その1
頭が痛いから、トイレで休む――隣に座る宮下に、そう耳打ちして、細く入り組んだ廊下を渡って『TOILET』の扉を潜った。木目調の間、並び立って僕を出迎えてくれている、やたらに白い小便器たち。その上の方では、酒瓶を模したライトがこれまたいくつか並べられていて、暖色の光をトイレ全体に淡くはなっていた。よく配慮されている。手元が狂うことはなさそうだ。
細く、鋭く、時間の掛かる小便だった朝目覚めたばかりのときとか、身体が本調子でないときにも同じような放尿がなされる。。じっくりと時間をかけて、膀胱に溜まっていた水気をすべて出し尽くそうとしているかのようだ。
身体の水分がいなくなったら、今胃に残っているアルコールたちはどうなるのだろう。薄められていないアルコールが、胃や腸の内壁から身体に浸透していく様が脳裏に浮かんだ。体内組織の循環に任せ、血液が酒となり、ひとりの人間の成分を作り替えていく。やがて生まれる酒漬けの人間、ひとり。その人の身体の中では絶えずアルコールが巡回し、毛穴からはつんとアルコールの香りが飛び立っていくのだろう。とてもじゃないが、お近づきになりたいとは思わない。僕はお酒の匂いが好きじゃない。居酒屋に来ることだって久しぶりなくらいなのだ。四月に新しく入ったゼミの、懇親会に参加したとき以来だから、およそ二か月ほどになる。余計なときにお酒に触れていたくなどない。必要最低限なとき以外は、明瞭な意識を持っていたかった。
洗面台の鏡の前に立つ。頬どころか、首元や目の周りまで紅潮している。久しぶりとはいっても、自分はここまでお酒に弱かったのだろうか。
今日飲んだお酒は、安いサワーだった。決してアルコール度数の強いお酒じゃない。赤みがかった液体を入れたコップの淵に、生のレモンが一切れ刺さっていた。南国のイメージらしかったが、暑い季節というには早とちりだし、なによりも刺さり方が斜めで不恰好だった。斜に構えるのがかっこよく見えるのは本当にこなれている人が試したときだけなのだ。そんな中途半端な酒に、簡単に酔わされてしまっているのだから、あまりいい気持などしない。
用を足している間も、手を洗っている今も、頭の痛みは、落ち着いてはいるものの、消えてしまってはいなかった。もうしばらくここで休もうか。考えながら水切りをしたとき、突然トイレの扉が開かれた。メインフロアの喧騒のボリュームが上がり、耳を包みこむ。
見ると、知った顔の人がいた。四角くて、顎鬚をちょびっとだけ生やしている男。名前は長谷田という。今回の合コンの首謀者であり、僕の友人でもあった。
「よう、生きてるかよ」
嘲笑交じりに言いながら、長谷田はにゅっと口の端を吊り上げる。その後ろ手で扉が閉じられ、トイレの騒音は、少しだけ、落ち着く。
「どういう意味だよ」
「あんまり長いから潰れているのかと思ってね。佐々森あんまり酒強そうに見えないし、無理に誘っておいたくせに放置させておくのも悪いかと思ってさ」
長谷田は僕の後ろを通り過ぎ、小便器の前に立った。手をいそいそと股間のあたりで動かしている。
「お前がいない分、女の子たちを余計に相手をしなきゃならないから大変だったぜ。向こうが連れてきた、なんだっけ、鈴城っての、いたろ?」
「いた気がする。けど、そんなやつだったのか」
正直全然興味がわかなかった、とまで言ってしまうのは、さすがに誘ってくれた長谷田に悪いと思い、言葉を胸に秘めておく。幸い長谷田は何も気づかない様子で、「そうなんだよ、たっくよー」と続けた。
「あいつがピーピー甲高い声で自慢垂れてきやがんの。見た目は大して派手じゃないのに、意外すぎたわ。毎週末パパからお小遣いもらってどこそこに旅行にいってるのーとか、ママの知り合いの商社マンさんが就職相談のついでに食事に誘ってくれるのー、地球の反対側にいるはずのブラジルだかそこらへんの女友達が日本に来ているから今度招いてパーティするのー、ってな具合よ。あれはなんだろね、毎日誰かと会っていないと死んじまう病に侵されているんかね。羨望の視線を浴びないと身体が腐って骨になる病も併発しているんだろうな。ともかく一人で頷き通しはきつい。俺、もうギブアップ」
「おい、嫌なこと聞かせるなよ。そんなすごい奴いるなら僕も戻りたくなんかないよ」
「じゃあ、どうするんだよ」
「長谷田が行く気になるまで待つ」
長谷田は「なんだよそれ、面白え」と吹き出してしまった。僕は真面目に提案したのに。
用を足した後、手を洗いつつ、鏡を細い目で見ながら、長谷田がぼやく。
「今日は失敗だな」
「そうなのか?」
「ああ、セッティングが悪いよ。まったく」
長谷田の言葉の終わりの方は、濁って広がる溜息と混じってしまっていた。
「ふうん、にぎやかだと思うけどな」
僕の言葉に、長谷田は首を横に振ってこたえた。僕が合コン慣れしていないから的外れなことを言ってしまうのだ、と責められている気分になる。
「鈴城みたいなのは、確かに一人くらいいてもいいよ。面倒な奴でも、それなりに扱えば話題を作りやすいし、正直ああいう俺らとちょっと違う世界にいるお嬢様のお話も、いい刺激ではあるからな」
手の水を切りながら、「でもなあ」と長谷田は言葉を続ける。
「まさか問題児がもう一人いるとはな」
問題児――吐き捨てるように発音されたその単語が、僕の耳にこびりついてきた。
「お前、それって……」
「知っているだろ? 倉橋のこと」
女子の側の席に座る女の子のひとりのことを口にし、長谷田がまた一つ短く溜息をついた。
囲碁研究会が空中分解した、という噂を耳にしたのはもうひと月以上前のことだ。五月の連休を利用しての一泊二日の熱海旅行で、会を仕切る三年生方が盛大に仲違いをし、下級生を巻き込んでの対立に発展したという。その対立の中心にいたのは二人の三年生の男子だった。
知り合いの知り合いつてで仕入れることができた事件の詳細には数々の装飾の言葉が付されていたが、突き詰めてその事件を表現すれば、つまり、女の取り合いであった。囲碁研究会に所属する三年生の二人が、これまた三年生の女の子を取り合い、喧嘩をし、その物騒な醜態を全会員に知らしめた。結果として、休みが明けると同時に会員の半数が退会届を提出し、囲碁研究会は活動もままならず、部室だけを所有する状態となってしまっている。その部室に近寄ろうとする人間ももはやいない。このままでは七月の定例サークル会議に出席する人もいなくなり、囲碁研究会の存在そのものが抹消されてしまうのではないか、と面白おかしく危惧されている始末である。
当事者となった二人男はとっくに囲碁研究会を辞めている。片方は経済学部、片方は心理学部。サークル以外での接点もなかったので、現在ほとんど顔を合わせることもないらしい。もう一人の事件の中心人物である三年生の女の子もまた、研究会を辞めており、そのうえすぐさま主な参加団体を音楽系のサークルへと鞍替えしてしまっている。
その女の子の名前は、倉橋実夕未という。文学部の三年生。二人の男子をたぶらかして、あげく囲碁研究会を崩壊へと導いた人。事実がどうであれ、三年生を主とした学生の間ではそのように囁かれてしまっていた。
その彼女が、どういうわけか、今回の合コンにも出席しているのは、本当に奇怪としか言いようがなかった。
「まさかあの有名なサークルクラッシャー様がいらっしゃるとはねえ」
鏡を見ながら髪を整えつつ、長谷田がぼやく。
サークルクラッシャー――この言葉をご存知ならない方も多いかもしれない。まるで少年漫画に出てくる必殺技のようなあどけなさを感じるネーミングだが、指し示しているのはもっとどす黒く、おぞましい性質をもつ人間のことだ。サークルの人間関係を、主に性的な意味で乱しまくり、勝手に勘違いの山を作り上げて、衝突、軋轢、瓦解を生み落していく人のことを指す。そんな女の子はいつの時代のどんな場所にも一定数存在していたことであろう。学生たちはそんな女子のことをサークルクラッシャーと呼び、忌避すべき存在としてひっそりと警句を発したり震え上がったりして、茶化している節があった。
しかし実際に近くに現れてしまうとなると、茶化す以前に対応に困ってしまうのが、本音というものなのだろう。長谷田の八の字の眉を見て、僕はそう思った。
僕は鏡越しに、長谷田を見て、口を開いた。
「そんなこと言うなよ。呼んじゃったものは仕方ないだろう」
すると、長谷田は大きく首を振り、「違う違う」と否定する。
「俺じゃねえよ。女子が勝手に集めてきたんだよ。坂部は空気読めると思ったんだけどな」
女子の側の合コンの首謀者、坂部の名前があげられる。もともとこの合コンは長谷田と坂部の二人が企画し、お互いが知り合いを連れてくることで成り立っていた。坂部が四人連れてきたから、長谷田ももう四人そろえるべく、急遽暇をつぶしていた僕を呼び出して会を成立させていた。
「しかたない、うん。しかたない。今日はお楽しみはなしだ。話に徹底するとしよう」
長谷田は何度も頷いて、それからも「しかたない」をいくつか繰り返した。髪から手を放して、自分の頬を何度かはたいていた。
「さてと、それじゃまた場を盛り上げに行きますか」
トイレの扉のノブが回される。長谷田が僕に笑いかけ、僕は曖昧に笑みを返した。
長谷田の顔が外に向けられる。
見えなくなった背中側、僕の笑みが消える。多分、長谷田は気づいていないだろう。
テーブルに辿り着いて、敷居を跨ぎ、「トイレまよっちまったー!」と長谷田がかます。並んでいた男女からどっと景気のいい笑いが毀れた。
「じゃあ、お前は今度はそっちに座ってくれ」
トイレに行っている間に席が若干移動されていたらしい。僕と長谷田の分のための空席は、男子の列の両端に設定された。
長谷田に促されるままに、僕は空いている席に座り込む。
尻を座敷につけよう屈み、ふと前を向いた瞬間、視線に気づいた。
「あ」
ごく短い音が僕の喉の表面から零れ落ちる。
長谷田のやろう、俺に押し付けやがったな――と、心の中でぼやく。考えもなく席に促されてしまったことを、若干、悔いる。
「や、やあ」
一応の声を掛ける。英語の教科書に載せるならば、きっと「Hi」とだけ書かれてしまうような、とっても短く簡素なもの。それでも彼女を見ると同時に、かける言葉を探してしまい、僅かながらも言いよどんでしまった。
話題の人物が現れて、まごついてしまったのだ。
テーブルを挟んで向かいに座る女の子は、紛れもなく、倉橋実夕未その人であった。
彼女は黒く長い髪をもっていた。前髪は眉にかかるあたりで横一直線に切り込まれ、横や後ろ手は両肩にかかる位置までしなやかに枝垂れている。全体的に艶やかに輝いて、手入れの行き届いた様を誰彼かまわずにアピールしていた。髪色のもたらす効果なのか、顔はやけに小さく見えて、その中にさらに小さく添えられた細く赤い唇が、途切れることなく撓っている。僕がここに来る前から、きっとこの合コンが始まった時から、彼女はその口元の端を今以上におろし、口を一直線よりもへの字型に曲げることはしなかったに違いない。
「佐々森クン」
鼻の奥から抜けるようなトーン。まるで深夜に蔓延っている暖色系のアニメーションに出てくる女の子のような声をしていた。赤とか青とかピンクとかのボリューム溢れるファンタジックな髪形をして、腰を常にひねり扇情的な立ち姿ばかりを晒し、主人公に対する好意の割合が著しく不均衡でシステマティックで非現実的な、そういう女の子の、キイキイした声。
彼女が小首を傾げ、唇の隙間から歯をのぞかせた。居酒屋のぼやけたオレンジ灯の下でもはっきりとわかる白い歯が、僕に向かってきらりと光った気がした。圧倒的な好意だけを感じ取らせる仕草。
「はじめまして、だね。よろしくね」
速くもなく、遅くもなく、言葉の一語一語を噛みしめ理解しきるのに十分すぎるほどに配慮された声で、彼女は僕に挨拶をした。言い終わると同時に、喉を細かくタンギングさせて発せられる泡のような笑い声が、いくつか添えられ、弾けて広がり、親しみ以外の何物でもない余韻を残す。
僕は挨拶をし返さなかった。
はじめまして――ではない。そのことははっきりわかっている。彼女が僕の存在を忘れ去ってしまっているわけでもないだろう。
それにもかかわらず、彼女は僕を見つめている。睨むまではいかないとしても、僕を射止めて離そうとしない力のこもった眼。口元の笑みに誤魔化されがちだが、彼女の目は今、笑っていなくて、僕に訴えかけてきている。
あなたとの人間関係なんて、初めから無かったんだよね。
「ああ、うん」
自然に言おうとして、力んで、口元が引き攣ってしまった。しまった、と思った。
彼女が一瞬表情を固めた気がした。おそらく今日一日で、一番口の端がおり、一直線に近い形になった。
だけど、そこで一直線にならないあたりがさすがだと思う。彼女はすぐに元の、誰に対しても当たり障りのない顔になり、僕に話しかけてきた。
佐々森クンってどんな人なの、ゼミはどこなの、バイトはしている? 休日の過ごし方は?
とりとめのない会話の主導権は確実に彼女の方にあった。話題の流れがあまりにも速くて、勢いがあって、そこにオールを突き刺すことなんてどうやってもできなかった。受け身のまま、流されるままにして、彼女が望むように反応し、受け答えをし、笑いあえるようになるまで、そう時間はかからなかった。
彼女がサークルクラッシャーと裏で呼ばれていることも、それを知ったときの衝撃も、忘れて。
彼女が僕と、同じ高校に通っていたということも、同じ部活に所属していたということも、僕が彼女に好意を寄せていたことも、ひとまず、忘れて。




