、すまん」
座布団に座りながら、軽く、謝罪。長谷田は重く溜息をつく。
「なんだよ、悪かったよ」
僕はまた謝罪する。さっきより、少し、真面目に。
「ばか、お前のことじゃねえよ。あいつらのことだよ」
長谷田は顎をくいっと喧噪の方へ向けた。倉橋実夕未御一行。
「あいつらだって、囲碁研究会のこと知ってるんだよ。渦中の奴がどれだけ大変で、めんどくさい目にあっているかも、ちゃんと教えた。それなのにさ」
「長谷田、あんたさっきからそればっかりじゃない」
向かいから横やりが鋭く入ってくる。見ると、見るからに気の強そうで、不機嫌そうな女がいた。長谷田を真っ直ぐ睨みつけている。
「坂部?」
目を丸くして、僕が言う。
「お前、長谷田と同じ席にいたのか」
女性側の幹事である彼女は、鼻を鳴らしたことがはっきりわかる程度に目いっぱい鼻を鳴らしてから、答えた。
「そうだよ。長谷田の方から、ききたいことがあるって言うからさ、わざわざ気を使って端の方空けておいたんだよ。それなのに、こいつさっきからずっと実夕未のこと貶してばっかり。ねちねちネチネチ女々しいったらありゃしない」
「お前こそ、さっきから言っているのにちっとも理解してくれないじゃないか!」
長谷田がぐいっと顔を持ち上げて、目を赤く広げて坂部を睨み返した。口が歪んで開かれていて、不恰好な四角形になっている。
「俺だってさあ、よお、そりゃあ嫌だよ。好きだのどうので仲良くやっていたのがどうにかなっちまうなんて、気持ち悪くて仕方ない。だったら最初から恋愛禁止にでもしちまった方が楽だろうけど、現実そうはいかねえ。それなりの男と女があつまりゃ自然とカップルが出来ちまう。別に、好きだから好きになるってのは俺も構わねえわけよ。それは普通で自然なことだ。恋愛したいならしたい奴らで好きにやらせておけばいい。でもな、だからこそ、そういう細けえ気持ちをもてあそぶような奴は、大っ嫌いだね。故意だろうと過失だろうと関係ねえよ。誑かされて振られた奴らも、そんなもんに巻き込まれて居心地悪くなっちまったほかの連中のことを想うと不憫でならねえんだよ。な? わかるだろ? な?」
長い長い講釈の果てに、長谷田は僕と坂部を交互に見た。舌が勢いを殺しきれず、口からはみ出てしまっている。
「坂部、長谷田に何を飲ませたんだよ。こんなに悪酔いする奴じゃなかったろ」
「飲ませてなんかいないよ! 人のせいにすんな。酔わなきゃ話せねえって熱燗グイグイいってたんだ、長谷田が、勝手にね」
「それでも、こんなふうになるまでほっとかなくてもいいじゃないか!」
「知らないよ。とにかく、あたしもそいつの相手するの疲れたんだ。わかんだろ。さあもうバトンタッチだ。頼んだよ、佐々森。あたしまだほとんど何も食べてないんだよね」
「ええ?」と訴えかける僕を無視して、坂部の箸が並べられた皿に伸びていく。ちらほら残っていた、固そうな衣の唐揚げや、切り崩した鉱山のようなポテトたちに、次々と捩じりこまれていく。よほど腹が空いているらしく、選定の動作に余念がない。
興奮気味の長谷田の背中を、撫でる。熱燗を取り上げてウーロン茶に挿げ替えておく。おちょこがグラスに代わっても、長谷田は特に文句を言わなかった。まさか違いがわからなくなっているわけでもあるまい。次第に事態が鎮静化されていく。
宮下たちが、ゲヒゲヒキイキイ笑っている。席は遠くて、それ以上に、何もかもが遠い。
「なあ、坂部。お前どうして倉橋を呼んだんだ?」
イカリングがほとんど宙を舞うかのように、坂部の口に収められるのを見届けて、僕は呟くように聞いた。
「ん? そりゃだって、友達だもの。普通にね。で、空いているようだったから、呼んだ。囲碁研究会がどうのこうの、あたしの知ったことじゃないし、数揃えろって言ったのは長谷田だしね」
長谷田がグルグル唸っている。口を開かず喉の上だけで。坂部の主張には概ね納得したのだけれど、それを今ここで公表するのは、長谷田にとってよろしくないなと思い、黙っておくことにした。
そういえば僕もイカリング食べてないな、と気づき、皿を見渡したが、既にイカリングの姿はどこにもなくなってしまっていた。
気落ちして、試しに遠くの席の皿まで見てみる。空ではないが、遠い。取りに行くほど食べたいわけじゃない。さらにその先、テーブルの向こう側に座る倉橋の姿も見る。つい、うっかり見てしまう。長谷田には悪いけど、唸っている彼は僕が何を見ているか気づかないに違いない。わざわざ教える必要も、ない。
倉橋実夕未は笑っていた。にんまりした目と口で、零れ落ちそうなほどに何もかもを垂れがちにさせて笑っていた。宮下と山口の大袈裟な身振り手振りから垣間見える彼女。さっきまで僕の前にいた、高校時代まではよく知っていて、そこから先は良く知らない、人。
突然、目が、合った。
まさかと思って、瞬きをしたら外れてしまった。
錯覚かとも思った。でも、錯覚じゃないと信じたかった。
知りたいことが、さっき聞きたくて、結局聞けなかったことが、いきなり束になって僕に襲い掛かってきやがった。胸の内が、見えない水で埋められていく。息苦しくなる原因であるところの、水。秘密の何とやら。
なあ、倉橋。お前どうして、角谷と別れたんだよ。それでどうして、そうなっちまったんだよ。
誰とも合わない視線を、倉橋にだけ向け続けるも、長谷田の腕が邪魔をしてきて、結局倉橋の反応を知ることはできずじまいとなってしまった。