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その2

 あなたは優しすぎる、というのが、初めて付き合った女の子に吐き捨てられた別れ文句だった。高校一年生のとき、半年と持たない儚い付き合いだった。

 この場合の「優」は「優柔不断」の先頭に立つ「優」だ。あなたは「誰に対しても」「平等に」「親身になって接したがりな」「クズ」という意味合いを、普段温厚だったその子が声を荒げて伝えてきたのである。その裏には相当な原因があったのだろうけど、特定はできない。如何せん候補がありすぎた。僕が友人の女の子の悩み話を懇切丁寧に聞いてあげていたせいかもしれないし、あるいはプライベートな理由で授業に出ることができない友人のために懇切丁寧な講義録を作ってあげていたおかげでデートに遅刻したせいかもしれない。

 もっと単純に、僕が誰か別の人に構ってあげていること自体が気に食わない可能性もなきにしもあらず。もしもそうなら、はっきりいってお手上げだった。僕は本能の赴くままに。やりたいように動いた結果、彼女の言うところの人に優しすぎる行動を起こしてしまっていたわけなのだから。

 その子とはもう会っていない。だから顔も覚えていない。ただこの「優しすぎる」の辛辣な罵倒だけが呪いの言葉として生き残り、未だに何かあるたびに、僕の頭の中で想起されることがあった。


「そんなことないよ」

 煮込んで数分のシチューのような、とろみと旨味の染み出た倉橋の声がする。僕に向かって注がれている。「そう、かなあ」と控えめに返す。

 大した話題ではなかった。休日の過ごし方――週刊誌の一ページに満たない小さなコラムのタイトルにありそうなテーマだ。よほど名のある文章家や、身の回りから起伏あるストーリーを構築する能力に富んだエッセイストが書いて、ようやく印象に残るようなテーマ。僕にはあいにく地位も能力もないもので、「気ままに散歩しているよ。暇人だし」というつまらない答えを、短く口にしただけだった。

 なのに、彼女は目を輝かせてくる。

「休日って休むための時間なはずだもん。気ままに過ごせるってことは、それだけ自分らしく過ごせているってことだよ。それって、すっごくいいことだと思う」

 「すっごく」のところで、倉橋が身をちょいと乗り出してくる。手のひらまでくるっと回って、やたらと反応して。

 肘をテーブルにのせて、両手を顔の前でぴったりと合わせる倉橋。右と左に分かれた顔の、口元がにいっと曲線を描く。ずっと昔必死で覚えた二次関数のグラフのように、X軸が遠のくにつれて高くなっていく。スマイルマークが聳え立つ。

「そう、かなあ」

 僕の素っ気ない返しはそれからも数回繰り返された。そのたびに、彼女の言葉がどんどんトロトロになっていく。トロトロと僕を包み込んで、耳の中に侵入してきて、頭の中に広がって。聞こえはとてもいい。それは否定できない。倉橋に纏わる不埒な話しがつい数分前に長谷田によって思い出されていたとしても、倉橋自身からこの場の再会の喜びを分かち合う術を断ち切られてしまっていたとしても、倉橋の声が耳に心地よいことに変わりはなかった。

 だけど――倉橋の手がせわしなく飛び回るのをぼんやり眺めつつ、思う。昔の倉橋はこういう話し方じゃなかったな、と。


 倉橋の噂を聞いたのは、長谷田と友人の数名でカラオケに行ったときのことだ。久しぶりだからと気合を入れて昼間のフリータイムに乗り込んでみたものの、案の定すぐに歌うのに疲れて、適当に会話を交わす時間となった。

「倉橋って奴が相当ビッチらしいぜ」

 もちろん倉橋が同じ大学にいることは前々から知っていた。大学入試が終わり、結果が発表され、部活の友人たちと出会っているうちに、自然と。彼女が囲碁研究会に所属していることは噂を聞くまで知らなかった。ビッチだという評価を同時に耳にしたのだけれど、僕にはとても信じられなくて、嘘だと思った。

 長谷田が様々な事柄を口にして、言葉の端々に辛辣な短評をつけ、倉橋を敬遠していた。実際に事実がそこまで酷かったのか、倉橋が本当に本気で異性をもてあそんでいたのか、その真偽には興味がないようだった。どうも倉橋に振られた男のうち経済学部の方が長谷田と友人だったらしい。敵の敵は味方。味方の敵は敵。そのような理由で、長谷田は倉橋を敬遠していたのだろう。

 僕は言葉少なに噂話を聞いていた。長谷田との二年と少しの友情を大切に思えば、倉橋を敬遠してしかるべきなのかもしれないけれど、残念ながらはっきりと倉橋の功罪を評価する気持ちにはならなかった。

 大学生となってから倉橋との交流がなくなっていたから、最近の彼女の事情なんてまるで知らなかった。だから倉橋が僕の知らないところで大きく変貌してしまっていることは十分にあり得たはずだ。

 それでも僕は動揺していた。僕には、彼女が男の子たちをたぶらかして回っているという発想を、どうしても抱くことができなかったのである。


 長谷田の高笑いが耳に響いて、居酒屋の光景に焦点があった。

 僕のいるテーブルから遠い位置で、長谷田が大声でまくしてている。相対している女の子たちを巻き込んで、熱心に何事かを語っている。遠すぎて、居酒屋そのものの喧騒も挟むから、何を言っているかは判然としない。長谷田が頑張っていることくらいだけ、わかる。

「疲れてる?」

 不意に倉橋の声が僕をつつく。

「ああ、いや、ごめん」

 しまった。無視するわけじゃなかったんだ。話を聞きたくなかったわけじゃなかったんだ。彼女を傷つけずに言い訳する道を探そうとするも、なかなか見つけられなくて、口だけが中途半端に開いてしまう。

 「謝らなくていいよ」と彼女は言ってくれた。「横の人いまトイレ行ったから、空いているよ」とも教えてくれる。休んで いいよ、ということなのだろう。

 僕の口がようやく、閉じた。隣の座布団の上に誰もいないことを確認して、ほっとして、手をついた。沈み込むクッションの感触が少々。「ふう」とうっかり、言ってしまう。

 倉橋の、声がする。

「やっぱり疲れてるんだね」

 笑ってはいた。でも、あれ――数回瞬きをしてしまう。

 普通の声だ、と思った。

 彼女の口が開いて、ワンテンポの間。ちょうど楽譜に4分休符が置かれたときのような。それから、続く。

「佐々森クン、変わってないんだね」

 彼女の唇が、微かに動くのを見た。言葉を言い終わってから、少しだけ。声は続いていなかったから、僕の単なる見間違いなのかも知れなかった。でも、幻の声は、しばらく僕の耳の奥の方で鳴り響く――良かった、という柔らかい声が。


 会話が、比較的、弾んだ。

 対象は数分前の僕ら。ハードルは著しく、低い。

 それでも、少なくとも僕は「そうかなあ」ばかりではなく、もっと中身のあることを言うようになった。彼女の声は相変わらずキイキイしていたけれど、スマイルの角度は確実になだらかになっていた。世に蔓延るスマイルマークは、案外頬のあたりで無理をしているのかもしれない。

「私も服ってあんまりわかんないなあ」

 彼女が下唇を上の歯で噛み、小首をほんのわずかに傾げ、口の中で「んー」と小動物のような唸り方をした。困り顔、とでも呼べばいいだろう。困っている気なんてさらさら感じられない困り顔だった。

 服の話題を出したのは僕の方からだった。もっと詳しく言えば、僕の列の反対側に座る長谷田の服が黒地に金の太い縦ラインが刻まれたもので、まるで海外映画のカジノに出てくるお偉いさんみたいな出で立ちで、実際そのようなことを長谷田自身が自虐的に口にしているのが僕の耳にまで届いてきたから、「ああいう服は怖くて着れないや。そもそも服ってよくわかんねえし」と言っただけのことだった。

 彼女が乗ってきたことが意外で、「え?」と目を見開いてしまった。彼女が着ている服は僕の乏しいファッション知識では言い表せないくらいふわふわで、華やかで、ポンチョみたいな薄い布がアシンメトリーに組み込まれていて、報道番組のカメラマンが今風の大学生への街頭インタビューをおさめたいと思ったときに飛びつきたくなるような、表舞台に立つべき真っ当な着こなしをしているようにみえた。それで服に興味がないんだったら、高校生の頃から愛用しているチェックのネルシャツにベージュのチノパンという、量産型男子大学生のファッションを今日も変わらずに熟している僕は、興味がないでは済まされず、それどころかもはやファッションを冒涜しているとまで言われてしまうのではないだろうか。

 そのことをもう少し短く冗談めいて言ってみたら、「私は周りの女の子に合わせているだけだよ」と返された。

「大学生だから同じ服を同じ週には着られないなって、思っちゃうと、大変。たまたま周りにお洒落な子が多くて、助かったなーって思うの。まずい組み合わせを教えてもらったり、今風にするにはどうしたらいいか聞いてみたり」

 彼女なりの苦労が、朗々と口をついて僕の耳に届けられてくる。だけど、その列挙が始まる前に、大学生だから、という彼女の言葉が耳に残ってしまっていた。

 じゃあその前はどうだったろうかと思い、おかしさに気づいて苦笑してしまう。高校生の頃はみんな等しく制服だった。そういえば大学に入学するときに、僕も慌てて服屋に赴き、派手すぎず大人しすぎずの服を買い漁ったんだっけな、と思い出して、また苦笑い。彼女の苦労話をほとんど聞き流してしまっていることを、ばれないように、ひっそり。


 僕らの通っていた高校では、5月から夏服がOKで、11月から冬服がOKだった。男子であろうと女子であろうと、服装の変化はそんなもので、服装の悩みなんて抱く煩わしさはまるでなかった。

 吹奏楽部の部室でもそれは同じ。夏の日には薄地の服を着た部員たちが、音楽室の中央に扇形に並べられたパイプいすにずらっと並んで座りこむ。トランペットを吹く僕は後列で、トロンボーンとかチューバとか、他の金管楽器と同列で演奏をしていた。その前では四種類のサックスが並ぶ。一番人気はアルトだったか。僕が一年生のときには巧いと思う先輩がいて、僕が三年生のときにはよくリードを割ってしまう後輩がいた。とにもかくにも一番顧問の先生に面倒を見てもらっているグループだった。人数が多い分、それだけ、余計に。

 倉橋実夕未はそのさらに前の列にいた。指揮者の一番近い、フルートとクラリネットの並ぶ席。彼女が吹いていたのはクラリネットの方だった。あの大量に穴が空いていて、幾重にも枝分かれした流線型の金属の小さい蓋を操る楽器を、彼女は細い指を駆使し、息を吹き込み、意外と太く響き渡る音を鳴らしていた。背中だけしか見えなかったけれど、前方に行けば、指を細かくせわしく動かす姿がもっと印象的に映っただろう。今ではそれがどのような仕組みだったのか、あまり思い出せない。演奏中に見つめていた彼女の背中の方がずっと記憶に残っている。

 彼女は背筋を伸ばす人だった。音が良くなるためだ、と言っていた気もする。すらりとしなやかに伸びる背筋、夏服越しとなれば彼女の本来の体格が透けて見えて、ぼんやりしているところを顧問にどやされたことを覚えている。顧問はよく怒る人だったので、誰かが狙われどやされるとき、他の部員たちはなるべく怒られている人をみないようにする不文律が出来上がっていた。そのおかげで、僕は誰にも、自分の顔が真っ赤になっているところをみられずに済んだ。顧問に対してはトランペットを掲げあげることでなんとか隠した。あのときは本当に運が良かったと思う。


「でもね、ときどき疲れちゃうんだよねー」

 から揚げと海藻サラダのポテトの向こう側にいる、大学生の彼女の声が、僕の耳に入ってくる。服の話題をしていたことを思い出し、頭の中を切り替えた。

 彼女はその両手で顎の下を、Yの字で支え持っている。指先が少しだけ曲げられて、頬の肉を押し上げている。

「気温と湿度に考慮して、過ごしやすい服であれば十分、そう思わない? だよね。だから男の子はいいなって、あ、ごめんごめん! そういう意味じゃなくて」

 「いや、別にいいよ」と僕は言い、チェックの襟元をつまんで、笑ってみせた。彼女は申し訳なさそうに手のひらを顔の前で合わせていた。彼女の目はぎゅっとつぶられて、舌がちろりと唇の隙間から横に出ている。

 あ、本当にうっかり言っちゃったんだな、と思い、同時に思い出す。高校生の頃の彼女がよくみせてくれた、おどけた無邪気な笑顔のこと。それを見る僕の目には、何の偏見もなかった。大学生も、サークル活動も、遠い未来の知らない話で、サークルクラッシャーなるものの存在なんて聞いたこともなかった頃。優しさはそのまま優しいの意味にだけ捉えられていた頃。喉の奥、胸のあたりが、ほんのりと何かに擦られ、温まる。

 僕は彼女を敬遠できそうにないと、思った。長谷田には申し訳ないけれど。

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