鬼
オヒョリメ様の家を後にして、俺はヒヨリヶ淵へと続く岩棚を歩いていた。平らな岩が自然と広い運動場のような空間を作っている。オヒョリメ様の家の門を出てすぐにあるこの場所は、さながらオヒョリメ様、いや龍神様の神殿専用の広場のようだ。
岩棚を歩いていくと、トントンとボールが弾む音がした。正面でレオンがリフティングをしている。俺が見ていることには気づかず、夢中でボールを操っていた。すぐには声を掛けず、レオンが何をしているのかを、俺は近づきながら観察していた。
しばらくリフティングを繰り返して、今度はそのボールを思いっきり林の中へ蹴り入れ、それを追いかけてレオンも林へと消えた。慌ててその姿を追うと、レオンが林の木々の間をドリブルで器用に走り抜けて行くのが見えた。
レオンは広い岩棚や林に乱立する木を利用して、サッカーの技術を磨いているのだ。来るときに会わなかったのは、林の中を駆け回っていたからなのだろう。サッカーの特訓にはうってつけのこんな場所があれば、家でじっとしていないのは当然だ。レオンは家に居場所がないわけではなく、自分だけの魅力的な場所を見つけて、ここでの生活を楽しんでいるようだ。
レオンが入り込んだ林の入り口で待っていると、足元に勢いよくボールが転がってきた。レオンが蹴る方向を誤ったらしい。俺はそれを足で蹴り上げて、レオンに倣ってリフティングをしてみた。
ボールを追って林を出てきたレオンに、そのままパスをする。レオンはそれを足で押さえて怪訝な顔を向けた。
「先生、何でここにいるの?」
「君の家庭訪問だよ。抜き打ちだけどね」
「抜き打ち? ひどいよ。言ってくれればいいのに」
「すまなかった。でも、君の家での過ごし方が見られて良かった。いい場所を見つけたな」
「うん。こういう足場の悪いところで練習すると、かなり技術が上がるってことに気付いたんだ。広いし、僕だけしかいないのもいい」
「そうだよな。村の人も滅多に来ない」
「おばあちゃんが怖いからね」
「怖い……というのとは、ちょっと違うと思うけど。レオン……いや、志藤さんは、おばあちゃんをどう思う?」
「もういいよ、先生。レオンで。僕だけ苗字でさん付けじゃ、ほかの子は面白くないだろ」
「確かにな」
頑なだったレオンの態度が緩んでいくのを、俺は嬉しく思った。
「おばあちゃんをどう思うって、話だけど。先生こそ、おばあちゃんをどう思うの?」
逆に問いかけられて、俺は返事に困った。
「村の人たちに頼られているし、色々なことをよく知っているから、俺も凄い人だと思っているよ」
「そう。先生はこの村のこと、よく知っているんだね」
「そんなことはないよ。分からないことがまだ、たくさんある」
「それを知りたいと思うの? ここの仲間になりたいの?」
「仲間というか、親しくなりたいとは思っているよ。ここで暮らすなら村の人と親しくなりたいと思うのは当然じゃないか?」
「……先生もすっかりこの村の一員なんだね」
レオンの言葉が何故か、村に馴染もうとしている俺を侮蔑しているように感じられた。
いくら村から離れて暮らしていたとはいえ、自分の母親の故郷だ。母親から村のことは聞いているだろうし、存在すら知らなかった俺よりは、ここのことを知っていてもいいはずだ。
いや、もしかしたら、レオンはこの村のことをよく知っていて、敢えて避けようとしているのだろうか。
「一員になるなんて、十年早いよ」
レオンがこの村のことを快く思っていないのか、それともまだ馴染めないことを心苦しく思っているのか分からない。俺はレオンとの距離を置きたくなくて、曖昧な返事で誤魔化した。
「そうだ。先生も少し特訓を受けさせてくれ。ここに来て、まともにスポーツはやっていないから、体中がギシギシ言っているんだ。たまには思いっきり身体を動かしてみたいな」
「そんなスーツ姿で、動けるの?」
「平気さ。サッカーはまともにやったことはないが、大学時代はいろんなスポーツをやるサークルにいたんだ。その中でフットサルはやったことがある。特にユニフォームなんて着ないで気ままな恰好でやっていたが、動きは本格的だったぞ」
「それなら、いいけど。付いて来れなくても容赦しないよ。それに、このボールはチームのみんなからお別れにもらったものなんだ。変なところに蹴って失くさないでよ!」
「分かった! 大丈夫だ!」
俺は鞄を置くと、ドリブルを始めたレオンを追いかけた。
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穏やかに、なのか、問題を残したまま、なのかはわからないが、一学期は終わった。
俺は残務処理を終えたら、都内での研修があるため、いったん実家に帰ることにしていた。
実家に戻る支度をしていて、ふと、オヒョリメ様から預かった冊子が目に入った。借りているものだし、歴史的な価値のありそうな大事な資料を、実家に持って帰るわけにはいかない。そこで、帰る前に一度目を通しておこうとそれを開いてみた。
片仮名と旧字体のような漢字が並んでいて、とても一度には読めそうにない。薄い冊子とはいえ、解読するのに何日も掛かりそうだ。
こちらに戻ってからじっくり読めばいいかと、とりあえず全体をぱらぱらとめくっていくと、あるページに栞のように紙切れが挟んであるのを発見した。その紙切れが、オヒョリメ様がここを是非読みなさいと言っているように感じた俺は、そのページに書かれた文章だけをまず解読してみようと試みた。
―― 明和九年、守護ノ家系、鳴神家、途絶へリ。時置カズシテ、ヒヨリヶ淵村落二鬼アラハレリ。住民共、鬼ヲ捕ヘ、手足ヲ縛リテ淵ヘ沈メ、ヒヨリ神二捧ゲム。村落、平ラカ二也ヌ。新タニ守護ノ家系、霹靂家、創設ス ――
苦労して、俺はその難解な記録のだいたいの内容を理解した。
つまり、記録にはこう書かれていたわけだ。
明和九年、守護の家系である鳴神家が途絶えた。時を置かずに、ヒヨリヶ淵村に鬼が現れた。住民は鬼を捕えて、手足を縛り、ヒヨリヶ淵へと沈め、ヒヨリ神 ―― おそらく、龍神のことだろう ―― への捧げものとした。それによって村に平和が戻った。
そして、新たな守護の家系、霹靂家が創設された。
明和という元号は、江戸時代、第十代徳川家治の時代だということが、調べて分かった。しかし……。
鬼という存在は、何を意味するのだろう。
―― 守護が弱まるとき、村には鬼が入り込むと謂われているのです。鬼とはつまり、禍ということ ――
オヒョリメ様の言葉が頭に蘇ってくる。
例えそれが鬼畜のような輩であっても、手足を縛られ淵に沈められて、龍神の生贄になった者がいたということに、俺は戦慄した。
あの話と、この資料を俺に託したことは、何を意味するのか。オヒョリメ様は、俺に何を知ってほしいのだろうか。
それを知るのは、まだ先のことだったが、後になって、何故この時に気付けなかったのかと、俺は激しい後悔を覚えることになるのだ。




