よぶこえ・前編
今日も清々しい程に、真っ青な空から太陽が夏陽町を照りつけている。外を歩けば5分としないうちにじわりと額から頬へと汗が伝い、風なんて吹こうものなら生温く涼めるはずもない。しかし、誤解を招かないようあらかじめ言っておこう。こんな暑苦しい気候は、夏陽町では365日訪れるものであり、現在の季節はれっきとした【春】であることを。
「ふおー……今日も干上がっちゃいそうですなぁ」
眩しい。
見上げれば今日も変わることなく、焦げ付くような陽射しが榊山そらを照らしていた。
―カランカランカラン。
学校から30分くらい歩いた先にある、1件の店で彼女はバイトをしている。といっても通い始めてまだ1ヶ月程度だが。
お店の扉の前まで到着すると、ドアノブに手をかけゆっくりと開く。因みに、この店に名前はないらしい。バイト希望をした時に店長からそう告げられたのだ。
「先生ー! おはようございますー!」
名のない店の新米アルバイトである彼女は、ドアノブを握り締めたまま扉をゆっくり閉めると、元気よく挨拶の言葉を放った。しかし、彼女の予想していた声は返ってこなかった。
「…あのー先生ー? さっちゃんですよーバイトがきましたよー? おーい!」
相変わらず彼女が先生と呼ぶ相手からの声が返ってくることはなく、彼女の声が虚しくも店内に溶けてゆくだけだった。外はといえば我関せずとでも言い張るように、懸命に蝉が鳴き声を上げていた。
「…おっかしいなー。先生がお店開けっ放しで外にいくわけもないし…、はっ、もしかして先生私をおいておさぼりを…」
なにこれ名推理! とでも言わんばかりに片手で口を押さえ一人百面相をしているその姿は、一体周囲に人間がいたらどう映るのだろうか。
すると、そんな彼女を現実に引き戻すつるの一声が店の奥からようやく聞こえてきた。
「榊くん、こっち」
姿はないが確かにその声は彼女が【先生】と呼ぶ人間のものだったようだ。百面相からぱっと笑顔に変わり、声を頼りにいくつもある店内の扉を開いていく。
そうして2つほど開き終えて、3つ目の扉にドアノブに手を伸ばした時だ。
「足元に気をつけて入ってね」
扉の向こうから確かにそう聞こえた。3度目の正直、とはこのことか。少しだけビックリ箱を開ける時のような緊張感を胸に潜ませつつ、そらはぐっとドアノブを握り締め扉を開いた。
「…あれ?」
しかし、箱の中身はカラだった。
誰も、扉の先にはいなかったのだ。扉を開いたそらの視界に飛び込んできたのは、まるで部屋を細かく仕切るかのように並べられた自分よりはるかに背の高い本棚たちと、無数に床に散りばめられた本だった。
図書館を切り取ったような部屋。そらはそんな印象を受けた。
けれど、肝心の【先生】がいない。声は確かに聞こえたはずなのに、肝心の姿が見当たらないのだ。いくら部屋を見渡しても本棚、本棚、本棚……。
「先生ー…?」
「あっ」
少し不安になり、呼びかけながら扉の近くの本棚の前を歩き始める。すると、頭上からその声は聞こえた。
「え?」
声の聞こえた方を仰ぎ見ると、その方向の先にあるのは天井と、今まさに落下してきている本だった。
それがわかったところで、時すでに遅く避けることもできず落下してくる本は思わず俯いたそらの後頭部へ着地した。
「…っいったぁー…なんで上から本が…」
本を受け止めた後頭部を片手で撫でながら、空いているもう片方の手で床へ寝そべる本を拾い、落ちてきた方向をもう一度見上げる。
そこでようやく、ビックリ箱の中身をそらは発見することができた。
「あーごめんごめん」
そんな気持ちいい程軽い謝罪が、見上げた先にある本棚の天井部へ腰を下ろしていた【先生】こと、【宮野夏目】によって与えられる。
「ごめんごめんじゃないですよー! 私がお客さんだったらどうするんですかー?」
「うまく避けるさ、君は少々鈍臭い」
冗談っぽく頬を風船のようにふくらませて問いを投げるそらに、夏目は少々呆れ気味に小さなため息を混ぜ込み皮肉っぽく告げた。
話を聞くと、夏目は探し物をしていたらしい。見れば確かに彼が座っている本棚には、業務用の大きな梯子が立てかけられていた。
「とはいえ、なんで本棚の上にいるんですか先生…」
「まあいいや、おはよう。お茶出すからそれしっかり閉じて持っててね」
あぶないですよ、と付け足して夏目に言葉を投げかけたそらだったが梯子を伝い降りてくる夏目から返ってきたのは少し前に自分が投げかけた挨拶への返事だった。
「うわあスルー! でもいただきます!」
一瞬しょぼくれるそらだったが、【お茶】という言葉を聞いて動きが止まる。考えてみれば、先程まで焼け付くような暑さの下30分は歩いてやってきたのだ。そんな彼女の体は当然汗だくだった。つまり水分を欲している。
それゆえにそらは、夏目からの好意であろう言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべ力いっぱい頷いた。
*
「あ、それと…それ、その本、絶対に開いちゃだめだからね」
梯子を壁へ立てかけ、床に散らばっていた本を拾い集めながらそう告げた。【その本】とは、恐らく先程そらの頭上へ着地し、今は彼女の腕にしっかりと抱きしめられている書物のことだろう。夏目に忠告され、改めて視線を落とせば所々きつね色に色褪せ少々古びた表紙が目についた。
「これって一体なんの本なんですか?」
しかし、その問いに答えが返ってくることはない。夏目はといえば、未だ黙々と本を拾い続けている。拾っては腕の中に積み上げ、拾っては…の繰り返しだ。
『一人で出来るからそこで待ってて』
手伝おうかとしゃがみこんだ手前、そう言われた彼女はしゃがみこんだまま手持ち無沙汰に眺めているだけだった。しかし、忠告が余計に好奇心を煽ったのだろうか。自分の腕の中にある1冊の本が、そらは気になって気になって仕方がなかった。
(あぁ言われると、開きたくなっちゃうのが人間の本能だと思うんですけど…私だけ?)
そらが心の中でそう呟くと、拾い終わったのであろう夏目は屈んでいた体勢から腰を上げて立ち上がり、積み重ねた本を脚立の足元へ置いた。そしてそらのもとへ戻るなり、まるでそらの心の声を耳で聞き取ったかのように夏目は小首を傾げつつ口を開いた。
「…別に開いてもいいけど、」
しかし、その言葉はどこか曖昧だった。だが、気になって仕方がなかったそらは最後まで聞くことなく食いつく。
「え、いいんですか!?」
とてもキラキラした視線が自分へ向けられていることに気づき、夏目は少々困ったように視線をそらすと無造作に彼女の頭をくしゃりと撫でた。その突然の行為に一瞬呆然としていると、次の瞬間。夏目は本日初めてだと思われる程いい笑顔で告げた。
「呪われてもいいならね」
炎天下とも言えるであろう今日この日。そらは初めて、サーっと体中の血の気が引き寒気が体を包むのを感じ取った。そして、数分してようやく停止していた彼女の思考回路が復活する。
「なんてもの持たせるんですかー!」
涙目で訴えるそらに、夏目はなにくわぬ態度で告げた。
「君が勝手にキャッチしたんだろう。頭で」
皮肉にも等しい言葉だったが、正論であるためそらはただ「うぅ…!」と困ったように小さく呻くしかなかった。
そらの思考回路が復活したのを確認すると、ドアノブをひねり扉を開き先に出るように促し、彼女が出たのを確認すると自らも部屋を後にした。
この店には、入口の扉を開けると少し歩いた先にテーブルと椅子、そしてテレビの3つで構成された憩いのスペースがある。まるで、ちいさな診療所のようだ。
2人はお茶を飲むためその場所へ向かい、廊下を歩いていた。
「あけないの?」
まるでそらの抑制心を試すかのように、夏目は訊ねると含み笑いをこぼした。
「なんてにやついた顔! いじわるですよ、いじめいくないです!」
「そんなににやついてないよ」
夏目の問いにあわてて必死に訴えるような反応示すが、彼は至って冷静に表情について訂正をするだけだった。
しばらく歩いていると、そらの為に1室空けて用意された従業員用の部屋の前にさしかかる。荷物を置いたり着替えたりする時に使うよう用意してくれたものだ。
「それじゃあいつものように、ちゃんとエプロンつけて準備してね。バイトさん」
「はーい!」
元気のいい彼女の返事が、かすかに外から聞こえてくる蝉の声に混じり溶けるように消えていった。
*
―カラン…―
氷の入ったガラス製のコップに先程まで冷蔵庫で冷やされていた麦茶が注がれると氷は軋み、麦茶に揺られることで溶け始める。すると氷同士が擦れ合いコップにぶつかり、それによって生み出される音はとても涼やかだ。
「探し物…それがこれですか」
ずっと自分が抱えていた本をテーブルに乗せ、椅子に腰を預けた状態で眺める。言われてしまうと、なんだか気味が悪く思えてしまう。言葉の力は不思議だ。
「中身、みた?」
「み、みてませんよ! 呪われたくないですもん!」
ぶんぶんと力強く首を横に振るそらに、夏目は小さく笑うと麦茶が注がれたコップをそらに差し出した。
「はは、嘘だよ。それ」
小さくお辞儀しながらコップを受け取ると、告げられた言葉に唖然とする。
「へっ」
「呪われたりしないよ、その本は」
そらがコップを受け取ったのを確認すると自分の分の麦茶が注がれたコップを片手に彼女の向かいの席に座る。コップを置くと、そらの前に置かれた本を静かに取り軽くページを数枚めくる。少しして再び閉じと今度は自分のそばへ本を置いた。
「あの、あの! 呪われないんですか?その本…」
心配そうに夏目の顔を向かいの席から覗き込んでくるそらに、夏目は大丈夫、と頷いてみせた。
「君、呪いとか信じてるの?」
「へ?いや、なんかそうなったら嫌だなあーっていう感じでしょうか…これって、信じてるうちにはいるんですかね?」
「いや、いいことだよ。あまりおまじないとかやらない子だろう」
「つ、続かないです…」
あぁ、となにかを察したように頷く夏目にそらはいたたまれなくなりテーブルに顔を伏せるように預けた。
「過程がめんどくさいんだね」
「結果を待つのも面倒です…」
微かに笑いを堪えているような声が聞こえた気がしたが、そらは聞こえないことにした。
そんなやり取りから少しして、夏目がふと話を戻す。
「この本は、むしろ願いを叶えてくれる」
「願い…ですか?」
そらが顔を上げると、その先には少し困ったような笑顔を浮かべる夏目がいた。
「…先生?」
「まあでも…」
そう夏目が言葉を濁した時、少し離れた店内の入口玄関付近に設置された少々古い電話機の着信を知らせるベルが店内に響き渡った。
「お電話ですね」
「ちょっと待ってて。出てくるから」
「はーい」
そう告げると、夏目は席を立ち着信を知らせる電話機の元へと少々足早に向かった。
その間そらはといえば、待ってる時間をどうするか考えた結果そばにあったテレビのリモコンを手に取りそう遠くない場所に設置されたブラウン管に向けて【電源入/切】と表記されたボタンを押した。微かな静電気が発生する音と共についたブラウン管のスピーカーと映像から流れてきたのは、とあるニュース速報だった。
時刻は正午。蝉は未だ懸命に鳴き続けている。
電話機本体から受話器を静かに取ると、夏目は穏やかな口調で電話応対の決まり文句を告げた。
「もしもし、宮野です」
*
時は少し遡る。
「バイトかぁ…」
まだまだ日差しの強い午前10時。夏陽町駅から15分程歩いた先に存在する神里高校の教室の一角にて、榊山そらは悩んでいた。
「バイトがなんだって?」
教室の窓際でうなだれているそらへ、背後から声がかかる。振り向くとそこには、彼女のよく見知った2人の人物が歩み寄ってきていた。
「愛ちゃん! それに翔太も。おはよーう」
先程声をかけたのは、【愛ちゃん】と呼ばれる女子生徒で名前は【軒本愛李】―艶やかな腰まである黒髪と、その下からのぞく白い肌が目をひいた。
もう一人の翔太と呼ばれる男子生徒は、【清水翔太】―中性的な顔立ちと、はちみつ色の短髪が印象強い。この2人はそらとは長い付き合いでいわゆる【幼馴染】という関係らしい。
そらの人懐っこい笑顔に頬を緩ませつつ、愛李は適当に椅子を引けば腰を下ろしそらに向けて問いかけてきた。
「で、なーに? バイトでもしたいの?」
それを聞きながら、翔太も同じように椅子を引いてくれば、背もたれに肘を置くようにして腰を下ろした。
「うん。愛李ちゃんもそうだけどクラスの子も何人かバイト始めてて、いいなーって」
「そう? 疲れるだけよ。お金は入るけど」
「なんか青春っぽい!」
そらの青春の定義がいまいちつかめない愛李は不思議そうに首を傾げると、視線を翔太に移した。
「ねぇ、翔太ー」
「んあ?」
「あんたサッカー部よね、確か」
「そうだけど」
愛李の問いに対して翔太はシンプルに答えると、彼女は再びそらへと視線を戻した。
「私だったら、青春といえばどっちかっていうと部活のイメージ。なんだったら、そらもなにか部活始めてみたら?」
部活か、と少し考えてみるそらだったがすぐに考えるのをやめた。
「あーだめ、私中学の時部活入ってたけど長続きしなかった」
再びうなだれるように言うそらに、翔太が小さく吹き出した。
「あぁ、あったあった! こいつ、なにやっても続かなくてさ。自主的たらい回しみたいな感じで色々な部活を転々としてんの。どれもそれなりに出来るようになってからやめるもんだから、どの先生も慌ててさぁ」
「なんか出来るようになると、満足しちゃって飽きちゃうんだよねぇ」
その会話を眺めていた愛李はすこし考えたあと困ったような笑顔を浮かべ、軽く腕を組みそらに告げた。
「そら、あんたそれバイトでもそうなっちゃったらどうするの?」
…どうしよう。
今のそらには、その言葉しか思い浮かばなかった。
「でもやっぱりバイトしたい!」
思いの外、彼女の中のバイトへの興味は大きかったようだ。放課後になるやいなや一緒に帰ろうという友人2人からの誘いを「青春探してくる」という言葉で断り、颯爽と学校を後にする。取り残された愛李と翔太は、ただ顔を見合わせ首をかしげるほかなかった。
「しっかし、探すといってもどうしましょ」
とりあえず、学校の周りから探そうと思い歩き始めたそらだったが、あっという間に30分が経とうとしていた。バイトを募集していそうな貼り紙は一切見当たらない。無難なコンビニなども見て回ってみたが、やはり求人の貼り紙が姿をみせることはなかった。放課後とはいえ、今日もひるむことはない炎天下。制服は汗で肌にぺたりと貼り付き、体力的にもいよいよ限界がきていた。
「んー…っ、今日は諦めて帰ったほうがいいのかなぁ」
そう呟いて、まぶしそうに空を見上げた時。突然生温い風が勢いよく吹き、空を仰いでいたそらの顔面へ、1枚の紙が覆いかぶさった。
「ふおーびっくりした! なにこれ、えっと…」
顔に貼り付いた紙を無造作に取り、紙面に目を通す。すると【バイト募集】と大きな見出しが目に入った。その下には、雑貨店であること、勤務希望時間帯や募集人数、連絡先などが小さく記されている。これだ!と瞳を輝かせたそらは、考えるよりも先に走り出していた。
紙面の地図によれば、幸いにもその店の場所は、紙を拾った(?)場所からそう遠くない位置に存在していた。地図と何度も照らし合わせながら確認する。多分、間違いない。多分。
ある一件の建物の前で自問自答を繰り返さずにはいられない。
「ここ、だよね…? お店、のはずなんだけど…」
なんと、紙に記された店名が、目の前の建築物のどこにも見当たらなかったのだ。ただ、建物の中からもれる光だけが、今のそらにとっては希望だった。
建物と地図を交互に見る作業が何度も繰り返される。いったり、きたり。繰り返したって、看板は出てこないと分かっていても繰り返してしまう。
ここは本当に、紙に書いてあるお店なのだろうか?雑貨屋だというのに、看板も何もない。不思議というよりは、不自然だ。しかし、バイトがしたくてたまらないそらには、あまり関係はないようだった。
「…よし! 中の人に聞いてみよう。それで、違うならさらに道を聞けばいいし!」
そう自分に言い聞かせるように頷けば、目の前にある一枚の扉へ手を伸ばした。
「何か用?」
突然、涼やかな声が背後から降りかかり、そらは思わず扉へ伸ばした手を引っ込めてしまう。そして振り向けば、そこには大きなレンズの眼鏡をかけた一人の青年が買い物袋片手に立っていた。
「…あ」
「?」
なぜか、言葉が飲み込まれる。感じたことのない空気に、体が強張ってしまう。
「ここ、お店ですか」
なんとか振り絞って生まれた言葉は、ただそのひとことだった。その問いに、一度瞬きをすると、青年は答えた。
「あー…。うん、そうだね」
とても、曖昧な言葉。けれど、今のそらには十分だった。
「ここで働かせてください!」
「いや、いらない」
そして終わりも呆気なかった。悩むことなく彼は首を横に振ったのだ。
「な、なんでですか…!」
「特に困ってないから。それに、ここがなんの店か…君、わかっていないだろう?」
「え。雑貨屋さんじゃないんですか? やっぱり」
そらが不思議そうに告げると、青年はふっと笑みを零した。
「あぁ、そう。君にはこれが雑貨屋に見えるの? 俺だったら空家とか、そういう風に思うけど」
体中の温度が上昇していくのがわかる。さぞかし、今の自分の顔は林檎色に違いないとそらは心の中で嘆いた。
「いや! えっとですね…! ここに、雑貨屋さんってあったので…!」
必死に弁解しようと、いつの間にか握りしめてしまっていた紙を広げ差し出す。それが今のそらには精一杯だった。
「バイト募集…? これ、どうしたの?」
「拾ったんです。ここから少し離れた所で」
返ってきた答えにふむ、と頷くと青年は再び紙面へ視線を戻した。
「たしかに、ここであってるよ。場所」
「じゃあやっぱり!」
「ただ、」
ぱっと嬉しそうに見上げてくるそらに、青年は制すように告げた。
「これは何年か前の物だよ」
「へ?」
「このお店は、もう移転してるよ。ここは、その後しばらくして僕が買い取ったものだから」
「お、」
「?」
「お金持ちですね…!」
これは、自分でもさすがに何か違う気がしていた。しかし彼は、なにも聞いていないとでも言うように、更に言葉を続ける。
「ほら、この紙にも書いてある。募集期間のところ。【1991年】…ってことは10年以上前か」
もうそんなに経つのか、と呟く青年を他所にそらはただ目の前の建物を眺めている。
「…聞いてる?」
「はい!すごく不思議ですね!」
「うん、聞いてないよね。全然」
そらの見当違いな返答に、青年は深くため息をついた。
「で、なにが不思議だって? この店が、かい?」
「いえ、なんとなくお兄さんが」
まっすぐこちらを覗き込んでくる瞳に、青年は少し黙った後、すっとそらの隣を通り抜け、扉へ手を伸ばしドアノブに手をかけた。
「あっ!…やっぱだめですか…?」
「ひどい汗」
「え?」
ガチャリと金属の鈍い音を立てて扉を開けると、視線だけをそらに向けて告げる。
「おいで、お茶くらいは出してあげるよ」
「! ついでに雇ってください!」
「はいはい、保留保留」
開け放たれた扉の向こうからは、違う次元を感じさせるほど心地よいひんやりとした風が吹き、そらの頬を優しくなでてゆく。
「バイト希望なら、ちゃんと履歴書を持っておいで」
これが、榊山そらと青年、宮野夏目が初めて出会った頃の話である。
*
『今回のゲストはこのような事件を専門的に研究されている―…』
ブラウン管の画面の前に座り込み、そらは目の前のニュースに釘づけになっていた。手元のコップに注がれた麦茶の氷は、すでに液体と化している。
「こら、少し離れなさい」
そんなそらに、電話からもどってきた夏目が忠告の言葉を投げた。
「おかえりなさい、先生!」
体の向きを変えてそう笑顔で返すそらに、夏目はふと今まで抱えていた疑問を投げかけてみる。
「前から思ってたんだけどさ。その、『先生』ってなに?僕、君の先生になった覚えはないんだけど」
夏目の忠告通り、画面から離れるために立ち上がると、そらは彼の問いに首をかしげた。
「えっと、ですね。ほら、小説家で夏目漱石さんいるじゃないですか」
「彼をさん付けで呼ぶ女子高生も希少価値だね」
「はい?」
きょとん、と瞳を丸くしているそらに夏目は続けて、と促すと再び席へと腰をおろす。
「それで。なんか小説とか書くのってすごい頭使いそうじゃないですか」
「物によっては、それなりの知識も要するね。あとは経験とか」
「だから先生!って感じしません?漫画家さんとかも○○先生ーって呼んだりするじゃないですか!」
「まぁ、理屈はわかったけど…僕、漫画家でも小説家でもないじゃない」
納得しつつもいまいち腑に落ちないような表情を見せる夏目に、そらは更に笑顔で続ける。
「先生って頭良さそうなイメージなんですよ。いろんなこと知ってそうというか。ほら、本棚にだってあんなにいっぱい本が詰まってましたし。なんか憧れます!」
「…ふーん、そういうもの?」
「ですです!」
自信満々に頷いてみせるそらに、夏目はあまり悪い気はしなかったのか「そう」と返すと、片眉の眉尻を下げて小さく笑った。
「そういえば、お電話ってお客様からですか?」
「まぁ、そんなとこ。知り合いだよ。」
知り合いと聞き、そらはどんな人物なのか想像してみることにした。しかし、彼女自身、夏目と出会ってまだ一ヶ月程度。はっきりとしたイメージが出てくることはなかった。
「なんだか想像しにくいですね。先生の知り合いって」
「そう?なんていうか…少し、変わった研究者だよ。彼こそまさに『先生』なんじゃないかな」
「頭がいい人なんですか?」
「頭がいいっていうか、…まあ、いいんだろうな。うん」
そらの問いに、はっきりとしない様子で答えれば、未だニュース速報を映し出しているブラウン管へと視線を移した。
「なんのニュース?」
「いろいろやってましたけど、今のは多分…最近この近くで起こったなんとか自殺ってやつの特集じゃないですか?」
問いへの返答を聞き終えると、片肘をテーブルに乗せ軽く頬杖をつけば夏目は嘲笑に近い苦笑を浮かべた。
「自殺を特集に組むなんて、世の中沈むところまで沈んだものだね」
けど、それに食いつく傍観者がいるのも事実か。と呟けば、画面に表示されていた見出しに目がいった。
―高校生男女、白凪海岸にて連続投身自殺か―
「…白凪海岸?」
「はい、ここからすぐですよね」
「うん。そっか、あそこで…」
頬杖をついていた夏目の片手が、ゆるりと膝の上に落ちる。そして、少しの沈黙が訪れた。ただ耳に入ってくるのは、窓の向こうから漏れる蝉の懸命な鳴き声と、雑音と化してゆくニュース番組の討論の声だった。
まだまだ序盤ですが、皆様に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。