第8話 嵐の前夜
エルゼの笑い声は、いつだって私の心を軽くしてくれる。
「ナターシャ、見て。王妃様から焼き菓子をいただいたの。干し葡萄のやつ」
侍女棟の共同食堂で、エルゼが小さな包みを開いた。黄金色の生地に干し葡萄が散りばめられた、厨房自慢の焼き菓子。王妃アーデルハイト様は時折、こうして侍女たちに菓子を配ってくださる。
「半分こね」
「ありがとう」
温かい菓子を齧る。バターの風味と干し葡萄の甘さが口に広がった。舌が甘さを感じるのが、なんとなく不思議だった。明日、御前会議で全てが決まるというのに、焼き菓子は美味しい。当たり前のことなのに不思議。
「最近のあなた、変わったわね」
エルゼが菓子を齧りながら言った。
「変わった?」
「うん。怖い顔をしなくなった。前は、なんていうか、遠くを見ているような顔をしていたでしょう。最近はそれがなくなった」
遠くを見ていた。二十歳までの残り時間を計算して、毎日少しずつ減っていく数字を見つめていた。
「そう?」
「そう。何かいいことがあったの?」
いいこと。敵国の間者と共犯関係を結び、宮廷魔術師長の三十年の陰謀を暴こうとしている。いいことかどうかは分からないけれど、少なくとも退屈ではない。
「まあ、いろいろとね」
エルゼの目がきらりと光った。
「恋人?」
「違う」
「嘘。絶対違う顔してない」
違わない、かもしれない。自分でもよく分からない。共犯者は恋人ではない。でも、恋人ではないものの名前を、私はまだ知らない。
「……秘密」
「えー。教えてよ」
「教えられない秘密なの。ごめんね」
エルゼと目が合った。この目が好きだ。疑わない目。裏を読まない目。私がどんな嘘をついても「まあ、あなたがそう言うなら」と受け止めてくれる目。
だからこそ、申し訳ない。
エルゼの顔が少し曇った。すぐに笑顔に戻ったけれど、その一瞬の曇りが胸に刺さった。
この人に嘘をつき続けている。嘘の猫、嘘の理由、嘘の平穏。全部嘘。
打ち明けたい。でも、打ち明ければエルゼも共犯者になる。巻き込むわけにはいかない。
「何か困っていることがあるなら、言ってね」
エルゼの声が柔らかかった。
「……うん。ありがとう」
◇◇◇
最後の夜。
旧塔の螺旋階段を上がった。明日の御前会議が終われば、もうここに秘密を持ち込む必要はなくなる。秘密が秘密でなくなるのだから。
段を踏む度に、この場所の感触が手の平に戻ってくる。冷たい石の壁。錆びた手すりの匂い。踏み外しそうな十七段目の浮き石。全部、もう体が覚えている。
何度上がっただろう。最初は怖かった。足音を殺しながら、息を詰めながら、見張りに見つかったらどうしようと膝が笑っていた。それがいつの間にか、この階段が帰り道みたいに感じるようになっていた。
この塔は何も変わっていない。変わったのは私の方だ。呪印は広がった。でも、それよりも先に、何かが広がっていた。胸の奥の、ずっと小さかった場所が。あの男が用意した棺桶の中で、私はいつの間にか生き始めていた。
明日、全部が変わる。
この旧塔に戻れるかどうかも分からない。石壁を手で触れた。ざらついた感触。冷たくて、少しだけ湿っている。昼間の日差しを覚えていない石。この感触だけは、覚えておこうと思った。理由は分からないけれど。
ルードヴィヒが待っていた。いつもの窓枠ではなく、古毛布の上に座っている。珍しい。
「準備は整った」
「こっちも。告発の内容は頭に全部入っている。研究記録、工作の証拠、マルガレーテの密告網。順序立てて説明できる」
「カミルから術式の完全版が届いた。解呪は可能だ。魔力炉さえ使えれば」
沈黙。明日のことを考えると、胃の奥が重い。
「一つ、聞いておきたい」
ルードヴィヒが言った。
「何?」
「明日、俺の正体が明かされる。敵国の人間がこの国の近衛に紛れ込んでいた事実は、たとえ和平のためであっても反逆罪に問われる可能性がある」
「知っている」
「お前も、共犯として罪に問われるかもしれない」
「知っている」
「……それでもやるのか」
「やらなければ私は死ぬし、和平も来ない。やらない理由がない」
ルードヴィヒが私を見た。月明かりの中で、灰色の目が澄んでいる。
「俺は……」
言いかけて止まった。いつもの癖。言葉が見つからないと黙る癖。
でも今夜は、黙ったまま終わらなかった。
「間者として、この国に来た。任務のために。でも今は」
また止まった。顎の筋肉が動いて、喉仏が上下して、唇が薄く開いて。
「お前を生かすためなら、正体がバレても構わない」
耳の後ろが熱くなった。鎖骨の下がきゅっと縮んだ。矛盾した温度が全身に広がる。
この人は不器用だ。好意を言葉にできない人だ。「死ぬなら勝手に死ね」と言いながら薬草茶を淹れる人だ。忘れ物を拾って「また忘れている」としか言えない人だ。
その人が、今、初めて。
まっすぐな言葉を選んでいる。指先が冷たい。その矛盾した感覚が全身に広がって、私はうまく座っていられなくなった。
「だが、欲を言えば」
「……欲を言えば?」
長い沈黙。旧塔の石壁が月光を反射している。冬薔薇が風に揺れない、静かな夜。
「一緒に、生きたい」
声が、掠れていた。こんな声を聞いたのは初めてだった。低くて、硬くて、でも芯が震えている声。
胸の中で何かが壊れた。壊れたというか、外れた。ずっと締めていたゼンマイが、カチリと音を立てて解放されたような。
「私も」
それだけ言った。それだけしか言えなかった。
ルードヴィヒの手が伸びてきて、私の右手に触れた。呪印のない方の手。指先が重なって、やがて掌が合わさった。冷たい手だった。でも前よりも少し、温かい気がした。
窓の外で、冬薔薇が一輪、咲いていた。
この花、私たちに似ている。居場所のない場所で咲いている。
明日が来る。明日、全てが変わる。
手を離さないまま、月が傾くのを見ていた。
何も言わなかった。言葉はもう十分だった。手の温度と、月の光と、冬薔薇の匂い。それだけで、今夜は足りた。
明日が来る。
明日の私は、侍女ではなくなるかもしれない。共犯者でもなくなるかもしれない。何になるのかは分からない。でも、この手を繋いだまま朝を迎えたい。
その気持ちだけは、嘘ではなかった。




