第4話 封印書庫
掃除用の鍵束の中に、一本だけ新しい鍵が混じっている。
他の鍵は使い込まれて黒ずんでいるのに、この一本だけ銅色が光っている。ルードヴィヒが暗号術の応用で作った複製鍵。封印書庫の鍵。
鍵束を腰に下げ、掃除道具を手に持つ。箒、雑巾、塵取り。完璧な侍女の装備。誰にも疑われない。
宮廷魔術師棟は王城の東翼にある。普段は侍女の立ち入りが制限されているが、月に一度の大掃除の日だけは例外だった。今日がその日。
棟の入口で、若い魔術師が私を見た。
「掃除?」
「はい。今月の大掃除です」
「ああ、そうか。奥の研究室は触らないでくれ。実験中だから」
「承知しました」
奥の研究室には興味がない。私の目的は二階の封印書庫。
階段を上がる。足音を殺す必要はない。堂々と歩いたほうが怪しまれない。掃除道具を持った侍女が廊下を歩いている。それだけの光景。
封印書庫の扉の前に立った。古い樫の扉に、魔術的な封印の紋が刻まれている。だが、物理的な鍵穴もある。魔術師は魔術を過信する。物理的な鍵の管理が甘い。
鍵を差し込んだ。回した。手の平に鍵の頭が食い込む。硬い金属の抵抗が、指の付け根まで伝わってくる。少し力を込めると、内部の機構が動く微かな振動。ルードヴィヒが作った複製鍵は、本物よりわずかに厚い。それでも嚙み合う。嚙み合って、回る。そして、音がする。金属の歯車が噛み合う音。錠が解ける音。時計を開ける時と同じ、あの感触。
中は埃だらけだった。棚が壁に沿って並び、革表紙の書物が隙間なく詰め込まれている。蜘蛛の巣が天井の隅に張っている。
この部屋、誰も掃除しに来ないのね。私が侍女長なら週一で掃除を入れるのに。
……仕事の癖が出ている場合ではない。
ヘルムート様の私的な研究記録を探す。ルードヴィヒの事前調査によると、棚の配列は魔術分野別で、「応用呪術」の棚は奥の右側。
見つけた。革表紙に「H.v.G」の頭文字が型押しされた手記。ヘルムート・フォン・ゲルナーの頭文字。
手に取った。頁を繰る。
日付は二十年前のものから始まっている。戦時中の研究記録。軍事呪術の開発。兵士強化の実験。失敗の記録。成功の記録。そして。
「呪紋実験体:第七期。被験者数12名。生存者1名。残存呪紋は自然消退せず、進行性を確認。経過観察とする」
指先が冷えた。
第七期。生存者1名。進行性の呪紋。
私のことだ。
……いや。まだ確証はない。確証はないけれど、時期が合う。私が生まれた年と、この実験の年が。
頁をめくる手が震えた。だめだ、今は感情に振り回されている場合ではない。記録を暗記する。日付、被験者数、実験内容、結果。一頁ずつ、頭に焼き付ける。物理的に持ち出すことはできない。持ち出せば気づかれる。
七頁分を記憶したところで、廊下に足音が聞こえた。
手記を棚に戻し、雑巾を手に取った。扉を開けた時には、掃除道具を持った侍女が封印書庫のほこりを拭いていた。それだけ。
若い魔術師が階段を上がってきた。
「ああ、そこも掃除してくれるのか。助かる」
「埃がひどかったので」
「まあ、誰も入らないからな」
笑って通り過ぎていった。
◇◇◇
その夜、旧塔で報告した。
ルードヴィヒは黙って聞いていた。私が七頁分の記録を正確に復唱するのを、一言も挟まずに。
復唱が終わった時、彼の顎の筋肉が硬くなっていた。
「和平交渉の妨害工作の記録が断片的にあった。具体的には、和平派の貴族の書簡を検閲し、不都合な情報を書き換えていた形跡。それからマルガレーテ様が侍女たちを使って和平派の動向を探っている記録も」
「マルガレーテも協力者か」
「少なくとも情報を流している。指示がヘルムート様から来ているかは確証がないけれど」
沈黙。ルードヴィヒが考え込んでいる。
「それと」
私は声を落とした。自分の声が揺れないように意識した。
「呪紋実験の記録があった。二十年前の軍事呪術研究。生存者は一名。時期と症状が、私の呪印と一致する」
ルードヴィヒの目が私を見た。
「お前の呪印が、ヘルムートの実験の結果だという意味か」
「まだ確証はない。でも、可能性は高い」
ルードヴィヒが何か言いかけて、止めた。
「……よくやった」
声色が変わっていた。いつもの平坦な声ではなく、低くて、少しだけ柔らかい。
「それは労いの言葉?」
「そうだ」
「珍しいわね」
「うるさい」
◇◇◇
翌日、私は小さな反撃を仕掛けた。
マルガレーテ様が侍女を通じてアルトハイム侯爵の動向を探っている情報経路を特定し、その経路に偽の情報を流した。「アルトハイム侯爵が密かに王太子と面会した」。実際には面会していない。
ヘルムート様がこの偽情報に基づいて動けば、空振りする。空振りすれば、情報経路の信頼性が揺らぐ。マルガレーテ様とヘルムート様の間に微かな亀裂が入る。
三日後、ヘルムート様の弟子が王太子の周辺を嗅ぎ回っていたという噂が侍女の間に流れた。結果は空振り。面会の事実がないのだから当然だ。
小さな勝利。直接的な反撃ではない。でも、歯車を一つずらした。
旧塔での密会で、この作戦の顛末を報告した。ルードヴィヒは黙って聞いていた。聞き終えた後、灰色の目がわずかに見開かれた。
「お前がやったのか」
「情報を操作するのは得意よ。侍女は情報のハブだから」
「……恐ろしい女だ」
変な女の次は恐ろしい女。語彙は増えたけれど、褒め言葉なのかどうかは相変わらず不明。
でも、声色が違った。いつもの平坦な声ではなく、低い声の中にかすかな温度がある。恐ろしいと言いながら、怖がっていない。むしろ、感心しているように聞こえる。
この人の言葉と本心はいつも逆だ。「勝手にしろ」は「気にかけている」の意味で、「恐ろしい」は、たぶん。
たぶん、何だろう。分からない。分からないけれど、嫌な気持ちではなかった。
旧塔を出る前、棚の上にあった研究記録のメモを確認した。七頁分の中に、一箇所だけ気になる記述があった。
「呪紋」という単語の横に、小さく書き込まれた注釈。
「浄化の可能性については、グラナート側の文献を参照のこと」
グラナート側の文献。敵国の禁術書に、解呪の手がかりがあるかもしれない。
ルードヴィヒの幼馴染の学者、カミル。
その名前が、急に重みを持ち始めた。




