家庭訪問
今回は、ホラーだということを忘れて、コメディと思ってお読みください。
山奥にあるとはいえ、ヒヨリヶ淵小も都会の小学校とやることは変わらない。
ただ、三年生から六年生の学習を一度にひとりでみるというのは不可能だ。そのために、体育のナガメ先生と、音楽のシグレ先生が居るのだ。そして、ヒガ教頭も、理科と社会を受け持っていた。英語は、海外留学の経験もあるシグレ先生が受け持つ。
つまり、俺の受け持つ教科は主に国語と算数。五、六年と、三、四年を分けて教えるときと、学年別に教えるときがある。なので、ときに三年生のコタロウと顔を突き合わせて九九のカード遊びをしていることもあったし、五年生のミクと二人の授業になると、授業の内容よりもどうしたらミクのおしゃべりを止められるかということに苦労しなければならなかった。
相変わらず、子どもたちはほぼ毎夜、日和原家を訪れてくるので、そこで補習をすることもあり、学校との区別のあまり無い生活だ。俺は、学校の教師というより、たくさんの兄弟姉妹の、年の離れた長兄といったほうがいいかもしれない。
「すっかり子どもたちもなついて、小坂先生に来ていただいて本当に良かったと、どの親御さんも喜んでいますよ」
五月に入ってから、校長が俺を呼び出してそんなことを告げた。
「そう言っていただいて、光栄です」
俺は頭を掻きながら答えた。
「そういうことで、そろそろ家庭訪問を行わなくてはいけませんね」
どういう話のつながりなのかは理解できなかったが、そういえば、そんな行事が待っていた。
俺はその時を少し恐れていた。何故ならあの難解な苗字を確かめながら家を探さなくてはならないからだ。子どもたちの苗字だけでなく、この村のどの家もおそらく複雑怪奇な名前ばかりだろう。表札を確かめている間に頭がクラクラとしてくるかもしれない。
「はい」と返事を返した後、俺の不安を察したのか、校長は肩に手を置いて慰めるように言った。
「大丈夫ですよ。子どもたちが自分で自分の家に案内することになっていますから。帰りも家の者が送ってくれます。しかし、一日に一軒だけにしてくださいね。とてもじゃないが、二軒を一日で回るのは難しいですからね。そのつもりで計画を立ててください」
一軒一軒の間に、だいぶ距離があるのだろう。俺は校長の言葉をそういう意味で捉えていた。
その意味が全く違っていたことは、初日のタツヤの家の訪問で明らかとなった。
「捲雲―けも 竜也―たつや、と……」
タツヤ自身が連れていってくれるとはいえ、どこかではぐれるかもしれない。念のため、俺はタツヤの苗字と、記録票に保護者が書いた大雑把な学校からの道のりを手帳に写し、それを何度も確認して学校を後にした。
学校を出てから、タツヤは得意げに俺の前に立って歩き出した。校庭を出て目抜き通りをいくらもいかないうちに、タツヤは畑の畦道のようなところへ入って行った。草の生い茂る細い道は、おそらくタツヤくらいしか使わないのではないだろうか。今朝彼に踏まれてしなったような草がこちら側に倒れて乾いた泥にまみれており、今彼が行く後には、向こう側に踏み倒されて新しい泥にまみれた草が折り重なっている。
「これが正しい通学路かい?」
「正しい通学路って何? ぼくの家から学校に通うのは、ぼくしかいないよ」
言われてみればその通りだ。この村では集団下校などあり得ないし、交通事故の心配も要らないだろう。一番の危険は蛇や毒虫や、野生動物といったところか。そんなものの危険から完全に回避できる道など、この村のどこにも無さそうだ。
俺が後ろに付いているのもお構いなしで、タツヤは、畦道と用水路の交差する場所に渡された細い丸太をわざと危なげに渡ってみたり、用水路の脇にしゃがみ込んでオタマジャクシを探したりしていた。
「タツヤ、いつもより少し急いでくれないかな。おうちの方とお話する時間が減ってしまう」
「へ? なんで? 今日はぼくん家だけなんでしょ? そんなに急がなくても時間はいっぱいあるじゃん」
「いや、この調子だと、着くのは夕方になっちゃうよ。おうちでも夕時は忙しくなる頃だろう。そんな時間に訪ねたら迷惑がかかるんだよ」
「うちはだいじょうぶだよ」
大人の事情など分からないのは当然だが、タツヤは頑として自分のペースを崩そうとしなかった。
あっちで蛙を追いかけ、こっちで草笛用の葉っぱを選び、笹を見つけては舟を作って用水路に浮かべ、自由気ままなタツヤに散々振り回されて、捲雲家にたどり着いた頃には、もう日が傾きかけていた。
タツヤの家の前に立って、俺は目を見張った。
時代劇に出てくる武家屋敷のような、瓦屋根付きの立派な門があり、俺の鞄の大きさほどもある表札に名前が彫られていた。”捲”も、”雲”も、旧字体なのか、特別な書体なのか、複雑な変わった文字で、彼の名前を知っていなければとても読めそうにない。
タツヤは固く閉ざされた大きな木の門を通り越して、その横についでのように設けられている小さな木戸を開けて中へ入っていった。木戸は屈まないと入れないくらい小さい。人の背の二倍はありそうな無駄に大きな正門は、いったいいつ使うのだろう。そんなつまらないことにこだわって、立派な門を裏側から眺めていると、タツヤが袖を引っ張った。
「早くって言ったの、先生でしょ」
「あ、そうだったね」
タツヤに引かれて庭の植え込みの間にくねるように通された大谷石の石畳を渡っていく。広い日本庭園の中をしばらく行った先に、門と同じように立派な瓦屋根を乗せた大きな玄関が現れた。まさに時代劇の中に居るようだ。
玄関は開け放してあり、正面にはもう明かりが灯されていた。
タツヤはいきなり俺の袖を離すと、玄関に駆け込み、靴を放り出して、正面に置かれた大きな杉の衝立の向こうに消えてしまった。
タツヤが家族に声を掛け忘れているのか、しばらく経っても誰も出てくる気配がない。今日の家庭訪問のお便りも届いているのかどうか、俺は急に不安に駆られた。
玄関の三和土に立って中へと呼びかけようとすると、奥から夕餉の支度の良い匂いが漂ってきた。
―― ああ、もうこんな時間になってしまったか。タツヤが何も知らせていないなら、このまま失礼して、後日改めた方がいいかな ――
そんなことを思って引き返そうとしたとき、奥の方から誰かがバタバタと走ってくる音がした。衝立の隙間からタツヤが誰かの手を引いて走ってくるのが見えた。
「早く! 早くしてよっ!」
怒りの表情をこちらに向け叫んでいるが、それは後ろの人物に対して言っているようだ。やがて、タツヤに手を引かれた人物が、衝立の蔭から現れた。藍色の着物に白い割烹着を来た、小柄でふくよかな女性だ。タツヤにたしなめられて、困ったような笑顔を浮かべていた。
これまで保護者懇談会というものが無かったので、家庭訪問で初めてお目にかかる、タツヤの母親だ。
装いも古風な母親は、急いで割烹着を脱ぎ、上がり框に正座すると、三つ指を立てて深々と頭を下げた。
「せっかくいらしていただいたのに、お出迎えもせず、失礼いたしました」
慌てたのは俺の方だ。思わず三和土に膝をつき、母親と同じように頭を下げようとしてしまった。
「何やってんの? 先生。さっさと上がりなよ!」
「これ、タツヤ。先生になんて口をきくの?」
「母ちゃんこそ、いつまでもそんなことやって、先生待たせるなよ」
タツヤに袖を引っ張られて、俺は無理やり上がり框に引っ張り上げられた。靴を揃える間も与えてくれず、タツヤはぐいぐいと中へ引き連れていく。その後を母親が小走りで追いかけてくる。なんだか滑稽な図だ。
長い廊下の奥の奥へと引っ張られて、その一番奥の部屋の障子戸をタツヤが乱暴に開くと、中には宴会で見かける広い長机がいくつも繋げて置かれており、その上に山のようなご馳走が用意されていた。
親戚の集まりなのか、すでに机の周りに何人もの人が座っていた。年寄りから、中学生くらいの子どもまで居る。
俺が姿を見せるなり、先客たちから拍手喝さいが起こった。
「お待ちしていました! ようこそ、小坂先生!」
―― え? ――
彼らは俺を待っていたのか?
意味が分からず立ち尽くしていると、すぐ手前に座っていた男性が立ち上がり、俺の腕をぐいっと引っ張って、部屋の奥へと連れていった。そして、一番上座に置かれた大きなふかふかの座布団に座るように勧めた。
言われるまま、座布団を脇に寄せて腰を下ろそうとすると、男性がその座布団を強引に元の位置に戻して言った。
「先生、今日は主役なんですから、遠慮なんてしないでください! ほら、皆お待ちかねですよ。さ、さ、どうぞどうぞ!」
ここで押し問答をしても、迷惑がかかるだけのようなので、俺はペコペコと頭を下げながらふかふかの座布団にかろうじて膝が乗るくらいで正座する。男性はその俺の背中をぐっぐっと押して、机に近づくように勧めた。
俺の目の前には、懐石料理のようなご馳走がずらっと並んでいた。その少し向こうにはなんと、巨大な尾頭付きの鯛の塩焼きが置かれていた。
俺を案内した男性が急いで元の席に戻り、それを合図に机に置かれたビールやジュースの栓が抜かれる。それぞれ隣や向かいの人のコップにビールを注いで支度を整え……って、この光景はまさに宴会の始まりではないか。
俺の右隣に座っていた男性が、俺に向けてビールの瓶を見せたので、俺は咄嗟にコップを差し出した。
「いやあ、先生。よくこんな山奥までいらっしゃてくださいました。わたくし、タツヤの父でございます」
「え、あ、お父様でしたか。これは失礼いたしました。初めまして、小坂拓生です」
慌てて父親の手から瓶を受け取り、彼のコップへとビールを注ぐ。
―― あれ? 肝心のタツヤは? ――
そう思って辺りを見回したとき、俺を案内した男性がコップを手に立ち上がった。
その横に寄り添うように、タツヤが立った。
「では皆さま! このタツヤのために、遠路はるばるいらっしゃった小坂先生を歓迎して、乾杯いたしましょう! かんぱーい!」
男性の音頭で、会場(?)のみんなが大声で「かんぱーい」と叫ぶ。
はて、今日は家庭訪問のはずだったよな? それを問いかけることができるような人は周りに居なさそうだ。タツヤの父も、俺とグラスを合わせたあと、周囲の人との乾杯に忙しい。
俺の後ろを通って、今度は左隣の席に女性が腰を下ろした。先ほど入り口に近い席に居たタツヤがその後から、女性の隣に腰を下ろした。
女性はタツヤの母親だ。席に着くなり、玄関で出迎えたときと同じように、両手を前に揃えて頭を下げた。
「先生、ご挨拶が遅れて大変申し訳ありません。改めまして、タツヤの母でございます」
横のタツヤがそれに倣ってちょこんと頭を下げると、母親は「もっとしっかりご挨拶しなさい」とタツヤの頭を後ろから抑える。タツヤは母親に押されてぐいっと頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、待ってください。俺……いや僕は、家庭訪問で伺っただけです。タツヤくんの学校での様子をお話して、ご家庭での様子を伺ったら、すぐにおいとましますので! 皆様のお食事にかち合ってしまって、本当に申し訳ありません」
母親はそれを聞いて、ゆっくり頭を上げ、不思議そうな顔をした。
「何をおっしゃいますか。我が家で今さら、学校の様子をお聞きしてもどうにもなりません。
それとも何ですか? タツヤは私どもの知らないところで、何か悪いことをしているんでしょうか?」
「え? そういうことは、全然ありませんよ」
「なら、良かった! 話すことなどありませんわ。どうぞ、どうぞ、お仕事のことは忘れて、ゆっくりしていってくださいな」
「え、あ、これも仕事なんですが……」
すると横から、父親も割り込んできた。
「ほら、先生。若いからたっぷり飲めるでしょう。ビールがぬるくなってしまいます。さ、さ、どんどんいってください」
ビール瓶を片手に、俺を煽るように空いている方の掌のひらひらとさせた。
身体がやたら大きく、今どき珍しいパンチパーマ。覗き込んでくる細い目は優し気に歪めているが、いったん気分を害したら、射抜くように鋭くなりそうだ。
偏見だろうが、断れば「俺の酒が飲めないっていうのか」と逆上しかねない雰囲気を察した。
タツヤはもう目の前のご馳走にかぶりついていて、俺のことなど眼中にない。
これ以上、訳を探っていても無駄のようだ。
俺は半ばヤケ気味に、コップのビールを飲み干した。