第7話 密書
鳩が旧塔に戻ったのは、夜明け前だった。
ルードヴィヒから暗号紙片で連絡があった「カミルから返事が来た。今夜、旧塔で」。紙片を読んだ瞬間、指先が震えた。震えは恐怖ではなかった。期待だ。期待であってほしかった。
一日が長かった。
王妃の書簡を整理しながら、文字が頭に入らない。マルガレーテ様が廊下を通るたび、喉の奥がきゅっと収縮する。エルゼが「今日のあなた、ぼんやりしてるわね」と笑った。「寝不足」と答えた。嘘ではない。
日が暮れた。月が出た。旧塔の螺旋階段を上がる。
ルードヴィヒが待っていた。手に、小さく折り畳まれた紙を持っている。
「カミルからの密書だ」
鳩の足に括り付けられていた薄い紙。広げると、細かい文字がびっしりと書き込まれている。暗号ではなく、グラナートの古語。ルードヴィヒが翻訳しながら読み上げた。
「呪紋実験に関する文献を調べた。結論から言う。ナターシャの呪印は先天性の呪病ではない。二十年前にヘルムート・フォン・ゲルナーが主導した軍事呪術研究の副産物だ」
分かっていた。封印書庫の記録で、ほぼ確信していた。
でも、こうして第三者からの裏付けが来ると、腹の底に重いものが落ちた感覚がある。
「実験体は複数。呪紋を刻まれた子供たちのうち、生き残ったのは一名。呪紋は進行性を持ち、全身に広がった段階で生体機能が停止する。これがいわゆる『二十歳までの寿命』の正体」
私の人生は、あの男の実験の失敗作だった。
十五の冬に「先天性の呪病」と告げられた。治療法なし。二十歳まで。それを受け入れて、残りの時間を数えて、毎朝痣の端を確認して。
全部、嘘だった。
先天性ではなく、後天的に刻まれた。呪病ではなく、軍事実験の副産物。治療法がないのではなく、治療法を知っている人間が隠していた。
奥歯が鳴りそうになった。口を引き結ぶ。
十五の冬の宮廷医の顔を思い出す「残念ですが、先天性の呪病は治療できません」。その言葉を聞いた時の、胸の底が抜ける感覚。父の時計を握りしめて、泣くのを堪えた夜。二十歳までの残り時間を計算して、諦めを積み上げてきた五年間。
それが全部、あの男の都合で作られた嘘だった。
怒りが、腹の底から這い上がってくる。熱くはない。熱よりも冷たい。手の指先がじんじんと痺れて、視界の端が白くなる感覚。声を出せば壊れると分かっているから、黙って歯を噛む。私の五年間を、あの男は何とも思っていなかった。ただの実験記録の一行だった。
「経過観察とする」。
あの文字を思い出す。二十年前の手書きの文字。インクが少し滲んでいた。私の残りの命を、あの男は二十年間、観察し続けていた。そう思うと、左腕の呪印が、また一段と熱く感じる。
先天性の呪病ではなく、人の手で刻まれた呪い。宮廷医が「治療法なし」と言ったのは、治療法を知らなかったのではなく、治療法を知っている人間が隠していたからだ。
ルードヴィヒの声が続く。
「解呪の手がかりについて。グラナート側の文献に『呪紋浄化の術式』の記録がある。ただし、術式の発動には宮廷レベルの魔力炉が必要。個人の魔力では足りない。加えて、術式の完全な手順を記した文献は学院の封印書庫に保管されており、持ち出しは困難。可能であれば、こちらが書き写して次の鳩便で送る」
「追伸。ルードヴィヒ、ちゃんと食べてるか。痩せたら許さないぞ」
ルードヴィヒが読み上げる声が、最後の一文でわずかに変わった。
「……あなたの幼馴染、お母さんみたい」
「うるさい」
耳の付け根が赤くなっている。暗がりでも分かった。
◇◇◇
密書を古毛布の上に広げ、二人で内容を整理した。
「解呪は可能。ただし術式に宮廷の魔力炉が必要。つまり、この国の宮廷で解呪を行わなければならない」
「ヘルムートが支配している魔術師棟の魔力炉を使うということね」
「ヘルムートを排除しなければ、解呪は実行できない」
私は膝を抱えた。石壁の冷たさが背中に伝わる。
「方針を変えよう」
ルードヴィヒが頷いた。
「ヘルムートの取引には乗らない。代わりに、呪印がヘルムートの実験の副産物である証拠を武器にする。和平妨害の工作と合わせて、王に告発する」
「証拠は」
「封印書庫の研究記録は私の頭に入っている。カミルの文献がもう一つの裏付け。あとは、呪印そのものが物的証拠になる。私の体が、証拠だ」
言葉にしてみて、自分の声が冷静なのに驚いた。怒りはある。腹の底で、燠火のように燻っている。でも今は、怒りを使い道のある形にしなければならない。
「告発の場は?」
「御前会議。王と大臣が列席する定例の場。次は十日後」
「十日で準備が間に合うか」
「間に合わせる」
ルードヴィヒが外套の内側から、もう一枚の紙を取り出した。
「カミルから術式の暫定版が来ている。完全版は次の鳩便で届くはずだ。これを見る限り、術式自体は複雑だが不可能ではない。問題は魔力炉へのアクセスだけだ」
紙を受け取った。古語の呪文が記されている。読めない。でもルードヴィヒの翻訳を信じる。
信じる。
その言葉の重さが、今なら分かる。
「ルードヴィヒ」
「何だ」
「あなたがカミルに呪印のことを聞いたのは、いつ?」
「……最初の鳩便の時からだ」
「それは、共犯契約を結んですぐということ?」
「そうだ」
「任務のためではなく?」
沈黙。
「……お前のために聞いた」
声が低い。耳の付け根がまた赤い。
私は何か返そうとして、言葉が見つからなかった。歯車が空回りする感覚。何かが噛み合いそうで噛み合わない。
「ありがとう」とも「嬉しい」とも違う。もっと別の何か。胸の奥の歯車が軋んで、何かが噛み合おうとして、でもまだ噛み合わない。
この男は任務のために来た。和平のために来た。でも、鳩を三日おきに飛ばしたのは、任務のためではない。
それを認めてしまうと、何かが変わる。共犯者という言葉の意味が変わる。もう利害だけの関係ではなくなる。
結局、何も言えなかった。言えなかったけれど、たぶん顔に出ていた。ルードヴィヒが目を逸らしたから。
「……十日後ね」
「ああ」
「準備を始めましょう」
旧塔を出る時、振り返った。ルードヴィヒが密書を燭台の火にかざしている。紙が燃えて、灰になって、崩れる。
証拠は私の頭の中と、私の体にある。燃やせないもの。消せないもの。
私は十日後、この体を証拠として王の前に出す。
あの男が三十年かけて築いたものを、侍女の腕一本で崩す。




