仕掛けられた罠
ふと目を開けると、俺の部屋の天井が見えた。俺の部屋……間借りしている日和原家の一室だ。俺はまだ無事だ。しかしまだ、ヒヨリヶ淵に居る。昨日の悪夢はどこまでが本当のことだろうか。レオンは?
俺はがばっと起き上った。途端に全身に鋭い痛みが走り、思わず顔を歪めた。
「良かった。気が付いた?」
横から声を掛けられて振り向くと、心配そうに見つめるシグレ先生の顔があった。
「え? 何で俺の部屋に?」
「昨日山の上から足を滑らせて転がり落ちて、皆がここまで運んできたのよ。意識が戻らないので心配で私、一晩中付いていたの。良かった、本当に良かった」
「あ、ありがとうございます。ご心配おかけしました」
「ダンナさんと奥さんにも言ってくるわね!」
シグレ先生は嬉しそうに部屋を出て行った。やがて、修一さんと奥さんが揃って入ってきて、俺の顔を覗き込んだ。
「本当に良かった! 祭りでこんな酷い事故があったのは初めてだ。こちらの管理不足で本当に申し訳ない!」
修一さんは畳に頭が付くほど身体を折り曲げて謝った。
「いえ……」
大丈夫です、とはさすがに言えなかった。俺はそのまま口を噤んで下を向いた。
「ともかく意識が戻って何よりだわ! 凛子さんが一晩中看病してくださったのよ。身体を拭いて、着替えさせて、ケガの手当てをして、それはそれは献身的だったんですよ。良い奥さんになるわ」
日和原夫人の言葉に、シグレ先生は赤くなって俯く。しかし赤くなるのは俺の方だ。赤の他人の、それも女性に身体を拭いてもらったというのか。一体彼女にどうしてそこまでする義務があるのか。
「安心しました。私、もう学校に行きますね。タクミさんはゆっくり休んでください。事故のことは皆知っていますし、私からも校長に様子を話しておきますから。
あ、お粥作っておいたので、後で食べてくださいね。奥さん、よろしくお願いします」
タクミ……さん? 何故シグレ先生が俺のことを日和原夫人にお願いするんだ?
シグレ先生が出て行くと、日和原夫人が訊いた。
「凛子さんのお粥、食べられます?」
食欲などまるで湧かない。俺は黙って首を振った。
「さっき目覚めたばかりですものね。もう少し休んでいたほうがいいわ。また様子を見に来ますからね」
そう言って、修一さんたちは部屋を出ていった。
俺は痛む箇所を庇いながら、ゆっくり布団に横になった。
部屋の壁に俺が来ていた着物が一式掛けられていた。袴の裾はドロドロで、破けた箇所もあり、昨日の夜が夢で無かったことを物語っている。
ふと、羽織の前に刺繍されている小さな家紋が目に入った。着付けてもらったときには、家紋になど注目していなかったし、着ていた俺からはよく見えなかったのだが。
家紋は雲と稲妻の模様が象られたものだった。
―― 鳴神家 ――
雷―鳴神を象徴する家紋だということが一目で分かる。俺だけの為に、俺がこの村に来たばかりの頃から仕立てられた着物。その着物に縫い付けられた家紋は、遥か昔に断絶した家系のもの。
―― 夕夏が成人するまで、稲交接の守護は機能しないということになります。 稲交接家が再興するまで、禍を退けなくてはいけないのです ――
俺は、守護の家系を再興するために此処に招かれた……。あるいはその逆で、丁度良いタイミングに俺がやってきたのか。いずれにしてもこの村の人たちにとっては、村を守るために適齢期の男性が必要だったわけだ。
しかし、祭りの一部に参加しただけで、俺が鳴神家の当主になれるはずはない。あの祭りにはいったい、どういう意味があったのか……。
―― 先生を離せー。 バケモノどもー ――
レオンが自分の身を挺して行列を止めなくてはならなかったのは、きっとそこに重大な秘密が隠されているからなのだ。
思いを巡らせながら、俺はレオンの身に起きたことを思い出し、息苦しくなった。レオンは本当に……、捕まってしまったのだろうか。捕まって、ヒヨリヶ淵へと……。それを考えてしまうと、俺はこの先どうして良いのか分からない。
ともかく明日、学校に行こう。行って何事もなくレオンが登校してくるのを待つしかない。
翌日、俺は身体の痛みに耐えながら学校に行った。
昨夜はまた、シグレ先生が看病に来たが、俺はもう大丈夫と断った。それでもシグレ先生は日和原家の別の部屋に泊まったようで、俺の様子を頻繁に見に来た。朝、出勤すると言った俺をシグレ先生も日和原夫人も止めたが、それを無理に振り切って出てきた。シグレ先生は俺の後を心配そうに付いて来た。
学校では、体中に痛々しい傷を負った俺が出てきたので、校長も教頭もナガメ先生も驚いていた。何故かシグレ先生が「すみません。止めることができなくて……」と彼らに謝っている。まるで俺の保護者にでもなったかのような態度だ。
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
空元気を作って言ってみたものの、明らかに大丈夫とはいえない様相に、皆呆れ顔だ。
しかし俺は、レオンの無事な姿を見ないことには、いくら休んでいても身体が回復するとは思えなかったのだ。
登校時間が近づき、ぽつりぽつりと子どもたちがやってきた。子どもたちは、彼らが行列を見送ったあと、俺が山で事故に遭ったことは、親から聞いて何となく知っていたらしい。細かいことは聞かされていないようだが。
「先生もドジだなぁ。山から転げ落ちるなんて」
「せっかくカッコ良かったのにねー。台無し!」
好き勝手にそうからかうのを、俺は苦笑いしながら聞いていた。
始業時間を知らせる鐘が鳴った。レオンの席はまだ空いている。いつもは出席など取らないのだが、その日はゆっくりと子どもたちの名前を呼んでいった。その間もレオンはやってこない。
「志藤 怜緒夢さん」
「先生、見れば分かるでしょ! お休みだよ」
「誰か、レオンの欠席の理由を知っていますか?」
今までも、レオンの休む理由を知っていた者などいない。見え透いたことを聞く俺を、子どもたちはきょとんと眺めていた。しかし、しばらくしてユウカがぼそっと呟いた。
「転校したって、お母さんが言ってたよ」
「転校だって? 先生は聞いていない! みんな、突然で悪いが、今日の先生の分の授業は自習にしてくれ!」
俺は堪らずに教室を飛び出していた。




