ヒヨリヶ淵
記憶が途絶えている。気付くと布団の中で朝を迎えていた。そこはいつも通り、日和原家の俺が間借りしている部屋だった。
タツヤの家に家庭訪問に行き、何故か大勢の親戚が集まっていて、歓迎の宴会が催され……。
そこまでは覚えているが、その後の記憶がぷっつりと途絶えている。しかし、そこまで思い出して俺は、ひどい気恥ずかしさと罪悪感を覚えた。
児童の家に家庭訪問に行って、飲んだくれて記憶を無くし、家の人にここまで運んでもらったというのか。教師失格なのは言うまでもないが、大の大人としてもあるまじき行為だ。
後悔と同時に、胃の中のものまで湧き上がってくるのを感じた。
トイレに駆け込んで、ふらふらと自分の部屋に戻ってくると、日和原夫人が、朝食におかゆを運んできたところだった。
真っ青な顔で病人のように伝い歩きをしながら再び布団に潜り込んだ俺に、夫人が哀れむように声をかけた。
「えらい目に遭いましたね。家庭訪問だったのなら、はじめからそうおっしゃってくださればいいのに……」
いや、いちいち、今日は家庭訪問がありますなどと、下宿先のおかみさんに報告はしないだろう。いつもと同じ帰宅時間だと思っていたのだから、迷惑をかけるつもりなど無かった。結果的には帰宅時間が遅くなったうえ、介抱までしてもらって、大迷惑をかけることになってしまったのは申し訳ないことだが。
「本当にすみません。まさか自分が、家庭訪問先でこんな失態をおかすとは。いくら相手先のご厚意とはいえ、二度とこのようなことが無いように、きちんとお断りしますので」
それを聞いて、夫人は笑い声を上げた。
「それは無理ですよ、先生! この村では、家庭訪問は一大イベントですもの。どこの家庭でも先生に最高のおもてなしをしようと準備を整えて待っているんですよ。それを断って帰るなど、それこそ無粋なことですのよ。
最近は子どもの数が減っているんですから、子どもを持つ家庭では、親族一同が集まって、このイベントに賭けているはずです。別に先生に媚を売ろうっていうわけじゃありません。大事な子どもを預かっていただいていることに対する感謝の気持ちなんですよ」
「……ということは、どの家でも、毎回この宴会騒ぎがあると……」
「そういうことです。
まさか、一日に何軒も訪問する予定を立てているんじゃないでしょうね?」
「……いえ、それは校長に忠告を受けたので止めましたが。しかし、これから六日間、毎日予定が入っています」
「初日でこれでは……先が思い遣られますね」
心配しているようで、どこか楽しげな夫人だ。彼女は、おかゆと共に持ってきた紙袋を俺に差し出した。
「仕方ない。これでも飲んで、六日間をしのいでくださいな」
紙袋を覗くと、小さなカンがいくつも入っていた。その一本を取り出してみると、金色の容器に黒い文字で商品名が書かれていた。
―― ウコンのチカラコブ ――
日和原夫人の言う通り、それから家庭訪問に訪れた先では、必ず『宴会』が催された。
一日目で懲りたので、勧められる酒をやんわりと断る方法を必死に編み出し、記憶を無くすほどの失態をおかすことはなかったが、それでも帰りは自力で帰れないほどになってしまうことがほとんどだ。毎回、相手先の家族に介抱されながら、ようやく日和原家へとたどり着く。子どもたちの家族も、修一さんの一家も、そんな俺の失態を、当然のように受け止めている。
翌日は普通に授業があるというのに、それを理由にこの『宴会』を断ることはできない。これが、この村の新米教師への洗礼なのだ。俺にとっては、『もてなし』などではなく、『地獄』といえた。
ようやく 『地獄の家庭訪問週間』も、ひとりを残すのみとなった。
最後は、学校から最も遠い場所に住むユウカの家だ。あと一日だが、一番遠い場所から帰れなくなっては困る。最後の最後に、最大のプレッシャーが待っていた。
「稲交接―いつび 夕夏―ゆうか……」
憂鬱な面持ちで、ユウカの苗字と家の場所を手帳に書き留めていると、ユウカがおずおずと話しかけてきた。
「あの、先生……。お母さんから、言われたんですけど……」
いつも大人しいユウカが、ますます弱々しい声で呟くので、俺は不安になった。
「何ですか? 今日のことですか?」
「はい……」
来なくていいと言ってくれないだろうか? 変な期待をしている俺がいた。
ユウカはそんな俺の期待をじらすように、しばらく黙っていた。俺ははやる気持ちを抑えてユウカが話し出すのを待っていた。やがて、ユウカはペコリと頭を下げて言った。
「ごめんなさい。うちは、お父さんが亡くなっていて、今はお母さんも体の具合が悪くて、先生をもてなすことができないんです。だから、今日の家庭訪問は……」
ユウカの家庭の事情を考えれば不謹慎だが、俺は内心ほっとした。
「何だ、そういうことなら、構わないよ。本当なら家庭訪問というのは、先生をもてなすためにやるものでは無いんだよ。ユウカが家でどんな風に生活しているのかを知るためのものなんだ。
でも、お母さんの具合が悪いのなら無理はしないほうがいい。またお母さんが良くなったら、少しおうちの様子を見せてもらえればいいからね」
「いいえ、そうじゃなくて。
お母さんが、うちではおもてなしできないけど、それなら『オヒョリメ様』のところに案内してあげなさいっていうんです。先生がせっかくこの村に居るのなら、オヒョリメ様に会っておくのがいいというので。
オヒョリメ様の家は、うちから近いので、あたしが案内します」
突拍子もない申し出に、俺の理解が付いていかない。家庭訪問が、この村では『先生をもてなすための行事』で、それができないユウカの家では、代わりにオヒョリメ様を紹介するという。
「ユウカ、先生はユウカの家での様子を見たいだけなんだよ。もてなしてもらいたいわけでも、オヒョリメ様とやらに会いたいわけでもない。ユウカのおうちに行かれないなら、今日は止めにしておくよ」
「お願いです、先生。あたし、きつく言い聞かされてきたんです。今日はちゃんと先生をご案内するんだよって。お母さんはきっと、先にオヒョリメ様のところに行って、先生が来るという話をしていると思うんです。約束を破ったら、叱られます」
とんでもないことになったものだ。ありがた迷惑というのも、度を越すと腹立たしさまで感じる。ユウカのための家庭訪問で、ユウカが気苦労を背負い込まされてしまうとは。
しかし、俺が断って辛い目に遭うのは他ならぬユウカ自身だ。俺は仕方なくユウカの申し出を受けるしかなかった。
「わかったよ。その『オヒョリメ様』のところに案内してくれるかな?」
俺の返事を聞いて、ユウカは心底ほっとした笑顔を見せた。
学校を出て、目抜き通りをひたすら真っ直ぐ進んでいく。学校とは真反対に、目抜き通りが突き当たる場所は、険しい山中へと入っていく場所だった。はじめに修一さんの車でヒヨリヶ淵にやってきたときに通ってきた、あの山道への入り口だ。
ユウカはその細い砂利道を上り始めた。村の中心地がどんどん下方に遠ざかっていく。
どれくらい上って行ったか分からないが、やがてユウカは、細い砂利道の脇から、さらに草深い獣みちへと入り込んでいった。
タツヤの通学路も、その他の子どもたちの通学路も、なかなか険しい道ばかりだったが、今ユウカの辿っていくこの道に比べれば大したことは無いと思える。とても人が行き来するような道ではない。
一張羅のスーツのズボンの裾はドロドロになった。これまでの家庭訪問で、悪路は想像できるので、靴はスポーツシューズにしてきたが、その底にも泥がこびり付いて歩き辛いし、滑りやすい。手で支えなければ上れないような急斜面もあり、掌もドロドロになった。斜めに掛けた鞄が、前に滑ってきて鬱陶しい。
オヒョリメ様に会う会わないという以前に、会いに行くなら登山の準備をしてきてくださいと忠告が欲しかったものだ。
ようやく頂上と思える場所に出た。いや、本当の山の頂上というわけではなく、長い上り坂から解放されて、開けた場所に立ったということだが。
その開けた広場のような場所から、今度は下へと下っていく獣みちが林の中へと続いていた。すでにスーツも、シューズも、鞄さえも泥だらけだ。これが『もてなし』というのだろうか? 俺はユウカに気付かれないように後ろを向いて小さく舌打ちをした。
下り坂はもっと歩きにくかった。ぬかるんだ泥と、それを覆う草が滑りやすく、何度もしりもちをつきそうになった。
しばらく行くと、下の方から川の流れる音が聞こえてきた。
「先生、オヒョリメ様のおうちは、もうすぐだから……」
俺が、どこまで連れて行かれるのかと不安を覚えたのを察したのか、ユウカが立ち止って振り返り、そう言った。
「ユウカの家も、この近くなのかい?」
「ううん。あたしの家は、さっきの上って来た道のふもとのほう……」
家に近いと言ったのは嘘なのか? それともこの村ではこの距離でも近いうちに入るのだろうか?
いずれにしても、途中に家を見かけなかったので、ユウカの家がオヒョリメ様の家の隣ということになるのだろう。
これまで訪れた子どもたちの家は、この村の中では繁華街に当たるのかもしれない。ヒヨリヶ淵の奥深さを、この時初めて実感した。
川の流れの音が、どんどん激しくなる。鼓膜をぐわんぐわんと盛んに震わせるこの音は、ただの川の瀬音ではない。坂を下りきったところで、白い霧がこちらへ流れてきた。生い茂る木々の先に、霧を生み出す激しい水の流れが見えた。
「滝!」
「ここの滝の下が、ヒヨリヶ淵ってゆうんだよ」
ユウカに言われて、滝の水が落ち込む先を見る。泡を立てて盛んに流れ込む水の周囲は、かなり大きな淵となっていた。恐ろしいほどの透明度があり、底の方の岩まで見通せるのだが、その深さは全く見当が付かない。見つめていると吸い込まれそうだが、ここに落ちたら、二度と浮かび上がって来れないような気がした。
「オヒョリメ様の家は、あそこだよ」
淵を迂回するように、平らな岩場が脇の林の奥へと続いており、その先に、藁葺の屋根が少しだけ顔を覗かせていた。