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山の学校  作者: yamayuri
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滝の裏の古民家

滝の裏側に回ると、あれだけ激しかった水音が、途端にくぐもったグゴゴという音に変わった。これまで耳をつんざくような音の中を歩いてきたので、妙な静寂を感じる。滝の側道の先にある林は、不気味に静まり返っていて、くらかった。

 

 藁葺わらぶき屋根は、近づくに連れ、かなりの大きさと高さがあることに気付いた。いや、それは家の屋根ではなく、寺の山門に扉が付いたようなものだ。遠くからは木々や草に埋もれて見えなかったが、その横に長い土塀が張り巡らされていた。


 門の全様が見えてきたところで、前を歩いていたユウカの足が突然止まり、素早く俺の後ろに回ると、背中に顔をくっつけた。


「おい、どうしたの?」


 背中を振り返って問いかけると、ユウカは俺の背広をぎゅっと握って答えた。


「オヒョリメ様、こわい……」


―― はっ? ――


 俺はユウカが何を言ったのか一瞬理解できなかった。


「あの、ユウカ。何が怖いって?」


「オヒョリメ様はこわい!」


 目の前が真っ暗になった。林の中の昏さが原因ではない。そもそも、俺はオヒョリメ様に会いたいなどと一度も考えたことがない。他ならぬユウカの頼みだから仕方なく付いてきたのだ。


「え、と。ユウカ。そんな『こわい』オヒョリメ様のところに、ユウカのお母さんは何故先生を連れていきなさいと言ったのかな?」


 平静を保っていられるように、俺は敢えて丁寧にユウカに訊いた。


「だって、オヒョリメ様に先生を会わせるのが、『おもてなし』だから……」


 まったくもって、会話が噛み合っていない。


「ユウカがこわいというオヒョリメ様には、先生も会いたくないよ。おもてなしされるはずの先生が嫌なことをするのは、『おもてなし』とは言えないんじゃないかな?」


「あたしはオヒョリメ様がこわいけど、先生は大人でしょ? オヒョリメ様に会うと、いいことがあるんだよ」


 理解できない。俺にとって何の得になるのか、全く理解できない。けれど、教え子から「大人でしょ」と言われてしまっては、今さら大人でも怖いものは怖い、嫌なものは嫌なんだとは、到底言えなくなってしまった。変なプライドだろうが、ここまで来て一緒に怖がって逃げ出すことなど出来ない。逃げ出して、自分のプライドが地に堕ちるだけでなく、ユウカも被害を被るのだ。俺はユウカがまだ幼いので、ちょっと厳しい人好きのしない大人を怖がる傾向があるだけなのだと無理矢理自分に言い聞かせた。


 ユウカを背中に背負うような形で、いや、ユウカに背中を押されるような形で、俺はその門の前に立った。頑丈な木の門の前で立ちすくんでいると、後ろからユウカの手が伸びて、門の右上を指さした。そこには仏画に描かれる雲のような形をした拍子木が掛かっていた。小槌が一緒に下げられていることから、小槌でそれを叩いて呼び鈴の代わりにするようだ。


 俺は小槌を手にして、拍子木を軽く叩いた。思ったよりも大きく甲高い拍子木の音が辺りに響き渡り、俺はそれに焦って思わず数歩後ろに下がった。ユウカも俺に押されてずるずると後ろに下がる。


 変化はしばらく起きなかった。あんな音でも気付かなかったならラッキーだ。「オヒョリメ様は留守みたいだよ」とユウカに言い訳することが出来る。

 しかし、そんな卑怯な手を思い巡らせていたのが通じたのか、正門の脇に設けられた小さな勝手口から、小柄な女性が顔を覗かせた。やつれて顔色が非常に悪く、無表情の女性を見て、失礼とは思いながら、幽霊を呼び寄せてしまったかと思った。

 しかし女性の姿が現れた途端、俺の後ろにしがみついていたユウカが俺の背中を突き放して女性の方へ駆けていった。


「お母さん!」


 それを聞いて、俺は何て事を考えていたんだと自戒すると同時に、ユウカと二人きりでオヒョリメ様に会わなくて済んだことに安心した。

 擦り寄るユウカに、女性は相変わらず無表情で何も答えない。ユウカの方など見ずに、俺の姿を訝しげな眼でじっと見つめている。仕方なく、俺の方から挨拶をした。


「あの、初めまして。今年度から夕夏さんの担任になりました、小坂と申します」


 今日はお招きいただき、ありがとうございます、というべきなのか。普通に、お邪魔いたします、でいいのか。迷って二の句を継げずにいると、ユウカの母は、相変わらず無表情のまま軽く会釈をし、小さな声で「どうぞ」と言って、勝手口の中へと消えた。

 母の腕にしがみついたまま、ユウカも消える。俺は慌てて二人の後を追った。


 タツヤの家と同じく、敷石が広大な日本庭園の中へと続いていく。しかし、タツヤの家とはその古さが違う。敷石は綺麗に苔むしていて、周囲に植えられた松やカエデや梅も、見るからに古木だ。あまり手入れが行き届いておらず、庭木の根元には羊歯しだが鬱蒼と茂っている。敷石の間からも、雑草が顔を覗かせていた。

 茶道などをたしなむ人には、こういう庭園は魅力的なのだろうが、俺にはどうしても、ダダ広い荒れ屋敷にしか思えなかった。


 ユウカを片腕にぶら下げて先を行くユウカの母の木下駄の音が、カランカランと静かな庭園に響く。門をくぐったときから、滝の音はほとんど気にならなくなっていたので、木下駄の音が不気味なほど大きく感じられた。


 庭園の先に、巨大な庭木 ― くすだろうか、かしだろうか ― に両脇を押しつぶされるような恰好で、藁葺屋根の母屋が建っていた。屋根の藁にもコケや雑草が生えていて、それは林の中に一体化してしまっているようだ。門や庭園の大きさに比べると、あまりにも小さな家だった。


 ユウカと母は、引き戸を引いて、真っ暗な空間へと入り込んでいく。一瞬躊躇ためらって、俺はそれに従った。ユウカの母が居なかったら、流石にここで逃げ出していただろう。もう、教え子の手前のプライドなど知らない。ユウカが母に叱られたとしても、関係ない。そう思えてしまうほどの恐怖だ。俺もユウカのように、彼女の母の腕を掴んで歩きたいくらいだ。


 闇の中で、俺は前のふたりの姿を完全に見失った。前に進もうにも、何があるのか見当もつかない。俺は入り口に立ちすくんで、何か声が掛かるのを待つしかなかった。奥の方で、何かカチカチという音だけが聴こえていた。


 やがて、正面にぼんやりと灯りがともった。ユウカの母が、ランタンにを入れ、棚に置いたのだ。薄らと辺りの様子が見えた。そこは、民族博物館で見た、古い家屋にある土間だった。靴を脱がずに入口に入って行けたのは、屋内であっても地面は土だったからだ。左手には、博物館や資料でしか見かけない低い壁のような大きな竈が並んでいて、右手の手前から奥にかけては、長い上がりかまちが続いている。

 都会の学校なら、わざわざこういう伝統的な造りの日本家屋を資料館などで見学するものだが、この村ではまだ、史跡のような古民家が役目を果たしている。まさに歴史の中に入り込んだようだ。

 壁に置いたランタンとは別に、もうひとつのランタンに灯をともした母親は、それを持ったまま、サンダルを脱いでかまちに上がった。

 一緒に上がろうとしたユウカに母親が諭す。


「ちゃんとオヒョリメ様の部屋まで、先生をご案内しなさい」


 言われて、ユウカは俺のところに戻ってくると、黙って手を引いた。少し不服そうだ。苦手なオヒョリメ様に会うのに、母親の傍を離れたくないのだろう。

 俺はなるべく母親から離れないようにと、急いで靴を脱いでユウカに従った。


 はて、俺は何をしに、ここに来たのか?

 そして、今はいったい、何時だろう?


 ユウカに引かれている腕のダイバーウォッチのつまみを、もう片方の手で押して、文字盤のランプを付けると、針は三時四十二分を指し示していた。


 もしかしたら、ユウカの家でも宴会が開かれて、すでに酔いが回ってしまって、幻覚をみているのかもしれない。その方がどんなにいいか。

 散々宴会に悩まされてきたというのに、そうであることを強く願っていた。



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