決別
俺はその日から教壇に立つことが出来なくなった。
ケガの回復は早かったが、今度は学校に行こうとすると足がすくむようになってしまった。そのうち、部屋から出ることさえ身体が拒絶するようになっていった。まるで登校拒否だ。
そんな俺でも、日和原家の人々は何も咎めなかった。そのうち回復するだろうと信じているのだろう。
シグレ先生は毎日熱心に俺を気遣ってやって来るし、子どもたちも心配して様子を見に来た。しかし、俺にはそんなかれらの行動が負担になるばかりだ。俺はシグレ先生や子どもたちの訪問を拒んだ。
しかしそのとき、気付いた。俺はこうやって無能なことを証明すればいいのだ。役に立たないと思えば、この村の者は俺を仲間として取り入れても無駄と分かるだろう。
さて、その後はヒヨリヶ淵へ沈められるのだろうか? それは分からないが、レオンと同じ運命を辿るのは確かだろう。レオンがヒヨリヶ淵の底に居るなら、俺はそこに行くまでだ。そうでないなら……本当に父親が迎えに来たのだとしたら、俺にも逃げるチャンスが出来るかもしれない。
しばらくは、本当に『登校拒否』の症状だったのだが、段々と回復するにつれ、俺はわざと病人の振りをするようにした。そんな俺に対して村民は相変わらず親切だが、レオンによれば、それこそが罠だということだ。村の者が皆俺に呆れるまで、この芝居を続けなくてはいけない。俺はこの村から逃れるために必死だった。
二週間が経ったある夜、シグレ先生が校長を連れてやってきた。
無精ひげとぼさぼさ頭の俺を見て、シグレ先生は思わず口を抑えた。彼女にとって俺のイメージがどのようなものだったか知らないが、明らかにそのイメージとかけ離れたものだったのだろう。憐れむような目で俺の姿を見つめていた。
二人は部屋の入り口近くに遠慮がちに座り、まっすぐこちらを向いている。逆に俺は斜に構えて畳を見つめていた。
「随分と変わってしまいましたね、小坂先生。祭りの事故がそれほどあなたに衝撃を与えてしまったとは……」
本当は校長の衝撃のほうが大きいのかもしれない。彼は大きなため息を吐いた。
「子どもたちにも保護者にも、評判の先生でしたのに。それに村にとっても貴重な若者で、我々は大いにあなたに期待していましたのに。残念です。
学校の方としましても、これ以上、担任不在の状態を続けるわけにはいきません。
都の方には、小坂先生は療休ということで届けを出して、代用の方に来ていただくことにしたいのですが、承諾していただけますでしょうか」
俺は相変わらず畳を見つめたまま「はい」と小さく返事をしてみせた。しかし、心の中ではガッツポーズをした。これでようやくこの村との縁が切れる。この後どのように料理されようと、俺にはどうでもいいことだ。村に一生身を埋めることこそが、最大の恐怖なのだから。
校長の横で、シグレ先生はさめざめと泣き出した。
「タクミさん、ちゃんと治して、必ず戻ってきてくださいね。いつまでも待っていますから……」
療休が決まり、村では俺をどのように扱うのか緊張しながら裁断を待っていたが、結果は意外にあっさりとしたものだった。
俺は実家に帰されることになったのだ。療休の手続きをするために医者に掛からなければいけないこともあったが、まだ村では俺がいずれ戻ってくることを期待しているのかもしれない。
最寄りの駅まで俺を送る車の中で、修一さんは少しだけ白状した。
「三月に、村に新しく若い男の先生が赴任してくるってことが決まって、村は大盛り上がりだったんだよ。子どもたちの先生っていうよりも、村の将来を担ってもらう人という期待が大きかった。もう分かっていると思うが、村の子どもの数があまりにも少なくて、このままでは村は絶えてしまうからな。村に新しい家庭を築いてもらう人が必要だった。
だから唯一の未婚の若い女性、凛子さんとの縁を取り持とうとしたんだ。
もちろん、タクミくんがどんな人物かも分からなかったし、教師としての資格に欠けていたり、凛子さんとの相性が悪ければ諦めるつもりだった。けれど、君はそのどちらも満たしていた。われわれにはまさに理想の人だったんだよ。だから何としてでも君を引き止めなければと思ったんだ。
オヒョリメ行列には、実は『見合い』の意味があるんだ。本人たちが気に入る気に入らないというものでなく、二人に縁があるかどうかをヒヨリ様にお伺いする儀式なんだ。さらに、その二人が家系を受け継ぐ資格があるかどうかを占うものでもある。
タクミくんは外から来た人だから、オヒョリメ様は、今断絶の危機に瀕している稲交接家に代わる守護の家系を開くことを提案された。そこで、昔断絶した鳴神家の再興を神様にお伺いしたんだ。
結果、日和雨が降った。あれは最高の吉兆。ヒヨリ様は、君と凛子さんが結婚して鳴神家を開くことを承諾してくださった。そういうことなんだ」
「なんて勝手な。俺は小坂家の長男です。実家の承諾も、俺の意志も聞かずに、そんなこと許されるはずないじゃないですか」
「小坂家……。君のお父さんは何をなさっているんだね?」
「普通の……サラリーマンですけど」
「それなら、お父さんの仕事を継ぐわけではないね。代々小坂家の本家だったわけでもないのだろう? 君はヒヨリヶ淵に教員として赴任した。ヒヨリヶ淵は特例地域で、赴任してきた教員はほとんど異動が無いんだよ。つまりずっと村に暮らす覚悟をするか、教員を辞めるか、どちらかだ。
タクミくんはいずれ、実家を継ぐために教員を辞めるつもりだったのかな?」
「……異動が無いなんて、今、初めて聞きました。
実家を継ぐために教員を辞めるとまでは、正直考えたことはありません。でも、結婚相手は自分で決めます。俺には彼女がいるんです」
「その彼女を、村に連れてくるつもりだったの?」
俺は言葉に詰まってしまった。
「彼女のために教員を辞めるなんてことも、考えてはいなかったのだろう?」
「そうかもしれませんが……。修一さんこそ、お子さんがいらっしゃるじゃないですか。お子さんを呼び戻せば、若い人は増える」
「うちの子どもたちは、逆に村以外のところに居場所を見つけたんだ。戻ってくる可能性もあるがね。それは本人の意志に任せている。もちろん戻ってきたら、君と同じように家系を築いてもらうよう準備をしてやるつもりだ。
タクミくん、自分が定められた場所で安定して暮らすこと。それが一番の幸せだよ。君の望んだ職業を続けながら、家庭も築くことができる。
凛子さんは申し分ない相手だと思う。君が反対するのは単に、これまでの生活から変化していくことにまだ抵抗があるからなんだと思うよ。けれど、村の生活に慣れればきっと、それが一番だったと思うようになる。
オヒョリメ行列はね、ヒヨリヶ淵までたどり着いたとき婚姻が成立するんだ。君の迷いが行列を止めさせたのかもしれないが、一年後にはきっと最後までたどり着けると俺は思うよ。
そのためにも一旦実家に戻ってよく考えてほしいんだ。俺たちはいつでも君を待ってる」
駅に着いて、修一さんは俺に荷物を手渡しながらにっこりと笑って大きく頷いた。
未だにヒヨリヶ淵は俺を諦めてはいない。それどころか、今度こそ俺が自らの意志で村に取り込まれて行くのを待ち望んでいるのだ。
修一さんの車が去っていった山を見つめているうち、見知った村民たちが皆揃って、こちらに笑い掛けている幻を見た。
俺は身震いをして荷物をきつく抱きしめた。震える手で切符を買い、慌てて改札口へと駆け込んだ。




