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必修単位

作者: ゆな

あぁ。なんで私はこうなんだろう。左腕に光る腕時計を睨んで文香は大きく頭を垂れた。力ない指先がかろうじて握っているのは今日提出の課題だ。

そう、まさに今日、午後6時、たった今、締切が過ぎたところの、課題。

はあぁぁああああ。息も吐き終えて、終わりはほとんど声だけになった、本日何度目か分からないため息をつく。もう少し。もう少し私の注意が足りていれば。この努力も無駄にならずに済んだというのに。 もう自己嫌悪なのか自虐心なのか自暴自棄なのか、あるいはそのすべてなのか(たぶん全てだと思う。)分からないが、自分に心底失望していることだけはよく分かった。

このばか者。低能。あんぽんたん。

できることなら今すぐ、この場で自分に渾身の右フックを決めてやりたい。もしくはこのいかにも硬そうなレンガ造りの壁に思い切り頭を打ち付けて頭蓋骨をかち割ってやりたい。(そしたら人生やり直せるかな。) なんて言いつつ、実際にはそんなことやらないのが私という人間なのだ。結局は自分が可愛いのだ。自分に罰を与えられないのだ。

文香は項垂れた上半身を持ち上げ、今度はぼんやりと西の空を眺めた。 陽が遠くの山の向こう側に隠れて、山の際をキラキラと黄金に光らせる。その黄金がだんだんと光を失って朱色を帯び、東の空に向かってピンクのグラデーションを作っていた。 どこかでカラスの鳴く声が響く。夕焼けとカラス。なんて趣のある組み合わせ。頭の隅で皮肉を呟いてみるが、それが何の意味ももたない虚しい行為だとすぐに気づく。


「…必修単位、とんでったなぁ…」


分かりきったことを言葉にしてみると、急にその事実が現実味を帯びてきて、文香は眼球の裏までせり上がってきた水分を零すまいと、くっと息を詰めた。 泣いたってどうしようもないのだ。よけい虚しくなるだけだ。だからいい年してこれぐらいのことで泣くな、泣くな、泣くな。 そう言い聞かせれば言い聞かせるほどに、ますます体内の水分は眼球に集まってくるみたいだった。今瞬きをひとつしようものなら、幼子のような大粒の涙がマスカラを落としてしまうに違いない。

でも、こうして泣きたくなるくらいには一生懸命考えた課題だったのだ。締切に間に合うよう、余裕をもって仕上げていた。後は印刷して、教授の部屋まで届ければ完璧のはずだった。 なのに。課題の提出期限が一週間前になって突然、一日早まったのだ。そんなの聞いてない。教授だって言わなかったじゃないか―。

下唇を噛みしめ、涙が零れないように空を見上げると、文香の上空のピンク色はすでに西の山に吸い込まれ、取り残された雲のかけらが紫色の空に心細げに浮かんでいるだけだった。 …そうだ、これは突然早まった期限のせいでも、教授のせいでもないのだ。ただ私が掲示板の張り紙にもっと注意を配っていればよかっただけのことで。

すん、と鼻を鳴らして息を吸うと、溢れんばかりに両瞳にたまっていた涙は不思議と引いていった。

暗くなってきたし、そろそろ帰ろう。お夕飯の材料、何か冷蔵庫にあったかな…とワンルームの部屋に思いをはせながら立ち上がる。すると、目の前の講義棟から出てきた男と目が合った。


「あれ、柳沢さん?なにしてんの、こんなとこで!」


その男―小泉優斗は文香を見つけると、くるんと大きな瞳を一層大きく開いて小走りで近寄ってくる。 白目が透き通った大きな瞳といい、よく通る快活そうな声といい、その整った顔の造形が作り出す表情といい、何をとっても大学3年生の男には似つかわしくないよな、と文香は思う。


「あー…ちょっとね」

「あ!分かった!それ、今日提出の課題でしょ!まだ持ってるってことは、もしかして柳沢さんもオレと同じ、間に合わなかった組か~」


手に持っていた書類を指さして言われ、うっ、と声を漏らす。


「昨日徹夜して急いで書類書いたのにさ、バイト行ってたら締切過ぎちゃって。本当、参ったよな~」


ははは、と後頭部を掻きながらあっけらかんと笑う小泉優斗は、単位を落としたことなど微塵も気にしていない様子だった。 文香はあわてて思う。待て、お前と私は違う。いや、締切に間に合わなかったという点においては百歩譲って同じだけど、そもそも私は三日前には仕上げていたし、今回は提出期限を知らなかっただけで―。 そう反論しようと口を開くが、結局言葉はのど元に詰まって出てこなくて、その代わりに重いもやもやになって胸の底に沈んでいった。


「…まぁ、私もそんなところ。それじゃ私、帰るから。またね。」


はぁー、と大きなため息を吐き出して、まだ会話を続けようとする小泉優斗を横切る。こいつとこれ以上喋れば、この疲れ切った心がさらにずっしり疲れを背負うことになる気がした。 さっさと帰ろ。駅前のスーパー寄らなきゃだし。そう心の中で考えながら、課題を胸に抱きしめて歩き出す。


「えっ、待ってよ、柳沢さーん!」


後ろで小泉優斗の若い声が聞こえる。だからお前は、なんで単位落としたのにそんなに明るくいられるんだよ。こちとらさっさと帰って今日起こった全部をシャワーで流してしまいたいというのに。

それでも一応「なに?」と顔だけ振り向いてそっけない返事をする。すると。


「来年もこの授業、一緒にとろうな!」


と満面の笑顔で手を大きく振りながら言う小泉優斗がいた。


「はいはい。またね。」


相も変わらず私の返事はそっけなくて適当なのに、小泉優斗は満足したのだろうか、目をくしゃっと潰して「またなー!」と言って去って行った。

本当に子供みたいで変な人。大学3年生にとって必修の単位がどれほど重要で取得するのが難しいか、あいつは全く分かっていないに違いない。なーにが「一緒にとろうな!」よ。どうせノートのコピーが欲しいだけに決まってる。あんな奴。


「ばーか。」


吐き捨てるように小さな声で言って、文香は胸に抱えた分厚い書類に目をやった。


「…ばかなのは、私もかぁ」


思わず口元がゆるみ、はは、と笑いをもらす。講義棟横の大きなダストボックスに書類を差し込むと、ばさっ、と中で書類が散らばり落ちた音がした。しかたない。来年こそ、ちゃんと提出して単位をもらおう。文香はそう強く心に誓い、暗くなった家路を歩いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 現実に引き戻されました。 [気になる点] 現実に引き戻されました。 [一言] なんと恐いことを素敵な文章で書くのでしょう。 私は今試験を控えてるもので… 必修単位、とんでっちゃうの!? …
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