第9話 告白
剣が、グラナートの軌道を描いた。
御前会議の前に行われる近衛騎士の演武。月に一度の恒例行事。王と大臣が列席する広間の中央で、騎士たちが組み手を披露する。
ルードヴィヒの相手は副団長だった。腕の立つ男だ。激しい打ち合いの中で、ルードヴィヒが一瞬、左肩を起点にした斬り上げを見せた。
グラナート流の基本技。
広間の空気が変わったかどうかは分からない。大臣たちは酒杯を傾けながら観戦している。王は穏やかに頷いている。気づいた者はいない、と思った。
いた。
外交席に座ったグラナート出身の外交官が、杯を置いた。目が鋭くなっている。
私は侍女として広間の壁際に立っていた。酒と料理を運ぶ役目。エプロンのポケットに手を入れた。ハンカチがない。今日に限って忘れてきた。こんな時に。
演武が終わった。ルードヴィヒが列に戻る。すれ違いざまに視線が合った。一秒。私の目が何かを伝えたのだろう。ルードヴィヒの顎の筋肉が引き締まった。
御前会議まで、あと半刻。
◇◇◇
廊下で合流した。侍女と騎士が立ち話をしているだけの光景。
「外交官に気づかれた」
「見えた」
「先手を打つしかない。予定を前倒しにする。御前会議の冒頭で」
「いいのか。まだ王妃への根回しが」
「間に合わない。このまま外交官がグラナート本国に報告すれば、あなたは問答無用で拘束される。その前に、自分たちから全てを明かす」
ルードヴィヒの目が私を見た。覚悟を測る目。
「やるか」
「やる」
離れた。別々の方向に歩いた。侍女は厨房に、騎士は控え室に。
背中に視線を感じた。ルードヴィヒの目。振り返らなかった。
◇◇◇
御前会議の広間。
長い楕円形のテーブルに、王と大臣たちが着席している。ヘルムート様も末席にいる。白髪を整え、穏やかな表情。三十年間この席に座り続けた男。
侍女は壁際に並ぶ。水差しと杯を持ち、求めに応じて注ぐ。空気のように存在する。それが侍女の仕事。
今日は、空気ではいられない。
「陛下」
ルードヴィヒの声が広間に響いた。近衛騎士が発言することは通常ない。大臣たちが振り返った。
「申し上げたきことがございます」
王が眉を上げた。穏やかな、しかし鋭い目。
「許す。申せ」
ルードヴィヒが列から進み出た。中央に跪く。
「私の本名はルードヴィヒ・フォン・シュテルン。グラナート公国、シュテルン伯爵家の三男です」
広間が凍った。
大臣たちの顔が強張る。衛兵の手が剣の柄にかかる。ヘルムート様の穏やかな表情が、一瞬だけ崩れた。
「この国の敵ではなく、和平の使者として参りました。両国の和平交渉を妨害している者の正体を突き止めるため、近衛騎士として潜入しておりました」
「妨害者だと?」
王の声が低くなった。
「はい。その者の名を、共に申し上げる者がおります」
私の番だ。
水差しを置いた。エプロンを正した。壁際から一歩、二歩、三歩。中央に出る。
大臣たちの目が私に集まる。侍女が発言する場ではない。そんなことは知っている。
ヘルムート様の目と合った。穏やかな目が、もう穏やかではなかった。
「陛下。宮廷侍女ナターシャ・レーゲンです。申し上げます」
左腕の袖をまくった。
黒い紋様が、月明かりではなく広間の燭台の光の下に晒される。手首から肩まで、蔦のように絡まった呪紋。
「これが、宮廷魔術師長ヘルムート・フォン・ゲルナーの三十年の成果です」
広間が静まり返った。
「この呪印は先天性の呪病ではありません。二十年前、ヘルムート様が主導した軍事呪術研究の実験体として、私を含む複数の子供に刻まれたものです。生き残ったのは私だけ。そして、解呪できるのは術式の開発者であるヘルムート様だけだと、私たちは信じ込まされていました」
ヘルムート様の顔色が変わった。白い。唇が動いている。言葉にならない言葉。
「ヘルムート様は三十年間、和平交渉を妨害し続けてきました。和平派の貴族の書簡を検閲し、使者を不当に拘束し、侍女長マルガレーテを通じて宮廷内の情報を操作してきました。その記録は、魔術師棟の封印書庫にある研究手記に残されています」
日付。被験者数。工作の内容。七頁分の記録を、淀みなく復唱した。一度読んだものは忘れない。この記憶力が、今日のためにあったのだと思った。
ヘルムート様が立ち上がった。
「この小娘は嘘を」
「嘘であれば、封印書庫を調べていただければ確認できます」
「封印書庫に、そのような記録は」
「H.v.Gの頭文字が型押しされた革表紙の手記。第七期呪紋実験の記録。棚の右側、奥から三冊目」
ヘルムート様の唇が震えた。
三十年。この人は三十年、息子の死に意味を与えるために戦争を続けてきた。その執念は理解できなくもない。息子を失った父親の悲しみは、想像を絶する。
でも。
「私の体に刻まれたこの呪紋は、あなたの息子の死とは何の関係もありません」
ヘルムート様の目が見開かれた。
「戦争で何人死のうと、子供の体に呪いを刻む理由にはならない。和平を妨害する理由にもならない」
声が震えていなかったことを、自分で確認できなかった。でも、言い切った。
三十年。三十年。この人は子供の体に呪いを刻み、戦争を続け、和平を潰し。何人死んだ。私以外の実験体の子供たち。名前も知らない。知らないまま。
腕が。痣が脈打っている。肋骨の間が軋んで、こめかみの血管が脈打って、でも今は、この痛みが力になる。
「私の共犯者を、誰にも渡さない」
ルードヴィヒを見た。跪いたまま、灰色の目が私を見ていた。
王妃アーデルハイトが立ち上がった。
「陛下。和平のために来た者を、敵として裁くのですか。この国に必要なのは、戦争の継続ではなく、和平の実現ではありませんか」
王が長い沈黙の後、口を開いた。
「封印書庫を調べよ。真偽を確かめる」
◇◇◇
その夜、ヘルムート・フォン・ゲルナーは全ての地位を剥奪された。封印書庫の記録が、私の証言を裏付けた。マルガレーテも共犯として拘束された。
ルードヴィヒは拘束されなかった。王妃の取り成しと、和平の密使としての証言が認められたからだ。
旧塔に戻る体力はなかった。侍女棟の寝室で、ベッドに倒れ込んだ。左腕が痛い。全身が重い。でも、天井の木目を数える気にはならなかった。
エルゼが毛布をかけてくれた。
「全部聞いていたわ。広間の外で」
「……ごめんね。秘密にしてて」
「いいの。あなたが無事なら」
目を閉じた。冬薔薇の匂いがした気がした。旧塔にはいないのに。記憶の中の匂い。
まだ終わっていない。呪印の解呪がまだ。
でも今夜は、眠れる気がした。




