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山の学校  作者: yamayuri
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七人の子どもたち

 それから新年度が始まるまで、俺は毎日朝早くから夕方まで、学校に缶詰めで準備を整えなくてはならなかった。教師として初めてであるだけでなく、この学校の担任は俺ひとりだけ。前任の山背先生から直接引き継ぎができるわけではないので、一から始めるようなものだ。

 校長は「小坂先生のやり方で」というばかりで、全く手ほどきなどしてくれない。ある程度の経験者なら、自分の好きなように出来て楽なのだろうが、右も左も分からない新卒者には酷な話だ。

 普通は新任の教師には初任者のサポートをする教員が付くはずだが、それさえも考えられていないようだ。義務付けられている研修は、校長か教頭が時間を見てやってくれるらしいが。アバウトな性格のソバエ校長のこと。忘れてましたとはぐらかされることも大いにありそうだ。


 前途多難ではあるが、今更引き返すことはできない。数日居て分かったのは、この村の人々はあまり細かいことにこだわらないということだ。多少の不備も愛嬌と見てくれるだろう。

 俺は自分が抱いてきた夢を、誰にも文句言われず実現することが出来る環境に居るのだと信じようとした。


 まずは名簿で、児童の名前を確認する。


六年生


雨間あまま 翔太しょうた

稲交接いつび 夕夏ゆうか

催花雨さかめ あい

暮靄ぼあい 陽也はるや


五年生


朝東風あさこち 未来みく


四年生


捲雲けも 竜也たつや


三年生


霧海むかい 虎太郎こたろう


 俺は軽い乱視がある。思わず鞄から、滅多に使わない乱視用の眼鏡を取り出して掛けた。

 複雑な漢字の上に親切に校長がふりがなを振ってくれたようだが、ミミズの這ったような小さな字が、元の漢字に重なってしまって、余計に解らない。不思議な苗字の羅列はまるで経本を読んでいるようだ。


 クスクス……


 名簿に思い切り目を近づけてブツブツ言っていると、隣の席から忍び笑いが聴こえ、俺はそちらを振り返った。シグレ先生が俺を横目に見ながら拳を口に当てて笑いを堪えている。

 おかしな姿を見られて恥ずかしくなった俺は、すぐさま言い訳した。


「どの苗字も見たことない妙な字だ」


 ほとんど無意識につまらない駄洒落を言ってしまってから、俺はさらに恥ずかしくなって口を押さえた。学生時代にはこんな馬鹿な会話が成立したものだが、真面目そうなシグレ先生に伝わるはずがない。

 しかし、シグレ先生はそれを合図に堪え切れなくなったらしく、ケラケラと笑い出した。俺もつられて笑い出した。

 しばらく笑い続けて、涙目を抑えながら、初めてシグレ先生が声を掛けてきた。


「とても読めないでしょう? 村独特の苗字ばかりですから。でも、そんなに必死になって。小坂先生は真面目なんですね」


 真面目そうと思っていたシグレ先生に、逆に真面目だと言われては、あまり良い気はしない。慰められているようなおだてられているような、どこか上から目線を感じたのだ。

 いや、実際年は近いと言っても、シグレ先生の方が年上なのは間違いないが。


 シグレ先生は、可動式の椅子を俺の机に寄せると、置いてある名簿を覗いてきた。甘い香りが漂ってきて何か罪悪感にかられた俺は、咄嗟に椅子を後ろに引いて一歩退いた。


「校長も、もう少し丁寧に書いてくださればいいのにね」

 

 そう言いながら手にしていたペンで、児童の名前の横にさらさらとカタカナの読みを書き入れる。校長のとは雲泥の差の繊細で綺麗な文字だ。


「これなら読みやすいでしょう?」


 俺の方を振り返って微笑む彼女に、俺は何と返事を返したのか分からないが、「へ」とか「ほ」とか意味不明の言葉を呟いたらしい。斜め前の席のナガメ先生が顔を上げてこちらを見て言った。


「シグレ先生、純粋な若者を惑わしちゃいけませんよ」


「惑わすなんて!」と叫んだのは俺の方だ。それに反応してナガメ先生は高らかに笑い出した。


「そんなムキになって。小坂先生、顔が真っ赤ですよ」


 ナガメ先生だけでなく、シグレ先生まで笑い出し、俺は不躾ぶしつけにもシグレ先生にお礼も言わずに席を立ってしまった。

 正面の教頭の席が空席だったのは不幸中の幸いだ。あの教頭は心底冷たい目で俺を睨みそうだ。


 そのまま窓辺に立って外を眺めると、校庭で元気に遊ぶ子供たちの姿が見えた。


「おお、ちょうどいいじゃないですか。皆揃ってますよ。校庭に出てひとりひとりの顔と名前を覚えてくればいい。新しい先生だって、子どもたち大喜びですよ、きっと」


 俺の背後に寄ってきて、ナガメ先生が言った。七人の子どもたちは、思い思いの場所で楽しそうに遊んでいる。どの子も元気いっぱいだ。


「いや、今日は止めておきますよ。ほら、新学期最初にどんな先生が来るのかな、ってどきどきするのも楽しみのひとつじゃないですか」


 言ってから、この学校の担任は三十五年間変わらなかったことを思い出した。

 しかしナガメ先生は「確かに、確かに」と大きく頷いた。外部の高校でも指導しているだけあって、都会の子どもたちの様子もよく分かっているのだろう。何故かほっとしている自分がいた。



 俺の考えた浅はかな演出は、その夜のうちにすべて無駄になった。

 

 夕飯を終えるか終えないかという頃、日和原ひょりばら家の玄関が急に騒がしくなった。

 ガラガラっと玄関の引き戸が勢いよく開けられたかと思うと、「こんばんはーっ!」と元気な声が続けざまに響き、誰の了承も得ていないのに、数人がバタバタと中へ入り込んでくる音がした。食事中の居間のふすまを無遠慮に開き、小さな顔がいくつも覗いた。


「おっちゃん、来たよ!」


 わらわらと子どもたちが食事中の修一さんを囲んだ。


「まだ、早いじゃないか。そこらで遊んでろ!」


 食事の手を止めずに修一さんが面倒そうに言い放つと、子どもたちは素直に「はあい」と返事をしておとなしくなった。


「何の騒ぎです?」


「ああ、俺の家のパソコンで映像配信観に来たんだ。今日はなんだったかな?」


 修一さんが後ろで体育座りをしている男児を振り返って訊くと、他の子どもたちも一斉に返事を返した。


「AKS48のコンサート!!」


 元気な子どもたちの声に修一さんは苦笑いすると、俺のコップにビールを注ぎながら言った。


「ほら、地デジなんてものは、こんなところには引けないだろ。

 ほとんどの家にテレビなんて無いんだよ。あったとしても、映る局は限られてるしな。

 俺はパソコンでいろいろやるのが趣味なんだ。村と都内との通信も主に請け負っているんだよ。まあ、いろいろと苦労してこの村にネットを繋いだ最初で最後の人物さ。

 それなら配信で子どもたちに流行のものを見せてやろうと思ってな。週に一度ほど、こうやって観に来るわけだよ。小さな画面だし、ブツブツ映像切れるけどな。こんな何もない山奥の子どもたちにとっては数少ない楽しみのひとつさ」


 俺は修一さんの技術の凄さと子どもたちへの優しさに感心しきりだった。

 村長や村議会は他に存在するが、修一さんこそ、実質的な村長ではないかと思う。修一さんなくして、この村の発展はあり得ない。凄い人のところに来たものだと、つくづく修一さんの横顔を眺めていた。



「ねえ、このおじさん、誰?」


 そんな俺の目の前に、突然、おかっぱ頭の少女の顔が現れた。途端に後ろに座って遊んでいた子どもたちが俺の周りに集まってきた。


「おい、ミク。おじさんは無いだろう。何を隠そうこの方は、お前らの新しい担任の先生だーー!」


 酔っている修一さんは、サーカス団の団長が団員の紹介をするように、大袈裟に手を広げて見せた。


 何を隠そうって、最初から全く隠そうなんて気がないじゃないか。俺が新学期に浴びるはずだった注目の眼差しは、意図せずここで受けることになってしまった。


「きゃあー」


「すごーい」


「かっこいい」


「やさしそう」


 俺は同年代の男性の中では、かっこいい方でも、優しそうな方でもないだろう。けれど、子どもたちにとって唯一の若い担任の先生というのは、絶対的に理想なのである。おそらく俺の正確な姿などほとんど見ていなくて、理想のかっこいいやさしそうな先生という先入観で見ているのだ。

 しかしそれから、子どもたちは日和原家にやってきた本当の目的などそっちのけで、俺にまとわりついて離れなかった。

 俺はヒヨリヶ淵にやってきて良かったと、この時初めて思った。


 


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