掟破り
校長室で俺を迎えた校長は、「やはり来たか」という表情だった。夏休み中に何が起きたのか、校長はおろか、ほかの教員からも聞くことはなかった。俺が気付かなければそのままやり過ごそうと思っていたのだろうか。そうだとしたら浅はかな策略だ。俺はつい、初めから責めるような口調で話しかけてしまった。
「レオンのことですが、何があったんですか? どうしてあんな仕打ちを受けなくてはいけないんですか?」
校長は人差し指を立てて口に当て「しぃー」という真似をすると、俺の背中に手を回してソファに誘導した。いつもなら正面に座る彼は、俺の隣に身体を寄せて座り、小声で話しかけてきた。
「大きな声では話せません。どうぞお静かに」
「何があったんですか……」
俺は言われた通りに小声になって繰り返した。
小声でも聞こえるように、校長はさらに顔を寄せてきた。
「彼のことですが。ヒヨリ様……龍神様の逆鱗に触れる真似を働いたのです。龍神様のお怒りが収まるまで、彼はこの村に存在しないものとして扱わねばなりません。そうでないと、彼にも、彼と関わったものにも祟りは起こります。その数が多ければ、村ごと祟られるのです。事件が起きたのは小坂先生がご実家に戻られてすぐ、七月末でした。ヒヨリ様のお怒りが収まるのは、ふた月と謂われています。九月末まで、彼はこの村に居ないものとして過ごさねばなりません」
「なんで、そんな馬鹿げたことをするんですか。迷信でしょう」
すると、いつも穏やかな校長の表情が、見たこともない形相へと変わった。
「小坂先生。言っていいことと悪いことがあります。馬鹿げたとは聞き捨てならない。それが、我々の守り続けてきた掟なのですよ。あなたには理解できないことでも、我々には一番重要なことなのです。村の者の生死に関わることなのですから」
「いくら掟でも、レオンは子どもです。子どもまで容赦しない神さまなんて……。いったい、レオンが何をしたというのですか」
「ヒヨリヶ淵に異物を投げ込んだのです。あそこは決して穢してはいけない神聖な場所。そこにボールを投げ込みました」
―― このボールはチームのみんなからお別れにもらったものなんだ。変なところに蹴って失くさないでよ! ――
無邪気なレオンの言葉が蘇り、俺は目の前が暗くなった。
「違います。投げ込んだんじゃない。レオンはあのボールを何よりも大切にしていた。たまたま近くで遊んでいて落ちてしまったんだ。レオンだってショックだったに違いない。
それにそんな神聖な場所なら、何故立ち入り禁止にするとか、看板を掲げるとかしなかったのですか。外から来たレオンが分からないのは当然でしょう」
「それは村の落ち度だったかもしれません。わざわざそんなことをしなくても、みな承知していることでしたから。けれど聖地を穢したことは、例え子どもであろうと、掟を知らない者であろうと赦されないのです。
大昔、村が大変な危機に陥ったことがありましてね。その時は、何も知らない余所者が迷い込んできて淵を穢したのですよ。しかしヒヨリ様の怒りは村全体に及びました。
だから我々は畏れているのです。
しかし、彼に危害を加えたり、生活を保障しないわけではありません。彼は普通に日常を送っていていい。村の者が呼びかけたり、存在を認めるような行為をしなければいいのです」
「それなら俺は、まだ村の人間には成り切れていない俺は、レオンに話し掛けても構わないでしょう? 俺はヒヨリ様に守られて生活してきたわけではないのですから」
「そこまでは私には分かりません。祟りを畏れないというなら構わないと思いますけど。ただ、子どもたちにそれを強要しないでください。子どもたちに禍が及んだら、学校の責任が問われますから」
俺はどうにもならない怒りを抱えて拳を握りしめた。こんな理不尽がまかり通っていいものだろうか。けれど、ここで校長相手に文句を言ったところで、いや、村の誰に対しても、それをぶつけても解決できない。レオンはどういう気持ちでこの仕打ちを受け入れているのだろうか。オヒョリメ様は孫がこんな目に遭っていても仕方ないと思っているのだろうか。
何をどう言葉にしようとしても適切なものが浮かばない。しかし気持ちは収まらない。
俺は無言で立ち上がり、校長室を出て後ろ手でドアを思いっきり閉めた。派手な音が校舎内に響き渡った。それくらいしか、抵抗する術が見つからなかった。
翌日も、その翌日も、レオンは普通に登校し、クラスの最後列で静かに授業を受けていた。中学で受けるはずだった授業はもちろん断られ、レオンにはつまらないであろう内容の授業を、それでも真剣に聞いていた。ナガメ先生の体育やシグレ先生の音楽でも、彼はただ級友たちの影のように付いているだけだ。これほどの苦痛があるだろうか。
俺は、自分の授業の時にはなるべくレオンに発言させるようにした。レオンは素直に答えてくれるが、他の子どもたちはそれを聞かない振りをしている。それに関連した質問をすると、他の子どもたちは、本当かどうか分からないが、必ず「分かりません」と答える。とにかくレオンに関わるすべてのことが無いものとして扱われているのだ。
他の教員にレオンの様子を聞いても、「ちょっと答えられません」という返事が返ってくる。教頭などは「校長から話があったはずでしょう? まだ理解されていないのですか?」と、呆れるように言った。
俺は、放課後レオンを引き止めて再び話を聞こうとした。しかしレオンは迷惑そうに視線を外して黙り込んでしまう。これでは俺のひとり相撲だ。掟とやらに俺も従うしかないということだろうか。
結局レオンは俺の話を無視し続け、最後に「もう帰らせてください」と言って教室を出て行ってしまった。
俺は居ても立ってもいられず、レオンの後を追ってオヒョリメ様の屋敷まで行った。屋敷の門の前で俺に気付いたレオンは、いきなりこちらに向かってきて俺を突き飛ばした。
「来るなよ! ほっといてくれよ!」
そう言ってレオンは勝手口の中へ消え、中から鍵をかけてしまった。
俺は諦められず、拍子木を鳴らした。中から反応はない。かなり長いこと、うるさいくらいに拍子木を鳴らし続けた。必死だった。迷惑な行為だと分かっていたが、それどころではなかった。
やがて勝手口から顔を覗かせたのはユウカの母だ。うんざりとした表情で「何ですか?」と訊いた。
「すみません。どうしてもオヒョリメ様にお会いしたくて」
「オヒョリメ様はしばらくどなたともお会いになりません。秋には大事な行事が控えておりますし、その前に重大な用件が出来ましたので」
「レオンの事件ですか?」
俺はつい、それを口走ってしまった。ユウカの母は顔中に不快感を表した。
「お引き取りください。秋の大祭を終えるまで、ここには決していらっしゃらないでください」
俺が伸ばした手の先で、勝手口の扉がぴしゃりと閉じられ、中から施錠する音が聞こえた。
次の日もレオンは何事も無かったように登校してきた。これまでと同じように、クラスメイトの影のように一日を過ごす。授業中、俺が質問したことにはしっかりと答える。クラスメイトはそれを無視する。
レオンの本心がどこまでこの状況を受け入れているかは、見当もつかなかった。
俺は帰りに再びレオンを呼び止め、用意してきたノートを渡した。
「先生は村の人間じゃない。だからレオンと関わっても大丈夫だ。でも先生と話しているところを見られてレオンの立場が悪くなっては困る。だからノートでやり取りをしよう。先生の聞きたいことをこのノートに書いてきた。レオンは正直に答えてほしい。レオンから先生に言いたいことがあれば、それも正直に書いてほしいんだ。
書いたら帰りに自分の机に入れておいてくれ。先生がそれを受け取って、次の朝、またレオンの机に入れておく。誰にも知られないように見つけたらすぐにランドセルに仕舞ってくれ」
レオンは黙って頷き、ノートを受け取って帰っていった。




