第6話 取引
ヘルムート様の部屋は、薬草と古い紙の匂いがする。
呼び出しの書簡が届いたのは朝だった。侍女長マルガレーテ様経由ではなく、魔術師の弟子が直接持ってきた。「ヘルムート魔術師長がお話があると仰っています。本日の午後、魔術師棟の執務室まで」。
断る選択肢がない種類の呼び出し。
執務室の扉を叩く。「入りなさい」と穏やかな声。
ヘルムート様は窓辺の椅子に座っていた。白髪を整え、学者らしい長衣を纏い、手元には薬草茶の湯気が立っている。窓辺には枯れた鉢植えが一つ。この人は植物も枯らすのか。
「座りなさい、ナターシャ」
姓ではなく名前で呼ぶ。それ自体が威圧だと分かっていた。魔術師長が一介の侍女を名前で呼ぶのは、親しみではなく支配の合図。
椅子に座った。背筋を伸ばし、膝を揃え、手を膝の上に置いた。侍女の完璧な座り方。
「呪印の具合はどうですか」
「……進行しています。肩を越えました」
「やはり」
ヘルムート様が湯気の向こうから私を見た。穏やかな目。学者の目。弟子の体調を気遣う師匠のような目。嘘の目。
「先天性の呪病は、残念ながら私の専門外です。しかし、関連する研究を調べたところ、解呪の可能性がゼロではないことが分かりました」
心臓ではなく、肋骨の間が軋んだ。
「解呪」
「ええ。ただし、高度な呪術知識と宮廷レベルの魔力炉が必要です。できるのは、おそらく私だけでしょう」
条件がある。この流れは条件の前振りだ。分かっている。分かっているのに、鼓動が速くなる。
「何をすればいいですか」
声が平坦に聞こえたことを祈った。
「近衛騎士の中に、少し気になる人物がいましてね」
口の中が鉄の味になった。
「新任の、ルードヴィヒという騎士です。剣の構えに違和感がある。私は魔術師ですから剣の流派には詳しくありませんが、助手に調べさせたところ、どうもこの国の流派ではないらしい」
呼吸を整えた。浅くならないように。手が震えないように。膝の上の指を組み直した。
「何かご存じですか?」
「いいえ。近衛騎士との接点はほとんどありませんので」
嘘。嘘を吐いている。声のトーンが半音上がっているのが自分でも分かる。エプロンの端を掴もうとして、今は侍女服のスカートの生地を掴んだ。
ヘルムート様は微笑んだ。
「そうですか。では、今後もし何か気づいたことがあれば、教えてください。それが呪印の解呪に繋がるかもしれません」
取引だ。
ルードヴィヒの情報と引き換えに、呪印を解く。
部屋を出る時、膝が震えていないことを確認した。扉を閉める。金属の留め金が噛み合う音が、やけに大きく聞こえた。
廊下の空気が急に薄くなった気がした。胸郭が圧迫されている。肋骨が内側から締め付けられる感覚。深く息を吸おうとしても、肺の半分までしか空気が入らない。動悸が速い。手首の内側の脈が速い。呪印のせいではなく、恐怖のせいだと分かる。この二つは、質が違う。呪印の痛みは外からじわじわ来る。でも今のこれは、内側から裂けるように広がっている。
あの人の穏やかな声が頭の中にこびりついている「解呪の可能性がゼロではない」。穏やかに、優しく、まるで好意から言っているかのように。嘘の包み方を知っている人間は、こういう声を使う。
表情を整え、廊下を歩いた。すれ違う魔術師に軽く頭を下げ、侍女棟に戻る道を選ぶ。足の裏が石の冷たさを感じている。呼吸が浅い。
ヘルムート様の声が頭の中で反響している「解呪の可能性がゼロではない」。ゼロではない。ゼロではないということは、生きられるかもしれないということだ。
代償は、共犯者の命。
◇◇◇
旧塔に行かなかった。
行けなかった。ルードヴィヒに会えば、全部話してしまう。話せば、彼は「俺を売れ」と言うだろう。そんな言葉を聞きたくない。
侍女棟の自室で、ベッドに横になった。天井の木目を数える。二百三十七本。変わらない。何も変わらない。
左腕が痛い。肩を越えた痣が、じくじくと脈打っている。
生きたい。
その思いが、胸の底から這い上がってきた。普段は蓋をしている。「どうせ死ぬ」と言い聞かせて、蓋をしている。でも今、蓋が外れかけている。
生きたい。二十歳の先を見たい。エルゼと馬鹿話をして、王妃の銀木犀を届けて、旧塔の冬薔薇が来年も咲くのを見たい。
ルードヴィヒを売れば、生きられるかもしれない。
だめだ。そんなことはできない。
でも、生きたい。
だめだ。
生きたい。
思考がぐるぐる回って止まらない。天井の木目がぼやける。目が熱い。泣いているのか。泣いていない。泣いていない、はず。
◇◇◇
翌日の夜、旧塔に足が向いた。
行くつもりはなかったのに。身体が勝手に動いた。螺旋階段を上ると、ルードヴィヒが立っていた。昨夜も来ていたのだろう。来なかった私を待っていたのだろう。
「昨夜は来なかったな」
「……うん」
私の声が変だったのだろう。ルードヴィヒの目が細くなった。
「何があった」
黙っていられなかった。ヘルムートの呼び出し。取引の内容。呪印の解呪と引き換えに、ルードヴィヒの情報を求められたこと。全部話した。
話し終えた後、ルードヴィヒは長い間黙っていた。
それから。
「俺を売っても構わない」
耳の奥が冷たくなった。
「お前が生きるなら、それでいい」
違う。違う違う違う。
「なんで勝手に許すの」
声が裂けた。
「私が裏切り者になっていいわけないでしょう。あんたが死んだら、私は。私は」
言葉が詰まった。喉の奥が塞がって、空気が通らない。主語が消えた。述語が行方不明になった。
「生きたい。生きたいけど、あんたが死ぬのは。死ぬのは嫌だ。嫌なんだよ。なんで。なんでそういうこと簡単に言うの。共犯者なのに。共犯者なんだから。勝手に、死んでいいとか、言うな」
最後は叫んでいた気がする。旧塔の石壁に声が反響して、崩れた天窓から夜空に逃げていった。
ルードヴィヒが、手を差し出していた。
何も言わずに。黒い外套の袖から伸びた手。月明かりに照らされた、剣だこのある掌。
「なら、二人で生き延びる方法を探す」
低い声。静かな声。
「ヘルムートの取引には乗らない。別の方法がある。カミルからの返事を待て」
手を取った。
冷たい手だった。私の手も冷たかった。冷たい手同士が触れて、それでも、少しだけ温かくなった。
少しだけ。
少しだけでいい。今は。




