婚約破棄の慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします
「クレア・フェルナー。君との婚約は、今夜かぎりで破棄する!」
侯爵邸の夜会で、ギルバート・アシュバリーが胸を張った。
「次は、夫を立てて家のことに余計な口を出さない妻を迎える。祖母と結託して帳簿や行事の段取りをいじる女など、ごめんだ。婚約書の違約金四十枚は払ってやる。それとは別に慰謝料もくれてやろう。宝石でも屋敷でも好きに選べ」
エレノアお祖母様と一年かけて整えた仕事を、余計な口出しと呼ぶのか。
腹が立った。なのに私の口から飛び出したのは、ずっと胸の奥で諦めていた願いだった。
「では、慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします」
誰かのグラスが鳴った。
「……僕の祖母を、よこせと?」
「いいえ。人は贈り物にできません。私がお誘いしたいのです。エレノアお祖母様、私と一緒に暮らしていただけませんか」
広間の奥で、亡き前侯爵の夫人、七十三歳のエレノアお祖母様が立ち上がった。
「まあ、クレアさん。本当に? あの南向きの窓と、小さなお庭のあるお家へ?」
「はい」
「行きます! さっそく荷造りをしてきますわ!」
お祖母様はドレスの裾を持ち上げ、驚くほど軽い足取りで広間を横切った。
「そ、祖母上!?」
ギルバートが追いかけようとして、侍従の運んでいた銀盆を避けそこねた。客たちは盆と彼と扉を順に見て、誰からともなく吹き出した。婚約を破棄した当人だけが、顔を真っ赤にして取り残されている。
私だって、あれほど喜ばれるとは思っていなかった。
婚約していた三年間、お祖母様は私の働きを認めてくださった。使用人の勤務簿と給与明細の照合、春の行事に必要な仕立屋や花屋の納期調整。二人で整えた、その地味な仕事を孫は笑った。
思い返せば、お祖母様は母から相続した私の町家について、窓の方角や庭の広さを何度も尋ねていた。私にはただの世間話だと思えて、誘う勇気がなかったのだ。
「祖母上が本気でそんな古い家に住むものか!」
ギルバートが叫ぶ背後を、呼ばれた侍女たちが足早に通り過ぎた。手には空の旅行鞄を抱えている。
「金貨四十枚の請求書は、明日お送りします。宝石も屋敷も結構です」
彼が何か言い返す前に、私は一礼して広間を出た。
廊下の向こうから、お祖母様が荷造りの指図をする楽しげな声が聞こえた。
*
翌朝、私は母の遺した町家の書斎で、二枚の紙を並べた。
一枚は、婚約書どおり金貨四十枚を三十日以内にギルバート個人から支払ってもらうための請求書。もう一枚は、町家の修繕箇所の一覧だ。
過去の清算を終えるために封をし、これからの暮らしのために鉛筆を取る。領地の父にも、婚約解消と転居だけを報告した。
廊下を歩くと、床板が一枚、頼りなく鳴った。
二階建ての家には、私とお祖母様が一部屋ずつ使っても余裕がある。けれど長く人が住んでいなかったせいで、屋根の一部と二基目の暖炉には手を入れなければならなかった。一基は問題なく使えるので、寒さが残るこの季節でも当座は暮らせる。
私には会計と代筆の仕事がある。修繕代も、これまでの蓄えで足りる。
依頼状の宛先はレオン・アシュバリー。ギルバートの従兄で、お祖母様の実の孫。侯爵家本家から独立して働く建築監督だ。
婚約中、侯爵邸の工事でギルバートが職人の報酬を削るよう命じたことがあった。私は契約書を示し、約束した額は払うべきだと止めた。あのときレオンは、横で図面を支えながら、私の言葉を黙って聞いていた。日に焼けた手の甲に、白い傷が一本あったのを妙に覚えている。
以前の町家の点検を頼んだのも、お祖母様の紹介だった。今回は屋根と暖炉の修繕について、工期と金額を明記した見積もりを依頼した。
*
翌日の水曜日。私が馬車を用意して侯爵邸へ行くと、お祖母様はご自身で荷物を選んでいた。
衣服を入れたトランクと、生家の母と写った小さな写真。古い木製の裁縫箱には、角を何度も直した跡があった。
「立派な宝石箱もお持ちでしょうに」
「それは侯爵家に残すわ。こちらは、私が嫁ぐ日に母がくれたの。縫い目が曲がると、いつも笑っていた人よ」
蓋を開けると、中には色とりどりの糸が小さな巻き板に並んでいた。
お祖母様は一本を指で撫で、すぐに蓋を閉じた。
「これだけは持っていきたいの」
「もちろんです」
手早く荷造りを済ませたくて、私は飾り棚にあった、亡き夫と幼い息子の写真立てを包もうとした。けれど、お祖母様の手がその上に重なった。
「その写真は、ここに置いていくわ」
私は慌てて手を引っ込めた。運ぶ荷を決めるのは、荷主の役目だ。
私が運搬用の目録に書き入れている間、お祖母様は家令を呼んだ。
彼女が差し出したのは、使用人の勤務簿と、春の行事の工程表を束ねた二冊の綴りだった。
「明細の確認は会計係の仕事。工程の調整は家令の仕事。私はこれまで、二人の間を埋めていただけよ。不明な箇所は書面で知らせてください」
家令は綴りを受け取る手を止めた。
「大奥様。お戻りになるまで、ここでお預かりすればよろしいのでしょうか」
「いいえ。引き継ぎです」
その答えは明瞭だったのに、お祖母様の指は、綴りの表紙からなかなか離れなかった。
私は口を出さずに待った。
やがて彼女は、自分から指を離した。
「必要なことは書いてあります。分からない点だけ、知らせてちょうだい」
侯爵邸の鍵束も、金庫の鍵も、家令に渡す。個人名義の預金と国債は、そのままお祖母様のもの。帳簿を手放しても、暮らしの支えは失わない。
帰り際、家令がお祖母様を追いかけてきた。
「若様は、数日すればお気が済むだろう、と……」
お祖母様は馬車の踏み台に足をかけたまま、顔を上げた。
「いつ戻るかではなく、戻るかどうかを決めたのよ」
家令は答えられなかった。
町家までの馬車で、お祖母様は何度も窓の外を見た。広い侯爵邸の門が見えなくなってから、ようやく膝の上の裁縫箱に手を置いた。
「変なものね。荷物はこれだけなのに、少し怖いわ」
「引き返すこともできます」
思わず言うと、お祖母様は私を見た。
「そうね。できるのよね」
しばらくしてから、にっこりした。
「だから、今日はこのまま行くわ」
*
その週の土曜日。焦げた匂いで目が覚めた。
台所へ飛んでいくと、お祖母様が黒くなったパンを前に、眉間にしわを寄せていた。
「火加減を間違えたみたい」
「お怪我はありませんか」
「ないわ。ただ、見事な炭ができたの」
笑いそうになった私に、お祖母様は少し不服そうな顔を向けた。
「だって、私が自分で焦がしたのよ」
「え?」
「侯爵邸では、私が朝食の献立を決めても、パンを焼くのは料理人だったの。失敗したくても、させてくれなかったわ」
お祖母様は焦げた一枚を眺め、それから吹き出した。
「でも、次は食べられるように焼きたいわね」
私たちは焦げたパンを処分し、焼き直したものを半分ずつ食べた。侯爵邸の銀器はないし、机も小さい。南向きの窓から射す朝日を、お祖母様は何度も振り返った。
「そうだわ。お部屋の掃除は、いつすればいいかしら」
「毎日しなくても、誰も叱りませんよ」
「そうなの? では、掃除する日を私が決めます」
お祖母様は大まじめに頷いた。
食後、彼女は自分名義の口座から食費と暖房費の半分を支払った控えを見せてくださった。家賃はいただかないと決めたが、それ以外の生活費については二人で話し合い、簡単な覚書にした。どちらも望めば同居を終えられる。そんな当たり前の一文を、お祖母様は大切そうに読み直していた。
「借りを作るのは嫌なの。ここは、クレアさんだけが私を養う家ではないでしょう」
「はい。二人の家にしたいんです」
「ではね、カーテンは黄色にしたいわ。あの窓に、きっと合うの」
私は頷き、彼女が選んだ布の見本を窓辺に当てた。
午後にはレオンが、正式な見積書と補修の図面を持ってきた。
「屋根を先に、暖炉は部品が届いてから。再来週の土曜日までには両方終えます」
「費用は、この額ですね」
「はい。手を抜かずに済む、最低限の見積もりです」
私は金額を確かめ、屋根の補修を先行させる工程で発注した。支払いの時期も、書面に書き入れる。
レオンは、私が書き終えるまで急かさなかった。紙の端を押さえる日に焼けた指に、以前見た白い傷がある。図面を覗き込んだ拍子に肩が近づき、思いがけず鼓動が速くなった。
そんな様子を、お祖母様が居間の入口から見ていた。
「レオン。あなたも、この家の窓が気に入った?」
「お祖母様。お元気そうで何よりです」
「話をそらさないの。それから、もう一つ。あなた、私が本邸で何をしていたか、知っていたのでしょう」
レオンは図面を畳み、少しの間黙った。
「知っていました。家令の仕事までお祖母様が引き受けていると」
「言わなかったわね」
「本家には口を出さないと決めていました。でも、それを理由に何もしなかったのは、俺です」
お祖母様は、しばらく彼を見ていた。
「私も、自分から助けを求めなかったのよ。だから、責めるだけにはしないわ」
それきり、黄色い布を持って窓辺へ戻ってしまった。
レオンは私に向き直り、工事の邪魔になる家具の位置を尋ねた。勝手に動かさず、私が答えるのを待っている。
彼には、口を挟まなかった過去がある。それをお祖母様の前で言い訳しなかったことが、私は嬉しかった。
図面を押さえていた彼の指が離れると、少しだけ惜しく思った。こんな気持ちを抱くことに、まだ慣れない。
*
翌週の水曜日、侯爵邸から使いが来た。
「大奥様にお取り次ぎを。使用人の勤務簿と給与明細で数字が合わず、家令が困っております。それと、春の行事の仕立屋と花屋の納期が重なってしまい……」
使いは、照合が必要な部分を写した紙と、一通の封書を差し出した。
封書にはギルバートの筆跡で、気晴らしはもう十分だ、戻って当然の務めを果たせ、とあった。
お祖母様はその一筆を見ても怒らなかった。ただ、「給与が遅れるかもしれない」という使いの言葉に、顔色を変えた。
「お給金が遅れるの? あの人たちは月々の暮らしがあるのに」
「明後日の支払日までに数字を合わせなければなりません」
お祖母様は椅子から立ち上がった。
「私が一度、邸へ戻って――」
「お祖母様は戻りません!」
言った瞬間、私は自分の声の強さに驚いた。
使いより先に、お祖母様が私を見た。目の前の人が突然遠くに行ったような、寂しそうな顔だった。
私は、自分が何をしたのか気づいた。
ギルバートは祖母の暮らしを勝手に決めようとしている。私はその反対を望んでいる。けれど、望みが違うだけで、本人に答えを言わせないところは同じだ。
「……申し訳ありません。今のは取り消します」
使いにも聞こえるように告げ、私はお祖母様の前を空けた。
「どうなさるか、お祖母様が決めてください」
お祖母様は長く息を吐き、使いの持ってきた紙を受け取った。
「給与は遅らせたくないわ。でも、住むところまで戻す必要はないのね」
私ではなく、使いに尋ねる。
「ええ。数字の不一致が分かれば、会計係で支払いはできます」
「では、今日はここまで。明日、分からない箇所だけ回答を書きます。私は邸へ行きません」
一度だけ。書面で。自分の住まいは変えない。
お祖母様は一つずつ条件を確かめ、決めた。
「行事の工程は家令に組み直してもらってください。専任の補佐も要るでしょう。そのことだけ、ギルバートに伝えてね」
使いが帰ると、私は改めて謝った。
「お祖母様のためと思うと、つい先に決めたくなるんです」
「私も、誰かに頼まれると、何でも引き受けてしまうの。似ているのかもしれないわね」
笑われて、ようやく私は顔を上げられた。
翌日、お祖母様は午前中いっぱい机に向かい、給与の照合で間違えられた箇所だけを書き出した。元の勤務記録の頁番号も添えて封をする。家令への回答はそれで終わり。会計係の代わりに給与を決めたり、送金したりはしない。
封蝋が冷えるまで、お祖母様はそれを見つめていた。
「これを送り出したら、本当に私の手を離れるのね」
「はい」
私は、それ以上何も付け足さなかった。
*
金曜日、家令から返事が届いた。記録の差異は解消し、使用人全員の給与は、予定どおりその日に支払われたという。
お祖母様はその知らせを二度読んでから、庭へ出た。
冬の終わりの土はまだ冷たい。けれど南側の塀の根元には、小さな芽が一つ顔を出していた。
「帰らなくても、できたのね」
お祖母様が呟いた。
「全部、自分でやらないと、誰かが困ると思っていたの」
私は隣に椅子を運んだ。
庭の端で金槌の音が止まった。補修に来ていたレオンが工具を置き、私たちを見て軽く会釈すると、家の反対側へ回った。
「クレアさん。私ね、二十三であの家に嫁いだのよ。ちょうど、今のあなたと同じ年齢」
お祖母様は少し遠い目をした。
「豪華な部屋をもらって、皆に大切にされたわ。それでも、いつか小さな家で、朝食を焦がしたり花を植えたり、自分で一日を決めてみたかった。子どもが生まれ、夫が病み、年老いた家人の世話が重なって、そのたびに今ではないと思ったの。私が選んで残った時期も、たしかにあったわ」
「夫を看取って八年たっても、誰も仕事を引き継がなかった。私がやらなければ、と言い続けるうちにね。必要とされなくなったら、自分に何が残るのか、怖くなったのよ」
お祖母様の膝には、裁縫箱から取り出した二色の糸があった。細く編んではほどき、また編んで、短い輪を作っている。
「あなたが町家の話をしてくれたとき、私、窓の方角ばかり尋ねたでしょう。どんなふうに暮らせるか、一人で想像していたの。言い出す勇気はなかったけれど」
「知りませんでした」
「隠していたもの。あの夜、ギルバートが、あなたと私の仕事をまとめて余計だと言ったでしょう。腹が立つより先に、気づいてしまったの。私がしがみついていた仕事を、この子は仕事とすら思っていなかったのね、って」
お祖母様は、空いた花壇を見た。
「そこへ、あなたが誘ってくれた。あんな場所で、あんなに大きな声で。断ったら、また自分の気持ちをしまい込むと思ったの。だから答えたのよ」
あの弾むような足取りが、ようやく腑に落ちた。
「それなのに、私は先日、お祖母様の答えを取り上げかけました」
「間違えたなら、やり直せばいいわ。私だって、五十年かかって、ようやくやり直したのだから」
お祖母様は笑った。
私は、今度は結論を言わず、質問した。
「ここで、これから何をしたいですか」
お祖母様は、塀の根元を指さした。
「花を植えたいわ。誰かに植えさせるんじゃなくて、私が土を掘って、私が選んだ花を。……腰が痛くなったら、そのときは手伝ってくれる?」
「もちろん。お祖母様が頼んでくださったら」
二人で笑った。
お祖母様は、編みかけの糸を手首に当て、窓に透かして色を確かめた。
*
翌週の月曜日、侯爵家の紋章をつけた馬車が町家の前に止まった。
ギルバートが降りてきた。
私は彼を応接室に通した。廊下の先にはお祖母様の部屋がある。招いた客でも、家の中を自由に歩かせるつもりはない。
「ずいぶん窮屈な家だな」
ギルバートは座るなり鼻で笑った。
「そろそろ祖母上を返してもらおう。春の行事までこんな調子では困る」
「返す、という言葉はおかしいですね」
「君が慰謝料として祖母上を受け取ったのだろう。なら金貨四十枚は払う必要がない。二つとも欲しがるとは、強欲だな」
私は机の上に婚約書の写しを置いた。
「金貨四十枚は、あなたが婚約を破棄したことに対する契約上の支払いです。あなたが勝手に申し出た宝石や屋敷は受け取っていません。お祖母様は、そのどちらにも当たりません」
ギルバートが何か言おうとしたので、続けた。
「お祖母様の住まいは、お祖母様が決めます。あなたにも私にも、決める権限はないんです」
「だが、祖母上には家の仕事が!」
廊下から足音がして、お祖母様が入ってきた。
「それは、私から話します」
私が席を空けると、ギルバートはすがるように身を乗り出した。
「祖母上。あの使用人たちが待っているんですよ。春の行事だって、祖母上が長年守ってきたものでしょう。ここで投げ出して、困るのは僕だけじゃない!」
お祖母様の手が、手首の細い糸の輪に触れた。編みかけのまま結んだものだ。指先が動かなくなる。ほんの一瞬、あの水曜日に使いが来たときと同じ顔になった。
私は口を開きかけ、膝の上で手を握った。
お祖母様は、一度だけ息を吸った。
「ギルバート。私がしていた仕事を言える?」
「……家の帳簿だろう」
「それだけ?」
「行事のことも、少しは」
お祖母様は首を振った。
「使用人の勤務簿と給与明細の照合。それから、春の行事で、仕立屋と花屋と料理人の納期が重ならないようにする調整。その二つよ」
ギルバートは黙った。
「給与を支払うのは会計係。行事を取り仕切るのは家令。私は、その間で足りない手を、無償で動かしてきたの。仕事には時間がかかるわ。代わりを頼むなら、きちんとお給金を払ってあげて」
「祖母上がいれば、そんな余計な出費を……」
言いかけて、ギルバートは口を閉じた。
余計な出費。自分の言葉が何を意味するか、初めて気づいたようだった。
「祖母上は、本当に戻られないのですか」
お祖母様は、握っていた糸の輪から指を離した。
「戻りません。ここで暮らすと私が決めました。食費も暖房費も、自分の収入から払っているの。何かのご褒美でも、気晴らしでもないわ」
ギルバートの目が、祖母の手首に止まった。宝石の指輪はなく、庭で編んだ糸の輪だけが揺れている。
「誰かが無償で埋めてきた仕事は、空いたら見えるだけ。家そのものが崩れるわけではないのよ。必要な人を雇い、行事の日程を調整なさい。あなたには、王都邸の雇用を決める権限があるのでしょう」
現侯爵夫妻が領地にいる間、王都邸の雇用を任されているのはギルバート自身だ。
ギルバートはしばらく黙り、ようやく立ち上がった。
「……分かりました。家令と相談します」
謝罪はなかった。彼の馬車が見えなくなると、お祖母様は私の握りしめた拳に目を留めた。私はようやく指をほどく。お祖母様は何も言わず、細い糸の輪を直して微笑んだ。
「今日のお茶は、私が淹れるわ」
*
三日後の木曜日、工事中のレオンが庭へ回ってきた。
「暖炉の煙突を直す足場をここへ立てると、お祖母様の花壇を踏みます。通り側から組めば、工期も費用も変えずに済みます。どうしましょう」
私は花壇の土を見た。
「通り側からお願いします」
「分かりました。職人にも伝えます」
まだ苗も植わっていない土を、レオンはわざわざ避ける手順を考えてくれた。手袋を外すと、あの白い傷のある手で図面を折り、私の返事を待つ。ふと、次の土曜日に工事が終わることが寂しくなった。
*
翌日の金曜日、銀行から金貨四十枚の入金通知が届いた。振込人はギルバート本人だった。土曜日に届いた家令の手紙には、有給の補佐をギルバートが雇い、春の行事を十日延期したとある。仕立屋との納期交渉にも自分で出向き、初めて頭を下げたそうだ。使用人の給与は遅れていない。
同じ土曜日、町家の修繕も終わった。屋根と二基目の暖炉を点検したレオンから、見積もりどおりの精算書を受け取り、私は代金を支払った。
「これで仕事は終わりですね」
「はい。何か不具合が出たら、工事の責任として連絡してください」
彼はそう言って帰っていった。
その夜、私は初めて二基とも使える暖炉のある家で、お祖母様と夕食を取った。前の週よりパンはずっと上手に焼けていた。
窓には、お祖母様が選んだ明るい黄色の布が掛かっている。裾の縫い目は少し曲がっていたが、自分の裁縫箱から針を取り出して仕立てたのだと、お祖母様は得意げだった。
「レオンは、もう来ないの?」
お祖母様が唐突に尋ねた。
「工事は終わりましたから」
「そう」
その先は何も訊かず、今度は来週の花市でどんな花が出るかという話を始めた。
日曜日の夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。
立っていたのは、仕事着ではないレオンだった。図面も見積書も持っていない。
「用事があって来ました。仕事の話ではありません」
彼は庭に目をやり、それから私に向き直った。
「婚約中、侯爵邸の工事であなたが職人への無理な値下げを止めたのを覚えています。納期を守れるか、職人たちに確かめてから返事をしてくれた。あのときから、ずっと気になっていました」
私は言葉を失った。彼は、そんなところを見ていたのか。
「でも、あなたには婚約者がいたし、俺は本家のことで口を出すのを避けていました。祖母のことだって、見て見ぬふりをした。あれを慎重さだと思っていたんです」
レオンは一度、唇を結んだ。
「もう、自分がどう思うかまで黙っていたくありません。クレアさんが好きです」
息が止まりそうになった。
私は、彼が工事の間、私の予算を笑わず、決めるまで待ってくれたことを思い出した。危ない工事には理由を添えて反対し、できることとできないことを分けて説明してくれたことも。
でも、私はまだ彼のことを十分に知らない。彼もまた、私のすべてを知っているわけではない。
「来週の日曜日、花市に行きませんか」
答えを待つ彼の手が、握られたり開かれたりしている。私は胸に手を当て、一呼吸置いた。
「そのとき、お返事をしてもいいですか」
私が尋ねると、レオンはほっとしたように息をついた。
「もちろんです。断ってもかまいません。来ていただけるなら、それだけで嬉しい」
私は頷いた。すぐに返事をすれば、この頬の熱まで見透かされそうだった。
「では、日曜日に」
彼が門を出てからも、私はしばらく冷たい外気の中に立っていた。
*
次の日曜日、花市の道には、まだ冷たい風が吹いていた。
お祖母様は朝から自分の財布を持ち、一足先に出かけていた。花壇に植える苗を、自分で選びたいのだという。足元の悪い道だけ気をつけて、と私が言うと、お祖母様は「転んだら助けを呼びます」と笑った。
私は広場の噴水のそばで、レオンを待った。
遠くからこちらを見つけた彼が、歩調を速める。私服の彼は、仕事中より少し落ち着かない様子だった。
「お待たせしました」
「私も、今来たところです」
並んで歩くと、店先には春の球根や苗が並んでいた。レオンは私が立ち止まると足を止め、値札をのぞくときだけ、少し身を寄せた。
通りの端に、鉢植えの小さな花があった。私が目を留めると、レオンが名前を教えてくれた。日向を好み、冬の終わりにも咲く丈夫な花だという。
私はそれを一鉢買った。受け取るとき、レオンの手の甲にある古い傷が目に入る。花の入った鉢を落とさないよう、彼は少しだけ手を添えてくれた。
「ご自身の部屋に置きますか」
「ええ。私の部屋に」
それだけ答えるのが、妙に嬉しかった。
人混みから少し離れたところで、私は立ち止まった。
「レオン。先週の返事をします」
彼は私の方へ向き直った。急かすことも、先を読むこともしなかった。
「あの日、まだ何も植えていない花壇のために、煙突の足場を変えてくれましたね。勝手に変えるのでなく、私に確かめてから」
私の腕に抱えた鉢へ、目を落とした。
「あれが嬉しかったんです。私の大切なものを、まだ形になっていなくても、大切に扱ってくれたから」
一週間考えるうち、何度もその場面を思い出した。
「あなたが好きです。私と、お付き合いしていただけませんか」
レオンの顔に、驚きと喜びがいっぺんに浮かんだ。
「はい。ぜひ」
差し出された手を、私は自分から取った。温かい手だった。
その日の夕方、町家へ帰ると、黄色いカーテンのそばに、小さな花瓶が置かれていた。
お祖母様は市で選んだ苗を庭の端に並べ、袖をまくっていた。
「おかえりなさい。さあ、これから植えるところよ」
「今からですか。もう夕方ですよ」
「いいでしょう。私がそうしたいの」
お祖母様はしゃがんで小さな穴を掘ろうとし、途中で腰を伸ばした。
「……やっぱり、一つお願いしてもいい? 固い土を崩すところだけ、手伝ってくれるかしら」
私は買ってきた鉢を窓辺に置き、庭へ出た。
「もちろんです。どこを掘ればいいですか」
「この辺りよ。でも、苗を植えるのは私にさせてね」
私が土をほぐし、お祖母様が苗を置き、自分の手で土を寄せる。彼女は満足そうに頷いた。
「来年は、もっと上手に植えられると思うの」
来年。
侯爵邸で聞くその言葉は、いつも次の行事や次の帳簿の話だった。
いま、お祖母様が言う来年には、ご本人の好きな花が咲く。
「クレアさん、お茶にしない?」
「はい。すぐに淹れます」
「今日は私にも淹れさせて。お湯の加減、覚えたのよ」
私は笑って、台所の扉を開けた。
小さな庭の窓は、夕暮れの光をよく通す。
もうすぐ、二人で選んだ夕食の支度を始める。そのあと、お祖母様が焦がさずに焼けるようになったパンを切るのだ。
慰謝料よりずっと欲しかった日々が、今日もこの家で続いていく。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
婚約破棄から始まったクレアとエレノアお祖母様の新しい暮らし、そしてレオンとの恋を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
本作は短編として完結していますが、もし「お祖母様の自由気ままな第二の人生をもっと見たい!」「クレアとレオンの恋の続きを読みたい!」と思っていただけましたら、ぜひ感想欄で教えてください。
皆様のお声を参考に、長編化も検討したいと思っています。
また、少しでも面白かったと思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると大変励みになります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
10/15 追伸
連載版(長編版)はじめました。よろしければこちらもお読みください。
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