表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山の学校  作者: yamayuri
1/23

東京の果てに……。

 尻が座席から跳ね上がるたびに、不安は増していく。唸り声を上げるタイヤは、そのうち悪路に耐えかねてスリップし、この車体は真っ逆さまに谷底へ転落していくだろう。そうしたらこの悪夢は終わりを告げる。むしろその方が好都合だ。


 そんな破壊的な心境にまでなった。


 『奥多摩』など、名前が付いている地域はまだ都会のうちだ。山にはさらにその奥の奥の人の知り得ない世界が続いているのだ。地図上では、ここは山梨や埼玉の山地へと続き、その先は再び大勢の人が暮らす賑やかな街に邂逅かいこうするだけのことだが、山にはそんな二次元の距離では測れない深い深い異次元空間がある。それをこうして今、思い知らされているわけだ。


「そんなにビビりなさんな。俺らにとっては、普通に通いなれた道だよ。ここを通って新宿や渋谷にも行くんだからな。山暮らしの人間には平坦なアスファルトの道と大差ない」


 運転者には、俺が絶望的な気持ちを抱いていたことなどお見通しだった。よほど酷い表情をしていたのだろう。彼の軽口で一気に現実へと引き戻される。


 俺はただ、赴任先の学校がある村へ向かっているだけだ。同じ都内であっても、実家から通うには距離があるため、下宿しなければならない。俺に部屋を間貸ししてくれるという親切な住人が、わざわざ最寄りの駅まで迎えに来てくれたのだ。あれが最寄りと言えるかどうか……。駅を出発してかれこれ一時間、未だこうして車に揺られているわけだが。

 しかしその負担は同乗者の俺より運転者のほうが遥かに大きいはずだ。感謝こそすれ、ただ助手席に座っているだけの俺がまるで地獄へ引き連れていかれるような顔をしているなど、あまりにも失礼な話だ。


「すみません。こんな山道に慣れていないもので……」


 まだ蒼褪めた顔で弱々しく呟いたのが、余計に運転者の心配をあおってしまう。


「そうだよな、悪かった。俺は慣れているからいいが、初めてこんな道を通る人にはいつ転落するか分からないって恐怖があるだろな。もう少し気遣ってゆっくり走らないといけないよな。どっちにしても転落する確率は同じだけどね」


 笑えない冗談を言いながら、運転者は速度を緩めた。しかしいくらスピードが落ちても、車幅ぎりぎりの細い砂利道から、窓のすぐ外に落ち込んでいる急斜面の針葉樹林の中へ、いつ転げ落ちていくかという恐怖はぬぐえなかった。


 おそらくこの恐怖は、学生生活も終わりを迎えようとしていたあの時から始まっていたのだ。





「島流しならまだしも、山籠りとはな……」


 先ほどから同じことを何度も呟く俺に、はじめは同情的だった同級生たちも「いい加減にしろ」というさげすんだ目を向ける。


「分かった! 分かった! タクミ、お前の気持ちは、よーく分かったよ!」


 もう聞きたくないというのが、アツシの言葉にはっきりと表れているのは分かったが、俺はどうしても気持ちが収まらない。


「島なら二、三年で帰って来れるさ。通過儀礼だからな。しかし、聞いたこともない山奥の村なんて。しかももう数十年、教員の異動なんて無かったところなんだぞ! 俺は二十代、いや三十代、下手すりゃ一生その山奥に身をうずめることになるんだ」


 自分でも、随分と大袈裟おおげさなことを言っていると思った。しかしその反面で、自分の言葉が呪いの呪文となって、その通りになってしまうのではないかという妄想も抱いていた。


「エリカは何て言ってた?」


 俺は突然彼女の名前を出されて、余計に腹立たしくなった。


「エリカ? この辞令が届いたときに別れを告げたさ。彼女まで巻き込むわけにはいかない」


 きっと、俺はそんな言葉の裏で、度重なる悲劇を分かってくれと友人たちに訴えたかったんだと思う。そんな浅ましい考えは、学生生活を共にしてきた仲間にはすぐに見抜かれた。


「ひでえな。エリカも何でそこまでと思っているだろうよ。お前のショックも分かるが、卑屈になり過ぎだぞ。山奥って言っても、東京の一部なんだ。もう少し落ち着いてよく考えろよ。

 難関の採用試験も通って、自分の住んでいる東京で教員になれるんじゃないか。そりゃ、最初から都心の学校に赴任できるわけないさ。若くて体力があるってことで、ほかの教員が行きたがらないところに回される。

 けれど、都心の学校は、いろんな事情の子どもが集まってくるからな。問題も山積みだ。

 田舎の子どもは、閉鎖的な場所にいるだけあって、純粋だよ。その分、教員としてのやりがいはあるんじゃないか? 新任教員が勉強するにはうってつけのところだ」


 地元、長野での採用が決まったアツシの言葉には説得力がある。いや、俺の言葉は裏を返せばアツシの故郷を馬鹿にしているようなものかもしれない。俺を慰めているようでアツシの言葉に多少刺々しさがあることに気付き、俺は愚痴をこぼすのを止めた。


「アツシの言う通りだな……。自然豊かな場所で、素直な子どもたちに囲まれて、教員生活のスタートを切れると思えば、俺はラッキーなのかもしれないな」


 アツシの気持ちを察してそう言ってみたものの……。やっぱり絶望的な気持ちは消えなかった。



 東京都の教員採用試験を合格し受け取った通知には、生まれた時から東京に住んでいる俺にもまったく聞いたことのない名前の村だった。東京も広いので、耳にしたことのない名前の村や町が存在することは当然だ。しかしその村は、奥多摩のさらに奥の山地に存在し、その村までたどり着く公共の交通機関は無いに等しいらしい。

 教育委員会の人間にも、その存在を知っているものはほとんどいなかったそうだ。


 東京都で採用されると、新人が伊豆諸島に配属されることはよくあることだ。数年我慢すれば、本土へと戻ってこれる。経験を積むための通過儀礼という暗黙の了解があった。

 しかし、俺の場合はその例とは全く違った。

 委員会によれば、その村は特殊な地域で、数十年教員の異動が無かったそうだ。過疎の村のため、教員の数は少ない。数十年間、同じ教員が勤めていたということだ。今回、その一人が定年を迎えた。それに伴っての配属なのだそうだ。

 そう聞いただけでも、そこがいかに閉鎖的な地域か想像がつく。しかも、一度そこに行ったら、いつ異動があるのか全く見当が付かない。


 慣れた故郷に帰るアツシとは、まるで条件が違うことは明白だ。

 アツシの手前、納得する振りをしてみたものの、俺の不安はますます大きく膨らんでいった。





 ヒヨリヶぶち


 名前すらも不気味だ。誰かひとりでもこの村のことを知っている人がいれば、俺の不安はだいぶ和らいだだろう。しかし、委員会でも、両親やその年代の知り合いも、果ては地域の物知りの老人でさえも、誰も知っている人は居なかった。もちろんインターネットで検索しても出てこない。せめて都市伝説的なものでも情報があれば、まだ救いだったろう。調べれば調べるほど、俺の不安は増すばかりだ。

 最高潮の不安を抱えたまま、俺は赴任する日を迎えた。


 引っ越し業者がその村までたどり着くこともできないだろう。郵送が出来るかどうかも分からない。そんなことを見越してか、向こうでは俺が身ひとつで行っても暮らせるように、下宿先の家を手配してくれていた。



 迎えに来てくれた下宿先の主 ―― 日和原ひょりばら修一と名乗った ―― に会ったときには、得体の知れない俺の不安は和らいだ。どこにでもいる普通の気の良さそうな中年男性だ。農家の男性らしく、野球帽に短く揃えた白髪交じりの頭髪を隠し、アイロンの掛かっていないよれた、しかし吸水性の良さそうなポロシャツと、グレーの作業ズボン。履き古してあちこち擦り切れたスニーカーといったいで立ち。何かの作業の合間にやってきたのか、腕をまくり首にタオルを引っ掛けたままだ。客人を迎えるという意識のあまりない姿に、かえって緊張が緩んだ。

 修一さんは、それほどおしゃべりではないが、時々俺の気持ちを和ませようと俺について質問したり、村のことについて教えてくれたりした。

 まだ街中を走っているときには、そんな会話を楽しんでいたが、家屋の姿が消え、道ともいえない道へと入り込んだ辺りから、俺は修一さんの話もうわの空で聞くようになり、このまま異次元空間へと連れ去られ、二度と戻ってこれないのではないかという恐怖心が込み上げてきたのだ。


 馬鹿げているだろうが、そんな妄想を抱いてしまうほど、その辺りの山地には異様な空気が漂っていた。


 やがて修一さんの軽は地獄の山道を抜け、割と道幅のある緩やかな下り坂へと入っていった。相変わらずの悪路で車は左右前後に激しく揺れるが、転落の心配が無くなったことで、俺の恐怖心は一気に引いていった。

 下り坂の先に民家が見えて来たときには、ようやく悪夢から目覚めることが出来たと思った。

 アスファルトではないが、広くならされた砂利道の両側に民家が何軒も並んでいる。どれも古い木造家屋だが、似たような造りの家が通りに沿って整然と並んでいるさまは、小京都という雰囲気を醸し出していた。

 民家の前には談笑するお年寄りや、ベビーカーを押して通りを歩く若い主婦の姿も見かけた。

 春休みということもあって、集団でたわむれている子どもたちもいる。


 意外にたくさんの民家があることと、、街中と変わらない人々の営みがあることに、俺は安堵した。地図にもない、鉄道の駅から二時間も掛かる山奥だということを忘れてしまえば、そこは地方でよく見かける素朴な集落だ。


 目抜き通りをしばらく行って、右側に少し戻るような形で折れている細い道へと入り、その正面に広い庭と納屋を持つ立派な民家があった。

 そこが日和原ひょりばら家だった。

 軽はそのまま庭に滑り込み、無遠慮にそのど真ん中で停まった。


「さあ、先生。ようこそヒヨリヶ淵へ。ここが今日から先生の住まいだ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ