オヒョリメ様
ユウカの母が手にしているランタンの灯りが揺れるたび、その周囲の様相を映し出す。
上がり框を上った先は、広い畳敷きの部屋だった。黒々とした艶のある柱がいくつも立っている。しかし、家具らしいものは何一つなく、殺風景だ。
畳敷きの部屋を斜めに横切って、廊下へと出る。そこで、この家が何故こんなにも昏いのかが分かった。
本来なら、その廊下は庭に面していて、ガラスの窓から外の光が入って家の中を照らしているはずだ。しかし、廊下側の掃き出し窓は全て雨戸で閉ざされているので、外の光が一切入ってこないのだ。ここを日常的に使っていない証拠だ。広い家だと、毎日すべての部屋を開けて換気をしたり光を取り入れたりするのは大変だ。使われていない部屋を閉め切ってしまうこともあるのだろう。
昏い廊下を、ユウカの母の手許の灯りと、ユウカの誘導によって、なんとか進むことができた。部屋も廊下も整然としているので、つまづくものが無かったのが何よりだが。
廊下を右に一つ曲がり、さらに進んで左に一つ曲がると、今度は左右がガラス窓になっている通路になった。つまり母屋から離れへと続く渡り廊下だ。そこは雨戸で締め切られておらず、両側から薄明るい木漏れ日が差し込んでいた。先も分からない昏さから解放されて、一気に肩の力が抜ける。
廊下を渡った先で、ユウカの母はランタンを吹き消し、隅にあった飾り机の上に置いた。
渡り廊下の突き当たった先に、これまでの日本家屋とはまるで趣きの異なる洋風の扉があった。明治時代に建てられた西洋建築にあるような、蔦模様の彫りが施された洒落たものだ。
ユウカの母がその扉をトントンとノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてきた。年配の女性の声だが、張りがあって品の良い声だ。
ユウカの母が扉を開いて中へ入ると、ユウカが俺の手をさらに力強く引いて後ろに続く。部屋の中に足を踏み入れて、俺は驚きの声を上げそうになった。
昔話に出てきそうな陰鬱な日本家屋の母屋とは、まるで違う。その部屋は光が部屋中に溢れる洋間だった。
部屋中が明るいのは、扉のある壁以外の三方に、床から天井までの高さがある大きな窓があるからだ。窓枠は真っ白で上のほうがアーチ状になっている。フリル状のカーテンが、窓を華やかに縁取っている。
部屋の中には、西洋のお城にあるような、流線型のダイニングセットが置かれていた。たくさんの観葉植物が、差し込む光を受けて鮮やかな緑色の光を放っている。
御伽噺……といっても、アンデルセンとか、グリムとか、そういった西洋の話の中に居るようだ。
二人掛けのソファに向かい合うように置かれた、ひじ掛け付の一人用ソファに、真っ白な髪を頭頂でまとめた老婦人がいた。ちょうど入口に向かい合うように座っていたので、入るなり、その老女と正面で顔を合わせることになった。
老女は、西洋風の部屋とはまた趣きの異なる服装をしていた。和服ではないが、襟元は着物のように合わせて着る、裾と袖の長いイブニングドレスのような服だ。柄は、着物の生地をそのまま使ったような和柄。芸術家にこんな服を好んで着る人が居るような気がした。
部屋の趣向と服の趣向は奇抜な印象を受けるが、老女の相貌はいたって穏やかで上品な印象だった。
ユウカが何故怖いというのか分からないほど、その老女は優しい微笑みを湛えていた。
ユウカの母が脇に寄って、俺と老女が向き合う形となった。
「まあまあ、この方が……。このような山奥まで、よくぞお越しくださいましたね」
『オヒョリメ様』という名前と、村の人々が異常なくらいに崇拝している様子、ユウカが怖いと言ったことなどから、俺は鬼婆のような印象を勝手に作り上げていたが、実際のオヒョリメ様は、品の良い貴婦人といった感じだった。それに第一印象であっても、何でも受け入れてもらえそうな懐の深さが感じられる。
その時、部屋の隅に立っていたユウカの母が咳き込み出した。
「ほら、無理をするから。すぐに奥へ行ってお休みなさい」
ユウカの母は、まだ苦しそうに口を押さえながら、老女に頭を下げて出て行こうとした。その後をユウカが追おうとすると、厳しい叱責が飛んだ。
「お待ちなさい、夕夏! あなたはここに居なくてはいけませんよ。誰のお客様なのですか?」
言われてユウカは立ち止まり、俯いたままオヒョリメ様のほうに向き直った。
ああ、そういうことだったのか。ユウカの母は、オヒョリメ様とは母娘のように親しい間柄なのだ。ユウカにとっては、母親の頼りないところを補う、躾に厳しい祖母のような存在なのだ。
母親が扉の向こうに消えると、老女は二人掛けのソファを示して声を掛けた。
「小坂先生でしたわね。ここまでいらっしゃるのは大変でしたでしょう。さあ、こちらにお掛けください」
そして、突っ立ったままのユウカに厳しい口調で言った。
「ほら、まずは先生にタオルをお持ちして。お母さんが控えの間にお茶の用意を整えておいてくれました。あなたがそれを淹れて先生にお出しするんですよ」
ユウカは素直に「はい」と言わず、かなり不服そうな顔で渋々指示に従った。
俺はユウカが少しかわいそうに思えたが、これがこの家の躾なら、下手に口出しはしない方がいいと思って黙っていた。
しかし、ユウカがタオルを持ってきてくれたときは、「ありがとう。助かるよ」と声を掛けた。ユウカはやっと笑顔を見せた。そして、お茶の用意をしに扉の向こうへと消えた。
「本来なら、稲交接家でお迎えしなくてはなりませんのに、あの子には母親しかおりませんし、その母親も、あのように丈夫なほうではありませんの。こんな場所までご足労いただくことになって、先生には申し訳ないことをいたしました」
これまで、何で俺がこんな目に遭うのだとひがんでいたのが恥ずかしくなった。しかも、オヒョリメ様に対して警戒以外のものは感じられなかった。しかし、一番道理をわきまえている人だったわけだ。
「とんでもない。お子さんのご家庭の様子を伺うのが私の仕事ですから。夕夏さんには、お母さん以外にも頼る先があることに安心しました」
「夕夏の母は、私の身の回りの世話をする、いわゆる家政婦なのですよ。本当に若いころからこの家で働いてくれています。夕夏が生まれたあとは、夕夏を連れて毎日通っていましたので、私にとって、あの子は孫も同然なんですよ。母親が仕事をしている間、夕夏の面倒を見ていたのは私です。夕夏の躾は、ほとんど私が行ってきました。私は曲がったことが大嫌いな性格でしてね。躾にはかなり厳しいほうだったと思います。
母親があのように病気を患ってからは、夕夏にも、もっとしっかりしてもらいたくて、色々と言い過ぎたようですね。ここのところ、私を避けているようなんですよ」
『こわい』というのは、そういうことだったのか。しかし夕夏は『オヒョリメ様に会うといいことがある』とも言っていた。祖母のような存在のオヒョリメ様に反抗心はあるものの、オヒョリメ様のことは尊敬しているのだ。
「ちょうど、思春期に差し掛かる年頃ですからね。家族に対して何かと不満を抱くのは、健全な成長だと思いますけど」
「ほほほ、さすが先生ですわ。実は私、少し傷ついておりましたのよ。あれほど天塩にかけて育てたはずの夕夏に避けられて……。何か心が軽くなりましたわ」
人間的な良い人だ。村の人が尊敬し、頼ってくるのも分かる気がする。俺もすっかりオヒョリメ様に尊敬の念を抱いていた。
カチャカチャという音がして、扉が開いた。夕夏がお茶のカートを押して、部屋の中へと入ってきた。黙って見ていると、おぼつかない手つきではあるが、二つのカップに丁寧に紅茶を注ぎいれ、ソーサーをあてがって、俺の前と、オヒョリメ様の前に置いた。そして、カートを部屋の隅に寄せて、俺の横にちょこんと腰を下ろした。
「夕夏、よくできましたね。さあ、先生、お茶しかお出しできませんけど、どうぞお召し上がりください」
俺はユウカにも「いただきます」と言って、カップに口を付けた。丁度良い温度に良い香り。何よりユウカが淹れてくれたことが嬉しく、お茶はとても美味しかった。
これが本来の家庭訪問だ。これまでは、歓迎の宴に誤魔化されて、子どもたちの様子などほとんど聞けなかったが、オヒョリメ様とは夕夏のことについてたっぷり話し合うことができた。学校での様子を話すと、オヒョリメ様も喜んでいた。夕夏本人は、自分が話題になっていることで恥ずかしそうに聞いていたが。
ユウカの話を終えて、俺はオヒョリメ様に聞きたいことがあったことを思い出した。
「あの……。このヒヨリヶ淵のことは、まだ良く知らないのですが、前に聞いた話に疑問を感じたことがあったのです。校長がオヒョリメ様なら何でもご存知だと。
この村のことについて少し教えていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、何なりと。他所の方には少々分かりづらい慣習が多いですからね」
「ヒヨリヶ淵の名を、他所であまり口外してはならないと聞きましたが、それはどうして」
オヒョリメ様はユウカに紅茶を注ぎ足すように言った。ユウカがポットに湯を注ぎ、俺とオヒョリメ様の空のカップに注ぎ足すと、オヒョリメ様はそれを少し啜ってからカップを置き、少し間を空けて話し始めた。
「このヒヨリヶ淵は、我々の先祖を守って龍神様が導いてくださった土地なのです」
「はい、それは校長から聞きました。何でもご先祖が迫害に遭っていたのを龍神様が救ったとか」
「そうです。それこそ、五百年以上前のことですけどね。我々は、龍神様のご加護のもとで独自の生活を続けてきたのです。外の人間の助けを借りることは一切無かった。むしろ外の人間との接触が密になると、禍を呼ぶとされ、恐れていたのです。
この村の家の苗字が、少し奇妙だとはお思いになりませんでしたか?」
「ああ、それもお聞きしたかったことです。とても不思議な名で、子どもたちの苗字もなかなか頭に入ってこなかった。夕夏さんも……。いつ……、ああ、すみません。また忘れてしまった」
「ほほほ。当然ですよ。文字をご覧になっても、なかなか読めませんしね。でも、文字を良くご覧になれば、その家の役目が分かるのです」
俺は、手帳を取り出し、ユウカの苗字を確認した。もちろん、出かける前に何度も確認したはずだが、道中、あまりにもいろいろなことがあって、すっかり忘れてしまったのだ。
―― 稲交接 ――
「稲に、交わる、接ぐ、と書いて、いつび」
オヒョリメ様が手帳を確認する俺に注釈を加えるように言った。
「それは、稲妻のこと。つまり雷を意味します。
この村の者には、それぞれ気象を意味する名前が付いていて、それでその者の役割が決められているのです。
龍神様は、水を司る神。水と太陽によって、気象は決まります。
日や、雨や、雲や、霧は、生き物の命を育むもの。従って、作物を育てたり、家畜を育てたりする『生産』を意味します。
対して、風や嵐、雷は、悪いものを払う意味があります。つまり、村の『守護』を意味します。
それぞれの立場から、龍神様を崇めることで、龍神様はそれぞれの役目に見合った恩恵を与えてくださるのです。
我々はそうして数百年を生き抜いてきた。外部に我々の存在を広く知られてしまうのは、その安定が崩れる危険があると、言い聞かされてきたわけです。もちろん、迷信の部分も多いでしょう。けれど、それを破って何が起きるかということを知る者はいない。だから余計なことはしたくないわけです。
さらに、守護の家系のひとつ、稲交接家の主が亡くなり、その妻もあの通り病弱となり、この幼い夕夏が跡を継ぐしかなくなった。夕夏が成人するまで、稲交接の守護は機能しないということになります。
守護が弱まるとき、村には鬼が入り込むと謂われているのです。鬼とはつまり、禍ということ。
何としてでもこの夕夏を立派に育て、 稲交接家が再興するまで、禍を退けなくてはいけないのです」
それ以上のことを、いや今話してもらったことを理解する力は、まだ俺には無さそうだ。しかし、この村の人々が独自の伝統を守って誠実に暮らしているのだということは感じられた。
「お聞きになりたいことがあれば、またいつでもお越しくださいな」
柔らかい笑顔でオヒョリメ様は頷いた。
俺は礼を告げて、残った紅茶を飲み干した。暇を告げて立ち上がろうとした俺を、突然オヒョリメ様が引き止めた。
「あの、先生。近々、孫がお世話になると思います」
孫とは、夕夏のことではなく、本当の孫ということか。
「ずっと都心で暮らしてきて、先生のようにこちらの暮らしには慣れておりませんの。村でずっと暮らしてきた私たちには測りかねない苦労もあるかと思います。あちらからいらした先生には、その気持ちが分かっていただけると思いますわ。どうぞ、よろしくお願いいたします」
帰りは、母親は顔を出さず、ユウカがオヒョリメ様の部屋から出口へと案内し、そのまま村の目抜き通りまで同じ道を案内してくれた。
まだ日もあるうちで、往きよりは慣れて、それほど苦労することなく帰り着くことができた。
道中で、俺はユウカに訊いてみた。
「オヒョリメ様の孫って、ユウカにとってはきょうだいみたいなものだね。楽しみじゃないか」
しかしユウカは険しい顔で答えた。
「知らないよ。村の外から来た子なんて、仲良くなれるはずない」