第5話 二十歳の誕生日
痣が肩を越えたのは、たぶん三日前だと思う。
朝の着替えの時に気づいた。長袖の下着を脱いで、鏡を見なくても分かった。左腕の内側から始まった黒い紋様が、肘を越え、上腕を這い上がり、肩の丸みに沿って広がっている。触れると熱い。痛みは、鈍い。鈍いけれど、途切れない。
仕事中に手が止まることが増えた。
王妃の書簡を整理している最中、不意に左腕が痺れて、銀のインク壺を取り落としそうになる。エルゼが「大丈夫?」と声をかけてくれる。「ちょっと手が滑って」と笑う。嘘ではない。手が滑ったのは事実。滑った理由が呪印の痺れだというだけ。
エルゼは信じてくれた。信じてくれる人がいるのは楽だけれど、同時に申し訳ない。
今日は密会の日だった。
◇◇◇
旧塔の螺旋階段を上るのが、以前より辛い。息が切れる。体力が落ちている。呪印が広がるにつれ、体が少しずつ削られていく感覚がある。歯車の動きが鈍くなるみたいに。
ルードヴィヒは窓枠に座っていた。いつもの場所。月明かりの中で、膝に置いた手の甲に目を落としている。何か考えている顔。
「遅い」
「階段がきつくなってきて」
軽く言ったつもりだった。ルードヴィヒの目が鋭くなった。
「袖をまくれ」
「……え?」
「呪印を見せろ」
私は黙って左腕の袖をまくった。月明かりの下で、黒い紋様が浮かび上がる。手首から肩まで。蔦のように絡まり合った、有機的な模様。
ルードヴィヒが、初めて見る種類の顔をした。
表情が消えた、のではない。消そうとして、消しきれなかった顔。顎の筋肉が引きつり、目の奥に何かが走って、すぐに押し殺された。
「……いつから」
「肩を越えたのは三日前。進行が早くなっている」
沈黙が降りた。旧塔の石壁が月光を反射して、銀色に光っている。冬薔薇の匂いが微かに漂う。
「お前は……」
言いかけて止まった。この人の癖だ。言葉が見つからないと黙る。
私は袖を下ろした。
「カミルからの返事は?」
「まだだ。伝書鳩の往復に時間がかかる」
「そう」
また沈黙。
ルードヴィヒが立ち上がり、窓枠の下に置いてあった布袋から何かを取り出した。小さな陶器の瓶と、乾燥した草の束。
「薬草茶を淹れる」
「え?」
「春告げ草と、銀木犀の葉を乾燥させたもの。呪印の痛みを緩和する効果があると、カミルの暫定的な助言だ」
いつの間に準備していたのだろう。錆びた燭台の火で湯を沸かし、陶器の瓶に注ぐ。旧塔に似つかわしくない、生活の匂いが立ち上った。
この人は言葉では何も伝えないくせに、行動だけが雄弁だ。鍵の複製を作り、忘れ物を拾い、今は薬草茶を淹れている。
「勝手にしろ」と言いながら、やっていることは全部その逆。
差し出された瓶を受け取った。陶器の肌が手に温かい。一口飲んだ。
「……これ、薬? 罰?」
「黙って飲め」
「共犯者の淹れるお茶がこの味って、裏切りに近いわね」
不味い。圧倒的に不味い。草の苦味と花の渋味が喧嘩している。でも、飲んだ後に左腕の熱が少しだけ引いた気がする。気のせいかもしれないけれど。
ルードヴィヒが窓枠に戻り、外を見た。横顔が月明かりに照らされている。
「俺の国のことを話す」
唐突だった。
「兄が二人いた。長兄は騎士で、次兄は学者になるはずだった。二人とも戦争で死んだ」
声に感情がない。ないのではなく、押し込めている。
「両親は和平派の貴族だ。戦争を終わらせたいと願っている。だから俺を送り出した。和平の密使として」
「……帰る場所は」
「ない」
短い一言の中に、この人の人生が全部詰まっている気がした。
「この任務が失敗すれば、俺は処刑される。成功しても、身分を偽った間者として王国に裁かれる可能性がある。どちらにしても、帰る場所はない」
母親が握った手の力「生きて帰りなさい」。帰る場所がないのに帰れと言われて送り出された男。それが、目の前にいる。
旧塔の石壁に背を預けた。膝を抱えた。いつもの姿勢。
「私も同じね。二十歳まで生きられないなら、この城が棺桶みたいなもの」
「……棺桶か」
「でも、棺桶にしては月が綺麗よ」
ルードヴィヒが私を見た。何を考えているのか分からない目。でも、さっきとは違う。敵意がない。値踏みもない。ただ、見ている。
私は薬草茶のまずさに顔を顰めながら、二杯目を飲んだ。
沈黙が続いた。苦しくない沈黙。旧塔の冬薔薇が風に揺れて、花弁が一枚落ちた。
「死ぬなら勝手に死ね」
ルードヴィヒが言った。低い声。
「……だが、俺の前では死ぬな」
耳の後ろが、熱くなった。
何か返さなければいけない気がしたけれど、言葉が見つからなかった。胸の奥で歯車が噛み合わないみたいに、何かがカチカチと空回りしている。
「……まだ時間はあるから」
笑ったつもりだった。笑えていたかは分からない。
沈黙のまま、月が少しずつ傾いていった。窓枠に蔦の影が揺れている。
不思議な時間だった。何も起きていない。会話も途絶えている。なのに、この沈黙が苦しくない。むしろ、今まで過ごした夜の中で、いちばん穏やかだった。
この人に呪印を見せた。月明かりの下で、袖をまくって、隠してきたものを全部さらした。恥ずかしいとか、みっともないとか、そういう感情よりも先に、喉の奥が緩んでいた。張りつめていた何かが、少しほどけていた。
弱さを誰かに見せるというのは、こういうことなのか。防御を下げることではなく、防御しなくていい場所を一つ見つけること。この旧塔が、そうなっている。この人がいる場所が。
うまく言葉にできない。でも、両腕の呪印の熱が今夜は少しだけ遠い。薬草茶だけの効果ではないと思うけれど、それも口には出せなかった。一人で抱えていた重さが、二人分になったからか。分けたのか、それとも半分になったのか。どちらにしても、痛みの種類が少しだけ変わった気がした。
呪印は痛い。余命は変わらない。でも、たった一人でこの痣を見つめていた夜とは、何かが違う。
旧塔を出る時、古毛布の上に侍女帽が置き忘れてあった。明日の朝までに取りに戻らないと困る。
振り返ったら、ルードヴィヒが帽子を拾い上げていた。
「……また忘れている」
「明日返して」
「明日ではなく、忘れるな」
それは無理な注文だと思いながら、螺旋階段を下りた。左腕の痛みは少しだけ和らいでいた。薬草茶のおかげか、別の何かのおかげかは、分からない。




