龍神の神殿
レオンの学習については、それから間もなく解決した。
同じ校舎の続きにせっかく中学校があるのだから、それを利用することにしたのだ。英語と算数 ――すでに数学だが―― は中学の授業を受けさせてもらう。その他の授業は小学校の同学年と行う。
体育は小学校で受けるが、身体を動かし足りない部分は中学の部活に参加させてもらうことで補う。隣の中学も規模としては小さい方なので、部活動の種類も少ないが、幸いサッカー部があり、長期休みには村外に出て他校と合同の合宿を行ったり、試合にも参加したりするので、都合が良かった。
レオン自身には、前の学校との違いや、小さな学校ゆえの良さなどを説明して、慣れるまでよく周りを見るように説得した。さすがに頭の切れる子だけあって、レオンはすぐに理解した。それから一所懸命周囲に合わせようと努力しているのが分かった。
ショータやハルヤも、レオンだけが中学に行くという特別待遇にはあまり気を良くしなかったが、嫌がらせやからかいをすることは無くなり、それに従ってほかの子どもたちも、レオンに冷たく当たることは無くなった。
まだ、心から仲間として受け入れていないと感じられるが、それは徐々に解消していけるだろう。
俺は、ひとまず肩の荷が下りた気がした。
俺は、夏休みを前に、一度オヒョリメ様を訪ねようと思った。
レオンが普段、どのように生活しているのか気になるところだし、ユウカの家との関係も心配だ。何よりも、オヒョリメ様は孫に対してどのような想いを持っているのだろうか。保護者としての意向も聞いておきたいところだった。
レオンとともに学校の帰りに寄ることも出来たが、これから夏休みを迎えるに当たって、休日の過ごし方を見ておきたいと考え、ユウカに頼んだ。
「次の日曜に、オヒョリメ様に会いたいんだ。お母さんはその日、オヒョリメ様のところにいるのかな?」
「うん。もう、だいぶ調子が良くなってきたから、毎日行ってるよ。日曜は、大事なご用があるから、必ず行くと思う」
「そうか。大事なご用とは、オヒョリメ様は忙しいのかな?」
「大丈夫だよ。お母さんがやることがあるだけだから」
「良かった。お昼過ぎに訪ねますと、お母さんに伝えておいてもらえないかな?」
「分かった!」
そして日曜日、俺は、あの家庭訪問以来のヒヨリヶ淵の裏の古民家を訪ねた。
同じように拍子木を叩くと、また勝手口からユウカの母が顔を出したが、前回とは違って顔色が良く、にこやかな笑顔で「いらっしゃいませ」と声を掛けてきたので、別人のようだった。前回はよほど体調が悪かったのだろう。
「突然、すみません。オヒョリメ様にお話したいことがありまして」
「ユウカから聞いています。オヒョリメ様もご存知なので、大丈夫ですよ。どうぞ」
ユウカの母はそう言って、勝手口の中に消えた。俺が後に続いて勝手口に入ると、そこにユウカの母が立っていて、深く頭を下げて言った。
「先日は、本当に失礼しました。立っているのもやっとという状態だったので」
「いえ、こちらこそ、お加減が悪い時にお邪魔してしまって。ユウカさんには、日を改めてもいいとお話したのですが。こちらもお母さんの具合が悪いと聞いたのが当日でしたので」
「いえ、お見苦しい姿をお見せしてしまったのは申し訳なかったんですが、先生にこちらにいらしていただいて助かりました」
「こちらこそ、オヒョリメ様にお会いできて良かった。転入してきたお孫さんのことも、事前に聞くことができましたから」
すると、今までにこやかだったユウカの母の顔がにわかに曇り、それに返事を返すことはしなかった。
「ともかく、どうぞ」
手短にそう告げると、ユウカの母は歩き出した。俺の心に小さな不安と違和感が生まれる。ユウカの母に付いて歩いていくうちに、それらが少しずつ膨らんでいくような気がした。
母屋の入り口を入ったとき、俺は場所を間違えたかと思った。
家の中は明るく、立派な竈が並ぶ土間と、その反対側の座敷の様子がはっきりと分かった。上がり框の下には、たくさんの靴が並んでいて、座敷の方から賑やかな話し声や忙しなく歩き回る音が聞こえている。大勢の人が集って、座敷で何かやっているようなのだ。
土間の竈からは湯気が立ちのぼり、良い匂いが漂ってくる。竈の前にも数人の女性が行ったり来たりしていた。
「あら! 先生もこちらにいらっしゃるなら、ご一緒すればよかったわ!」
そう言って声を掛けてきたのは、日和原夫人だ。そういえば彼女は朝早く修一さんと二人で出かけていなかったので、朝食は修一さんの両親と大おばあさんと四人でとったのだった。
「今日はこちらで何かあるのですか」
「ご神殿の棚卸しの日なのよ。働ける村の者が総出で、月に一度行うのよ」
「ご神殿?」
「ここは、龍神様のご神殿なの。ちょっと普通の神社とは趣きが違うと思うけど。この奥はご神体が祀られた祠に続いているのよ」
「ここはオヒョリメ様の家ではないんですか?」
「オヒョリメ様のお住まいでもあるけどね。オヒョリメ様は龍神様に仕える巫女さまだから、神さまとご一緒に暮らしているようなものですからね。先生は棚卸しの手伝いに来ていただいたわけではないの?」
「今日はオヒョリメ様にお話があって……」
「ああ、そうだったの。棚卸しは村の者の仕事だから、オヒョリメ様はいつも通りお部屋にいらっしゃるわよ」
どこからか日和原夫人を呼ぶ声がして、彼女は慌ただしく奥へと消えた。
隣で黙って聞いていたユウカの母は、日和原夫人が居なくなると、俺の肩を軽く叩いて框を上がった。俺はそれに従った。
だだ広い何も無かったはずの畳敷きの部屋に、所狭しと物が置いてある。いったい、どこにこんなたくさんの荷物が隠されていたのだろうか。
その疑問はすぐに解けた。
部屋の奥に小屋裏へと続く梯子が掛けられていて、数人の男性がその途中に立って、上から下ろされる荷物をバケツリレーのように運んでいる。つまり、小屋裏に収められていた物を座敷に下ろして点検しているわけだ。
古い長持ちや行李といった、時代劇の小物のようなものがたくさん並んでいて、中には文化財にもなりそうな意匠を凝らした道具なども置かれていた。
忙しく立ち回る村人たちを横目に廊下を渡っていく。廊下のガラス窓がすべて開け放されているので、部屋には適度な光と爽やかな空気が流れ込んでいた。
あの真っ暗でおどろおどろしい屋敷とは、まるで違う印象だった。
ユウカの母に案内されて、オヒョリメ様の居る離れに行くと、母屋の喧騒とはうってかわって静かだった。オヒョリメ様は相変わらず、特徴的なゆったりとした服に身を包み、ソファでくつろいでいた。
「まあ、先生。良くお越しくださいました。今日はユウカのことではなく、私に直接お話があるとのこと。直々に訪ねてくださるとは、嬉しい限りですわ。母屋の方が賑やかで落ち着かないと思いますけど」
「いいえ。お忙しいところ、お邪魔します」
気遣いにお礼を告げて、俺はオヒョリメ様の勧めるソファに腰を下ろした。
ユウカの母がお茶とお茶菓子を用意して部屋を出ていくと、俺は早速本題を切り出した。
「お孫さんのレオン君のことについて、是非お話したかったのです。家庭訪問も出来なかったので、機会があればオヒョリメ様に、レオン君の保護者としてのご意見を伺いたいと思っていまして」
「そうそう、先生には怜緒夢のことでいろいろとご尽力いただいたそうで、こちらこそお礼を申し上げなければならないところでした。その節はありがとうございました」
レオンが直接話したのか、ユウカに聞いたのか、村の人の噂で聞いたのかは分からないが、レオンが学校に馴染めずにいたことや、そのために学校側で工夫したことなどを、オヒョリメ様は知っているようだった。
「やはり、レオン君は、この村の生活は前の生活とはかなり違いがあって、戸惑っているようですね。でも今は、レオン君もうまくやろうと一所懸命努力しています。他の児童も温かく見守ろうとしていますので、必ず打ち解けられると思います」
オヒョリメ様はそれを聞いて、鋭い目で俺を見つめた。
「本当にそう思ってらっしゃるの?」
「え? どういうことですか?」
オヒョリメ様の態度が急変したことに俺は驚いた。
「怜緒夢は、本当に学校に、いやこの村に馴染めると思ってらっしゃる?」
俺の話の矛盾を問いただすような口調に、俺はしどろもどろになった。
「あ、いや。必ずとか、そういうことは言えませんが、俺が、そう、希望しているという……」
俺の方もまだ、不安はたくさんあった。レオンが他の子どもと馴染むには相当時間が掛かる。一度起こってしまった軋轢を解消するこれといった対策は、本当のところ何も思いついていない状態だ。ただ、前よりは決定的な対立が無くなった。だからまったく希望がないわけではないし、時間を掛ければ打ち解けていけると信じたい。そうだ、信じていたい、俺の希望に過ぎない。
ただ、保護者であるオヒョリメ様から、その希望を疑問視するような問いかけをされるとは、思ってもみなかったのだ。
俺が言葉に迷っている様子を見て、オヒョリメ様は少しだけ表情を緩めた。そして小さく溜息をつくと、懇願するように言った。
「……先生が信じていてくださるなら、あの子にもまだ救いはありますわね。どうぞ、最後まで見守ってやってください」
俺は頭を殴られたような気がした。
『最後まで』とは、なんと不吉な言葉だろう。単純に小学校を卒業して中学に進学する時まで、ということなのだろうが、その言葉の裏に何か深刻な意味があるような気がしてならなかったのだ。
俺は、この村の独特な集団意識に過剰に反応しているだけなのだろうか。オヒョリメ様は保護者として、孫をいつも見守ってくださいと頼んだに過ぎないのかもしれないのに。
俺は、オヒョリメ様に返事もできず、ただじっとその目を見つめ、彼女の言葉の真意を探ろうとしていた。
彼女の一言に固まってしまった俺を和ませるためか、オヒョリメ様は、穏やかで上品な笑顔を取り戻した。
「怜緒夢の話は、もうよろしいかしら? また何かありましたら、どうぞお聞かせくださいませ」
一方的にレオンの話は打ち切られた。いや、これ以上何も話すことは無いし、話さない方がいいのかもしれない。俺がオヒョリメ様に頷くと、オヒョリメ様は思い出したように話題を変えた。
「ところで先日、この村の守護についてお話しましたわね。先生にご興味があれば丁度いいんですけど。
今回の棚卸しで、古い時代の資料が出てきましてね。それに関する歴史的な出来事が書かれていたんですよ。
私も、先代から口頭でこの村の慣習について学んできたに過ぎないので、実際、歴史の上でどんなことがあったかははっきりと証明できないのです。それにこの村の慣習の成り立ちを、この村をよく知らない方に説明するのは限界がありますから。
ご興味があれば、この資料お貸しいたしますわ。ご覧になって、この村について理解を深めてくださると嬉しいんですけど」
オヒョリメ様は、脇の棚から、ところどころ黄ばんだり擦り切れたりした薄い冊子を持ってきて俺の前に差し出した。
紙縒りで閉じられた年代ものの冊子だ。表紙には『ヒヨリヶブチ 傳 ―― 其の参』と墨で書かれている。幾つかある記録の三冊目ということなのだろう。
「こんな貴重なものを、持ち出すわけには……」
「大丈夫ですよ。村の者は、口述伝承としてここに描かれた内容を知っていますし、ほかにも重要な資料がたくさんあるので、これにわざわざ目を通そうという者は他にいませんから。たまたま先生にお話したことに関する内容が書かれていたので、是非お読みになって村への理解を深めていただきたいのです。お返しいただくのは、いつでも構いませんわ」
そこまで言われては、断ることはできない。俺は、鞄に入っていたクリアファイルの中身を取り出し、脆そうなその冊子を慎重に収めた。
「ありがとうございます。時間のあるときにじっくり拝見いたします」
オヒョリメ様は満足そうに頷いて、カップに残ったお茶を飲み干した。
「あの、そういえば、今日はレオン君はどこに?」
「ああ、あの子は日中、滅多に家にいないんですよ。外で運動している方が性に合っているみたいですわ。特に今日はこんな風に家がバタバタと忙しないですから。
どこか広い場所で遊んでいるんじゃないかしら?」
レオンはこの家の中にも居場所が無いのではないか。俺はオヒョリメ様に会って、レオンの今後をますます心配せざるを得なかった。




